第十九話
「久嗣さん、大丈夫かい? 薬と粥をここに置いておくから、ちゃんと摂るんだよ」
襖を少し開けてから部屋の敷居の内側に盆を置く。文江が風邪をひいた久嗣の様子を心配して見に来てくれていた。「すみません、ありがとうございます」と鼻詰まりの声で返事をする。「また後で下げにくるからね」と言ってから廊下との隔たりを静かに引いた。
連日の寝不足だった上に、昨夜あんなに寒い廊下で月など眺めていたものだから身体がすっかり参ってしまったようだ。これではクリスマスカードを渡すも、へったくれもあったものではない。自身の情けなさにため息しか出なかった。
部屋の隅に置かれた薬と粥を取りに立つと、襖の先に足音が聞こえたので、すっと開けると廊下の少し先で「あ」という声がした。声の先に目をやると、駆け寄ってくる少女の姿がそこにあった。
「よかった。文江さんから久嗣さんが風邪をひいたと聞いたので……」
薄手の寝巻に暖かそうなローブを羽織って彼の部屋の前まで寄ってきた。その部屋の住人は駆け寄ってくる少女が月子だということに、その仕草からすぐに気が付いた。
それと同時に彼の心臓は大きく跳ね上がる。
「お嬢様! こんな所に来てはいけません! お部屋にお戻りください」
廊下には響かない程度のひっそりとした声で彼女を部屋に帰るよう促す。だが本音は彼女の顔を一目でも見られたことが嬉しくてたまらなかった。
月子の顔を見ると寝巻に着替えてはいるものの、唇にうっすらと紅をさしているのが部屋から漏れる光で見て取れる。それが彼女の魅力をより引き出していた。今日はクリスマスパーティーを浅見家で開催していて、そこに久嗣も来ないかと誘われていたが、生憎の体調だった。そして目の前の少女はその帰りで部屋着に着替えた後、心配になって会いに来たのだろうと推測できる。
「心配いただいたお気持ちはありがたく頂戴いたします――が、もうお部屋にお戻りくださいませ」
「……分かりました、ではせめてこちらのお盆はお部屋に運ばせてください」
月子が屈んで畳の上に置かれた盆を手に取ると、部屋の奥までそれを運び入れる。お嬢様にこのような給仕をさせてしまって申し訳ない気持ちと、部屋の中に月子が居るという信じられない事態が熱を帯びた彼の頭を更に混乱させている。
一方の月子は、使用人の部屋に入るのが初めてなのか、盆を運び入れた後もしばらく物珍しそうに部屋の中をぐるりと見まわした。もしくは久嗣の荷物の少なさに驚いているのかもしれない。
部屋を見ていた彼女の目が、ある場所で止まった。
「あら、クリスマスカード……」
彼女が視線を奪った先には、よく目立つ赤いカードが一枚、机の上に置かれていた。久嗣自身もその存在をすっかりと忘れてしまっていたが、彼女にどうやって渡すかをずっと悩んできたのだ。この機会に渡してしまえばもう思い悩むこともなくなる。
「そちらは月子様――と、陽子様に……」
「――……。ありがとう……ございます」
そう言って紙を裏返して、月子は書かれている文字に目を通した。彼もその所作を見届けると、次第に変化する彼女の顔色に釘付けになってしまう。
たった三行の分を読むのに随分と時間をかけた。何度も何度も読み返したのだろうかと思うと、彼も胸がくすぐったくなる。最初は何てことない顔で手紙を読み始めた月子だったが、読み終わるころには嬉しそうに「これは私に書いてくださったものですね」と大事そうに握りしめる。
「おふたりに、でございます。連名で大変恐縮ですが」
「ですが、私の名前しか書かれていませんよ」
「え⁉」
顔から火が噴きそうなほど焦り、何と言っていいのか弁明文を考える余分な活力さえ今の久嗣にはない。
「そうです、月子様だけのつもりで書きました」などという台詞を口にしてしまったのも全ては熱のせいなのだということにした。
しかし彼女からの反応はない。その無言がたまらずもう一言付け加える。
「あ、でもそれって何だか変ですよね。……陽子様のお名前も書きますのでカードをお渡し頂け――」
「嫌です」
受け取った、たった一枚の紙を大事そうに胸に抱えると、彼の申し出を全力で拒否した。唇を引き結んで必死で抵抗している。自分だけのおもちゃを取り上げられたくない子供がよくこんな姿を見せるものだ。そんな彼女の姿を見ると、愛らしくてたまらなくなった。真っすぐにその顔を見ることができずに、頭を垂れてから、まるで真夏の太陽の眩しさから逃れるように目元を手で覆った。
「久嗣さん? 薬は飲んだかい?」
突然隔たれた襖の先に文江の声が聞こえた。あれほど熱を帯びていた体が一変して青ざめていく。部屋の中にお嬢様を連れ込んだと知られれば、彼女にとっても自分にとってもよろしくない。
「文江さん、まだ食べられそうにないのでまた後でいただきます」
「なに? そんなに悪いのかい?」
襖をすっと開けて部屋の中にいる久嗣の様子を伺った。「感染るといけないので……部屋の中には入らないでください」と布団の中から顔だけ出して返事をした。「そうかい、じゃぁ、ゆっくり休みなよ」と再び廊下へ繋がる戸が閉め切られ、彼らの中に走った緊張が一気にほどかれた。
「お嬢様、すみません。こんな狭い場所へ押し込めてしまって」
本や服がたくさん詰まった押し入れは、お世辞にも整頓できているとは言えず、彼女を隠すために無理をさせられた場所は大規模な雪崩が起きていた。彼女が狭い場所から抜け出そうとした――その時、一冊のノートに足を滑らせ体が前につんのめった。途端、前に居た久嗣が月子を抱き止める形となってしまった。
「お、お嬢様……! 大丈夫ですか? お怪我などございませんか?」
思わず受け止めた彼はまさかの事態に焦りを隠せずにいた。彼女の繊細な身体が久嗣に委ねられてらいる。動揺するなという方が無理があった。
「脚を、挫いてしまったかもしれませんので――もう少し、このままで」
この時彼は自分の背に彼女の腕がしっかりと回されているのを感じていた。それはまるで抱きしめられているように……。気のせいではない。最初に受け止めた瞬間よりも、今の方がずっと力が入っているのが分かる。
彼は唇を噛んで、更には瞼もぎゅっと力強く閉じる。――またもや理性と対峙することになったのだ。
心臓が強く鼓動し、今にもはち切れそうな程だ。だが、それは寄せられた彼女の胸から伝わるものなのか、自分のものなのかは分からない。
分からないが、確かなことは風邪をひいている自分の熱と月子から伝わるそれが同じぐらいの温度だと言うことだ。
そして彼の大きな腕は、月子の両肩を掴んだ。
すると、彼は密着していた月子と自分との胸の間に距離を広げて「ではお部屋までお送りしましょう」と言う選択をした。
噛み締められていた彼の唇には、歯の跡がくっきりと残っていた。




