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半分の満月  作者: 織田 智
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第一話

 明治天皇がお隠れになって数年が流れ、世は明治から大正へと変化を遂げた。後に大正デモクラシーと呼ばれる古今東西の様々な文化、思想が飛び交う変化の激しい時代の最中に日本はあった。


 時は大正四年。そんな刺激に満ちた東京に田舎より上京した男、斎藤久嗣(さいとうひさつぐ)はとある場所を訪れていた。 

 異国の新しい文化を取り入れた擬洋風造りの白くて美しい洋館。その横に並んで大きな従来の日本家屋も同じ敷地内に建っている。東京の一等地にも関わらず塀の中には広い敷地と、美しい庭が広がっているのが門の外側からでも見て取れた。


 秋宮家は久嗣にとって母方の遠い親戚に当たる。華族とまではいかないが、先代が優秀であったため大変な富を築きあげ、資産家となっていることは話に聞いていたが、これほどまでとは、とため息しか出なかった。

 格子になっている門の中に向かって大きな声を張り上げ「ごめんください」と叫ぶ。田舎から出てきたばかりの久嗣には、どうやって開閉するのか一目では分からないような大きな入り口の門をたたいて、家の使用人を呼ぶ。すると暫くした後に、久嗣の存在に気が付いた家のものが「ただいま参ります」と言いながら、門の外側に立つ若い学生に声をかける。


 中から出てきたのは壮年のきれいなスーツを着た男性だった。この家を訪ねるもので呼び鈴も使わず使用人を呼ぶ客はあまり多くはないので、スーツ姿の男性はこの若い少年が今日来ることになっていた者だということにすぐ気が付いたようだった。


 門の外に立っている少年は木綿の袴に身を包んで、緊張した顔で家の者に口上を告げる。


「初めまして私斎藤久嗣と申します。秋宮家ご当主の大変なご厚意で本日より書生としてお預かりいただくため、田舎より上京してまいりました。ご当主の忠親様にお目通り叶いますでしょうか」

「斎藤久嗣さまですね。お待ちしておりました。わたくしはこの秋宮家の使用人で、前川と申します」


 その壮年の男性はやわらかい物腰で彼を受け入れ、「中で旦那様と奥様がお待ちでございます」と告げてから彼を案内した。

 

「広いお屋敷ですね」

「明治三十七年に建てられたお屋敷で、ここらではまだまだ新しい方でございます」


 久嗣は門から館の入り口にたどり着くまでの間、しきりに周りを見回し物珍しそうな顔をしている。――無理もない。こんな豪奢な佇まいの場所に足を踏み入れたのは人生で初めてなのだ。そんな彼にきょろきょろするなという方が難しい。


 玄関の敷居をまたぐ際に靴を脱ごうとして「そのままで結構です」と前川に言われ、自分の足元を見る。ここでこれから世話になる家に土足のまま上がり込むには気が引けたが、これからはこの西洋文化にも対応していかなければならない時代が来るのだと悟り、文字通り始めの一歩を踏み出した。

 ここでの常識は今までのそれとは別物であり、これから先の生活が思いやられるが、同時に楽しみでもあった。


 客間に通されるとその部屋の中には品のいい髭を顎に蓄えた壮年の紳士が、いかにも高そうな椅子にもたれかかっていた。威厳を持たせるために髭が一役買っているのは言うまでもないが、白い毛がいくつか混じっていることがそれにより深みを持たせていた。その風貌からは説明されなくてもこの秋宮家の当主だという事が見て取れる。


「旦那様、奥様、斎藤さまをお連れしました」


 前川がそう言うと旦那様と呼ばれた男は「御苦労だったね」と返す。使用人の前川も切れのいい動きで秋宮家の旦那に教科書に載っているような綺麗な一礼をすると「失礼いたします」と席を外した。


 久嗣はここまで案内してくれた彼に会釈をすると、改めて秋宮夫妻に向き直り、自分の名を告げた。

 都会でも見ることはまだまだ珍しい洋服を着ている、美しいいで立ちの女性と隣に控えさせ、この書生を迎えた。


「君とは小さい頃に会ったことがあるのだけれど、覚えているかな?」


 そう訊かれ久嗣は申し訳ありません、と眉を下げる。昔話もほどほどに、今度はこれからの話を始める。


「では、改めて自己紹介をするとしよう――私はこの秋宮家の当主である忠親(ただちか)だ。こっちは私の妻の智弥子(ちやこ)だ」


 主人から紹介を預かると、女性は軽く会釈して見せた。


「ようこそ、久嗣さん。ここではご自分のお家だと思って生活してくださいね」


 そして忠親は話を続ける。


「君の母さんの遠縁に当たるとのことで、私のもとに書生として住まわせてほしいという旨を先の手紙で読ませてもらったよ。君が大変優秀だという地元の高校の先生から頂いた推薦状まで認めてね……」


 ふたりの間を阻んでいる応接室のテーブルに二通の手紙が置かれていた。恐らく母親からの手紙と、地元の高等学校の先生からの推薦状だという事は読まずともわかった。


「旦那様。この度はわたくしを快く受け入れてくれるとのことで、お礼申し上げます。わたくし斎藤久嗣は帝大に通えることとなり田舎から東京までやってまいりました。――恥ずかしいことに今まで勉学にしか励んでこなかったものですから、世間知らずということは否めませんが……。それでも精一杯お役に立てますよう努力する所存でございます」


 久嗣は席から立ち上がり、深々と頭を下げて感謝の気持ち と、これからの決意を忠親に表明して見せる。それには夫妻の表情も豊かになった。そして、忠親は何かを思い出したかのように、「ところで」と話を繋いだ。



「今年から大学生ということは数えで十九だね――うちにも女学校に通う娘がいるのだよ」


 唐突になんの話が始まったかと思ったが、久嗣は礼をした体制を真っすぐに戻し、立ったままそれを黙って聞く。

 智弥子も「あなた?」と横から少し不安そうな面持ちで自分の旦那から紡がれる言葉を見届けている。


「名前を陽子(はるこ)といい……手前味噌だがあの子は頭もいい上に気もよくきく。その子が帝大生の君が来るということを楽しみにしていたようでな」

「受け入れられているというのは大変ありがたいことです」

「だがね、陽子は少々難しい子でね。上手くやれるといいのだがね」

「はぁ……私は人見知りではないので大丈夫かと」

「ならばいいのだよ。しっかり勉学に励み給え」


 聞けば彼女は少し年上の許婚がいるという。失礼があってはならないので、その人の顔と名前もいずれ覚えなければならないだろう。頭の片隅に覚えておくべきこととして記しておくことにした。

 そうして挨拶を済ませると、忠親がテーブルの上に乗せてあった西洋風の洒落た鈴を、ちりん、と一度鳴らす。暫くすると応接間の外から女中が入ってきた。その女性は着物姿に割烹着という田舎の母を思い出すような格好で、学生を含めたその場にいる全員に深々と頭を下げた。


「お呼びですか」

「あぁ、文江さん。この新しい書生の久嗣君を部屋まで案内してください」


 そう旦那に命じられると、にこりと微笑んで「かしこまりました、旦那様」と今度は浅く礼をする。そして彼は文江に連れられて自室へと案内されることになった。

 応接室を後にすると、先ほどまでいた場所から籠った声が微かに聞こえてくる。何を言っているのかは全く聞き取れないが、自分の値踏みをされているのだろうという事は想像するに難くなかった。


 屋敷を案内される中で、ここで割り振られる仕事内容、部屋の用途や押し入れの場所なども説明してもらう。こうして建物の中を歩きながら、細部にまでこだわった装飾品をまた見回した。久嗣にとってここはまるで美術館だった。


「大きなお屋敷でしょう?」

「ええ、こんな立派な洋館など入ったことがなかったものですから、珍しくって」

「ふふ、私の最初はそうだったけど、そのうち慣れてきますよ」


 案内してもらう途中に聞いた話では、文江はどうやらこの屋敷で十年も働いているようだ。その人が言うに、金持ちは嫌な人が多いというが、この屋敷の夫妻や家族はみな使用人にも親切にしてくれるという。それを聞けただけでここでの新しい生活への不安が少しは解消された。


 長い廊下には小窓がいくつも備えられていて、そこから光が斜めに差し込んでいた。その光にきらきらと反射する埃ですら不思議と美しく見える。


「あら、貴方が新しい書生さん?」


 暫く宙を舞う光を追うと、階段の上から綺麗な若い女性にたどり着いた。久嗣にとって、彼女から発せられる声までもが艶を帯びているように感じられた。


「あ、はい。斎藤久嗣と申します。この四月よりこちらでお世話になります」


 咄嗟の呼び声だったので、その声の主が誰かも確認せずに挨拶をしたが、よくよく考えてみると彼女が先ほど忠親が言っていた娘の陽子なのだろうという考えに至った。紅い矢がすりの着物と、それに合う桔梗色の袴を着ている彼女のいで立ちは、ここに来る前に銀座で見かけた可愛らしい日本人形を思わせる。

 少しの間その姿に見とれてしまったが、あくまで陽子は世話になる家のお嬢様だ。失礼があってはならないと階段を下ってくる彼女に頭を深々とさげて挨拶をした。


「そんなに緊張されなくても良いわよ。私はここの娘の陽子よ」


 最後の段を降りた後に彼女は、そう言って軽く会釈して見せた。そのときに艶のある緑の黒髪が顔に掛かり、それを手櫛で耳にかける。その姿は彼の目に何とも可憐に映った。

 これでは引く手数多だろう。と、すっかり見とれてしまう。


 文江がその華憐な少女に向かって「お嬢様、お出かけで御座いますか?」と話しかけると、「ええ。今日は和人さんがお散歩にでもどうかとお誘いくださったものですから……夕食時には戻ります」と声を弾ませながら答えた。


 どうやらこの“和人さん“という人が先ほど聞いた許婚のよだ。次回あった時に失礼のないようにと、この名前を覚えるために頭の中でもう一度復唱した。


 最後に文江から自分の部屋に案内されると、先ず身の周りの片づけをしなくてはどうにもならなかった。数日前にこの屋敷宛に届けられた彼の荷物は、全て部屋に運び込まれていたようだが、それらは畳の上に足の踏み場すら残していなかった。

 その足元に散乱するいくつもの包みを開けながら、備え付けられた箪笥や押し入れに並べる。一般的に整頓されているとはいい難くとも、これが彼なりの精一杯だ。

 並べ終わってぐるりと部屋の中を見渡し新生活を始める合図として、「よしっ」とひとつ気合を入れた。

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