第二十話
時間は徒に過ぎ、世間では正月七日もとうに過去の話だ。久嗣が庭の木の剪定を手伝っているときに、門から黒い自動車が煙をあげて入ってくるのが見えた。
「浅見の旦那が見えたぞ。坊。お前、ここは己ひとりで後はできっから、お前は着替えて文江姉さんか前川のオヤジの手伝いでもしてやんな」
「はい、ではここはよろしくお願いします」
裏口から館内に入り、自室に戻るために廊下を歩いていると、和館で着物の整理をしていた陽子と廊下で鉢合わせた。
拾われてきたばかりの猫のように泥だらけだった久嗣は、少しでも彼女と距離をとるために目いっぱい廊下の端に寄ってから簡単に会釈した。
「お仕事ご苦労様です」
「いえ。すみません、こんなに泥だらけで」
「……どうして謝るのですか。一所懸命働かれているのに、恥じることなどないわ」
「そうですね……。あ、それと浅見様がお見えになりましたよ」
「えぇ! それは先に言ってくださいな!」
廊下を小走りしかけてはっと踵を返して言う。「お茶を出すのは文江さんにお願いしてくださいな」と。どういった意図でか、彼にあえて強調してそう伝えた。それだけ言うとまた許婚が通された洋館のほうへといそいそと駆けていった。いつも文江に廊下を走るのははしたないのでいけません、といわれているのに、一向に直る様子もない。
彼は彼で「茶を出すな」と言われて、自分の服に染みたニオイをふんふんと嗅いだ。確かに庭に撒いた肥料の臭いが少々きついかもしれないと、部屋に戻る前に風呂場で体を清めた。
「文江さん。僕も何かお手伝いしましょうか」
台所に入って、淹れたての茶を盆に乗せている文江を見るなり彼も手伝いを申し出た。
「あぁ、でも私が茶を出すようにとお嬢様から仰せつかったのでねぇ。大丈夫よ」
「はぁ」
庭での仕事も給仕の仕事も無くなってしまったので、客を客室に通し終わった前川に声をかけるが、彼からも「斎藤さんはごゆっくりされていて結構ですよ。私の方も特に用事は済みましたし」と言い渡されて、時間を持て余すことになった。
空いた時間ができれば彼の行く場所は決まって資料室だ。棚にびっしりと並べられた本のほとんどは艶のある、かりん糖色をしている。そのうちの一冊手に取ると一頁、また一頁とめくっていく。
一冊の本を半分まで読み進めたところで背後に気配を感じた。ふと後ろを振り返ると、そこに立っていたのは和人だった。「浅見様、何か御用でしょうか」と席を立とうとして「そのままで」と、座っているよう促される。そして彼も椅子をひとつ久嗣の近くまで持ってきて、そこに静かに腰を下ろした。
少しの沈黙のあと、和人が口を開いて「今日は君に言いたいことがあるんだ」と告げる。
「――予定よりも少し早くなったけど、陽子さんを明日から我が家へ行儀見習いとして招くことになってね。君にも一応報告を、と思ったんだ」
その言葉で一瞬で久嗣の目の前が真っ暗になった。
どうしてそうなったのか。
春からではなかったのか。
頭の中でいろいろな疑問が出てくるが、彼はそんなことを聞いたり、ましてや拒否したりする権利などないのは分かっている。
その後暫く今後の予定なども話していたような気もしたが、まるで水にでも沈んでしまったかのように目の前で話されることが全く耳に届かなかった。ただ確実に言えるのは、この決定が今まで当たり前にあった毎日を終わらせるということだ。
久嗣は「そうですか……」とはっきりとしない声で返事をするのが精いっぱいだった。
だが、これは世話になっている家のお嬢様にとっての祝い事に他ならない。本来なら嬉々とした態度で祝辞のひとつでも述べて然るべきなのだ。
陰鬱な返事など以ての外だ。
「しょ、少々寂しくなりますが、大変喜ばしいことです」
「――君にそう言ってもらえて僕も嬉しいよ」
陽子と和人との結婚についてはもちろん久嗣にとっても大変喜ばしいことだった。その気持ちに嘘偽りはない。
――でも月子は。
もちろん彼女たちを切り離すことなどできやしないことは分かっている。でも、それが叶うなら。
「僕は君が薄々陽子さんに惹かれているのではないかと思っていたんだ。いや、今でもそう思っている。――そして……陽子さんも君に傾慕しているのでは……と、内心焦っている」
「何を仰るのですか。陽子様は確かに素敵な方ですが、そのような感情は断じてありません。それに陽子様のお話はいつも浅見様がいかに素晴らしい方なのかとか、浅見様とどこに行っただとか、そんな話ばかりなのです――」
「でも月子さんは? 彼女のことは陽子さんとは違う風に見ているんだろう?」
その質問で身体の中が芯から一気に凍りついた。恐怖にも似たものを覚え、和人から目線を逸らし、やがて頭の中が細かい針でつつかれたようにぷつぷつとした刺激が走った。彼はたまらず髪に手を入れ、指をくしゃっと折り曲げる。それは焦りや、背徳感の現れだった。
「君は彼女に恋慕の情を抱いているのではないのかい?」
「私は――」
暫くの沈黙。
部屋の時計が揺らす振り子がの音だけが妙に煩く響く。一秒ごとに時間を刻んでいくそれは、早く答えろと急かされているようにしか思えない。だが、それと同時に耳を傾けることで、この息苦しさから逃れられる唯一の音でもあった。
「すまない。これではまるで尋問しているかのようだね。――だが、僕もやはりあの子のことを好いているんだ。だから情けなく嫉妬してしまった」
「貴方、が嫉妬をするなど。私は……浅見様のような、完璧、な、人間から嫉妬をされるような相手では……。それなら、私の方が貴方に……」
言葉の端々が震えて、単語を繋いでなんとか文章の体をなしているが、その羅列には彼の渦巻く酷い混乱や、複雑な感情が見え隠れしている。
「僕は思ったんだ。月子さんも君のことが————」
「浅見様‼」
突如今までとは違うはっきりとした口調で、しかも驚くほど大きな声を出して和人の話しを遮った。和人もそれには言葉を詰まらせる。
「――それは聞きたくありません。……大きな声を出してすみませんでした」
「そうだね、すまなかった。今のは狡いな」
眉間に深いしわを寄せて顔を俯ける久嗣に、和人もそれ以上何も話しをしようとはしなかった。
冬の低い太陽が次第に陰り、部屋は薄暗くなり始めると和人は先に部屋を出た。残された久嗣は一人椅子に俯きながら、爪の跡が掌にくっきり残るほど拳を握りしめる。そしてそれを自分の膝に、力の限り打ち付けた。
吹き荒れる彼の心の中を嘲笑うように、静かに伸びた彼の影は誰のものとも交わることなく部屋の壁にぶつかった。
和人が帰ったあと雑務を終えてひとり部屋に戻ると、その襖の前で膝を抱えている少女が見えた。心臓が弾んだ音がした。久嗣はまさかと思い彼女に声をかける。
「月子様ですか?」と問うと、少女は顔を上げた。
「違うわ」
彼の中に明らかな落胆を覚えた。
「どうされたのですか、こんな時間に私の部屋の前で」
「私の話を聞かれました? その、和人さんから」
「―― はい。今日その話を聞かせまいと給仕を文江さんに頼まれたのですよね」
「まあ、そうね。でも結局和人さんの口から聞いてしまったのでしたら、あんな工作せずとも良かったですよね」
「いえ、あの場に居たらお茶をひっくり返していたかもしれませんので」
「では私の英断でしたわね――……」そう言ってうっすらと口端を上げるが、彼女も無理にその愛想笑いを作り出しているのは久嗣の目にも明らかだった。
少し間をあけてから、陽子がまた口を開いた。「ここに来たのは、あなたに会わせろと、あの女が煩いのです」と真顔で言った。
「月子様がですか?」
「何だか胸のあたりがざわついて――言葉では説明しにくいのですが、自分の心が揺れているような時に、よく月子と人格が入れ替わるようです。今まさにそのような感じがしていて……とりあえずここは寒いので、私のお部屋に来てください」
ふたりは黙ったまま陽子の部屋に向かった。
彼女の部屋に入ると暖を取る設備がしっかりと整えられていて、心地よさが肌に感じられた。そこでいつもの勉強机とは違う細長いカウチに二人並んで座り、体を斜めにすると少し向かい合う形になった。
そして陽子が目を閉じて僅かに俯き加減になってから「月子……」と何度か自分に呼びかけると、ふっと陽子の顔から月子の表情に変わった。




