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半分の満月  作者: 織田 智
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第十四話

 部屋の扉をノックして中に入ると、窓に向かって座る少女の姿が目に入った。


「お茶を淹れてきました」


 そう言って取っ手の付いたボーンチャイナの白いカップを同じ色をしたソーサーに乗せて差し出す。その香りを肺いっぱいに吸い込んでからふうっと一息吐くと、白い湯気が押し流され、紅い水面がゆらゆらと揺れた。そして再度息を吹きかけて、少しでもカップの中に注がれた液体の表面の温度を下げてから、今度は音もなく口の中に流し込んだ。


「お母さんと何を話されていたんですか?」

「お嬢様の勉強を頼むと釘を刺されたのです」

「そうですか」


 大体智弥子が何の話をしていたかは、聡い娘には想像がついていた。


「――この紅茶の味を楽しめるのも来年までかも知れないですね」

「……それは……」

「私は要らない子なのです」


 左手に持っていた磁器をソーサーの上にそっと置いて、また窓の外をじっと見た。自分では体験することが出来ない感覚故に、なんと言うべきなのか全く想像もつかなかった。自分が自分でなくなるという感覚はどのようなものなのだろうか。


「そういえば……さっきも私が陽子でないとすぐに気づいたように思いましたが、お母さんの間違いを正さないでくださりありがとうございました」


 智弥子は月子に対して複雑な感情を持っているようだったので、必死で陽子を演じている彼女を見放すような真似は出来なかった。


 彼女に、どうして違いが分かったのかと聞かれると、久嗣は海底の石であるかように深く悩む。その沈黙を急かすことなく彼女はじっと待つ。


「はっきりとした何かは分からないのですが、月子様が私と話を始める時、一瞬、目線をどこかへ向けてから目を合わせる癖のようなものを感じていますので、それのせいではないでしょうか?」

「そうですか……」


 空に浮かぶ真っ白い魚の群れは風に乗って西へと泳いでいく。その群れがやがて赤い色の空を引き連れて、熟れた柿のような色に変わるまでふたりで空を眺めていた。


「月子様。私は貴女がいなくなってしまうことが——―寂しいです」


 外を見つめていた目を少女に向けると、彼女もこちらを向いた。夕陽に染まった顔。そして、彼女の大きな丸い瞳の中に久嗣を映す。だが、月子は一瞬下の方に目線を移し、彼の姿を彼女の瞳の中から遮った。

 まるで紅い空に照らされた彼女の顔が、心の様を映し出しているようだった。


「――のは……寂しいのは、貴方だけではありません。わたしも……久嗣さんに会えなくなることが辛いです」


 膝で大人しく揃っていた彼の手が、一瞬持ち上げられる。手の中はどことなく汗ばんでいる気がした。いや、実際は汗ばんでないのかも知れない。これは——緊張しているのか。可憐な少女の手を見つめながら、持ち上げられた自分の大きな手をそのまま彼女のそれに重ねたいという衝動が起こったが、ぐっと拳を握り大人しく元の場所に収める。

 大胆に持ち上げたつもりでいたが、実際はほんの少しだけ宙に浮かべていただけだったことに気づいた。


「貴女がたおふたりが、共に生きられる道もあるかも知れません。今はただ勉強して将来に備えましょう。私たちはまだ何も知らない若人なのですから」


 椅子から立ち上がった彼は電気をつけるために壁まで歩いてから、同じ部屋にいる女性に気づかれないように壁に頭をひとつぶつける。コンという鈍い音が頭の中で響く。これは彼の中で湧きあがる衝動と、理性がせめぎ合い後者が勝利した音だった。


 室内の電気をつけた瞬間、それまでいた空間とは全く別の場所になったように感じられた。光に照らされて、心の中に渦巻いていた幼い感情は身を潜める。

 部屋の扉を少し開けていたので、廊下にもその灯が差し、来訪者がひとり煌々とする部屋の扉をノックした。


「勉強の進捗はどうだい?」


 部屋の外から顔を覗かせたのは婚約者の和人だった。今日も身なりのいい服に身を包んで、物腰柔らかくふたりに挨拶をする。


「和人さん、今日はどうかされて?」

「忠親さんに食事に来ないかと招待されていたのでね」

「そうでしたのね。それは楽しみだわ」


 婚約者の和人は部屋に入るなりふたりが座っていた机の側に立ち、さりげなくノートを覗き込みながら「ゲエテか……」と言って、彼女の肩にそっと手を置く。久嗣はその和人の手を直視することが出来ず、ただひとり握りしめた拳に益々力を込めるばかりだった。


「ところで君は陽子さんかな、月子さんかな?」

「――月子です。私が同席しても構いませんか?」

「もちろんだとも」


 扉のそばでひとりたたずむ久嗣を背に、ふたりは話に花を咲かせる。意識してか、そうでないのかは分からないが、はぐれ物となった彼の手には徐々に強い力が込められていく。だがそうしたところで自分と彼女たちの間にある境界線には何の変化も訪れなかった。

 居ても立ってもいられず、久嗣はその場を去ることにする。


「では私は夕飯の準備がございますので、これで失礼いたします」

「あぁ、ご苦労様」と和人が返す


 逃げるように部屋から飛び出して、ふたりの姿が見えないように扉もきちんと閉めた。あんなに仲睦まじい姿は見たくないという意図からだった。


◇◇◇


 隔たれた扉の内側に残された月子は彼が出て行く姿を見送ることも叶わず、自分の肩に乗せられた優しい婚約者の手に自分のものをそっと重ねて、同じぐらい柔らかい仕草で目を閉じた。


 まっかに燃えていた今日の秋空を思い浮かべなら。

 今はなき、高鳴る鼓動の記憶に浸りながら。

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