第二話
「旦那様、紅茶が入りましたのでこちらのテエブルに置いておきますね」
「ほう、いい香りだな」
湯気と共に舞い上がった芳醇な紅茶の香りが鼻腔を掠めると、春の花を思わせるようだった。その異香はあっという間に執務室を満たしていく。
「先日陽子様と、ご婚約者の和人様が銀座でお買い物をされたときにこちらを……なんでもイギリスから輸入したもので、セイロン茶葉、だと仰ってました」
紅茶という慣れない飲み物について覚えたての知識を一生懸命主人である忠親に説明する。説明を受けた中年の紳士は、それを満足そうに聞いた様子で一口、また一口と音もなくゆっくりと啜りながらそれを堪能した。
「それでは後程食器を下げに参りますので、それまで失礼致します」
忠親に頭を下げて部屋を後にして細長い廊下を抜けた先で、袴にブーツ姿の陽子と廊下でばったり鉢合わせた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
正面に持っていた盆を体の側面に当たるように持ち替え、会釈をする。
「久嗣さん、ごきげんよう。――なんだかいい香りがしますね。まるで花のような……」
そう言って小さな動物がそうするように、鼻をすんすんと動かし、彼から放たれる香りを確かめる。
「こちらは先日お嬢様が銀座でお買い求めになった紅茶でございます。もしよろしければお淹れ致しましょうか」
「あら、あれは入学祝として貴方へのお土産でしたのに、お父さんに出してしまったの?」
困ったように左手を頬に当てて、少しがっかりとした表情をして見せる。下から見つめられて、思わず一歩下がり「そうとは気づかず、申し訳ありません」と深々と謝罪して見せた。
彼女の方もまさかそこまで謝られるとは思っておらず、少し焦りながら「そのようにお詫びして頂かなくても結構ですよ。――ですが、是非貴方にも召し上がっていただきたいわ」と付け加えた。
「では後程ありがたく頂きます」
そう返すと彼女は満足そうににこりと微笑んで、彼の前を通り過ぎる。
「あの――お嬢様……」
気が付けば、去っていく陽子に声をかけていた。ほとんど無意識だった。
だが、そうしたところで久嗣は次に繋がる言葉が見つからず、うっかり呼び止めてしまったことを後悔した。「はい、何でしょうか久嗣さん?」と首を傾げて振り返る可憐な少女を見ると、心中穏やかではいられない。
「あの……、入学のお祝い……。どうもありがとうございます」
そう言われて、彼女は春の小さな花を思わせる笑顔を彼に見せて踵を返した。それには久嗣も持っていた盆に更に力が入る。そして「失礼します」と残してから、急ぎ足でその場を後にするのだった。
それからひと月が経ち、だんだんとこの生活に馴染んできた頃、館の旦那である忠親の執務室に突然呼び出された。
仕事で何度も部屋に足を運んでいるが、いざ呼び出しとなるとそれまでとは違った緊張感がある。数回ドアをノックして「失礼します」と部屋の扉を開けると、中には娘の陽子と秋宮夫妻が顔を並べていた。
このように総出で自分を待っているなどただ事ではないと思いながら、みんなが座っている場所に近づく。
そして奥方の智弥子が彼にも座るようにカウチを掌で差した。
椅子に腰を下ろすと、いつもより一層背筋が伸びる気がした。
「本日はどのようなお呼び出しでございましょうか?」
「いや、何でも君の外国語の成績が特に優秀だと聞いたもので、娘の――、陽子の家庭教師をしてやってくれないかと思ってね。今やってくれている私の執務や手伝いは、その合間に頼もう」
呼び出されて何かと肝を冷やしていた彼は、その内容を聞いて胸につかえていた物がやっと取れた。自然と込められていた手の力を開放すると、気づかれないようにふうと息をつく。それに合わせて肩の位置もやや下がる。
「私でよろしければ、お役に立てるよう精一杯努力いたします」
そう返事をするや否や、陽子が嬉しそうに手をぱんっと合わせて「まぁ、ありがとうございます!」と弾むような声で礼を言い、「では、そうと決まれば早速明日からお願いしますわね。久嗣さん」と続けた。
母親の智弥子も娘と同じ顔をして嬉しそうに微笑む。
そうして翌日から英語とドイツ語を陽子に指導することになった。家庭教師として——とはいえ女性の部屋に入ることは初めてなので、緊張して上手く話せるか心配したが、真面目な彼女の顔を見ると、硬直した身体は幾許か緩和された。
この部屋に置かれた書記机は椅子と組になった西洋式のものだ。彼の部屋にあてがわれている座卓と違って、それは光沢のある木で造られていた。その卓上の端に並べられた三本の鉛筆のうちひとつを取ると、自分のノートに綺麗な字で書き写していく。
その陽子を見て久嗣はすぐに気が付いた。
「陽子お嬢様は左利きなのですね」
さらさらと流ちょうなに外国語を書き綴っていた彼女の手が一瞬止まる。
「お母さんは何度も私を右利きに直そうとしたのですが……結果はこの通りです」
「そうなのですか――私はこれまでに利き手を矯正した者に出会ったことが無いのですが、想像するに、これは大変な努力が要りそうですね」
「……。利き手を直してしまえば、私が自分で無くなりそうな気がするのです。ですから、これは半分意地のようなものです」
その言葉の意味を良く理解できなかったが、彼女がふと暗い顔をしたのを久嗣は見てしまった。
最初はお互い緊張しながら勉強をしていたが、日を重ねるごとに互いの距離は確実に近づいていった。
机に向かう時も最初は少し離れて座っていたが、一週間も経てばそれぞれの肩がぶつかるような距離にまで縮まっていた。
久嗣はいつも机の左側に座って彼女に教えているが、それは左利きの彼女の手がたまに彼に触れる度に、心臓をいちいち跳ね上がらせる結果を招いた。
彼女がノートに文字を滑らせるのに見とれていると、ふたりの間に置かれていた消しゴムがコロンと机から転げ落ちた。それに「あ」と反応して彼が拾おうとしたとき彼女も同時に手を伸ばし、互いの顔がこれまでに無いほど近づいた。
可憐な少女の薄紅色の唇から出る吐息が直接彼の肌に感じられるほど近くなり、素早く身を引く。
「も、申し訳ございません」
「あ――いえ……」
久嗣は自分でもその熱を感じられるほど顔がかっとなり、陽子から目を逸らす。だが、しばらくして彼女の顔をちらりと見ると、同じように赤面していたことに気づき再び視界から遮った。
たまらず目を窓に向けると、外の景色は春のそれから夏に移り変わろうとしていた。