第十二話
初めて袖を通すタキシードは少し童顔の久嗣を大人びてみせるのに役に立った。仕上げにきゅっと蝶ネクタイを結べば、自然と背筋が伸びる。
どうやら昨日帰る際に久嗣の学生服の汚れが目立っていたことに気が付いて、予備のタキシードを持ってきてくれていたようだった。
「君は僕とそんなに背が変わらないと思っていたから、手直すことなく着られて良かったよ」
「ありがとうございます、浅見様」
和館の一室で和人に着せてもらった自分を姿見に映して、正面からや背中側からなど角度を変えてあちらこちら眺めていると、襖の向こうで「失礼してもよろしいでしょうか」という声が聞こえた。その声の主が誰かということは聞かなくても分かった和人は「どうぞ」と入室を促した。
「失礼します」と入ってきたのは学校から帰宅したばかりの陽子で、なかなかお目にかかれない許嫁の正装姿に見ほれたのか、いつにも増して桜色の頬が更に紅くなっているように感じられた。
「まあ! 和人さんのタキシード姿がすごくお似合いですわね」
「ありがとうございます、陽子さん」
少し急いでこの部屋まで走ってきたのか、束ねている彼女の髪が少し乱れていた。それを和人が手櫛ですくって陽子の耳にかけてやると、顔を真っ赤にして俯きながら「ありがとうございます」と小さな声でこぼす。
話が詰まってしまったことが気まずかったのか「ひ、久嗣さんはいかがかしら?」と話題を別の方に振ってきた。
「私はこのような正装をするのは初めてですので、まだまだ服に着せられているという感はありますが、馬子にも衣装と言いますか――それなりの格好になったかなと……」
「貴方も悪くはありませんよ、自信を持ってくださいませ! ま、和人さんの方が素敵ですけどね」
和人が世間でいう美男子なのは一目瞭然だ。そんなことわざわざ言葉に出して言われなくとも分かっていると腹の中で思ったが、その心の声が実際に形作られることは無かった。
秋宮家を出てからパーティー会場に到着するまでは、久嗣にとって緊張の連続だった。通訳という仕事を引き受けたことが無いため、どのようなことに注意するべきなのか、知らない単語が出てきたらどうしようかなど考えれば考えるほど胃が痛くなってくる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。僕も全く英語が分からないというわけではないんだ」
と、励ましてくれる。
「はい、先ずは失礼のないように努めます」
「そうだね、よろしく頼むよ」
緊張で手がひどく汗ばんでいる学生とは対照的に、場慣れしている華族様は鼻歌などを歌いながら、笑みを浮かべながら流れていく景色を見つめている。
やがて黒い煙を吐きながら、ふたりを乗せた自動車は会場となるホテルの近くで停車した。そこから少し歩いて館内へと続く庭に入っていく。
建物の中に一歩足を踏み入れると、日本の建築と洋風のそれが混ざったような場所で、少し落ち着く。
絨毯のない場所に脚を踏み出せば、弾みのいい足音が生まれては消えていく。
その先の少し大きい扉が開けられると、そこには今まで見たことが無い景色が広がっていた。
同じような黒いスーツに身を包んだ者や、袴姿の者までその場にいる者が新しい時代の波に乗り遅れまいと目を輝かせている人々で溢れていた。
一歩踏み入れると、強い向かい風に煽られたような衝撃と、少年の中にこみ上げてくる強烈な感動が広がる。
はっと、我に返って自分が何のためにこの会場に来ることが出来たのか思い出し、側にいる和人の姿を視界に捉える。すると、早速彼が西洋人に話しかけられているところだった。
だが、そこに久嗣が入る必要は全くなかった。和人も何の問題もなく英語を話せている上に、相手側も少々日本語を話せるようだ。
「え?」と思わず言葉が漏れてしまった久嗣に、早々に話を切り上げた和人が寄ってくると、「君も遠慮なく話に入ってきてくれて構わないよ」とこちら側にも気を配ってくれた。
「あの、通訳は……」
「だから、そんなに構えなくても大丈夫だと言っただろう? 僕は君のような素晴らしい展望を持った若者に彼らと是非繋がりを持ってほしくてね」
「つまり通訳の仕事というのは……最初から無かったのですね」
「騙してしまって申し訳なかったよ。でも、今日のこの場所は君にとってもいい刺激になると思うよ」
「浅見様……なんと申し上げていいか……」
重くのしかかっていた緊張の種が取り除かれて、久嗣は心底安心するとともに目の前の紳士に深く感動を覚えた。
「あ、そうだ、斎藤君。君に会わせたい人がいるんだよ。日本でこれから盛り上がること間違いなしのエンヂニアリングの先駆者だ。知り会っておいて損はない」
そう言ってまだ夢見心地のような久嗣の手を引いてこれからの日本を支えるであろう重鎮たちとの橋渡しを和人が嬉しそうにやってのけた。
そこに飾った様子もなければ、見返りをも要求するわけでもなさそうだ。そもそも只の一学生の彼には華族様に差し出せるようなものは何一つ持ち合わせていない。
そこにふと月子と陽子の顔がよぎった。
こんなに素晴らしい浅見和人という人間を見ていると、どうして好きにならずにいられるのかという納得と、もうひとつ別な感情も水面下で燻ぶった。
「羨ましい……」
「え? 何か言ったかな?」
パーティーが終わって余韻を味わうように、あっという間の出来事を思い浮かべていたところに、ふと“嫉妬”というものがひょっこり姿を現した。
その感情に気が付かないように蓋をして自分の奥底に閉じ込めた。




