第十五話
秋は深まり、萌ゆる若葉だった庭の木々がすっかり赤や黄色に姿を変えたことが、ここで過ごした時間の長さを教えてくれている。
庭に足を踏み入れるとしがみついていた木から放り出された枯れ葉がカサっと音を立てて鳴る。空は相変わらず高く、そこを優雅に泳ぐいわし雲はあっという間にどこかへ行ってしまった。その姿はまるで必要に駆られて、生き急いでいる人々のように見えた。
陽子はポッケットにしまってあった懐中時計を出して、今が午前十一時であることを確認すると、道の先からやがて和人の車が現れるのを今か今かと待った。
数分も経たない内に艶のある黒い外国産の自動車が一台、庭の中に入ってくる。落ち葉を踏みしめて通路を進むが、エンヂンの音が大きすぎてそれらを踏みしめる子気味のいい音は聞こえてこなかった。
「レディをお待たせしてしまったかな」
自動車から降りるなり、相変わらずスマートな言い回しと、主張をしすぎない洒落たカフスや帽子といった小物が彼の好感をますます上げている。自動車に乗り込む際も、彼が女性をリードしてドアを開け、席に着いてからも彼女の膝に薄い毛布をそっとかける。どこからどう見ても文句のつけようがない紳士そのものだった。
普段は気の強い陽子もそんな婚約者の姿を目にしてうっとりとするのも、誰もがなるほど納得がいった。
「和人さんとお出かけは久しぶりですから、待ちきれずに玄関先で待ってしまいました」
「それは何より光栄です」
ふたりは後部座席に揺られながら流れる景色を見つめる。
「今日の体調はいかがですか?」
これは和人が彼女に会うときに必ず尋ねることだ。心の状態が不安定な時は、時々陽子と月子の間で揺れることがあるため、このように聞くのは和人の日課になっていた。
「今日はとても調子がいいです。大丈夫ですよ」
「そうですか。お芝居は少し長そうですが、見られそうですか?」
「ええ! 楽しみです」
そう言って子供がはしゃぐように無邪気に笑う陽子の髪を、左側に座する彼女の反対側の手でそっと撫でて同じように微笑み返す。
「和人さんは本当にお優しいですね。そのような笑顔をひとり占めできないのは……少し寂しいですが」
彼の瞳をのぞき込んで少し拗ねた口調で言ってみるも、相手を困らせるだけだと思い「冗談です」と直ぐに言い直した。
すると紳士は撫でていた彼女の頭にぐっと力を込めて自分の肩の方へ少し引き寄せた。その瞬間陽子の体が緊張したのが伝わった。そんな初々しい姿も可愛いなと、引き寄せた少女の頭に自分の頭もそっと当てて、「僕はあなたのものです。心配しないでください」と小さく囁いた。
和人の腕に引き寄せられて寄りかかり、しばらく緊張していた陽子の肩も、時間が経つにつれてほぐれてくる。高鳴った鼓動もようやく落ち着きを取り戻したところで、「和人さん」と口を開いた。
「私は浅見家に嫁ぐように言われて、これまで生きてきました。もちろんそれは私の幸せそのものなのですが……ずっと気になっていたのです。和人さんが私でいいのかと」
「それは貴女の特異性からそのようなことを仰っているのですか?」
「――ええ」
「実は陽子さんのお父様である忠親さまからもそのような質問をされました」
「え? で、何と?」
「浅見家に迷惑がかかるのであるなら、この許婚の関係を破棄することも検討させてほしい。と」
「それで……和人さんは」
「そこで分かりましたと言っていたら、今僕は貴女の隣には座っていません」
「私にはお父さまの気持ちが痛いほど分かります。特に公家の格式を持つ所に嫁ぐのです。それが私のような――」
その言葉を発した時に、人差し指の腹を陽子の唇に当てられて「私のような」とは言わないでください。と、少し強い口調で彼女に喚起する。
「僕は貴女がいいのです。浅見家には兄達もいますし、三男の僕が爵位を継ぐことなどまずありませんから、貴女が憂いるようなことはありません」
「……私は果報者ですね。こんなにも恵まれていて、恐ろしくなります」
「来年の春には僕とドイツへ渡って、そこで貴女の中の月子さんはやがて陽子さんの中に溶けていくでしょう。僕と共に頑張りましょう」
その言葉に静かに頷いて、劇場に着くまでの間ずっとふたりは手を繋いでいた。どことなく哀愁を含んだ秋の風が吹く中、車内のふたりの心の中は春の陽気で満たされていた。




