第三話
翌日陽子に勉強を教えに行こうと部屋に足を運ぶと、智弥子がそこから出てくるのが見えた。
疲れた顔のその女性ははっと久嗣の姿に気が付いて「あら」と言いながら近づいてくる。動きは機敏に、しかし華麗に。まさしく淑女たるそれだ。
「陽子は昨日から体調が優れないようで……これでは今日のお勉強はお休みね……」
「え? 大丈夫でしょうか?」
「あの子はよくこうなるので——熱があるわけでもないので、しばらく横になっていれば明日には良くなってますわ」
「そうですか」と言い、心配している気持ちと会えなくて少し残念な気持ちが入り混じって部屋の扉を見つめる。だが何もすることが出来ない彼は仕方なく水場で夕飯の支度の手伝いをすることにした。
「文江さん、お疲れ様です。僕に何かお手伝いできることはありますか?」
シャツの袖をめくりながら水場にいる女中に声をかける。その女性は盆に茶飲みと、薬を一服乗せているところで彼に呼びかけられ、その声の方へ顔を向ける。
「あぁ、久嗣さん。丁度いいところにお帰りなさって」
「何かお手伝いをと思いまして――」
「あ……ええ。ではこの薬を持って行ってくださるかしらね? 私が持っていこうと思ったんですがね、夕食の魚も焼いていますんで、代わりにこれをお嬢様のお部屋までよろしいかしら?」
それは彼にとって願ったり叶ったりだ。「僕がお引き受けしましょう」と二つ返事をして、その盆を手に彼女の部屋がある二階へと急ぎ足で向かった。
部屋の前でひとつ息を整えてから扉をたたく。すると中から「はい」という、少し疲れているような彼女の声が返ってきた。
「失礼します」と言いながら扉を開けて部屋の中に入ると、そこにはベッドに体を預けている陽子と、その彼女の横で心配そうに付き添う男性の姿が目に入った。
よく見ると、男性は彼女の手をしっかりと握りしめながら労わっているようだった。
「あ……あの」
「ああ、君が斎藤久嗣君だね。僕は陽子さんの婚約者の浅見和人だ」
立ち上がってから、そう名乗る男性は久嗣よりも少し背が高く、上等な仕立てスーツを身に着けていた。洋服だけでなく彼のネクタイや、袖についているカフスから何までいちいち品がある。――いや、身に着けている物だけではなく、彼自身から紳士の品格というものが溢れていたようだった。
「初めまして。こちらで書生としてお世話になっている斎藤久嗣です。このお薬を一服お持ち致しましたので、お嬢様に……」
そう言ってベッドサイドテーブルに薬と白湯を置くと、「では、私はこれで失礼します」と部屋を後にした。肝心の陽子の様子を見に行ったのに、一言も話せないままで。
扉を少し荒くバタンと閉めると、そのまま早足で自室に戻っていった。なぜかいけないものを見てしまったような気がして、妙な罪悪感を覚えた。
部屋に戻るなり、自分の勉強机に向かい教科書とノートを取り出して、夕食の時間まで数学の問題を解こうとしたが、ちっとも集中できないでいた。
そうして頭を抱えながら机に伏せていると、夕食も食べないうちにうとうととしてしまった。目が覚めると辺りはまだ暗く、机の上に置いてある時計に目をやると三時を回ったところだった。夜明けまではまだしばらく時間がある。
青白くて上半分が欠けている月を部屋にある小さな窓から見上げると、心地よい晩春の風が顔に当たった。一階にあるこの角度からは月が見えにくいが、覗き込むようにしばらく空を見上げながら物思いにふけっていると、外の方でガサッと物音がした。猫でもいるのかと目をやるが、特に何もいないようだ。
だが好奇心に駆られて、久嗣は狭い窓枠から更に身を乗り出し、物音がした闇夜の先へ目を凝らしてみた。
「にゃー……」
壊滅的に下手な猫の声真似をしてみたところで何の返事もない。――が、こんな鳴き声に誘われる猫など、とんだもの好きだ。もちろんこちらとてそんなものをハナから期待してはいなかった。――期待はしていなかったが、予想外の返事が返ってきたのには驚きを隠せなかった。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
そう言って暗闇の中から姿を現したのは陽子だった。
「え? お嬢様……。このようなところで何をなさっているのですか? もうお体は......?」
陽子の姿を見たときに、緊張のせいか少し声が裏返ったような気がした。
「貴方は……久嗣さんですか?」
その陽子の言い草がいつも勉強を教えている時と少し様子が違うことに何となく気づいて、もう一度「陽子お嬢様?」と確認する。
「……私が久しく表に出てきたと思ったら……随分あなたと仲良くなっていたみたいですね」
「え? 表でございますか?」
話が見えない。
「まあいいです。おやすみなさいませ、書生さん」
久嗣は屋敷の中に入っていく陽子らしい人物の後ろ姿を呆然と見つめながら、何度も彼女の言葉を自分の中で反芻した。
窓から乗り出していた体を部屋の中に戻してから、暫く本を読んで時間を潰していると、そのうちに日が昇り始めた。止まっていた時間が動き始めるように部屋の中が次第に温まり始める。
実際に時計は刻一刻と進んで、文字盤に目をやるともう間もなく六時となるところまで針が進んでいた。
読んでいた本の頁に栞を挟んでそれ閉じると、「よいしょ」と言って立ち上がり、寝間着から作業着に着替える。箪笥に入っているボタン付きの服を一枚さっと取り出すと、その上から少しくすんだ色に変わった綿の着物を着る。それは至るところに細かい皺ができていた。それから秋宮家から支給された股引に足を通す。こちらも着物と同じくしわくちゃになっている。きちんと畳んでしまっていなかったのが原因だ。身支度を終えると、主人たちの朝食の用意をするために鳥小屋に向かった。
「おはようございます、文江さん。」
鳥小屋から水場に入ると、いつも朝早くから支度をしている女中が居た。
「あら、おはよう久嗣さん。夕べは、ご飯もべずに眠ってしまわれて……よほどお疲れだったのね。朝のお勤めが終わればたんと朝食を召し上がってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
産みたての卵を台の上に置いてから七輪の魚を菜箸で返す。それが終われば米を炊いて、そのあいだ盆の上に箸や食器を乗せて、それを主人らが食べるためのテーブルに並べる。箸先を揃えて置くことも忘れない。こういった場所は、何よりも見栄えが肝心なのだ。
今まで実家で家事などしたことが無かったが、そんなことは誰にも想像させない程てきぱきと仕事をこなしていく。
「おはようございます、書生さん」
食堂に一番に現れたのは娘の陽子だった。彼女の声に反応して久嗣は振り向き「おはようございます」とあいさつをした。
その後間もなくして秋宮夫妻が食堂に入ってきた。だが、心なしかふたりの様子が昨日よりももっと家族らしい暖かな雰囲気になっているのを感じた。
「何かいいことでもありましたか?」と聞くと、単に娘との食事が楽しみだと答えるのだった。