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半分の満月  作者: 織田 智
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第十一話

 屋敷の門を潜って庭先から玄関の方に目を向けると、黒い自動車が一台停まっていた。この車はふたりともよく見覚えのあるものだ。

 黒の光沢が美しい車だ。


「あ! 和人(かずひと)さんがお見えになってるわ!」


 文具屋から帰る道すがらあまり表情を変えないでいた陽子だったが、和人が来ていると知るや否やぱっと久嗣の元から駆けだし、明かりの灯る家の中と吸い込まれていった。


 走り去っていく陽子(はるこ)を見て、ふっと微笑む。そこに友人の田原もこんなように幸せそうな顔をしていたと思い浮かべる。

 そして華奢な背中を見送った後、庭へと続く重い鉄格子の門を閉めた。


 庭を眺めながら歩いていると、玄関先で使用人の前川がこちらを見ながら手招きをしている事に気づいて、久嗣は小走りで前川の元に駆け寄った。


「どうされたのですか、前川さん」

「斎藤君。本日浅見様がお越しになったのは他でもない、貴方に用事があるそうで……。応接室でお待ちですのですぐに行ってくださいませ」

「え⁉ 僕にですか?」

「左様です。どのような用かは存じ上げませんが、もう半時間ほどお待ちなのでお急ぎくださいませ」


 それを聞いて彼は心臓が飛び跳ねる思いがした。何か気に障るようなことでもしたのか、自分の婚約者と一緒に帰ったのが気に入らなかったのかなどと、廊下を速足で通り過ぎながら頭の中で忙しく考えを巡らせたので、応接室に着くまでに余計な体力を使ってしまった。案の定目的の部屋の前まで来た頃には息と一緒に髪まで乱れてしまっていた。


 二回深呼吸をしてから扉をノックする。「どうぞ」という返事を待ってから、「失礼します」と部屋の中に入っていくと、そこには和人と旦那の忠親(ただちか)が以前に晩酌会に招いてもらった時と同じ椅子に座って、ドアから入ってくる久嗣を目で追った。


「遅くなってしまって申し訳ございません」

「いいんだよ。それより今日は僕から君にお願い事があってこちらに伺った次第なんだ」


 和人が柔らかい口調でそう言いながら、空いている席に座るように促す。差し出された手を綺麗に揃えているところなど、相変わらずこの人から育ちの良さを感じざるを得なかった。席に着いた久嗣が話を切り出して「どういったご用件でしょうか?」と、学生の自分が資産家である彼の手助けなど出来るのかと心配になって恐る恐る尋ねる。


「明日父の会社のパーティーに同席することになったのだが、英語の通訳の男が事故にあって入院してしまったのだよ。他の者を立てるにしても急で予定が合わなくてね。そこで君のことを思い出して、秋宮家のご当主にお願いして、君を借りられないか伺いに来ていたんだよ。どうだい、君に頼めないだろうか?」

「私がですか? しかしそうなれば、予習をしなければなりませんね」

「大丈夫だよ。商談に行くわけじゃないんだ。パーティーだから専門的な話にはならないとは思うが……」


 和人が少し遠慮気味に言う中、忠親も追い打ちをかけるように「僕からも頼むよ」と言う。


「——かしこまりました。私で良ければ微力ながら助太刀いたします」

「助かるよ」


 とは言え、御華族様からお願いとあっては断ることなど出来るはずもない。ましてや世話になっている家の主人を間に挟んで「頼むよ」と言われた時点で彼には「分かりました。かしこまりました」としか言う選択肢しかなかったのだ。

 一抹の不安が残るものの、明日までに知識を足しておかなければならない。しかも海外からの使者が来るようなパーティーだ。のしかかる責任を考えると、少し憂鬱になって胃の部分を軽く抑えた。


「——ちなみにですが、どのような方が集まるパーティーなのでしょうか?」


 その質問に和人は少々勿体付けてから「それは」と話し出す。


「工業用機械を輸出しているアメリカの企業からの使者がお見えになるのだよ。君が携わりたいと言っていた分野だからね、君にとっても絶好の機会だと思ってね」


 前言撤回だ。久嗣が今最も興味を持っている分野のパーティーに共として行けるのだ。憂鬱だった気持ちが一気に華やいで、明日が途端に待ち遠しくなった。


「浅見様! ありがとうございます!」

「いいよ、では明日の午後五時に迎えに来るので」

「分かりました」


 和人は用事が済んだと、席を立つと同時に久嗣も席を立つ。そして和人はハンガーに掛けてあった帽子を前川から手渡され、「では明日」と言い残して、帰り支度を始めた。


 「では明日に」と去っていく黒い車を玄関先から見送り、見えなくなるころに「やったあ」と興奮を露わにする。


 和人を見送った後その足で台所に向かう。そこでは文江さんやほかの使用人たちが優しく迎えてくれた。


「なに? いいことでもあったのかい?」


 溢れ出す笑顔が止められないまま台所で他の仲間たちとご飯を食べていると、茶を持ってきてくれた文江さんに「実はね」と嬉しそうに話す。


「あらあら、それはいいじゃない。じゃぁほら、精を出すのにもう一枚ハムカツ食べなよね」


 そういって文江は自分の皿からハムカツを一枚抜き取って、代わりに彼の皿に移した。


「いいんですか? 僕文江さんのハムカツに本当に目が無くて……。ありがとうございます」

「いいんだよ、あんたは私の孫みたいなもんだからね」


 すると「何だい、文江姉さんは坊にばかり甘いんだからよ」と下男のひとりからヤジが飛ぶが、「あんたもこの子ぐらい可愛げがありゃねぇ」と茶化す。


(ぼん)よぉ、なんてったってお前さんは天下の帝大生様なんだ。明日は胸張って行ってくんだぞ、え?」

「はい、ありがとうございます」


 箸でハムカツをつまんで口に入れると、()()()と弾ける音がした。そして豪快にご飯を掻きこんだ。

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