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半分の満月  作者: 織田 智
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第十話

 大きく息を吸い込んで、それをゆっくりと吐き出す。吐いた息と一緒に自分の中に詰まっていた悪いものも緒に出て行った気がした。そして「よしっ!」と実際に声に出して気合をひとつ入れると、文具屋の中に一歩足を踏み入れた。

 しかし今日は珍しく他の客が来ていたようで、意気込んで店内に入った田原のそれが大きく抜かれてしまった。しかもただ単に買い物をしている客と言うわけではなく、何やら“おさげの君”と話をしているようだ。近くの女学校の生徒だろうか、袴姿の女性が見えた。その彼女と“おさげの君”は話に花が咲いているようで、女性同士の楽しそうな笑い声が店の中に響いていた。


 彼女と話がしたいと来てみたものの、これではどうしたものかと暫く文具を見るふりをして店内をうろうろしてみるが、話はなかなか終わりそうにない。その時に先ほど友人が「今日は日が良くない」と言っていたのを思い出して、こういうことかと肩を落とした。

 もう諦めて帰ろうかと思った矢先に、店の入り口付近でこちらを覗き込む学友の姿が田原の目に入った。

 そんな彼の方が何かに焦っているように見えたが、もうすでに喉の半分まで出かかっていた田原の声は押引き戻すことが出来ずに、「斎藤君」と声を形にしてしまう。


 すると店の外側からではなく、なぜか勘定台の方から「久嗣(ひさつぐ)さん?」と、友人を下の名前で呼ぶ声が聞こえてきたのだ。


 ◇◇◇


 陽子(はるこ)と同じ店内にいる友を見た途端声を掛けられ、案の定店の奥から窓の外に見えている学生服姿の自分に「久嗣さん?」と気づかれてしまった。もちろんその場にいた田原も陽子の言葉を聞き逃しはしなかった。


 「知り合いなのか?」と二人の間に挟まれた友人の田原が、陽子と久嗣、双方の顔を交互に見る。もちろんその場にいたおさげの彼女までも、男子学生らに目を向けることになった。


 ここまで来てしまえばもう後には引けないと外から覗き込むのを止めて、薄暗い店の中へと入っていく。突如賑わう店内に、内気なかほりは恥ずかしがって一歩下がり、気持ちだけでも同じ女性である陽子の影に隠れようとした。

 だが、陽子も田原もそうはさせなかった。


 「久嗣さん、紹介してくださる?」といって目線を友人の男子学生に向け手のひらで彼を指した。

 「もちろんでございます。こちらは僕の学友の田原正憲(たはらまさのり)君で——こちら書生としてお世話になっている下宿先の陽子お嬢様だ」と、互いを紹介した。


「初めまして秋宮陽子です」

「どうも、田原です」


 丁寧に挨拶する女学生を見て、田原も被っていた学生帽を手に持ち替えて、陽子に一礼した。

 久嗣がふたりを見ると、陽子の目聡い性格が気になってしかたがない。彼女は恐らく田原が自分を通り越して後ろのかほりに目が行ったことに気づき、この人が昨日話した片想いの君なのだとすぐに目星をつけたようだった。


「今日こちらの文具店にノートを買いに来たら、こちらの素敵な方と出会ったの。田村かほりさんと仰って、とても博識な方よ」


 紹介されたかほりは恥ずかしそうに少し会釈をしてから、小さな声で「どうも」と声を絞り出した。さっきまで女性同士話していたような声とは大違いで、それっきり彼女からは何も話そうとはしなかった。


 それを見て陽子はにんまりと口端を上げて、悪戯っぽく微笑んでから「では久嗣さん、私たちは帰りましょう。今日の宿題をやってしまわねばなりませんので、わたしたちはこれにて失礼します」とふたりきりにさせた。

 帰り際棚から牡丹餅と言わんばかりに嬉しそうな田原と、それに相反するかのようにかほりの不安げな顔が去っていく者たちの目に入ったが、ふたりの歩みは止まることなく真っすぐ屋敷に向かったのであった。


 ◇◇◇


 田原はひどい緊張で心臓が口から今にも飛び出しそうになっていた。

 友人が去った後の店内は大通りを歩いていく人の足音や、声だけがやたらと響いて何とも気まずい空気が流れていた。今日話をしようと意気込んでは来たものの、いざ彼女を目にすると何と声をかけたものかと、頭の中だけが世話しなく動き回って有効な言葉ひとつ思い浮かんでこない。


「あの……」


 か細い声を絞り出して先に声を上げたのはかほりだった。


「は、はい!」


 不意に声をかけられ、学校で出欠を取る際にする返事のように元気よく声を出したが、少し語尾が裏返ってしまった。


「あ、あの、いつも店に来てくださっていますよね」


 やはり声はかけずとも、頻繁に出入りしていたら顔のひとつも覚えられるものだった。


「すみません、ご迷惑でした……よね」

「いえ! 迷惑とかではなくて……少しお話しする機会があればと思っていましたので、今日このように思いがけない形でそれが叶って――少し吃驚しています」


 俯いたままそう話すかほりの手は行き場が無いのが、左右の指先を絡めている。それを見ていると田原も緊張が増して言葉が滑らかに出てこなかった。それでも彼が言いたかったこと、今日彼女に伝えたかったことをゆっくりゆっくりと絞り出したのである。


「四月にあなたを初めて見てから、声をかけてみたいと思い何度もこちらに足を運びました。しかしいつも遠くから眺めるだけで――。ですが、今日このように貴女と言葉を交わすことが出来て僕は夢でも見ているかのような気分です」

「……では、また顔を見かけたら声をかけてください」

「はい」


 そして「では、今日のところは失礼します」と全力疾走で店から出て行った。


 かほりも嵐が去った後の店内で「ふう」と座り込み、窓から見えるいつもと変わらない景色を暫く放心状態で眺めた。


 ◇◇◇


 街中の通りを抜けて、家が建ち並ぶ住宅街を黙って歩いていた久嗣と陽子のふたりだったが、最初に口を開いたのは陽子だった。


「私、余計なことをしたかしら?」

「いえ、今日彼は彼女と話をしたいとあの場に出向いたのです。お嬢様が居ようと居まいと彼はかほりさんに声を掛けていたでしょうから、自然な流れで話が出来て良かったのではないでしょうか?」

「それなら良かったわ」


 さっき悪戯っぽく笑っていた彼女が、今度は優しそうな顔で微笑んでいた。西日が空を赤く染める。静かに歩くふたりの頬をも赤く染めて、長く伸びた二人の影はまた物言わぬまま静かに歩みを進めた。


 屋敷に着くまでほとんど言葉を交わさないまま屋敷に着いてしまった。黙々と歩く中で、今日はただのお転婆な女の人だと思っていた陽子の事を知れたいい機会になったと考えていた。これは久嗣の中で実りある発見があった一日だった。

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