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妖刀事件  作者: an-coromochi
7/9

七章 宵の明星

(ⅰ)

「警察には届けないって・・・本気なのですか?」

 第一に亜莉亜さんが私たちに告げたことはそんな滅茶苦茶な話だった。

「届けないのではなくて、一日だけ待つのよ」と悪びれた様子もなく答える彼女であったが、それが一体どれほどの義務違反に相当するか、分からぬ亜莉亜さんではあるまい。刀を盗んでいたのが宗二さんだと聞いたときも驚いたが、今ほどのものではなかった。

 当然怒り心頭になった紅葉は私の言葉をなぞるように「どのみち正気とは思えませんね」と感情的になって呟いたあと、「認められません」と強く吐き捨てた。

「話は最後まで聞きなさいな」

 普段ならば顔をしかめて反論したであろう亜莉亜さんだが、今回はすこぶる機嫌が良いようでニッコリと笑って紅葉の諫言を受け流した。

 人が死んでいるというのに、わざと遠回りして話し、その上笑える彼女はやはりどうかしてしまっている。

 私はふと、こんなときに発言を咎めてくれるもう一人の存在に目線を移したのだが、彼女は私と目が合うや否やパッと逸らした。俯き憔悴しきった顔を覗かせた緋奈子を怪訝に見つめながら、紅葉が亜莉亜さんに食って掛かる声を頭の隅で聞いていた。

「納得できる理由があるとは思えません」

「貴方の想像力の限界は聞いていないわ」

「人が殺されていて、その適切な処理を行わないことは危険ですし、法に抵触します。これ以上の道理がありますか」

「法に抵触?くだらない。世間の決めたルールに従う義理はないわ。いいから最後まで聞きなさいと言っているでしょう」

「・・・また意味の分からないことを」

 紅葉はそう呟きながら、亜莉亜さんの話を聞こうとはせず、緋奈子の方を振り向くと険しい顔のままで聞いた。

「緋奈子さん、貴方は親族が死して尚このように扱われることに対して、何も思わないのですか?」

 その鋭い問いをぶつけられた緋奈子は、肩に届くか届かないか分からないぐらいの毛先を指で摘んで捻った後、先程から変わらず青いままの顔つきで項垂れて地面を見つめてから、ややあって亜莉亜さんを一瞥すると何かを決意するように目に力を込めた。

「勿論あるけどさ・・・どうにもこれは、私一人じゃ決められないよ」

 木目の隙間に挟まった埃を探し出すように俯けていた視線とは打って変わって、凛とした目つきでそう告げた緋奈子は、予想とは全く違う反応をされ困った顔をしていた紅葉を見て頭を掻いた。

 紅葉が黙ったことでようやく場が整ったと判断したのか、亜莉亜さんは客室のベッドに腰掛けて足を組んでこちらを見上げた。少し赤みがかった髪が彼女の片目を隠しているが、隠れていないもう片方の瞳に宿っている狂気を孕んだ喜びが、夏の昼間の生ぬるい空気を凍結させていく。一体これから何が語られるのか、嫌な空気の重さを感じながらも、私も一先ず口を閉ざして亜莉亜さんが話しの口火を切るのを大人しく待つことにした。

「まず今回の殺人事件、犯人を探す必要なんてないわ」

「え?」

 そのあまりにも突拍子な発言に緋奈子を除いた二人が唖然とした声を漏らして、紅葉と私は顔を見合わせて驚きを露わにした。すぐさま紅葉がその意図を問いかけたのだが、私はその発言に込められた彼女の意図、事件の性質を自分なりに推測して、亜莉亜さんの返事が返ってくるよりも早く口を開いた。

「もしかして・・・もう、犯人が分かっているのですか?」

 その私の確信めいた予測に彼女がコクリと一つ頷きを返したため、すかさず紅葉が飛びつくように「やはり、時津家の誰かですか」と早口で言い、私は愕然とした。

「時津家の・・・誰か?」

「何?大方予想通りではなかったの?」

 そう言って意外そうに目を丸くした亜莉亜さんに、そんな予想はそもそもしていないと言いたくなったのだが、わざわざ機嫌を損ねる必要も感じられなかったので黙って首だけを振った。

 亜莉亜さんは、そう、とつまらなさそうに呟くと目にかかった前髪を手で払って、遮るものの無くなった両の目で私を見つめて話を続けようと口を開いたのだが、それを阻むようにして紅葉が質問する。

「それで誰なんですか」

 紅葉のストレートな問いかけに緋奈子がピクリと肩を震わせたのが視界の隅に映ったが、あえてそれは触れないことにした。彼女の動揺は自然なことだ、生まれてからずっと付き合ってきた親族が殺され、そしてその親族を殺した者もまた親族の中にいるというのだ・・・並大抵のショックではあるまい。

 大事なものを失った時は、どんなに優しい言葉をかけられても、それは慰めにはならなかった。誰もが私と同じ感性だとは思えないし、私のときは見せかけだけの優しさが透けて見えていたから心に響かなかったのかもしれないが、それでも、緋奈子にそう思われるかもしれないと思うと声をかける勇気が出なかった。

「うるさいわねぇ、話は最後まで聞きなさいと言ったでしょう。折角のいい気分が台無しになっちゃうわ」と言うほど苛立った様子もなく愚痴を零した彼女の言葉に、紅葉も威勢を削がれたように言いよどみ、手を差し出して先を促した。その仕草に満足したのか再び満面の笑みを浮かべると、鈴を転がすような美声で語りだした。

「犯人が誰か、というのは話を進めていれば自然と分かることだからここでは一旦置いておくわ。今回の殺人で何よりも重要だったのは使われた凶器だったのよ」

 一度語りに入った彼女の顔には、もう先程の微笑みは消え失せ、今では機械のように無機質的な顔のバランスを取り持っているばかりであった。

「例の盗まれた刀だったんですよね」と紅葉が先回りするように発すると、相変わらず口を挟む彼女にかすかな苛立ちを覚えたのか、無表情なまま睨みつけていたのだが、直ぐに興味を失ったように「そうよ」と短く返して宙空を見つめていた。

「待って下さい、時津家の人々が犯人だったとして、使われた凶器がその刀ならば・・・今回の騒ぎは狂言だったということですか・・・?」

 そんな馬鹿なことがあるか、一体全体何の目的で狂言などして緋奈子たち分家の人間を呼びつける必要があるのだ・・・。

 様々な可能性を模索したのだが、どの案もその謎を解明することができるものではなかった。

「半分正解で、半分外れね」

 遠回しな彼女の言い方にもどかしさを覚えて、「早く教えて下さい」と苛立った口調で亜莉亜さんに頼むと、彼女は私の強気な態度に腹を立てるどころかかえって嬉しそうに微笑んで、私を手招きした。一体何のつもりなのか、こういうときにふざけるのは彼女の悪い癖だと不服に思いながらも、仕方がなくベッドに腰掛ける亜莉亜さんへと近寄って身体を屈めて耳を寄せた。

 すると亜莉亜さんもこちらに顔を近づけて来て、暫く黙っていたかと思うと「もう少し可愛くおねだりできないのかしら?」と色っぽく囁くのだった。その艶やかな吐息に身体が跳ね上がるのと同時に全身が熱を持ち始めるものの、それが怒りによるものか羞恥によるものか、はたまたもっと別の感情なのかは分からないままに、語気を荒げて彼女の行動を咎めた。

「いい加減にしてください!こういうときにふざけるのは貴方の悪い癖です!」

「そんなに怒ることないじゃない・・・。貴方段々と怒り方が紅葉そっくりになっていくわねぇ」

 私に同じ様な種類の発言をしていた紅葉が心外そうに顔を曇らせたが、私の何とも言えない表情を見てからか、少しだけ呆れたように苦笑いをしてこちらに合図を送るように肩を竦めるのだった。

 そんな話題にそぐわぬ茶番を演じている私達に、とても冷めた眼差しと口調で緋奈子が話を先に進めるように言った。亜莉亜さんは水を差されたことへの当てつけのように鼻を鳴らして緋奈子の言葉に従った。

「そもそも、あの刀が神社に納めてあるのを知っているのはここに住んでいる人間と、かつてここに住んでいた時津分家である緋奈子の父親だけだった・・・。だから刀が盗まれたという時点で、ほぼ九割九分時津家の人間がやったことだとは分かっていたらしいの」

 いよいよ本腰を入れて語り始めた亜莉亜さんを確認したように頷いた緋奈子は、もう一つのベッドにこちらに背を向けた状態で腰を下ろすと、長い溜息を吐いた後完全に沈黙してしまった。緋奈子が話に興味を示さない様子から、おそらく彼女は既に亜莉亜さんから話を聞いているらしい。

 私は彼女の淋しげな背中に合わせるようにして反対側に座る。そうすることで緋奈子の悲しみが少しぐらい紛れるかもしれない、という儚い期待に基づいた行動であったが、それをどう受け取ったかは分からないものの、緋奈子は私の身体に体重を寄せるようにして背中をピッタリとくっつけてくる。

 (段落統一)

 私が腰を下ろしたのを見て、紅葉も私の向かい側に座り込んだため、亜莉亜さんも位置をずらして三人で輪を作った。私は亜莉亜さんが調和を保つかのように向きを変えたのが、何となく不自然で思わず首を捻りそうになった。

「それでは・・・皆を集めたのは盗んだ犯人を見つけるためですか?」

「そうね、それも確かに一つの理由だったとは思うわ。でも一番の理由はそれではなかったの。」と漠然とした返答を行った亜莉亜さんは、紅葉の「それは?」という先を急かすような言葉に、少しだけ声を潜めて私達二人の目を順番に見回したかと思うと声を発した。

「互いの監視よ」

「監視・・・?」

 私はその単語が明らかに不自然かつ物騒な言葉に思えて、オウム返しに尋ねた。彼女はその反応に嬉しそうに口元を緩めたかと思うと、その長い足を優雅に組み直した。

「あの刀が曰く付きの物だというのは、紅葉、貴方は知っているわね」

「はい、一義さんがそう仰ってましたね。確か・・・その刀を所持した一族は没落する・・・という」

 そんな話があったのか、ならば何故私にはそれを話してくれなかったの・・・と少しむくれて考えていると、まるでそれを読心したかのように「貴方は寝ていたから伝えられなかったのよ」と答えた。それなら仕方がないと頷きそうになったが、仕草に出すと私の心を的確に読まれたことが気づかれると思い、無反応を装った。

「・・・何故そんな刀を保管しているのですか?捨てても戻ってくる、とかですか?」

 何処かで聞いたことのあるような、物にまつわる怪談によくある特徴を持つのか尋ねると、亜莉亜さんはこれまた嬉しそうに口の両端を歪めると、少しだけ前かがみになって私に顔を近づけた。先程も感じたことだが、とてもいい匂いがする。

「いいえ、違うのよ。あの刀はね・・・一族を没落させる妖刀である反面、一族を繁栄させる名刀でもあったのよ」

「どういう・・・あ、亜莉亜さん、いい加減勿体ぶった言い方はやめて下さい」

「名刀『桐姫』、もとい妖刀『ヒメキリ』・・・あれはかつて武芸達者な一国の君主が愛用していた業物だったらしいわ」

 急に長々と語りだした亜莉亜さんを私達は暫く眉をひそめたまま聞いていた。

「当時は戦国時代、つまりは国力の脆弱な国は次々と潰されていった時代ね。その国も武芸達者な君主が率いていたとはいえ、国の規模自体は小さかった・・・だから時代の流れに飲み込まれて戦争に破れ、君主は斬首されることになった」

 斬首、という言葉の響きに眉をしかめる。さらに亜莉亜さんが話をそこで区切ったことも相まって、気味の悪い沈黙が室内を覆った。

 まるで彼女は怪談でも話しているかのように小さな声で淡々と、しかも絶妙な間を取りながら不気味に笑うものだから、私の背筋に冷たい汗が浮き上がるのを感じた。

「その某国を破った国は悪趣味だったのね、切腹の懇願を蹴って、業物で名を馳せた刀を使いその持ち主の首を斬ることを余興として楽しんだのよ。当時の切腹といえば、名誉ある死と同義。本来は捕虜になる前に割腹するのでしょうけど、それも間に合わなかったのでしょうね。晒し首になることは不名誉だった上、何よりも武芸者として有名だった君主にとっては想像を絶する恥辱だったに違いないわ」

 まるで見てきたかのように語る彼女の口元には、依然として歪んだ笑みが横たえられているのだが、何がそんなに嬉しいのかは分からないままだった。やはり彼女はどこか壊れてしまっている。

「でも、悲劇はまだ始まったばかりだった」

 目を細めた彼女は遠くの景色を見つめるように視線を斜め上にやったが、勿論その先にはつまらない灰色の壁しか無く、今亜莉亜さんの瞳に映っているのは、きっと彼女の頭の中の景色だということが何となく分かった。数秒の間を置いてから、彼女は目をぐるりと回してみせるとまた淡々とした口調で話を始めた。

「処刑される寸前になって、君主のある秘密が露見してしまった。それがきっと全ての始まり・・・」

「ある秘密、ですか」と紅葉が急かすことも忘れて語尾を上げて問いかけたのだが、私にはその秘密が何となく分かってしまっていた。

「君主は・・・女性だったのですね」

 驚きの声とともに私へと顔を向けた紅葉とは対象的に、亜莉亜さんはがっかりしたように小さく口を開けて視線を壁から私へと向けたため、私は自分の予測が的を射ていたことを確信しつつも、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。

 テレビに映し出された永久の闇と同種の黒が、亜莉亜さんの赤みがかった瞳を汚すように混じっていたのを見て、理由の分からない高揚感を覚えて頬が熱くなった。

「はぁ・・・私の楽しみを取らないでくれるかしら?」と言いつつも片手を差し出して、こちらに続きを話すよう言外に指示する。それに逆らう理由もない私は大人しく紅葉の方を向いて、彼女の言う楽しみを横取りすることにした。

「刀の名前・・・妖刀『キリヒメ』でしたから、漢字で『斬る』に、お姫様の『姫』なのかなと」

「あぁ・・・そうか、言われてみたら単純なことですね」

「この後はその単純な話の連鎖なのだけれど、敗戦国の姫がまともな法に守られていない状況でどうなるか・・・聡明なお二人なら分かるわよね」

 百面相するように表情を二転三転させる亜莉亜さんは、一人の女性としてはとても魅力的に映ったのだが、話の内容に適さない不謹慎な笑みに私は嫌気が差して顔を背けた。

 ピシッと家が軋む音が鳴ったことで、思わず身体が上下に揺れてしまった。臆病なところを二人に見られたかもと少し恥ずかしくなったが、そんなことを興味はないと言わんばかりにどちらも反応していなかった。

「ふふふ、まあそうして心も身体も蹂躙された彼女は、この世に想像を絶する怨恨を残したまま自らの愛刀で斬首されて冥府へと送られた――はずだった」

 段々と話が重々しくなってきたところで、彼女は一度立ち上がり気持ちよさそうに背伸びをした。黒いノースリーブから覗く白い腕のラインが大胆に晒されて、思わず食い入るように見てしまった。

 白く美しい三日月のようにしなった二の腕が私を誘うように揺れている。

「ですが、そうならなかった・・・。それだけの未練を残した魂は最悪の形でこの世に影を落とした」

「随分詩的な表現だけれど、紅葉の言う通りよ。それから名刀の側面だけを評価され価値あるものとして武士に受け継がれていったらしいのだけど、それを所持した武士一家は隆盛を極めた後必ず滅びた・・・」

 徐々に増えていく情報量と、きな臭さに私の頭はアラートを鳴らし続けており、その騒々しさに思わず項垂れて木目の床の隙間を凝視してしまう。

「呪いのせい、ですか?」と俯く私の片手を立ったまま左手で取り、引っ張り上げるわけでもなく自分の丹田辺りまで持ち上げた亜莉亜さんは、残った右手を上気した自らの頬に添えて興奮した様子で私に尋ねる。

「そう・・・ねえ深月、どんな呪いだと思う?」

 狂気じみた喜びが込められた彼女の瞳を直視できず、再び首を曲げようとしたところ、それを許さぬというように再び手を引っ張って私の顔を上げさせる。一体何だと言うのだと彼女に不満を宿した瞳を上目遣いに向けようとしたところ、唐突に感情を失った機械のような眼差しになった彼女と目が合ってしまった。

 背筋が凍るほどに不気味な彼女の変貌に怯みつつ、答えなければならないという強迫観念に背中を突かれて、かすかに震える声でその問いに答えた。

「わ、分かりません・・・」

 亜莉亜さんはまた表情を一変させて優しく微笑み、「そう」と短く答えて私の手を離した。それは高い崖から見捨てられたかのような恐ろしさを感じさせるものであった。

 彼女を失望させてしまった、という私の妄想が過分に入り混じった焦燥感と、彼女に見捨てられるのではという恐怖が私の頭を半強制的にフル回転させていく。

『互いの監視』、『一族の没落』、『武士としても女性としても殺された姫君』、『一度は栄える』、『刀の紛失を誤魔化す時津家』、『警察に届けない人々』、『犯人の分かっている殺人事件』・・・様々な言葉の羅列が宙空を舞い、朧気ながらもこの妖刀伝説の大枠を形作り、その暗闇を薄明かりで照らし出す。

 脳裏に、竹刀を持つ凛とした一人の女性の姿が浮かんだのを最後に、私の口はオートマタのように勝手に動き出した。

「あぁ・・・そうか、だから時津本家の人間はこうも消極的に事件を取り扱い、そして亜莉亜さんはそんなに嬉しそうなのね・・・」

 超常の力の宿る刀・・・私達の共通の敵とも言える連中が欲しがりそうな代物だ。

「深月さん?」

「どちらなのですか、亜莉亜さん、二人の一体どちらが・・・」

「ま、待って下さい、僕にも分かるように説明して下さい!」

 私の懇願を遮るように紅葉が声を上げて、立ち上がりかけた私の膝に手を置いてそれを制した。頭の中が弾き出された答えで一杯になっている私は、枷のように私を抑える紅葉の動きに煩わしささえも感じていたのだが、私の背中から伝わってくる緋奈子の体温によって冷え切った思考が融解したため、私は何とか平静を取り戻すことができた。

「・・・詳細は分かりません、ですがそれは・・・男だけがかかる呪い、ですね」

 (ⅱ)

 静まり返った廊下を皆が無言のままに歩いている。その姿は野辺送りに参列している一行のように厳かで静寂を纏ったものであったが、それに応じてある種の不気味さも兼ね備えていたものであった。

 左手の窓の外には燦々とした陽の光が庭園に降り注いでいるのが見え、建物の内側と外側では世界の断面の表裏のように全く違う世界が広がっている。

 外の世界では庭園の一本桜を取り囲んでいるペチュニアの花が、太陽の輝きをその身に受けて色とりどりの反射光を周囲に拡散させていたのだが、私の前を歩いている三種の美しく可憐な花は陰鬱という花粉を撒き散らしていた。当然、先頭を歩いている一番華美な花だけは喜々とした輝きを放っている。

 結局客室での話の続きは、今応接間で最終決定会議中の時津家の面々を混じえて行われることとなった。彼女がそう進言したのだ。

 私は緋奈子だけは残してきたほうが良いと言ったのだが、本人の猛反対と、亜莉亜さんの冷静な「彼女は当事者よ」という指摘によって私の案は簡単に却下されてしまい、結果として緋奈子が私を見る目が厳しくなっただけであった。

 だが、本当にこれで良かったのか・・・。

 今から始めるのは、彼女の親族を断罪する公開処刑のようなものなのだ。決して見ていて気持ちの良いものではあるまい。

 亜莉亜さんが一義さんに与えた猶予は二時間。それまでにどういう形に事件を収束させたいのか決めておけと亜莉亜さんが忠告したらしい。勿論ここで言う収束とは、自首するか、否かなのだろうと信じているが、どうにも亜莉亜さんは違う意味で『収束』という言葉を捉えている気がしたので、私は嫌な予感を覚えて同行を申し出たのだ。まあ初めから彼女は私を連れて行くつもりだったようだが。

 私はいつもと変わらず姿勢良く凛とした歩き姿を見せている緋奈子の横顔に、不穏な陰りが差しているのが見えて、心配になって思わず声をかけた。

「緋奈子・・・やっぱり無理はしない方が・・・」

「そういうわけにもいかないよ、今は。それに・・・」と言葉を区切って彼女が立ち止まったので、それに従うように私も足を止めて彼女の真っ直ぐな視線を見返した。先を行く二人の内紅葉だけが気遣わしげに振り返ったものの、亜莉亜さんに何か言われたのか渋い表情をして再び歩き出した。

「私は本人の口から話を聞きたい。誰かの又聞きなんてのはもううんざりだよ」

 強い語調でそう言い切った緋奈子は、先程私が彼女の決意を台無しにしようとしたことを怒っているのか、こちらの返事を一言も待たずに、応接間の扉の前で佇む前方の二人の後を足早に追っていった。

(本人の口から・・・か)

 私がつい数刻前行った決意と奇しくも同様になってしまった緋奈子の言葉に、もう止める術は無さそうであるし、彼女に隠し事をしている身としては胸に刺さる一言だった。私は誰にも悟られぬように肩を落として三人に追いついた。

「行くわよ」と彼女が片手を上げてノックの構えを取ったが、それをやんわりと制した緋奈子が瞳だけで亜莉亜さんに何かを伝え、その意図を察した風な彼女は思案げに目を細めてから片手を引っ込めたのだった。その非言語的な対話を行った二人がとても意外に思えて私は目を丸くしたが、そこにかすかな嫉妬、羨望が無かったかと言えば嘘になる。とはいっても、その感情がどちらに向けられているのかは自分でさえ分からなかった。

「さっきみたいなのはナシにしてよ」

「善処するわ」

「ダメだよ、約束して」

「・・・必要が無ければそうするわ。これが最大の配慮よ。言ったでしょ、誰かに従ったり、何かに縛られたりするのは嫌いなの」

 声を潜めて女学生のように言い合う二人を見て、胸に鈍い痛みを感じる。そんなことを知る由もない二人は一層仲が良いように小言を言い合って、最後に緋奈子の眼前に人差し指をかざした亜莉亜さんが、「例えそれが約束であってもね」と一際深刻な口ぶりで告げたため、二人のやり取りはそこで終わった。

 緋奈子は一度だけ深呼吸をしてから、躊躇なくその両開きの扉を勢いよく叩いた。ノックの音が三度周囲に響いた後、「どうぞ」と弱々しい、信一郎さんと思われる声が中から聞こえたので、私達は扉を開いて中へと足を進めた。

 そこには青い顔でソファに腰掛けた緋奈子の叔父叔母、そしてそれに向き合うように腰掛けた従兄弟二人、さらに私達の直ぐ側入り口付近には、彫像のように静止して目蓋を下ろしている水織さんと一瞬だけ私と目があった武野さんの姿があった。他の使用人たちは誰も呼ばれていないらしい。それもそうだろう、時津家としては問題を可能な限り内密なまま処理したいはずだから。

 今でも広間では宗二さんの遺体が放置されているのかと思うと、息苦しいほどのやるせなさを感じてしまうし、やはり一日とは言えインモラルな、人として誤った行いだとしか思えない。

 緋奈子は空いた席に座るように促す叔父さんの手を無視して、彼らの真横にある一人がけのソファへと歩み寄ったため、私はてっきりそこに、たった一人の分家として座するつもりなのだと読んだのだが、それは見当違いであった。彼女は人差し指を下に向けて座席を指差すと、私達の方、正確には亜莉亜さんの方を見据えて「ん」と閉ざした口でくぐもった声を出した。

「あら、それはもうナシなんじゃなかったのかしら?」と彼女は面白そうにコロコロと笑っているが、緋奈子の叔父叔母が亜莉亜さんを見つめるその目に凄まじい怒気を感じて、私のいない間に何が起こったのか何となく把握することが出来た。

「私は時津家分家の代表としてこの場に立つつもりはないよ、というかそもそもその資格はないから。」

「へぇ、じゃあ何者としてここに居るの?」とわずかに声のトーンを落として、挑戦的な口調になって亜莉亜さんがそう問いかけるものだから、誰もが次の緋奈子の言葉を、固唾を呑んで見守っていた。だが、流石に肝が座っているのか、そもそも周りの目など気にしていられるほどの余裕もないのか、彼女は臆する様子もなくハキハキとした滑舌で宣言した。

「綺羅星興信所の一人だよ」

「まぁ、貴方、ふふ、我が社は未成年と労働契約なんて結んでないわよ?」と何だか嬉しそうに口元に手を当てた亜莉亜さんは、緋奈子の望みのままに優雅にそのソファの隣まで行くと、彼女の肩に手を当てて何かを囁いている。その場所を弁えぬ馴れ馴れしい手付きに腹の底が重くなったが、亜莉亜さんが重ねた手を払いながら緋奈子が私の方を一瞥したので、思わず視線を逸してしまった。

 そんな緋奈子の姿を再び楽しそうに見送った彼女は、緋奈子に背を向けて、「でも・・・」と呟きを漏らしながら、亜莉亜さんのために用意されたその玉座にドスンと腰を下ろし、長い足を振り回すように掲げて組み合わせた。

「貴方には借りがあるものね。ここでその清算をさせてもらうことにするわ・・・さぁ、旦那様、お聞かせ願えるでしょうか?」

 にんまりと微笑むその姿は妖艶さと、残虐さを兼ね備えた食虫植物のようなグロテスクな美しさを孕んでおり、彼女自身が今幸せの絶頂に到達しつつあることを示していた。

 彼女の傲岸不遜な態度に低い唸り声を上げる一義さんは、ぎゅっと大きな手を固く握りしめていたが、数秒の間顔を紅潮させたかと思うと、不意に諦めたように肩を落として、掌を広げた。

「・・・自首させよう」

 そう告げた彼の言葉に、妻である茜さんが大きな声で彼の名を読んだが、続く彼の言葉も弱々しく、仕方がない、しょうがない・・・といった諦めを誘うものばかりだった。

「叔父さん、それでこそ時津家の大黒柱だよ・・・!」と泣き笑いのような顔になった緋奈子がほっとした様子で告げたが、事情を知らない私からしたら彼の発言は当然の返答のように思えた。

 だが、彼女がこんな形で終えるはずはなかった。

「くだらない茶番はもういいかしら?早くその妖刀とやらと、犯人の自白を寄越しなさいな」

「亜莉亜さん、刀はお譲りすると約束しましたが・・・自白の話は聞いていません」と信一郎が目つきをきつくする。

 やはり目的は刀か、と内心頷く。それを所持していれば、いつか連中の方からコンタクトしてくる可能性があると考えたのだろう。

 どれほどの逸品かは知らないが、おそらくその刀は男の正気を失わせる類の力を持つのではないだろうかと私は推察している。暗示に近いものか、はたまた洗脳か、あるいは憑依か・・・そこまで人間に害を及ぼす道具を見たことがないので、信憑性は低いが、少なくともその影響で人が一人死んでいる、いや、一人殺していると言った方が刀の力としては適切か。

 おそらくは叔父叔母、そして長男である信一郎さんはその呪いを聞き知っていたのであろう。だからこそ、こんな事件が起きた時に、誰の仕業かが分かってしまっていた。刀の紛失に関しても、遊び金欲しさに売り飛ばすつもりぐらいに見積もっていたのだろう。それはそれで盗まれたという小さな免罪符を盾に、あの刀を処分できるから問題はなかったということか。

 それがまさか、実際に凶器として振るわれるとは・・・考えもしなかったのだろう。

「あぁ・・・そう。その反応からして、やっぱり貴方ではなく三好さんが殺したのね?」

 三好さんが・・・、いや、驚くかと言われればそうではない。盗んだのが宗二さんで、亜莉亜さんの予測通り共犯者が居たのであれば、消去法的に残るのは彼だ。

 人を殺した者の顔・・・こんなにも弱々しく、震えている男の顔がそれか。いや、きっとこちらの方が適切なのだろう。人を殺して嗤っている人間のほうが限りなく少ないに決まっている、物語の中のような殺人鬼は一握りしかいないのだろう。

 ふと、脳裏を妹の顔がよぎった。私を殺そうとした、私にそっくりな顔。少なくともあの娘はこんな風に青ざめてはいなかった。

 私は、今は関係のないことを考えるのは止めようと、首を振ってその残像を掻き消す。

「・・・カマをかけたのか」

 突然のその罪を白日のもとに晒された彼は、たまらず音を立てて立ち上がり、体全体を大きく震わしている。その酷く怯えた姿は、死を目前にした小動物のようであった。

「ち、違う・・・」と力なく呟くその様子には最早何の説得力も残ってはいなかった。

「なぁに?まだ誰かが庇ってくれるかもって思っていたの?そうでしょう、まぁ貴方が殺したのだとしたら、もうどうでもいいから」

 眉間にシワを寄せて横目で彼を一瞥した彼女は、面倒そうに「下がっていなさい」と告げるとすぐさま興味を失って視界の隅から彼を消した。

 てっきり亜莉亜さんの目的は殺人を犯した者を裁くことだとばかり思っていたのだが、冷静に考えれば彼女がそんな凡俗じみた正義感を振りかざすわけもなかったのだ。彼女は基本的に、興味か、怒りか・・・目的のためにしか動いていない。

 それを理解していない、いや理解のしようもない一人であった水織さんが、相変わらず入口付近で彫像のように直立不動の状態で、表情を変えず口だけ動かして言った。

「見上げた正義感ね」

 亜莉亜さんは水織さんのその言葉を耳にして一瞬目を丸くしたかと思うと、唐突に宙を引き裂くような金切り声を上げてお腹を抱えて大笑いした。

「馬鹿ねぇ、私はね、私を舐めてかかった人間が、私の手の中にある生殺与奪の権限に震える姿が見たくてしょうがなかったのよ。正義?貴方方と緋奈子には悪いけれど、別に誰が死のうが私には関係ないわ。」

 そんな悪魔のような言葉を吐き捨てた彼女は、閻魔大王のように偉そうにソファにふんぞり返って寒気のするような笑みを浮かべていたのだが、不意にその後頭部を小突かれたことで、今まで纏っていた邪気のようなものが霧散し、歳相応の女性のものへと戻っていた。

「痛いわね、さっきから何をするのよ、貴方は!」

「調子に乗りすぎ、ほんと・・・亜莉亜さんをそこに座らせたこと早速後悔してるよ」

「貴方と違ってこの頭にはモノが詰まっているのよ、全く、頭蓋にまで筋肉が詰まっているのかしら!」

「だったらそのモノとか何とかで、考えて発言してよ!」

 売り言葉に買い言葉状態で延々と続きそうな口論が、二人が決して私には見せない部分を互いに惜しみなく曝け出し合っているように見えて、段々と釈然としない苛立ちが胸に募ってくる。しっかりと見てみれば何だか楽しそうにも見えるし、こんな状況でふざけている場合では無いだろうに・・・。

 ちらりと紅葉の方へと目線を移すと、これまた意外なことに何故だか少し嬉しそうに二人を見ているではないか。その容認的な態度が更に癪に障り、私は自分でも気づかない内に冷徹な声音を発していた。

「二人とも、ふざけてないで話をして下さい。不謹慎です、亜莉亜さんも・・・緋奈子だって。何を考えているんですか」

 そのまま怒りの発露が抑えられずにいると、誰かがくすりと笑った声が聴こえたため一層腹が立って声の主を探したのだが、誰も私と目を合わせようともせず、その在処は分からずじまいであった。

「ねぇ?あれって嫉妬よ」

「いや正論でしょ・・・ちなみにそれだったらさぁ、どっちにだと思う?」と何と言っているかは聴こえないが、二人がまた何か隠れてコソコソ言い合いっているのが視界の隅に映ったので、苛立たしげに強く二人を睨みつけた。すると亜莉亜さんだけが少し肩を竦めて、平常通りの真面目な顔つきに戻ったので、私も未だ色濃く残る不愉快さをぐっと堪えて、誰かが発するであろう次の言葉を待った。

「あぁ、もう刀だけ頂戴な。私はてっきり貴方が殺ったのかと思って楽しみにしていたのだけれど・・・どうやらアテが外れたみたいだし、貰えるものが貰えれば好きにしてくれて構わないわ」亜莉亜さんはそうご機嫌に滅茶苦茶なことを告げると、「勿論、少し遅れても警察には届けなさい。当然影武者も使わないこと。この娘たちを犯罪者にはしたくないもの」と急に真剣味を帯びた口調になって、信一郎さんから視線を一義さんへと向けて言ったのだが、私はその発言内容があまりにも容認できるものではなかったため、慌てて口を挟んだ。

「ま、待って下さい!何ですか、刀だけ貰えればって・・・好きにしてくれて構わないって・・・説明して下さい!」

「今の貴方に説明する価値があるのかしら?」と間を置かずに即座に返されたその言葉を聞いて、先程の怒りが再沸騰するのを感じたが、これでは言いくるめられてしまうと何とか自制して口を噤んだ。

 私のことをちらりとも見ないその態度が一番業腹であったが、私が次の言葉を練っている内にコトンと何かが机の上に置かれる音が聞こえて、そちらを振り向いた。

 そこにはくすんだ白い鞘に身を包んだ日本刀らしきものが、不可思議な存在感と共に置かれていたのだが、その奇妙な感覚に見覚えがあった私は胸騒ぎによる息苦しさで、とてもじゃないが何も言えなくなっていた。

「亜莉亜さん、これがアンタのお目当てのものだろう」

「まぁ!とても綺麗なのね・・・想像していたよりも、ずっと・・・。あぁ、刀身が見てみたいわ、ねぇ、どなたか抜いてくださらないかしら?」

「貴方が抜けばいいでしょう、さっさとそれを持って出ていって下さい」とふざけた調子だった亜莉亜さんを咎めるように叔母さんが吐き捨てた。

「ええ、そうするわ。でもその前に・・・貴方の可愛い姪っ子が、時津本家の皆さんに伝えたいことがあるそうよ」

 そう言って後方を振り返り緋奈子を見た彼女は、「後は好きにしなさい」とだけ呟いて、突然ゼンマイでも切れた人形のように目を閉じて黙り込んだ。それと入れ替わるようにして一歩前に出た緋奈子は、一度だけ亜莉亜さんを横目で睨んだ後、ぐんぐんと場の緊張を恐れること無く進んでいき、叔父叔母、従兄弟二人が足で触れているテーブルの側まで来ると、正座で座り込んで粛々と語りだした。

「三好兄ちゃん、本当に兄ちゃんが殺したの?」

 唐突に核心を突いた発言をした緋奈子は、肩を大きく震わせた三好さんを真摯な眼差しで暫く見つめたかと思うと、次は残りの三人を順番に見比べていき、その最後にもう一度だけ口を開いた。

「皆、知ってて黙ってたの?」

 とんでもない重さの圧力がこの部屋の空気を押し潰そうとしているのに、緋奈子と、それから亜莉亜さんだけは平気な顔をして、一方は返事をするまでは目を逸らさんとばかりに叔父を睨み、もう一方はこのまま眠るのではないかと思えるほどに落ち着いて両目を閉じていた。

  平気なはずがない。だが、それを感じさせないほどに覚悟を決めて彼女は今この場に立っているのだ。きっと亜莉亜さんと色んなことを話して、自分なりに納得できる方法を模索して今それを実行しているのだ。

 何も知らず、ただ非難しているだけの私とは違う・・・言外にそう言われているような気がして、少し胸が疼いた。

「お願い答えて、三好兄ちゃん・・・何であんなに仲が良かった宗二兄ちゃんを殺したの?」

 今にも泣き出しても可笑しくないのに、三好さんが覗き込んだ緋奈子の表情は深い悲しみすらも呑み込んでしまった愚直さが垣間見えた。それに感化されるようにして、遂に彼がぽつりぽつりと語りだした。

「そんなつもりは無かった、無かったに決まってるだろ・・・」

「ならどうして・・・」

「俺にだって分からなかったんだよ!何となく、ほんの少しだけ刀身を鞘から抜いたら・・・気がついたときには兄貴は死んでた!自分が殺ったなんて全く思えなかったよ!」と声を荒げた彼は、そこからはまた谷に沈んでいくように小声になり、ちらりと信一郎さんを一瞥しながら続け。

「本当は・・・兄貴じゃなくて・・・本当は・・・」

 途切れ途切れに唱えられる念仏のように抑揚がない声で彼は呟くと、今度は急に俯き黙り込んでしまったのだが、緋奈子の十八番である話すまで譲らない、といった頑固な姿勢を見せたため、事態は硬直状態に陥ってしまった。

 誰もが彼の告解に耳を澄ませて、そのかすれ声の一言でも聞き漏らすまいとしている中、やはり彼女だけがつまらなさそうに欠伸をしていたのだが、長い沈黙に苛立ったのか不意打ちのように亜莉亜さんが声を発した。

「信一郎さんでしょ、二人が殺したかったのは」

 三好さんは俯けていた顔を壊れた跳ね橋のように起こして、大きく見開かれた瞳で亜莉亜さんを見据えた。その隣に座っていた信一郎さんは自分の名前が出たことに大した驚きもせず、苦しそうに眉をひそめて、「僕を・・・」と漏らす。

 いつの間にか側まで寄って来ていた紅葉が呆れたように「そうですか・・・」とため息と共に吐き出したその言葉を自分で追いかけて、「家を継ぐための『人』ではないでしょうに、そんなもの無くても、貴方には他の道だって・・・」と付け足した。

 その一言に三好さんが歯ぎしりするのがここからはしっかりと見て取れたが、それすらも目に入らなかったのか、彼の両親は口々に三好さんを責めるのだった。

「何て愚かな真似を・・・兄弟同士で憎み合うために、二人を生んだわけではありませんよ・・・」

 茜さんが目を潤ませながらそう告げた後、それに被せるようにして一義さんが腕を組み、唸り声を上げる。

「誇り高き時津の魂を持って生まれたのは、やはり、信一郎と水織だけであったか・・・」 

 誇り、誇りとは何だ。この人達が口にする誇りとは、本当に私の知っているそれと同じものなのかと本気で疑わしくなってくる。

 そのあまりに惨い言葉に胸の奥に宿る篝火が揺らぐが、私がそれを表情に出すよりも早く、きっとあの亜莉亜さんが反応するよりも早く彼が怒号を発した。

「お前らのそれが!俺と兄貴にこんなことをさせたんだろうが!」

 突然噴火した彼の怒りを可視化するように、みるみるとその表情が赤い顔をした般若の形相へと変貌していき、次の瞬間には彼は机上の日本刀を手に取りそれを抜き放とうと腰元に当てた。

 突然死のリスクに晒された彼の両親は、その驚きに腰を抜かしていたり、獣のように反射的に身構えていたりといった行動に出ていた。

「やめないか!三好!」

「三好兄ちゃん!」

 あまりに不用意な刀の置き方に亜莉亜さんが、「馬鹿、いつまでもそんなところに置いているからでしょう」と避難もせずに呆れたように頬杖をついて呟く。

 三好さんの二、三歩ほど離れた距離で緋奈子や彼の兄がその凶行を制止しようと試みているが、怒りで脳が沸騰した三好さんには全く届いている風ではなかった。

「緋奈子、危ないわ!」と思わず彼女の身を案じてそう言い放ったが、「大丈夫、三好兄ちゃん、落ち着いて・・・!」と緋奈子は何とか説得をしようとしている。まるで化け物を見るかのような目つきをしている母親から彼の瞳はぶれることはなかった。

 騒然とする応接間だが、ただ三人だけ傍観者を決め込んでいる。執事の武野さんと、水織さん、そしてお決まりの展開になった映画を見ているかのような目つきをして事態を眺めている亜莉亜さんである。

「兄貴だって言ってたよ、父さんと母さんが・・・!あんたらが俺たち二人を無能と思っていて、才能に恵まれた水織ばかり可愛がるから悪いんだって・・・!」

「何を馬鹿なことを・・・」

 彼はその視線を手元の刀に落とし、うわ言のように呪詛を吐き続けているが、その目には救いようのない闇に侵された澱んだ輝きだけが鈍く煌めいていた。

「こいつは良いよ、病弱でも長男だ・・・!家を継ぐ資格がある・・・その点俺たちはどうだ、能力も並みで、家も継げない俺たちは、いらないモノ扱いじゃないか!」

 その手が遂に刀の柄を握ったとき、私の全身に見を震わすほどの悪寒が奔って、無意識の内に後方へと後ずさりした。

 先程の違和感が徐々に輪郭を帯びて確かな骨格を形成していく。

「やめて・・・」

 誰に聞こえることもない弱々しい小声は、私の感覚を鈍くしただけで決して彼の動きを止めてはくれず、彼の絶叫と共に刀身が鞘から抜き放たれた時、その白く薄ら寒い輝きが刀身と鞘の隙間から漏れて私の全神経が大声を上げてその危機を知らせた。

 刀を抜いた彼は、皮肉にも自身の父親と非常に似通った唸り声を上げて虚空を睨みつけており、口の隙間から零れだした透明の唾液が、腹を空かせた怪物の涎のようにヌラリと蛍光灯に照らされていた。

 だが私にはそれらの一切よりも、彼の身体に絡みつくように這う不定形の憎悪に頭がおかしくなりそうだった。

 この白い霧のような存在が、恐らくはこの呪いの根源であると、理由もなくそう思った。ただの直感だと否定することは容易いのだが、こういうときに感じる直感が外れたことはほとんど無い。

 こんなものに人に関わるのは危険だ、早くこの場から離れなければ・・・。

 そう考える頭とは裏腹に足は床に根を張ったように微動だにせず、目の前の状況と自分の思考が乖離してしまって見えない壁に遮られている。

 部屋にいる人間の様々な種の音が私の耳に惰性で入ってきては、零れ落ちていく。

 怒号、悲鳴、誰かの名を呼ぶ声。

 地を蹴る音、何かが倒れる音、刀身が空を切る音。

 今は何もかもが不鮮明だった。この部屋に籠もりだした薄い霧の姿をした邪気だけが私の視界を占領しては、思考をかき乱した。その霧は全く形を成し得ていないようにも見えたし、女性の形をしているようにも見えた。

 不意に誰かの手が私の痩せた腕を掴み後方へと引っ張ったことで、何処かへと飛び去っていた我が再び胸の中にすとんと帰り着き、私のバランスを取りもった。

「深月さん、離れて、僕の後ろに!」

 目線は真正面に向けたまま、片手だけで必死に私の身体を自身の背後へと移動させる紅葉の姿に、完全に意識は覚醒したが、それでいて私の独特な感性を持ったアンテナだけは全開で稼働しているという、今までに経験したことのない不思議な状態を維持していた。

 言われるがまま彼女の後ろへと回って、周囲を確認する。

 件の刀を両手で構えた三好さんの目からは既に正気が失われており、繰り返される呪詛だけが憐れにも彼が人であることを表している。その彼と対峙するように向き合っているのが、緋奈子と水織さんだったのだが、いくら腕の立つ二人とはいえ素手では分が悪いのか、極度に緊張した面持ちで相手の動きを観察していた。そして二人の影に隠れるように叔母さんと信一郎さんがじっと佇んでおり、一義さんは憤怒を露わにしてジリジリと二人とは別の角度から彼に近づいていた。

 ソファに腰掛けていた亜莉亜さんも、流石にもう立ち上がり紅葉のすぐ隣に居て身構えていたのだが、生命の危機にあるこの期に及んでも半笑いを浮かべたままで、狂気じみた様相を崩すつもりは無さそうであった。

「どうするんですか、亜莉亜さん」と視線は動かさずに小さく呟く紅葉の声に、私もついつい亜莉亜さんの方を横目で見てしまう。彼女なら何か良い案があるのではないかと。

「こういうときは素直に私に頼るのね、残念だけど、あちらの皆さんに任せることにしましょう」

「そんな・・・緋奈子だっているんですよ?」

「じゃあ貴方が斬られてらっしゃい。私達二人はどうせ邪魔にしかならないでしょう。万が一のためにも、紅葉には側にいて貰うわよ」

「分かりました、万が一のときは深月さんの盾になりますので、亜莉亜さんは念仏でも唱えていて下さい」

「冗談じゃないわ、死ぬって時までそんな無駄なことしないわよ」

「お二人共、お願いですから前を向いていて下さい!」

 どうして二人はこのような事態を前にして、不真面目なやり取りができるのだろうかと素直に不思議になってしまうが、二人はこちらを揃って一瞥すると不敵に笑うだけであった。

 突然、けたたましい叫びが室内を揺らしたかと思うと、一義さんが果敢に猛牛のように飛び込んでいくのが見えた。既に常人とはかけ離れた表情になっていた三好さんは、意外なほど機敏な動きで刀を横に振り一義さんの動きを牽制したものの、そちらに気を取られていた隙を突いて水織さんが棚に飾ってあったトロフィーを片手に彼に飛びかかった。

 緋奈子との一幕のときに見せた素早い動きで刀を振った彼の懐に飛び込んで、思い切りその胴をトロフィーで殴打する。かなりの重量があるものなのか、叩かれた肋が折れる鈍い音が響いて、思わず目と耳を塞ぎそうになってしまう。しかし、それでも彼の動きは鈍ること無く、確かな手応えがあって油断していたのか後退しなかった水織さんの頭上を目掛けて、刀を縦一閃に振り下ろした。

「水織姉!」と緋奈子が叫ぶのと同時に、水織さんは身体の向きを変えてその一閃を空振りさせるが、当たれば怪我では済まないその尋常ではない一撃に、彼女のこめかみから冷や汗がつたうのがここからでも視認できた。

 何という人間離れした力だろう、なるほど確かにこの力を戦場で振るうことが出来たならば、当時の活躍は目覚ましいものであったはずだ。だが、これではもう獣だ、人間ではない。

 大事な娘の危機に今一度叔父さんが接近を試みるが、再び横に薙ぎ払われた一撃で娘共々弾かれるように距離を取らざるを得なくなる。しかし、叔父さんが飛び退いた瞬間に事態を呆然と見守っていた叔母さんに衝突してしまい、二人してふらつき大勢を崩してしまった。その好機を見逃さなかった三好さんは、火薬で飛び出す弾丸のように一直線に高速でよろめいた一義さんの元へと近づき彼の心臓を目掛けて刺突を繰り出したが、何とか直前でそれを捌く者がいたため大惨事を避けることが出来た。

 あわや致命傷になった一撃を止めたのは、私の叫びなど聴こえもしなかった緋奈子であった。二人の間に身体を割り込ませた緋奈子は、迫りくる凶刃を素手でさっと逸らすと叔父さんの身体をもう片方の手で押して距離を離し、あえて緋奈子は相手と一対一の状況を作った。

 あまりに危険な彼女の判断に思わず、制止の言葉が口をついて出そうになるが、上手く喉から声が絞り出せず息を詰まらせてしまう。

 倒れた母の手を取り引っ張っている水織さんをよそに、両手を前に出して相手の接近を待っている緋奈子は、奇妙な表情をしてそのときを待っていた。

(・・・どうしてそんな顔をしているの?)

 その後の数秒間は、私には何もかも全く理解できぬまま過ぎていった。

 振り下ろされた刃に対して、呼吸を合わせるように飛び込んだかと思ったら、直後には三好さんが吹き飛ばされていた。背中からぶつかりに行ったような動きになったため、もう彼女の表情はここからは伺い知ることは出来なかった。

 軽く数メートルは転がっていっただろう彼の身体はぴくりともせず、もしや死んだのではなかろうかと思ってしまうほどに無反応なままであった。それで不安になった私は「ひ、緋奈子・・・」と思わず声を漏らして近寄りかけたのだが、彼女が鋭く「来ないで!」と叫んだため反射的に身を竦めてその場に立ち尽くした。

 すると、一度は完全に動きを止めて倒れていた彼の身体が糸で吊り上げたようにヌルリと起き上がり、再び向かってくる様子を見せた。

「もう・・・まともじゃない・・・」

 緋奈子がそう短く呟くと、もう一度手を前に出して迎撃の体勢を整えたのだが、三好さんは刀を手にしたまま九十度身体の向きを変えると、応接間の出口に向かって奇声を上げながら走り出した。

 入り口の前で身動きができなくなっていた武野さんが、その迫力に圧されて後退りするものの逃げる先は無く、扉に身体がぶつかる音だけが虚しく鳴った。

「武野さん、逃げて!」

 今度こそ叫び声を上げた私の声は、彼の身体に絡みついている白い霧のようなものを引き留める力もなく、両者の距離はみるみる縮まってしまい、私は起こりうる惨状を恐れて目を強く閉じた。

 目を閉じている間に聴こえたのは、誰かが斬られる音でも、血肉が飛び散る音でもなく、女性のくぐもった声と、硬い何かが同じ硬い何かに当たる音、それから質量のある物体が私達の目の前にあるガラステーブルに叩きつけられてガラスを割る音であった。

 その耳をつんざく破壊の音に私自身驚きのあまり目を瞑ったまま尻もちをついたのだが、緋奈子が叫んだ「水織姉!」という声のお陰で何とか直ぐに目を開けることが出来た。

 開けた視界の先には、砕けたガラスの破片で頬に赤い線が出来てしまった水織さんが目を閉じて横たわる姿があり、その両脇には慌てて駆け寄ってきたであろう緋奈子と紅葉、それから顔を真っ青にしている武野さんがしゃがみ込んでいた。

「水織姉、水織姉!しっかりしてよ!」

「水織様・・・・どうして、私を・・・」

 明らかに気が動転している二人に対して、冷静に彼女の様子を確認している紅葉は、二人を安心させるように少しだけ微笑んで見せると、とても丁寧な発音でゆっくりと言った。

「大丈夫です、破片で多少は切り傷がついていますが、おそらくぶつかった衝撃で気絶しているだけですよ」

 その報告に安堵のため息を漏らす二人であったが、私を含めた他の人々は開け放たれたままになっている扉から目を逸らせずにいたのだった。特に私の目には、うっすらと尾を引いた白霧が、くすんだ流星のように残光を描いているさまが刻まれていたのだった。

 (ⅲ)

 気づけば窓の外はすっかり夕闇に染まり、遠く、遠くの方からは遠雷が聴こえてくる。もしかすると直に夕立でも来るのかもしれないなと上の空で考えていた。

 子供の頃は、世界は何処までも続いていた。田んぼの畦道も、山道も、隣町との境界も、その先には無限の世界が広がっていると思わせてくれた。だが、それが今じゃどうだ。世界地図の完成でこの世の無限性は切り取られてしまったのかもしれない。

 黄昏の光を背に受けた我が友の横顔は濃い疲労の色を示しており、先程素手で三好さんと・・・いや、アレと渡り合ったとは思えないほどに儚げで、とても弱々しく見える。

 結局あの後、武野さんと私達四人で水織さんを彼女の部屋へと運び込んだ。本当は一箇所に留まり、いい加減警察に連絡するべきだったのだが、珍しく亜莉亜さんと一義さんの意見が合って、やはり事態が収束してから連絡することになった。

 私は水織さんを背負って運ぶ武野さんの後ろ姿を見ながら、「そんなにも、あの刀が重要ですか?」と尋ねたところ、彼女は至極真面目な顔をして「貴方なら分かるでしょ、必要なのよ、アレが」と先頭を行く緋奈子と殿を務める紅葉には聞こえないように小さな声で呟いた。

「きっと旦那様は私達が帰った後にでも三好に腹を切らせる算段だったのでしょうね。被疑者が死ねば立件のしようもないのだし。ただ唯一の誤算は、彼が自分たちのことを殺したいほど憎んでいたことね」と亜莉亜さんが興味無さそうにつらつらと述べた後、私は筆舌に尽くしがたい不快感を胸に覚えて押し黙った。

 その後水織さんをベッドに寝かせた後、彼女が目覚めるまで様子を見ると言った武野さんだけを置いて、私達は客室へと戻った。

 時津家の人々、主に一義さんは応接間で彼を待ち構えることに決めたようだが、一向に襲撃は無いまま日が沈み始めてしまったようである。

 そうして水織さんと武野さんを置いて客室へと戻ってきた私達は、暫くは事件について、というよりは例の三好さんの様子について議論していた。

「アレは・・・狐憑きというものですか?」

「・・・貴方は本当に変なことばかり知っているわねぇ、保護者としては貴方の将来が心配だわ」と思ってもいないことを大げさにさも悲しそうな顔をして口にする亜莉亜さんに、多少の苛立ちを感じたものの、何も聞いていないふりをしてベッドに腰掛けた紅葉の隣に座り込んだ。

「そうですね、狐憑き、憑依・・・少なくとも霊的な何かに精神を汚染されてまともな思考状態では無いことは確かのようですね」

「・・・あんな動き、三好兄は出来なかった。三好兄の身体だけど、三好兄じゃない・・・憑依ってそういうものなの?」

 夕焼けから逃げるようにして窓の正面から離れた緋奈子は、苦虫を噛み潰したような顔つきで段々早口になりながらも、私と紅葉の顔を交互に見つめながら問いかけた。だがどちらかが答えるよりも素早く「もう、戻らないの?」と今にも泣きそうな顔をして俯いた。

 彼女には申し訳ないと思うものの、とてもじゃないがアレはもう二度とこちら側には戻ってこられない気がする、というのが私の直感であった。いや、そもそもああなった後に正気を取り戻せてしまうことのほうが、かえって当の本人にとっては不幸せな気がした。勿論個人の幸不幸を他人が想像して決めつけることはナンセンスだ。

 予測していた通り、あの刀は確かに男に凄まじい力を与えてくれるが、その代償として正気を奪い去っていくようだった。

「報いを受けるのよ、彼らは」と私にしか聞こえない声で亜莉亜さんがそう呟くのが聞こえる。

 緋奈子には聞こえないように言ったのは、彼女なりの配慮か偶然か。決して口にするつもりはないが、確かに私も同じことを思った。自分たちが蔑ろにした小さなヒビが、今こうして彼らを蝕み始めたに過ぎない。もっと子供を子供として愛してあげられていたら、あるいはもっと自分を愛して、違う世界を見つめていられていたら・・・きっとこんなことは起こらなかったであろう。

 緋奈子に気を遣うように、「きっと、まだ可能性はあります」と告げた紅葉は言葉とは裏腹に暗い顔つきを消せずにいた。

 そんな何の保証もない気休めを言う紅葉に、亜莉亜さんは呆れた風に嘲笑して身体のバランスを斜めに傾けた。

「妙な期待を持たせるのは止しなさい。むしろそのほうが残酷よ」

 その辛辣な正論には私としてもこれまた賛成であり、紅葉も心の底では同じことを考えていたのか、反論することもなくただ黙ってシーツの皺でも眺めている様子であった。

 緋奈子は苦しげに眉を斜めにさせて「そっか」と呟いたのだが、数秒後にはその顔つきに彼女らしい堂々とした強さが戻っていたため、私はほんの少しだけ胸をなでおろしたのだった。

「で、これからどうするの?」

「どうするって?」と質問に質問で返す亜莉亜さんに緋奈子は、語尾を荒げながら彼女の直ぐ側までにじり寄った。

「だから、このまま三好兄を放っておくわけにはいかないでしょ」

 例えもう元には戻らなくとも、という言葉が彼女の閉ざされた唇から、私の耳には届いた気がした。

 緋奈子のある意味で前向きな発言に亜莉亜さんは満足そうに口を閉じたまま優雅に微笑み、緩やかに目を閉じてから、同じ速度で開き声を発した。

「よく分かっているわね。私は彼の命運がどんな風に尽きようがどうでも良いのだけれど、あの刀だけは手中に納めたいの。まぁ貴方の叔父さんがこんな物騒なものを用意して彼を止めようとしているのだから、わざわざ私達が危険を冒す必要性は薄いわね。高みの見物と洒落込みましょう?」とベッドの上に無造作に放り出されている刀を顎で指す。

 目をパチパチさせて楽しそうにしている亜莉亜さんは、紅葉に何か飲み物をオーダーしているようだったが、「そんな暇ないですよ」と素気なく断られて不服そうな顔をしていたので、仕方なく紅葉は備え付けのケトルに水を入れに洗面所へと向かった。

 私は改めてベッドに腰を落ち着けた亜莉亜さんを見つめて、今の話を思い出しながら疑問を投げた。

「もしも、一義さんたちが刀を渡してくれなかったらどうするのですか?」

「こんな事態になってまで、あれを保持しておくとは思えないけれど、そのときはそのときで相応の報いを受けさせるまでよ」と平気な顔をして質問に答える亜莉亜さんが空恐ろしくもあり、頼もしくもあった。まあ実際に危険と立ち向かえるのは緋奈子か紅葉だけで、私達は物理的な問題に関して基本的には全くの足手まといなのだが。

「これ以上、まともな人間同士で争うのは勘弁ですからね」といつの間にか水を入れて戻ってきていた紅葉が、袋に入っていたドリップ式の珈琲パックを準備しながら亜莉亜さんを軽く諌めた。

 室内に午前中武野さんの部屋で嗅いだあの芳醇な香りが広まり、亜莉亜さんは深くその空気を吸い込むと音を立てずにそれを吐き出し、うっとりとした瞳で「いい薫りね」と呟いた。

 どうやら武野さんお手製の珈琲があのパックに入っているらしいと判断して、私の分は無いだろうかと紅葉が扱っていた引き出しを開けてみたところ、初めから人数分用意されていたようで、後三袋、砂糖やティースプーンと共に透明の小袋に入っていた。

「お湯、皆さんの分もありますから宜しければお入れしましょうか?」と紅葉が快く提案してくれたので、それに甘えさせてもらうことにした。

 紅葉が人数分の珈琲を入れ終わり皆が一息つける状況になったところで、再び緋奈子が話を始める。

「じゃあ何?ここで指を咥えてその時を待つわけ?」

「それが嫌なら、貴方の叔父さんのところに合流して手伝ってきなさいな」と歪に微笑んだ彼女は、わざとらしくねっとりとした口調で「貴方の従兄弟のお片付けよ」と付け加えた。

 こんなときまで趣味の宜しくない悪ふざけをするものだと亜莉亜さんを睨みつけるが、私達の代わりに紅葉が険しい顔をして彼女を咎めた。

「やめてください、本当に笑えませんよ」

 叱られた彼女は全く反省した様子もなく肩を竦めて見せて、揃えた両足の間に片手で支えたソーサーを乗せた亜莉亜さんは、その上のカップを持ち上げて上品に口をつけた。

「じゃあ、ここで事態が片付くまで待機か・・・」

「生命を狙って襲ってくる怪物がいるのにねぇ?」

「亜莉亜さん・・・!」

「いいよ紅葉、気にしてないから」

 そう苦笑いをした緋奈子は、いくぶんか大人びて見える表情を残したままで、「私のほうが大人になれるって分かったからさ」と告げたが、亜莉亜さんは何も言わず全くの無反応のままであった。

 待機・・・か、と一人頭の中で繰り返す。

 私はそれが今は残念でならなかった。

 三好さんが鞘からあの異質な刀を抜いてからは、私の中にある不可思議な感覚器官が鋭敏になっていた。特に消え去る白い霧を目で追ってからは、その感覚がかつてない程澄み渡っていると言っても過言ではなかった。

 今なら彼女の声が聞こえる気がする、その深奥に宿る意志が入り込んで来て、飲み込めるといった確信がある。

 だが・・・こんな状況で我儘を言えたものではない、分かっている、分かっているが・・・。

 それでも今はどうしてだろう、私の口は自分のものではないかのように身勝手に言葉を紡いだ。どうもこういったことが最近多い気がする。

「あの・・・少しだけここを離れてもいいでしょうか?」

 私のその状況を顧みない無謀な発言に、三人ともぽかんと口を開けて私の顔を怪しむように見つめていたのだが、急に亜莉亜さんだけが笑い出したかと思うと、首をこてんと倒してから美しく微笑んだ。

「貴方でもそんな冗談を言うのね?」

 やはりそう捉えられたかと思い、違うのだと否定すると三人は一転して厳しい顔つきになり口々に私の行動を咎めたのだった。

「ダメですよそんなの、あの人がいつどこで襲ってくるかも分からないのに」

「本当だよ、だいたいどこにいくのさ」

 二人の叱責に居心地の悪さを感じているところ、亜莉亜さんまでもが私を嘲るかのように含み笑いをした。

 天井の照明の光が真っ暗なテレビの画面を照らして、叱られている私の姿を鏡のように映し出しているが、その光景は私の臆病な心を数回突いただけで何の役にも立たないものだった。

 ここへ来たときから鳴り響いている蝉の声と、つい先程から私の頭の中でわめき出した少女のすすり泣きが右耳から左耳へとゆっくりと流れて行った。

「分かりました」とだけ私は呟いて立ち上がると、水織さんの様子を見てくると告げて部屋の戸の前に立った。

「だったら私も行くよ、危ないし」

 ほぼ同じタイミングで立ち上がった緋奈子を制して、すぐに戻ると残してから扉を開けて室内を振り返ること無く戸を閉めた。そうでもしなければ、中の皆に疑われることは確実だったからだ。いや、もしかするともう疑われているのかもしれないが。

 私の意識は既に書庫へと向けられており、口実にしていた水織さんの私室すらも勢いよく通り過ぎて早足で中通路へと到達した。

 皆には悪いが、今を逃すと彼女を救うことは二度と出来ない、そのような機会は永遠に巡ってこないのだ・・・そんな気がする。

 彼女を成仏させたところでそれで何が変わるわけでもないのかもしれないけれど、もしも救えたら、今度こそ私の中の何かが大きく輝き出すのではないか。

 蚊柱を手で振り払い、旧邸宅へと侵入すると、夕焼けの差し込む木造の廊下を忍び足で進む。

 周囲の静寂が鼓膜を刺すが、耳を澄ませば聞こえる遠くで鳴る遠雷と蜩の声が静けさをかき回したことで、後ろから忍び寄る気配にハッと気づいた。

 振り返るまでの短い一瞬で、私の頭の中には最悪の想像が勝手に風船のように膨らんでいった。私の背後から迫るあの霧を帯びた白刃、獣じみた唸り声と共に押し寄せる殺意、無数の赤い花びらを散らしたかのような赤い壁。

 そして、恐怖で震えた私の瞳が、背後に気配なく立つ人影に焦点を合わせた。

「・・・嘘つき」

 目が眩むほどの早鐘を打つ自分の胸を両手で抑えてから、深く息を吐きだして、こちらを恨めしい目つきで見やる緋奈子を見つめた。

 全く、驚かせないでほしい。こんな状況で気配を消して忍び寄るなんて冗談が過ぎるというものだ・・・と考えたのだが、ぐうの音も出ない正論を叩きつけられるのは分かりきっていたので、私は目を泳がせてあちらの様子を伺った。

「水織姉の部屋に行ってもいないし、どうせここだろうなと思ったけどね」

「ご、ごめんなさい・・・」

「ふーん、亜莉亜さんに聞いたよ、深月ってとりあえず謝って片付けようとする癖があるんだって?」

 そう言う彼女の顔つきは明らかにこちらを咎める、あるいは疑う目つきをしており、既に緋奈子の中の私から嘘つきのレッテルを引き剥がすことは不可能なのだということがありありと予測できた。

 亜莉亜さんは・・・また余計なことを・・・。嘘を吐いて出てきたばかりだから、否定したって説得力など皆無ではないか。

「ち、違うのよ?その・・・どうしても、確かめたいことがあって・・・だから、その・・・」

 歯切れの悪い私の口調に苛立ちでも感じたのか、オレンジ色の光を横顔に受けて、反対側に暗い影を作った彼女は不機嫌そうに腕を組んでこちらをじっと睨みつける。このまま連れ戻されてしまうのかと肩を落としかけたところ、緋奈子が早足で私の横をすり抜けて書庫の扉の前まで移動して口を開いた。

「分かってるよ、深月にとって大事なことなら私だって我慢するよ・・・。だから早く終わらせちゃってよ、幽霊とか、実ははすっごい苦手なんだからね!」

 瞳をかすかに潤ませて一息で言い切った彼女を見て、昨日の様子を思い出し私はその意味に得心したのだが、彼女が見せるその怯えた様子が何だか愛おしくて思わず吹き出してしまった。

 そんな私の姿を見て頬を紅潮させた緋奈子は、「えぇ!今ので笑う?感謝するとこじゃんか!」と憤慨していたのだが私の止まない笑いに影響されたのか、結局彼女まで笑い始めてしまった。

 本当に、私には勿体ないくらい素敵な友達だ。なんだかんだ言っても、いつだって私のことを助けてくれる・・・優しく、強く、そして気高い。彼女のそうしたものが凝縮されてできた心体の美しさは比肩するものがないと言っても過言ではなかった。

 ひとしきり笑った後、相変わらず中々開かない扉を二人で開けて、書庫内へと足を踏み入れる。

「とにかく、早く終わらせてね。これを使う事態になる前にさ」

 そう言って先程から片手でぶら下げていた物を、私にもよく見えるように掲げた。

「それ・・・もしかして本物なの?」

 軽く弓なりに反った黒壇の鞘が鈍い光を放っていたため、私は彼女の瞳を不安げに覗き込みながら尋ねたところ、「そんなわけないじゃん」と緋奈子は苦笑いしながら答えた。しかし、明らかにおかしな間があったため、その言葉の真偽は疑わしいものだと言わざるを得ないだろう。

 本当はあんなものを手にして欲しくないけれど、そうさせたのは私だ。私の危険な行為が彼女にそうさせている以上、ここで彼女を咎めるのは思い上がりも甚だしい。ただ、心の中で緋奈子が怪我をしないようにと願うだけなら私の自由なはずだ。

 午後六時過ぎの淡い光に照らされて、古い書庫に細かい塵が無数に漂っているのが視認できる。

 彼岸が近い、逢魔ヶ刻が来ているのだ。そのお陰で時間帯と私の精神が最適な状況であると直感的に感じた。

 例の窓を首を上げて見やるが、既にそこには何もなかった。先日見たときも彼女の存在感というのはかなり薄いものであったため、いつ見えなくなっていても不思議ではない。

 私は瞳を閉じて、全神経を瞳に集中させていく。目に映らぬモノを、目を介して捉えようというのだ。いや目ではなく、全身で感じるといったイメージに寄せたほうが成功するかもしれない。

 塞いだ目蓋の裏側に広がる黒一色の世界をしばらく見つめていると、不意に暗黒の世界に青い光が差し込み、その輝きがまるで意思を持ったようにしてうねりながら拡散していく。閉じたはずの瞳が美しい水色と白の世界を知覚した時にはもう、私はあの美しい水面の上に立っていた。

「どうしてまたここに・・・」

 気づいたときには、私の中の亜莉亜さんが心象世界と呼んだ場所に立ち尽くしていた。

 何度見ても眼を見張るほどに綺麗なこの風景が私の心を映し出した世界だとは俄に信じられずにいたが、それよりも私は、先程まで緋奈子と二人でいたはずの自分の意識がどうして突然こんなところに到達してしまっているのかが気になっていた。

 初め来た時と同じ様に、青一色の天と、何処までも透き通る水、そして水底に雪のように積もった砂粒・・・それらを順に見ている内に、誰かが私の背後から語りかけてきた。

「こんにちは」

 聞き覚えのないその声にのろのろと振り向くと、そこにはどこか見覚えのある女性が苦笑いをしながら私を見つめていたのだが、瞳があった途端に気まずそうに彼女の方から逸した。

「貴方は・・・どこかでお会いしましたか・・・?」

 記憶の縁に引っかかって手繰り寄せられない情報にもどかしさを感じながらも、彼女にそう尋ねたところ、彼女はやはり少しだけ困ったように湖面を見つめて笑いながら、発言すべき言葉を選んでいるような長い間を置いた。

 短い黒髪に、それから白のTシャツに紺色のスカート・・・。

 そこまで考えて私がどこで彼女を見たのか思い出すのと、彼女がおずおずと喋りだすのは奇しくも同じタイミングであったため、私の間抜けな声と彼女の喋り出しの声が完全に被ってしまった。

「もう気づいたよね、その節は本当にごめんね」

「と、とんでもないです!いえ、というか、それではやはり・・・貴方は」

 こくりと彼女は頷くと、桜、と名前を名乗った。その名前に庭園の大きな桜の木が思い起こされたが、あまりにも似通わない印象であったため直ぐに思考を切り替える。

 彼女はもう亡くなっているはず、ということは・・・私の試みは成功したということだろうか。ここまで鮮明に、まるで生きている人間かと思えるまでに死者の魂と接するのは初めての経験で、流石の私も不謹慎な高揚感を覚えずにはいられなかった。

「あ、あの!」と勢いに任せて声を発したはいいが、一体何をどう伝えればいいのかが分からなくなり、見切り発車のままで沈黙を迎えることになった。しかし、そんな愚かな沈黙を桜さんは受け入れてくれて、私が何か声を発するのを小さく微笑みながら待ってくれていた。その彼女の優しさに触れて、胸が暖かくなったのも束の間で、こんな人間が自ら命を絶つことになり、その上あのような形で現世に留まっているのだと思うと、息が詰まりそうなほど切なくなった。

「・・・会えて、良かったです」

 やっとの思いで吐き出された私の言葉に、「私も」と短く彼女は返した。

 それから私は強く目を閉じると、覚悟を決めるように拳を握り、一度青々とした天を仰いだ後桜さんにはっきりとした口調で尋ねた。

「お聞きしたいことが、いくつかあります。もしかしたら、お答えしたくないことを聞いてしまうかもしれませんが・・・」

 そうだ会えてそれで終わり、という話ではないのだ。

 きちんとここで、彼女に聞いておかなければならないことがある。

「どうぞ」と彼女が私と目を合わせたのを切掛けに、本題に移る。

「どうして・・・貴方は、自ら生命を絶ったのですか」

「いきなりそこから聞くかぁ」と桜さんは呆れたような、何かを誤魔化すような苦笑を浮かべながらそう返した後、再び長い沈黙を間に挟む。

 彼女がそうしている間は、私は透き通った水中を理由もなく眺めていた。生命の消えた、母なる海。いや違うな、海はきっとただそこにあっただけで、そこに後から生まれ出でた命が勝手に自分たちのルーツを感じているに過ぎない。だがそれならばどうして、私の頭の中の世界にはこれがあるのだろうか・・・。こんなにも美しい海を描いたのは、何を求めている証なのか。

「んー、もしかしたら少しだけ深月ちゃんも見たかもしれないけれど・・・」とどうして私の名前を知っているのかは定かではないが、話すことを決めた彼女は何でもない世間話をするような口調で語り始める。

「私ね、好きな人が居てね、ずっと一緒だったんだ。それで、その家族とも仲が良かったんだけどさ」

 自然とそれが信一郎さんなのだと分かり、武野さんの話が一瞬だけ脳裏に通り過ぎていく。

「その人の兄弟二人がどうやら私のこと好きだったみたいでさ、えと、んー、嫌な話聞かせるけど、あの書庫で二人に乱暴されちゃってね」

「え・・・そんな」

「たいしたことじゃなかったけどねー、ただ・・・その人達のお父さんに相談したんだけど、お金だけ渡されて、二度と家に関わらないように言われちゃってさぁ、彼にも会えないし・・・それで全部嫌になってね、死んじゃった」

 大したことじゃない?そんなの大嘘だ。

 死んじゃった、なんて、言わなくていい。私を気遣う必要なんかない。

 もっと怒鳴りつけていいんだ、怒って、怒っていいんだ。

 彼女が微笑んでいることのほうが、何よりも残酷に私の目には映った。

 私が気絶する瞬間に流れ込んできた悍ましく悲哀に満ちた感情は、その当時の記憶の欠片だったのだ。あんなものに頭が塗りつぶされたのだとしたら、生きていくことのほうが難しく、勇気がいることではないか。

 そんな汚らわしく、第三者の私ですら腸が煮えくり返る話を努めて明るく語る彼女は、とても痛々しく、そして何処か美しい印象を受けた。

 不意に、頭上からポツリポツリと水が降ってきた。雨だ。

 こんな世界にも、雨は降るのかと朧気な思考で空を見つめていると、桜さんが初めて悲しそうに顔を歪めて、「泣いてくれるんだね」と呟いた。

「泣いて・・・いる・・・」

 勿論目元からは一切涙は零れていなかったが、雨が水面に数え切れないほどの波紋を作っているのを眺めている内に、彼女の言いたいことの意味が段々と理解できた。

 ああ、そうか。心が泣いている、だから雨が降っているのか・・・。

 それにしても・・・あの人たちは、あの連中はどこまで人の尊厳を蹴落とせば気が済むのだ。父や母に認められたいと叫んだ三好さんと宗二さんにも、辛いことがあったのだろう。だが、それが無関係の人間の幸せを踏みにじっていい理由には絶対にならない、なるはずがない。

 彼女の話を聞いて、昨日の昼間突如桜さんの霊が私が気絶するほどに活性化したのは、あのとき書庫に三好さんが足を踏み入れたからなのだと気がついた。

 今なら、あの二人が人として終わりを迎えつつあることが当然の報いだと言い切れる。

「辛いお話をさせてしまい、本当に申し訳有りません」

「いいよ、もう、長い時間が流れたから・・・あのときの嫌なことなんて忘れちゃった」

 それも嘘だ、壊れた機械のように呟いていた、あの『どうして助けてくれないの』という言葉は、まだ年若い彼女を守ることを放棄した一義さんに対する怒りから生まれた言葉だったのだろう。

 だが彼女の気遣いを無下にする理由もまた私にはない、聞き逃すようにして頷き、もう一つの問いを行った。

「すいませんが、もう一つだけよろしいですか?」

「うん、どうぞ」

「桜さんが、この世に残した未練、いや、願いとは一体何なのでしょうか」

「え、それは・・・」と彼女は初めて言いづらそうにした。

「私にできることなら、それを叶えたい。そのために、私は会いに来たのです」

「・・・分かった、じゃあ言うね」

 彼女がこの世に留まる理由、私はそれが真っ黒い人の形をした闇なのだと思いこんでいた。あれだけの経験をして自殺することになったのだ、それを知る者としては当然の帰着点だったと思う。だが、彼女の願いは違った。

「彼に、信一郎に宛てた手紙を届けてほしいの」

 その願いは、人の形をした――とても清らかな光だった。

 (ⅳ)

「ねえちょっと、深月?」

 数分前から深月の様子が明らかにおかしい。ぼうっと突っ立って二階の窓を見上げたままでもう五分以上経ってしまっていた。昨日のように何か見えているのかと思ってぞっとしたが、瞬き一つしない彼女の黒曜石のような瞳には、どこか静かな安寧が映っているようにも思えた。

 彼女が正気に戻るまで暫く待つかとため息を吐いて、夕日が照らしている窓の外へと視線をやった瞬間、私の目にそれが映った。

 幽鬼のように生気無く立ち尽くす男、当然私には霊が見えるなんて超能力はない。つまり、あれは人、人だった何かだ。

「三好兄・・・!」

 何でよりによって私達のところに・・・。

 彼は窓枠を音も立てずに越えてくる。鍵を締めなかった自分と、元々閉めずに部屋を出た馬鹿を恨みながら、深月の腕を強く引っ張って荒い語調で必死に呼びかける。

「深月!ぼうっとしてないで早く逃げるよ!」

 とてもじゃないが深月を庇いながら戦えるほど私は器用ではない。まともにやって勝てるかも分からないのに、言い方は悪いがお荷物を抱えたままでは勝機は尚薄い。

 だが・・・。

「深月!?」

 深月は、急に糸が切れたマリオネットのように音を立てて床に崩れ落ちたかと思うと、その長いまつ毛をピタリと重ね合わせてしまっている。もしやと思い慌てて彼女の顔に耳を近づけると、規則的な呼吸が聴こえてきたため、一安心するとともに、安心できないもう片方の現実へと向き直り汚く文句を飛ばした。

「こんなときに寝るなんて、頭どうかしてるよ!」

 寝たわけではないだろうが、今は愚痴の一つくらい許されるだろう。

 叔父さんが用意してくれた刀に目をやり、苦々しく眉をひそめてそれを睨みつける。

 使わなきゃいけない事態が訪れなければいい、ずっとそう思っていたのは、未だに繰り返されるあの女の言葉のせいだ。

『人も斬れなくて、何が侍よ』

「・・・うるさいなぁ!」

 半ば自棄になって鞘から刀身を滑らせて、三好兄に真っ直ぐに切っ先を向けて構えるが、その水平に構えられた刀が自分でも情けないくらいに小刻みに震えているのが分かった。

 今回は、あの女のときのように殴るだけでは済まない。かすっただけでも傷ができて血は出るし、そこから少し踏み込めば致命傷になる。

 自分は命のやり取りをするのか、同じ血の混じった従兄弟の成れの果てと?

 刀が重いのは、真剣だからという理由だけではないような気がした。

 私の迷いとは裏腹に、相手は真正面から刀を振りかざして突っ込んでくる。深月には全く気が向いていないのがせめてもの救いだった。

 振り下ろされた袈裟斬りを身を引いて躱し、返す刃で繰り出される逆袈裟を刀身で弾くが、その闇雲に振り回される攻撃と、初めて受けた殺意の込もった真剣での一撃に身震いしてしまう。気圧されて身体の動きが鈍れば、それこそ死に直結すると分かっているのにも関わらず、普段と違って身体が言うことを聞いてくれないし、心臓だってまだほとんど動いていないのに、異様な速さで拍動している。

 深月の妹に襲われたときは、もっと、もっと身体全体に力がみなぎって、何なら普段以上の動きができていたのに・・・。

「なん、でっ・・・!」

 横一閃に迫りくる凶刃を何とか受け止めて、崩れかけた体勢を元に戻そうとしたが、それよりも早くもう一撃が飛んできたため、私はまともな防御の姿勢を取れないまま攻撃を受けてしまい、大きく後方へと押しやられて尻もちをついてしまった。

「くそ・・・!」

 汚く言葉を吐き捨てながらも追撃に備えて跳ね起きるが、不味いことに相手の注意は私ではなく、奴の足元近くに転がっている深月へと向けられていた。今や白濁して人らしさを失いつつあるその瞳が、私の大事な人の姿を捉えた。

 ゆらりと、姫斬が禍々しい夕焼けを反射させて輝いているのを見た瞬間、全身が急速に活動を始めてかつてないほどの馬力を私にもたらしていくのが分かった。

 言葉を発する余裕もなく、刀を両手で持って間合いを一息に詰める。

 間に合え、間に合え。

 脳が言葉を思考する暇すら惜しく、相手の間合い――返せば私の間合いに身を躍らせて飛び込むと、奴が反応するよりも数瞬早く刀を渾身の力を込めて真横一文字に切り払った。

 冷え切った頭が、硬い手応えと共に相手が後方へと下がったのを認識したが、同時に次の一撃を繰り出そうとしているかすかな動きも捉えて、私は何の躊躇もなく再び姫斬を構えた右手に狙いを定めた。

 迷えば、深月が殺される。

 そう思えば、身体は不思議なくらい自分の期待通りに動き、心すらも迷いなく従わせることが出来ていた。

『心・技・体』、過不足無く、乱れもなく、今なら振るえる。

 腕だけならば、死にはしないだろう。

 アドレナリンで麻痺し始めた思考が、淡々と全身に命令を下して、私は次に左から右へと刀を振った。

 次の感覚は、今まで経験したことのないほど不快で、そして奇妙な高揚感を私にもたらすものであった。

 宙を舞う棒きれと、姫斬、そして真っ赤なシャワー。それから数瞬遅れて、耳をつんざく絶叫・・・。それを耳にして初めて、自分は人を斬ったのだと自覚した。

 不思議と恐怖は無かった、やるべきことをした、という安心感だけが高鳴る胸には残っている。

 利き腕を断ち切った、終わった、これでこの一件は片がつくはずだ。そう考えて、張り詰めていた緊張の糸を緩めた瞬間、私は強く背中を床に打ち付けられて息ができなくなってしまっていた。

「うっ!」

 続いて私の首に強い圧力がかかり始めて、目を見開いて私の上に跨った者の正体を見据えた。

 無意識的に油断したこちらの思考の隙を突いて、奴が飛びかかってきていたのだ、しまった、全く甘く見ていた・・・普通の人間なら確かに片腕が落とされた時点で戦意を喪失するだろうが、相手は妖怪じみたモノが取り憑いているのだった・・・。

 私は、また同じような過ちを繰り返すのか・・・。今度は、誰も来ない、間に合わない。誰か来たところで、言葉も通じない相手を、もう、止める術などないではないか・・・・。

 ゆっくりと気が遠くなっていくのを感じながら、せめて最後は、愛しい深月を見ながら死にたいと思った。

 美しい彼女を想い死んでいけるなら、それも良いかとぼんやりと思う。

 だが――こんなことなら、伝えておけばよかった。

 ふと、そうよぎった言葉に、一体何を伝えるつもりだったのかと、浅い笑いが零れた。


 


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