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半分の満月  作者: 織田 智
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第十七話

 目を覚ますと彼女は月子だった。窓の外はしとしとと雨が降り、湿っぽい空気と暗い空が広がっていた。紅い空を泳ぐいわし雲を見た日はいつだったかと壁に掛かった日めくりに目を配ると、あれは既に一月も前だったことが見て取れる。

 紅葉し始めたばかりだった庭の木々も次第に禿げてきている。この天気のせいもあるだろうが、身震いするほど寒さが感じられた。

 季節は既に十一月も終わろうとしていた。


 陽子を通して僅かに覚えていることはいくつかある。まるで夢を見ているかのような曖昧な記憶だったが、それは夢ではなく、もう一人の自分が体験していることだという理解はある。

 でも彼女の感情や、その時に考えていたことまではまるで別の個体であるかの様にくっきりと分別されているのだ。

 今日を知らせている日めくりは毎日一枚ずつ捲られて、年末には消えてなくなってしまう。月子がそっと触れると、それはもう随分と薄くなっているのが指先に伝わってきた。それはこれが自分に残された時間だということを知らせるものでもあったからだ。


 陽子と月子の間で日常生活に不便が出ないように、前の日の出来事や学友との会話などは書き記すようにしている。女学校では奇妙な病だと思われないために、できるだけ隠して生きていくためにも日記を交換するという手段がふたりの間で発明されたのだ。

 それを毎日就寝前の人格が書き、起きた側の人格が読む。就寝前に人格が変わった場合もできるだけのことは書き留めるようにしている。そうした努力のたまものが今のふたりの生活を支えているのだった。


「お嬢様、お時間ですよ」


 扉の外から女中の文江の声が室内まで響いてくる。女中である文江も彼女を起こす際には「陽子様、月子様」と名前の区別は付けない。気を遣っているのだ。


 今日の人格――月子は「はい、起きています」と返事をして、袴に素早く着替えてから、食堂がある一階に下りて行った。


「おはようございます」


 使用人と両親が待つ食堂へと入っていくと「おはようございます」と皆が彼女に挨拶をする。月子はこの時間が苦痛だった。

 普段は自分を陽子だと偽ることができても、食事の時はそれを上手く隠せないからだ。もう一人の自分がするように右の手で箸を持ってみたところで、それはカランと音を立て、だらしなく床に散らばった。


「無理はしなくていいよ、月子」

 

 父親の忠親は優しく彼女の右手を握って分かっていると言いたげな表情で我が娘を見つめる。それに「ごめんなさい」と新しく差し出された綺麗な漆塗りの箸を左手に携えて食事を静かに始めた。


 味気のない食事。何を食べても濁った感じが口に広がるばかりで、ただ生きるためだけに食べ物を摂取しているとも言える。


「今朝のハムカツはいかがですか?」

 

 テーブルの上に紅茶を差し出しながら書生の少年が質問をしてきた。


「――え?」

「今朝のハムカツは久嗣さんが作ってくれたのよね」

 四角いテーブルの向かいで母親の智弥子に同じく紅茶を出しながら文江が言った。


「文江さんのものほど上手くは出来ませんでしたが、初めてにしては上出来です」

「あら、では心していただこうかしら」


 智弥子もその会話を皮切りにふふっと微笑むと、その場の空気が少し和らいだ。

 月子も自分の隣で微笑む彼を見て、恥ずかしさから一瞬目を背けてしまうが「いただいてみます」と綺麗に二本の箸でつまみ上げる。口の中に放り込むと、同時に()()()といい音が鳴った。

 するとそれまで味気なかった食事が一気に悦ぶべきものへと変化した。


「大変おいしくできていますよ」

「それは良かったです」


 踵を返し、台所の奥に消えていく彼を最後まで目で追うことはないが、差し出された紅茶を大切そうに手にもってふうっと息を吹きかける。紅茶を冷ますつもりで最初は息を吹きかけていたが、次第にため息のようなものまで混じっていることに気が付いた。

 「そんなに何度も冷まされるようでしたら、次回からはもっとぬるいものを用意いたしましょうか?」と女中の文江が心配するほどだった。


 はっと我に返りもう数十回は吹いたであろう紅茶を見ると、もう湯気などどこにも立っていなかった。「い、いえ! そうではなく、なんとなく吹いていただけですのでお気になさらないでください」と、すっかりと冷めてしまった紅茶をごくごくと喉の奥に流し込み「それでは身支度を整えてまいります」と慌てて食堂を後にした。

 洗面所の水道をひねると、信じられないぐらい冷たい水が流れてきた。その水で手ぬぐいを浸し、顔に当てると、いかに自分の顔が火照っていたのかが分かった。



「おい、もうそろそろ時間だぞ。まだ直らないのか?」

「そう言いましても、部品が壊れてしまっては僕では何ともなりません」

「なんだよ、天下の帝大生様も大したことねぇなぁ。えぇ?」

 いつも通りの時間に玄関まで行くと、何やら騒がしい。「どうされたのですか?」と話を聞くに、どうやら自動車が故障してしまっているらしかった。


「すんません、お嬢さん。もう一つの(くるま)の方も奥様がこれからお出かけですんで……」

「そうですか。では歩いていきますので構いませんよ」

 

 月子は特に困った様子も見せずに、先日和人と銀座に買い物に行ったときに傘を買ったと書かれていた陽子の書置きを思い出した。それは部屋から出る前にきちんと確認したので間違いない。そのことを考えながら自室に取りに戻ろうとしたとき、自動車の下に入り込んで不調の原因を確かめていた久嗣が、服についた埃を払いながらひょっこりと顔を出した。

 「それでは私がお嬢様をお送りいたしましょうか。私の学校も同じ方角ですから」と月子の見送りを申し出てきた。


「ただ、私の傘が先日の雨で破れてしまいまして、今日は前川さんに借りようと思っていたのですよ。お嬢様も傘をお持ちでしたら――」

「傘は……ありません。学校に忘れてきたと陽子さんの書置きに記されていましたので」

「そうですか。では急ぎましょう。学校に遅刻してしまいます」

 ポケットにしまってあった時計を見ると始業まで四十分ほどしかない。この足元が悪い中歩いてはどうしても間に合いそうになかった。

「し……仕方ありませんわね。急ぎましょう」


 ふたりが入ると肩が少し濡れてしまうような小さな傘に体を寄せ合い、できるだけゆっくりと歩いた。


「月子様、濡れていませんか?」

「私は大丈夫です」


 月子が自分を心配する久嗣の方を見ると、彼の肩半分が冷たい雨に晒されていた。


「久嗣さんの肩が濡れているじゃないですか!」

「私は大丈夫ですので、お嬢様が濡れないように……」

「いけません。もっとそちらに傘を寄せてくださいな」


 彼が支える傘の柄を彼女も同じように掴むと、久嗣の手を月子が握る形となった。彼女は咄嗟に手を放しかけたが、逆により力を込めて重なった彼の手を放さなかった。


「お嬢様、手が――」

「久嗣さんが強情ですからいけないんです。もっと御自分が濡れないようになさったら私も手を放します」

「――それは、できません」


 学校に着くまでの間それ以上会話をすることもなかったが、どちらがそうしようと言ったわけでもなく一番遠回りになる道をゆっくりゆっくり歩いた。

 

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