第十六話
帝国図書館からの帰り、久嗣が以前やってきた郵便局の向かいにある文具店のお嬢さんが気になって様子を見に立ち寄った。夏に来たときは戸は開けっ放しになっていたが、秋になって肌寒くなってきたので締め切ってるのだろう。外側からは光で反射して中の様子がよく伺えなくなっていた。仕方がないので懐に手を入れて財布の中に入った小銭を確認する。万が一誰かに声をかけられた時にもノートを買いに来たとでも言い訳が立つように工作しておくことが必要だ。財布の中に五銭入っているのをしっかりを確認すると、いざと意気込んで文具屋の戸をがらがらと音を立てて開けた。
店の中は夏に来た時と何も変わっておらず、今は彼以外に客は誰もいない。まるでこの中の空間だけ時が止まってしまっているようだった。とは言え商品に埃がかぶっている様子もなく、床の掃除もしっかりと行き届いている。
「いらっしゃい」
そういって店の奥から顔を出したのは“おさげの君”ではなく、彼女に目元がよく似た女の人だった。
「あ――あの、ノートを……買いに来ました」
「はいはい、それならここに置いてますよ」
そう言って入口付近に平積みされている物を指して「一冊でいいかい?」と女性が尋ねる。財布から小銭を出しながらかほりさんはどこかと質問しようとしたが、自分がそれを聞くのも何だか変な感じがしたので、お金とノートを交換して店を後にしようと扉に再び手を掛けた。
すると扉の反対側から同じようにそれを開けようとする田原の姿が目に入った。ふたり目が合い、田原が慌てて店の中へ入ってくる。
「なんだ、斎藤君。こんなところでどうしたんだ」
「いや、僕はノートを買いに来ただけだよ。君こそどうしたんだよ」
「いや、おれは……」
言葉の端を濁す田原に、再び奥から出てきた女性が田原に挨拶をした。「かほりならもうすぐ出てきますよ」と勘定台の奥にある扉を見ながら“おさげの君”の名を呼んだ。
その間に挟まれた久嗣は田原を見ながら、金魚がするように口を何度もぱくぱくと開けたり閉めたりを繰り返した。傍からみると滑稽な姿でも、彼が何を言わんとしているか分かった田原はガシガシと頭を掻き、一寸外で話そうと友を外に連れ出した。
「君、この間まで声は掛けずに見ているだけでいいと言っていたのに、どんな状況なんだい、これは!」
「斎藤君の書生先のお嬢様に仲を取り持ってもらって以来、声をかけるのも大したことではないなと思ったんだよ。それ以来何度かここに足を運んで……今はこうして度々散歩など一緒に行っている」
「許婚はどうしたんだい」
「夏の終わりに一度会ったんだよ。そうしたら彼女もすごく新しい考え方というか……古い考えに固執しない娘で、もう明治時代でもなしに許婚同士の結婚など嫌だと云われたんだ。それに対して僕も同感だと言うと、ひとまず結婚の話は保留になったんだよ」
「なるほどね。それで唾をつけていた彼女と、こうやって逢瀬を楽しんでいるのか」
「逢瀬とは随分と含みのある言い方をするじゃないか……。己ぁ彼女の母上には紹介してある身だ。別に人目を憚って逢っているわけでは断じてない」
そう言ってみて久嗣は逢瀬を楽しんでいるのは自分ではないかとその身に問うた。「そうだな、悪かったよ」と友人に謝ると、田原は「別に誤ってもらわなくてもいいけどさ」と言ってかほりが出てくるのを待った。
ほどなくして店の中からかほりが姿を現した。以前あった時と違って、余所行きの着物を着ていた。髪も女学生と同じ束髪くずしで装い、気分は女学生といったところだろうか。友人の田原も、その彼に脚を気遣われて手を引かれるかほりも、双方幸せそうな顔をして「じゃあ、また明日な」と言って大通りに姿を消した。
幸せそうな田原が羨ましくも思えたが、自分の友人が幸せそうでいて何だか自分自身も誇らしく思えた。恐らく自分が陽子に田原のことを話したことが功を奏したのではないかと思っている。
「あなたは田原君の御友人だったのね。少し前からかほりと仲良くしてくださって、何てったって天下の帝大生でしょう。私も旦那も誇らしくって」
「彼はすごく優秀な学生ですよ。そんな彼がかほりさんに非常に興味を持って接しているのです。彼女も素晴らしい方だと存じます」
「いやだわぁ、あの子は女の子なのに本にばかり夢中になって、裁縫だって上手くやれやしないからね」
「だからこそ田原君は彼女に興味を持ったのだと思いますよ」
口では娘は何ができない、これができないと言ってはいるものの、かほりの母親は幸せそうな面持ちで小さくなっていくふたりの背中を見守った。
屋敷までそのまま真っすぐ帰るのも何だか気が進まなかったので、いつしか涼みに来た河原にまた足を運んだ。きらきらと太陽の光を反射する水面が久嗣の心を落ち着かせる。河原の土手に横になってと考え事をしていると、先ほど購入したノートを思い出した。
まだ何の文字も書かれていない真っ白のそれの最初の頁をめくって、学校に持って行っていた鉛筆を一本取り出した。
何を思った訳でもなかったが、最初の一行に丁寧な字で「月子」と書いた。書道でもするかの様にトメやハライの細部まで意識して「つきこ」の名前を書き上げた。
通常に書くよりも何倍も時間をかける。そしてその作品が完成したのと同時に自分が何をしたのか意識して、急に恥ずかしさと背徳感が込み上げてきた。
筆入れに一緒に納めてあった消しゴムを慌てて取り出そうとすると、手の隙間からするりと滑り落ちて土手を下り、どこかへ姿をくらました。どこに行ってしまったやも知れない物をいつまでも探すわけにはいかず、仕方なくノートを閉じると、彼女の名前をノートの最初の一行に携えて帰路に就くことにした。




