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半分の満月  作者: 織田 智
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第五話

 時刻は午後八時になろうとしている。夕飯の片づけを女中の文江と共に手早く済ませると、その足で応接室に向かおうとした。だがその時、窓に映る自身の服装を見てみると、汚れ仕事をするための股引姿だったことに気づかされた。流石にこのままではまずいと思い、一旦部屋に戻ってから服を着替える。

 シャツに着物を重ね、袴を履く。これで少しは見られるようになっただろうと窓に映る自分を確認してから、部屋を後にした。


 応接室に入るとそこには主人である忠親(ただちか)と、その娘の婚約者である浅見和人(あさみかずひと)が談笑をしていた。紳士のたしなみである葉巻を咥えながら洋酒を飲んで語らっている様は、学生の久嗣(ひさつぐ)にはまだ経験することのない出来事だと思っていた。それがこんなにも早く実現してしまい、驚きの表情で場の空気を暫し傍観する。


「やあ、お仕事ご苦労さま。こっちに来て座り給え」


 和人にそう促されてフカフカのカウチに腰を下ろすと、何とも言えない座り心地のそれは母親の膝に座った時のことを思い出させた。少し角張ったところもあるが、とても柔らかくて包み込むような感覚がある。


「ブランデーもあるけれど、斎藤君はこっちの方が口に合うんじゃないかな……」


 そう言われて返事をするよりも早く目の前に脚の付いたワイングラスが用意され、そこに半分ほど赤い液体が注がれる。それが葡萄酒だということぐらいはすぐに分かり、それが入ったグラスの脚を鉛筆でも握るかのように掴んでから、丁寧に持ち上げる。

 透明な器を光にかざせば、澄んだ濃い紫とも赤色とも言える輝きを見せた。


 「それではこの鼎談(ていだん)開催を祝して乾杯といこうじゃないいか」と高らかに声を上げたのは主人の忠親だった。それぞれが少し離れた席に座していたためグラスを合わせることなく、飲み物が入った透明な杯を少し高く掲げる。初めての儀式を前に久嗣もそれに倣って、乾杯の真似事をしてから液体を口に含む。すると想像していたよりもずっと甘い風味が口の中いっぱいに広がった。

 その甘さに面食らった顔をしていると「気に入ったかい?」と和人が話しかけてきた。

 

「ええ、ワインという物はこのように甘いのですね。驚きました」

「これはポートワインだからだよ。通常のものよりもすごく甘くて飲みやすくなってるんだ」


 数年前から出回り始めた果物のように甘い洋酒の存在は聞き及んではいたものの、初めて口にしてみてその衝撃に感動する。

 なるほどとグラスに残ったワインを眺めてから、今度は久嗣が口を開いて話しを切り出した。


「今日はこのような場に及び頂いて大変嬉しく思います。――が、どうして私をここに……?」

 「我が家の書生さんから学業の進捗と……将来のことについて話を聞きたいと思っていてね」と忠親が返す。


 確かに書生を囲い込んでも、学業を疎かにしているような者に学費を出すようなもの好きはいないだろう。それに学生の将来を見越して、今のうちに恩を売るのも良家の人間にとっては立派な投資と言ってもいい。ということは、世話になっている主人と良好な関係を作ることは書生の大切な務めのひとつだった。

 

「して、斎藤君の将来はどのような道に進みたいのだい?」


 和人が問う。


「僕は……私は工学を専門に学び、機械に携わる仕事に就きたいので……」

 

 そう話をすると忠親が「ここは無礼講だ。斎藤君の普段の言葉遣いで結構だよ」と言い添える。すると彼も少しばかり肩の力を抜くことが出来た。


 「僕は斎藤君が外国語に長けているというので、てっきり教師や言語学者にでもなるのかと思っていたのだけど……違うのかい?」と和人が続ける。

 「いえ、僕は外国の書物を多く読みたいので外国語を身に着けたに過ぎません。やはり明治維新以降の日本は機械工学という新しい武器を手に世界と対等に渡り歩いていくべきだと思うのです」

 自分が思い描いている日本の理想の未来像を高らかに話すと 「成る程すばらしい大志だ。感心するよ」とふたりから声が上がる。そう言われて少し照れて「いえ、そんな」と謙遜するのも忘れない。


 すこし酒も入って程よく緊張がほぐれてきた頃合いを見計らって、久嗣がずっと気になっていた質問をぶつけてみることにする。


「あの……陽子(はるこ)さんのことについて少しお伺いしたいことがございまして……」

「――それは、彼女がふたつの人格を持っていることにについてかい?」


 その質問に久嗣の心臓はドクンと跳ねる。手の平はいつの間にか汗でびっしょりになっていて、それを思わず膝で拭う。手を擦り付けた袴が、少し湿気っぽくなったような気がした。


 「あの――……」と、言葉を詰まらせる。


 いきなり的を突かれたので自身が次に繋げる言葉を失くしてしまったのだ。それをみて忠親が話の先導をとった。


 「私は彼女が今後受ける治療の果てにひとりの陽子という人格に統一されることを信じていますよ。やはりあの奇病では社交界に出たときに少し問題がありますからな」と言う。

 「彼女は今最新の療法を受けようとしている真っ最中でね……。いずれあの月子(つきこ)さんという人格も彼女の中に溶けていくことでしょう」と和人も続く。

 「奇病――ですか……」ひとりだけ腑に落ちない返事をする久嗣。

「ああ、実に奇妙だとも……私がずっと陽子だと思って育ててきたのに、突然数年前から「月子」だと名乗りだした。私はあの悪夢を見る陽子を助けてあげたいのだ」

「僕は月子さんという人格も尊重したいが、ひとりの人間とは言え、人格の違う陽子さんと月子さんのふたりと結婚するとなると、些か不誠実な気がしてならないのです」


 その後も忠親は“和人は陽子を救う救世主だ”という話を高々と語り、後のふたりはその話に耳を傾けていた。

 さらにその場で話を聞いている一方は満足げな表情を示し、もう一方は月子という人格がいずれ消されるという話を繰り返し考えながら複雑な表情を示した。


 どれぐらい時間が経ったのだろうか。長い間ぼうっとしてしまっていたのか、ほんの一瞬だったのかは分からないが、ボーン、という振り子時計の音がひとつ部屋の中に響き、それが夜中の一時になったことを意味していた。

 その音に反応して全員が時計に目をやった。そして忠親が「もうこんな時間か」と、こぼす。酒に慣れていない久嗣は次第に眠気が強くなり、目をこするような仕草を見せる。その場で眠りに落ちてしまうことを懸念して両人に(いとま)を乞うことにした。誘われておきながら失礼かとは思ったが、その場で寝てしまうよりかはずっといい。


「旦那様、浅見様、本日はこのような場にお招き頂いてありがとうございました。大変失礼ではございますが、お先に部屋に戻らせていただいても……」


 そう言いかけると、和人が「もちろん構わないとも」と離席を許可した。そして忠親も「今日は実に楽しかった。また飲もうではないか」と着け加える。


 「では」とひとつ礼をして、その場を立ち去った。

未成年の飲酒は法律で禁じられています。本作品は未成年の飲酒を助長するものではありません

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