第十三話
辺りはすっかりと秋の色になり、低いところに居座っていた大きな入道雲に変わって、いつの間にか細かく散りばめられたイワシ雲が高い空を優雅に泳いでいる。夏にはあんなに青々と生い茂っていた庭の木も、どこなく色が褪せてきたようだ。もうあとひと月も経てばこれらは見事な錦の色にかわるのだろうか。
洋館の書斎には数多くの本が置かれており、いつでも好きなだけ読んでくれて構わないと奥方の智弥子に許可をもらっていたので、学校から帰ると仕事を頼まれていない時は夕飯までの間この場所で過ごすことが日課になっていた。
夏の間は強い日差しから蔵書を守るために換気の時以外は雨戸を締めきっていたので、あまりこの部屋に入ることはなかったが、秋になって暗い戸が取り払われると、久嗣は本の虫と化した。
「――さん? ……久嗣さん?」
本に集中しすぎて周りの音が全く聞こえなくなっていたが、誰かに呼ばれる声で、夢から覚めるかのようにはっと我に返る。
「え、はい」
彼を読んでいたのは奥方の智弥子だった。信じられないほど深く本に入り込んでいた姿がつい気になって声をかけてきたようだった。
「あら、ごめんなさい。何をそんなに熱心に読んでいるのか少し気になって声をかけたのだけど、お邪魔だったわね」
「いえ、何か御用でしたか?」
「陽子の勉強の――ドイツ語進捗はいかがかしら?」
「お嬢様のドイツ語のお勉強ですか? 大変呑み込みが早いですよ」
「そう、それなら良かったわ。次の春までには――その、外国の方とお話しするのに困らない程度に上達すると思われるかしら?」
「来年の春ですか?」
今まで何かの目的があって勉強をしているという話は聞いたことが無かったが、突然“来年の春”という単語が出てきてそれが何を意味するのか薄々感づいた。
「どの程度を持って困らないとするかはそれぞれの見解があるかと思われますが、このままの速さで基礎を抑えていけば、自分の意思を相手に伝えることは難くないと思われますよ」
陽子は浅見子爵の子息である和人との結婚が決まっている身だ。来年の春を目安に行儀見習いとして彼の家に入ったり、社交の場で紹介に預かったりするために今のこの教育を任されているのだと悟った。
「では陽子様も来年から浅見様のお屋敷に行かれるのですね。寂しくはなりますが、何ともおめでたいお話で、私も嬉しいです」
「――いえ、春から陽子が向かうのは浅見子爵家ではないのです」
「と言いますと? ……まさかドイツに行かれるとか?」
「……」
「久嗣さんも彼女の病のことは存じておられるでしょう? ですので、精神医学が進んでいるドイツで彼女の治療を考えているのです。このままの状態のままこの日本で生きていくのはあの子にとってもあまりに辛いことかと思いますわ」
「治療……ですか」
その言葉に少しの引っ掛かりを覚えたが、引き続き智弥子の話を黙って聞く。いや、聞こうと努力したのだ。彼女が次の言葉を発するまでは。
「あの月子という女の人格を陽子の中から消し去ってくれる医者がいるかもしれないと言う話を聞きましたので、その望みに賭けてみようかと思うのですわ」
「消すということは……。月子様という人間がいなくなってしまうということですか」
「――貴方にとっては出会って数カ月の友人かも知れませんが、私たちはあくまで陽子の親なのです。あれは陽子に内在する腫瘍のものだという認識は拭えません。もちろんあの子が別の名で名乗っていたとしても私は家族として扱う努力はしますが、どうしても違和感が邪魔をしてしまい、彼女を愛することが出来ません」
久嗣はそれ以上何も言えなかった。以前にも忠親や和人に治療をするとは聞いていたが、まさか次の春が月子との別れになるのか。そう思うと胸が鈍く痛んで、脈打つ心臓がやけに痛く感じられた。
手に持っていた本を閉じて、元あった本棚に置き直しながらぐるぐると駆け巡る考えをひとつひとつ整理した。丁度本を本棚に直すように。
「どうして私にそんな話をなさったのですか?」
「なぜでしょう、懺悔のようなものだったのかも知れませんね。貴方の気分を害してしまったのならごめんなさい」
「いえ、私の方こそ理解が及びませんことをお許しくださいませ」
顔だけは立派な笑顔を見せることが出来た久嗣は、心の中で自分を褒めてやった。だが未だに棚に整理出来ていない感情が、彼を支配していてどう向き合っていいのか分からずにいた。
◇◇◇
智弥子は書斎から出ると、少し重い扉に寄りかかり頭を抱えながら彼に話してしまったことを後悔した。久嗣はいずれこの家を出て行く身、そんな彼に家庭の話をして面白おかしく広められると、この秋宮家や浅見子家に迷惑がかかるのは見えていた。だが、智弥子も我が子の辛さに耐えられないでいたのも事実で、誰かにこのことを話して苦悩から少しでも解放されたいと望んでいたのだった。
「お母さん? どうかされたんですか? 頭など抱えて」
玄関ホールの隣に位置している書斎の扉の前で頭を抱えていると、その姿は外から帰ってきた娘に見られることとなった。
「なんてことはないわ、少し立ち眩みがしただけよ。気にしないでちょうだい」
「そう? 秋になったとはいえまだまだ暑いですから気をつけてくださいね」
「ええ、陽子もね」
「はーい」
◇◇◇
玄関ホールから自室のある二階に昇るために階段に脚をかけたとき、書斎から久嗣が出てきた。
そして階段を昇り始める前に彼と目が合った。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま、久嗣さん」
「先日お話ししたゲエテの翻訳が出来ていますので、後で見てくださいませ」
「――かしこまりました」
「それではお茶をお持ち致しますので、しばしお待ちくださいませ」
台所の方に向き直った久嗣の肩を智弥子がぽんと叩いて、「それでは、あの子のことを頼みますね。あの子は今は陽子ですので、幾分か話しやすいかと思います」と言う。するとひとつ間を開けてから「え?」と返した。
その疑問符には彼の目に映る少女と、その母親が呼ぶ彼女の名前の不一致から起こされたものだった。
「どうかして?」
「あ、いえ。それでは失礼いたします。奥様、陽子お嬢様」
そうしてひとつ小さく礼をして、その場を後にした。




