六章 追憶
六章 追憶
(ⅰ)
私は窓枠にもたれかかりながらも、視線を外の山茶花の生け垣へと向けていたが、だからといって別にその景色を視覚情報として取り込んでいるわけではなかった。
正面の本棚では武野さんが黙々と古書のカバーに付着した汚れを丁寧な手付きで拭き取っていて、私は二人の間に広がった謎の沈黙に少なからず居心地の悪さを感じているのだった。
結局あの後、上から覗いていた私に気づいた武野さんは、難しい顔つきのまま微笑んで「隠れんぼですか」とジョークを飛ばしたのだが、こちらとしては残念ながらニコリとも笑うことは出来なかった。ずっとあの場所に座り込んで会話するというのもおかしな話だったので、変な人間だと思われているであろうという羞恥を胸に梯子を降りて、今はこうして彼の仕事ぶりを観察しているという状況だった。
基本的には無言で作業をしている武野さんであったが、時折思い出したようにして渋い声音で一言二言話をした。そのほとんどが今朝の事件についてであり、彼の所見としては「誰に殺されていても可笑しくはない」といった風な思った以上に率直で冷徹なものであった。
初対面の印象からして気さくというよりは無愛想、ユーモアがあるというよりは堅物といった人物像の武野さんであったが、わずかなコミュニケーションによってその評価の正当性が証明されたのである。
「それで・・・」と急に彼が口を開いたので、内心驚きつつも全ての古書を棚に収め終わった武野さんの方へと注意を向けた。
「本当は、何をされていたのですか」
彼の口調は明らかに先程までとは打って変わって冷淡で、言外にこちらを怪しんでいるのだという主張が感じられ、私はどのように誤魔化したものかと口を閉ざして頭を回転させていた。すると彼はたいして間も置かないまま、「まあいいでしょう」と早口で呟きながら私の隣に背筋を伸ばして立った。
「昨日はここで倒れられたと聞きました。もしかするとカビ臭い、この空気の悪さが原因かも知れませんから、あまり理由もなく近づかないほうが宜しいのでは?」
「・・・そうですね」と答えるほかなく、彼の無表情な顔を横目で一瞥する。
「あんなことがありましたから・・・本当に、大変なことに巻き込んでしまい、申し訳有りません」
「そんな、武野さんが悪いわけではないのですから・・・」
私が慌ててそう答えると、彼は一瞬だけ相好を崩して「そうですね」と短く零した。
そういえば、彼は一義さんが子供の頃からお世話になっていると紹介していた人物だ、もしかするとここに出没するあの幽霊の正体を知っているかも知れない、そう思い不躾かもとは考えつつも勇気を出して彼に尋ねてみることにした。
「あの・・・失礼ですが、過去この部屋で誰か怪我をされたとか・・・その、亡くなられたということはありませんでしたか?」
我ながら正気とは思えない問いをしてしまっているなと、内心呆れ果てながら彼の様子を伺うと、予想外なことに武野さんは表情を凍らせて、口を開けたまま呆然と私の瞳を覗き込んでいるのだった。
彼はややあってようやく言葉を発したかと思うと、「どうしてそれを・・・」と夢でも見ているかのような口ぶりで漏らしたので、私は確信めいたものを感じながら頷きを返す。
「た、確かに、もう十年以上前にこちらで自殺した女が居ますが・・・それを知るものは私と旦那様以外はほとんど誰も居ないはず・・・」
どこでそれを、と続くかと思われた彼の言葉はそこで一旦途切れて、代わりに感慨深そうな長息がその口からは吐き出されることとなった。
話をスムーズに進めるためにも、私の特性に関して正直に伝えておいたほうが良さそうである。そう判断して私は身体を武野さんの正面へと移動させて、下から見上げるように彼の鈍い煌めきを放つ瞳を見据えて口を開いた。
「信じてはいただけないかも知れませんが・・・私は昔から、ありえないものを見ることが多々ありました。それで、その今回も・・・」
「ありえないもの・・・なんと、そうですか」
「すみません、こんなおかしな話をしてしまって」
「いえ私自身、迷信深い方ではありませんでしたが、そう言い当てられてしまっては考えを改めるほか無さそうですね」と胸の奥に心地よく響く低音で彼はそう告げると、考え込むように顎に片手を当てて目を閉じた。
この歳になって柔軟な思考ができるというのはそれだけで尊敬に値する人物であると、私は彼に対して好感を抱きつつも、もっと核心に迫る話をするべく、こちらも使える手札を惜しみなく切っていこうと判断して会話を続ける。
「部外者の私が聞くべきではないかもしれませんが・・・首吊り自殺ですよね」
その私の一言に、彼が驚愕してヒュッと息を吸い込んだ音がはっきりと聞こえた。武野さんは徐々に切れ長の目を大きく見開き、顎に当てていた手をだらりと力無く垂らして、私の目を信じられないといった風に見据えている。しかし次第に彼の表情は険しくなり、こちらを見つめていた目つきは睨みつけていると言っても過言ではないものになっていた。
そのすっかりと豹変した怒りの瞳に、踏み込みすぎてしまったのかもしれないと口をつぐんで地面を眺めた。思えばこんなにもセンシティブな話に昨日会ったばかりの人間に触れる権利はないはずだ。
カビ臭い書庫の中に剣呑な空気感が満ちて、増々居心地の悪さを強くした私はその場を離れようと失礼のない断りの言葉を考えていたのだが、こちらがそれを切り出す前に武野さんの方から会話の口火を切ることとなった。
「・・・そうです」
私はおそるおそる顔を上げて、彼の様子を伺ったのだが怒りを表出していた先ほどとは一変して、今ではもうすっかり初めの無表情に戻っていた。武野さんは聞こえるか聞こえないかくらいの強さで息を吐き、「そこまで分かるものなのですか」と淡々と私に質問をした。
「そう、ですね」と私は短く答える。
「どの程度分かるのですか、もしかして――」
そこで武野さんは一旦言葉を区切って二階の窓の方へと顔を向け、しみじみとした口調で「見えるのですか」と私の方を見ること無く告げた。だがそう口にした彼の様子は決して答えを求めているものではなく、自分の中の結論を形式的に問いに変換したと言うべきものであった。
私はその形ばかりの質問に無言で浅く頷いて答えた。
「そうですか・・・それは、なんと、大変なことも多いでしょうね」
「もう、だいぶ慣れました。あんなふうに倒れたりすることは、最近は全く無かったのですが」
「そんなにも、彼女は未練が残っていたのですか?」
未練、と私は首を傾げて心のなかでオウム返しして彼の瞳を覗き込んだが、武野さんは少し軽率だったと言わんばかりに視線を反らしながら、「いえ、すいません。勝手な想像ですが、強い霊とはそういうものかと思いまして」と漏らした。
きっと彼なりに何か思うところがあるのだろう。時津家の人間が首をくくって亡くなったのであれば無理もない。彼はずっとこの家で時津家のお世話をしているのだから、当時の悲哀も相当のものだっただろう。
ふと、私は彼の言葉を思い出した。
そういえば武野さんは先刻、自殺者に関しての事実は武野さんと一家の長である一義さん以外はほとんど誰も知らないと説明していた。もしも時津家の人間が亡くなっていたのであれば、二人だけの秘密にはできないだろうし、その家族であれば尚の事であろう。
ひょっとすると、亡くなられた女性は時津家の人間ではないのだろうか。だが年若い彼女は家政婦には見えなかったように思えたのだが・・・。
私は気を取り直して武野さんの質問に答えることに集中した。
「分かりません、私は時々見えるだけですから・・・。いえ、ですが、今は・・・彼女について知りたいと思っています」
「知りたい?どうしてですか」と怪訝そうに目を細めて彼は言うが、その口調には迷惑さというか、礼儀知らずの小娘を咎める様子もなかった。
その態度に一安心してから、改めて無礼のないように言葉を吟味しつつも、自分にとって確かな本音だけを誠実にチョイスすることに意識を集中して言葉を紡ぐ。
「出過ぎた真似かも知れませんが、私にも彼女のために出来ることが何かあるんじゃないかと思えるのです。いえ・・・もしかしたら、そう思い込むことで自分のこの変わった体質に意味を与えてあげたいだけなのかもしれませんが・・・。」
彼は私の言葉を聞くと、ゆっくりと目を閉じて二度ほど頷いてから、言葉を迷うように口を開いて数秒間静止していたが、やがて苦笑いのような顔つきに変わると丁寧な発音でこう告げるのだった。
「場所を変えましょう。私ならば、貴方の知りたいことを教えてあげられると思います。ですが、何ぶん話が長くなりそうなので・・・珈琲か紅茶ならばお入れしますよ」
私はその肯定的な彼の言動を聞いて、嬉しくなるのと同時に一抹の不安を抱かずには居られなかった。
何故なら、ここで話を聞くということは、もう半端には戻れないということだったからだ。このような記憶の想起に痛みを伴うような種の話を誰かにさせる以上、何かしらの答えを出さずに終わるわけには行かないだろう。それこそいい迷惑というものだ。
心のバランスは不安定そのものであったが、私は何とか彼に微笑んで、「それならば珈琲をご馳走になってもいいですか?」と上品にお願いしたのであったが、こんなときまで亜莉亜さんの仕草を思い出してしまう自分が、少しだけ情けなかった。
(ⅱ)
端的に言って最低最悪の気分であった。
口の中は自分の嘔吐物の不快感で惨憺たるありさまだったし、網膜の裏にこびりついた赤一色に染まる宗二兄ちゃんの亡骸が、吐くものの無くなった胃を再び刺激して真っ白い便器にこの身体を縋りつかせていた。
そんな行程を何度か繰り返している内に脳髄が麻痺したのか、ようやくトイレから離脱することに成功して、例の廊下へと戻ってきていた。無論、未だに血まみれになったままの床と壁は先程の光景が夢や作り物でなかったことを嫌でも認識させるから、本当はまた戻って来たくなどなかったのだが、如何せん状況が状況だ、自分だけ部屋に引きこもってなどいられるはずもない。というかあんなスプラッタを目撃した後に一人きりで部屋にいることの方が不安で仕方が無くなってしまうだろう。現にトイレに嘔吐しに行ったのも、水織姉が表で待っていてくれたから出来たことである。
「緋奈子、大丈夫?」と少ない口数の水織姉ではあったが、先程からひたすらに私の心配をしてくれている。私は「それ最高のジョークだね」と空元気を振り絞って皮肉を漏らしたのだが、それが水織姉にはよく分からなかったようで、無言のまま広間へと足を踏み入れていた。
「よく入れるね・・・私は入らないから」
「緋奈子さん?」と私の呟きに反応した紅葉が広間からひょっこりと顔を出してきた。今にもこちらの体調を気遣う台詞を吐きそうな彼女に、「念の為言っておくけど、大丈夫じゃないから」とぼやくと、紅葉にはしっかりと空元気が伝わったようで、一先ずは安心したように微笑んでみせた。
宗二兄ちゃんのことは人間として好きではなかったものの、ああして殺されていい人間だったとは到底思えないし、彼ともう会えないなんてそもそも信じられなかった。きっと今は感覚が麻痺していて涙も出ないのだろうけれど、多分、心がしっかりと宗二兄ちゃんの死を受け止めた時、悲しくなるのだろう。
それにしても、紅葉はずっと広間で血まみれの死体と二人きりだったはずなのに、ああして健やかに笑えるというのは、彼女が逆に不健全な気がして何だかこちらの気が滅入ってしまう。
「即死ですか」と中に入った水織姉が尋ねるのが聞こえたが、その質問を出来る彼女も最早まともな感性の持ち主だとは思えなかった。私は二人の顔が見える位置にいないので、声音だけで判断するしか無いが、おそらくはいつもどおり無表情のままなのだろう。
紅葉はそんな彼女の問いかけを不審がることもなく、「そうですね、背後から心臓を一突きと思われます」と事務的に返し、その報告を聞いた水織姉は短く興味が無さそうに相槌を打った後、私にも聞こえるぐらいの音で鼻を鳴らした。その侮蔑的な態度に紅葉が険しい口調で「何か可笑しいですか」と咎める。
「随分臆病者なのですね。兄を殺した人間は」と囁くように水織姉は言う。
とても血の繋がった肉親が殺されたとは思えないほどに冷淡な口調に、私は思わずゾッと寒気を感じずにはいられなかった。
小さい頃は、私と外で泥だらけになりながらはしゃぎ回っていた水織姉も、物心がついていく内に感情の起伏が乏しい機械のような人間に変わっていってしまった。当然大きく変わったのは外面だけで、先ほどや昨日叔父を諌めてくれたときのことから分かるように、彼女の内面は今でも家族思いの優しいままの水織姉なのだと私は信じている。
きっとこんな家にいるから次第に自分を抑え込むようになったに違いない。どれだけ腕を磨いても送られる言葉はいつだって『お前が男だったら』の決り文句。私だったら直ぐにでも家を飛び出していきかねないなと常々考えていた。
「計画性が高いとも言えますし、堅実なタイプなのかも知れません」
「少なくとも、発作的な犯行ではなさそうですね」と水織姉が広間の敷居を跨いで廊下へ戻りながら言う。
私からすればそんなものどうだって良い気がするのだが、きっと紅葉の立場からすればそれで片付く話でもないのだろう。今の彼女は私の友達ではなく、綺羅星興信所の一人として状況の再確認を行っているに違いない。私はそこまで考えて、そういえば深月と亜莉亜さんの姿が見えないことに気がつき、血痕がペンキのように付着している壁を見つめながら中にいる紅葉へと尋ねた。
「ねぇ、亜莉亜さんと深月は?」
「知りませんよ、亜莉亜さんは僕にここを任せて何処か行きましたし、深月さんは気がついたらいなくなっていました。多分部屋に戻ったのではないですか?流石にショックだったように思いますし・・・。」
紅葉は無責任な上司への苛立ちを隠さずにそう答えながら広間から出てくると、「とにかく僕はここにいます。時津家の皆さんは応接間で親族会議中のようなので、お二人も向かわれたほうがいいかもしれませんね」とこれまた丁寧に事務的口調で助言をしてくれた。亜莉亜さんはともかく、第一発見者である深月の様子は心配だったが、今は彼女の助言に従ったほうが賢明であると判断して、私達は紅葉にお礼を言ってその場を後にした。
どちらも喋らないまま階段を上がり、長い廊下を進んで応接間の前までやって来た。水織姉が先頭に立って二枚扉をノックしようと手を上げた瞬間に、中から女性の怒声が響き渡った。その声を聞いて即座に叔母さんだと分かり、室内は温厚な彼女が怒鳴るような状況に陥っているようだと冷静に判断した。
水織姉は母親の大声に眉一つ動かさずに冷静にノックを繰り返し、「水織です、入っても宜しいですか。緋奈子も居ます」と尋ねた。
数秒置いて叔父さんが重々しい声で「入りなさい」と答えたので、私達は順番に応接間へと足を進めたが、親族会議であるはずのその場に見慣れた顔の部外者が居たので、私は驚きを隠せずに声を発した。
「え、亜莉亜さん、どうしてこんなとこに?」
彼女は上品に微笑むと、「お邪魔しているわ」と心底楽しそうに口にしたので、私は瞬時に湧き上がった嫌な予感に顔をしかめずにはいられなかった。それから案の定叔母が顔を真赤にして激怒した様子で亜莉亜さんを指差し、反射的に耳を塞ぎたくなるような大声でこう言った。
「どうしてもこうしてもないわ!早くこの部外者を叩き出しなさい!」
今にも飛びかかりそうなその様子に、私は黙って亜莉亜さんの側へと歩み寄ると「・・・もぅ、何したのさ」と小声で問いかけた。彼女は自分が叱責されていることが理解できていないかのように場違いに優雅な微笑を浮かべて、私へと顔を向けた。いつ見ても顔自体はとても整った造形で良家の娘であるといった風なのだが、その目の奥に宿った他人を嘲笑し弄ぶ狂った気質に、私はため息を吐かずにはいられなかった。
叔父さんと叔母さんが二人がけのソファに腰掛け、その向かい側の三人がけのソファに普段の倍ぐらい顔を蒼くしている信兄ちゃんと、同様に青い顔をして恐怖に震えている三好兄ちゃんが座っていた。水織姉だけは部屋に入るや否や無言で入り口側に背筋を伸ばして立っていた。
「別に特別なことなんて何も言ってないわ。私は客観的な事実を伝えただけよ」
そう言って彼女は机の上に置いてある桐箱を顎で示してみせたのだが、私は何のことか分からずに、「何あれ」と亜莉亜さんへ問いかけた。すると彼女が答えるよりも早く、未だ入り口付近に立ったままの水織姉が音もなく箱へと近づいて中を覗き込んだ。彼女はそれからややあって顔を上げ、亜莉亜さんの方を向いて多少驚いた顔つきで声を発した。
「中身は何処に」
「知らないわ」
「ではこれは何処に」
「被害者の部屋よ。ソファのシートの下に大事に納められていたわ」
「勝手に入ったのですか」
「ええ、証拠の隠滅でも図られたら不味いじゃない?」
「下種な・・・」
私はインターバルも無く飛び交わされた会話に目を白黒させながらも、水織姉が唐突に吐いた侮蔑の言葉に、相手が相手だったので肝が冷えるような思いになった。亜莉亜さんが愉快そうに笑ったのを見て、また何か言い返す気だ、これでは埒が明かないと考え、一旦情報の整理を申し出ることにした。
「ちょ、ちょっと私だけ置いていかないで!まずこれ!何なの?」
楽しい舌戦に水を差された亜莉亜さんは明らかに不快そうな表情をして、それくらいも分からないの、といった様子で口元を歪めたが、もうまともに相手取る気にはなれず、私の問いに誰かが答えてくれるのを黙って待っていた。
「『桐姫』の箱だよ」と見かねた信兄ちゃんが答えたことで、私は何となく味方が、というかまともな人が居てくれたのだと安心して、「なるほどね」と頷いた。だが、その言葉の意味するところを一歩遅れてようやく理解し、私は飛び上がるような思いで大声を発した。
「えぇ!?それって盗まれた刀でしょ?何で・・・何で宗二兄ちゃんの部屋にそれがあるのさ」
「馬鹿ねぇ、そんなの彼が盗んだからに決まっているでしょう」
そう言って亜莉亜さんが鼻を鳴らしたのと同時に、「だからいい加減なことを言うのは止めなさい!」と叔母さんが凄まじい剣幕で声を荒げた。
「宗二があんなことになって、私達は皆どうしていいかも分からないのに・・・その上で宗二にあらぬ恥をかかせるような戯言を言うなんて、冗談じゃないのよ!」
叔母は尻すぼみの口調になりながらも、段々とまたヒートアップしていき最後にはまた怒鳴り声を上げた。そのあまりの迫力に私だけではなく彼女の反対側に座っていた三好兄ちゃんと、信兄ちゃんが肩を揺らして叔母さんを覗き見た。叔母さんに甘やかされて育ってきた二人には彼女の怒号は私よりも恐ろしく耳に響いたのかも知れないが、その逆鱗に触れた当の本人である亜莉亜さんは涼しい顔をして腕を組み微笑んでいる。
事情を知らなければ誰もが感嘆の息を漏らすであろうその佇まいは、今の状況においては相手の怒りの炎に注がれる油に過ぎなかった。
彼女は出会ったときからそうだった。相手の顔色など気にもかけず、自分の手によって敷かれた道にだけ沿って進んでいる。
初めの頃はそんな彼女が気に入らなかったし、恐ろしかった。和を重んじるこの社会で善道のみを教えられて育ってきた私は、彼女のような滅茶苦茶な存在は露も知らなかったから、どう対応していいのかも分かっていなかった。
だが、深月の側で彼女を見ている内に私は綺羅星亜莉亜という人間の内側にある、研ぎ澄まされた一刀に気付かされた。
自分という人間に触れようとするものを情け容赦無く切り裂く鋭さを持っているのに、誰もが彼女に触れてしまいたいという衝動を抱かずにはいられない。そうして多くの人間がその刃に傷つけられ彼女を厭い、遠巻きにする。私だって深月が居なければそこで終わっていたに違いない。
だが彼女との付き合いが一定を越えた私は、その美しい刀身に秘められた揺るぎない精神力に、悔しいが魅了されつつあるようだ。
彼女と深月の側にいることは、確かに私の精神衛生上良くないことも多々あるが、それ以上に価値あるものを私にもたらしてくれるに違いないという確信を抱いている。
それはきっと、心・技・体の内、私に最も欠けた『心』を補う力を手にする良い手がかりになると信じている。
「どうしていいか分からない・・・ね。だったら教えて差し上げましょうか?」
そう言って依然微笑みを崩さない亜莉亜さんは、人差し指を頬の横に添えてぐるりと目を回してから、ピタリと茜叔母さんに焦点を定めた。挑戦的な彼女の態度に眉間に皺を寄せた叔母さんは、暫し亜莉亜さんを睨みつけた後、自分を冷却するかのように長い一息を吐いてから冷ややかな瞳をした。
「そう、では教えていただきましょうか。どうやら貴方は私達凡人と違って優れた脳味噌をお持ちのようですからね」
完全に臨戦態勢の叔母を嗜めるように叔父さんが「おい」と肘で突いたが、彼女は叔父さんの方をギロリと睨むと無言のままに彼を押し黙らせた。
私もどちらかを止めるべきだろうかと一考したものの、もしも亜莉亜さんの言うことが間違っておらず、本当に刀を盗んだのが宗二兄ちゃんなのであれば由々しき問題というヤツだ。それに客観的に見ても宗二兄ちゃんがこの一件に絡んでいる可能性は非常に高いように思える。
私の頭ではどうせ逆立ちしたって答えを見出すことは出来ないのだから、ここは本職に任せることにしよう。
叔母には悪いが、私は中立やや亜莉亜寄りのポジションに立つことに決めた。
「私の考えを述べる前に、まずそもそも、被害者の部屋に桐箱があったことに関して皆さんはどうお考えなのかしら」
「そんなもの、誰かが罪をなすりつけようと置いて行ったに違いないじゃない!そうよ、宗二を殺した人間が置いていったんでしょう!」
そう叫ぶとドンッと机にその平手を勢いよく振り下ろした叔母さんは、ヒステリーを起こしたかのように金切り声を上げていたのだが、それに反比例するかのように亜莉亜さんは無機質的な表情で般若のような顔つきの叔母さんを眺めている。その視線はコンクリートの壁を見つめているようだった。
「母さん、どうか落ち着いて・・・」と静かに諌めた信兄ちゃんをパッと一瞥した叔母さんは、「黙ってなさい」と有無を言わさず睨みつけた。亜莉亜さんはその一幕を黙って見ていたかと思うと、わざとらしく大きく肩を竦めてこう言った。
「息子さんの方が冷静ね、今の貴方がやっているように、感情に支配されてあちらこちらに当たり散らすのはいい大人のやることではないわね」
それをアンタが言うのかと突っ込みたくなったが、私は口を挟まずに沈着であることに努めた。彼女のその侮辱を聞いて叔母さんは血が出るのではないかと思うほど歯噛みしていたのだが、亜莉亜さんはその姿をせせら笑うかのように鼻を鳴らした後、一度咳払いを挟んでから淡々とした語り口で言った。
「話を戻しましょう。今の貴方たちがすべきことをお教えします。それは――」
一旦そこで話を止めると、おもむろにもたれかかっていた壁から背中を離して、悠々とした足取りで上座に空いていた一人がけのソファへと向かって行く。その姿をまさか、という目つきで観察していると、私がしていた最悪の予想が当たってしまった。
ドスンと一人がけソファにふてぶてしく腰を下ろすと、唖然としている時津家の面々をさっと目だけ動かして見渡した後一瞬目を閉じてパッと開くと、その邪悪さを惜しみなく晒した歪な笑みを浮かべた。
鞘から抜き放たれた危うくも美しい刀身は、その本性を以て周囲を圧倒したのだが、一番に我に返った叔父さんはガラス窓が割れるかと思えるほどの大音量で怒鳴り声を上げた。
「いい加減にせんか!!」
建物が揺れたかと錯覚してしまうほどの怒号にその場に居た人々は皆一様に肩を竦めて身を縮込めたのだが、唯一亜莉亜さんだけは微動だにせず、何かに取り憑かれたような目つきを叔父さんに怯むこと無く向けていた。
これは不味い、と私は反射的に亜莉亜さんの名前を呼んで手の届く距離まで近寄ったが、彼女は普段と変わらぬ鈴を鳴らすような声音で「私に任せなさい」と囁いた。その発言にかつて亜莉亜さんが私の部屋で同じことを言ったのを思い出して、場違いにも苦笑いを浮かべてしまう。
止めるべきなのに、どうしてか止められない。
いや、本音を言おう。
私は彼女がこの古臭いしきたりに縛られた時津本家を、滅茶苦茶に、完膚なきまでに踏み荒らすところを見てみたいのだ。
叔父も叔母も二人の兄もソファに座っている傍ら、先程からずっと従者のように立ち尽くしている水織姉を私はチラリと一瞥した。そうしている彼女の姿が抑圧された古びた女性社会を体現しているように思えて、私はずっとどうにもならないほどの怒りと呆れを感じていたのだ。
「お前に、任せることがこの家であると思っとるのか!?」
未だ怒りに顔を紅潮させて、激しく呼吸を繰り返している叔父さんが、切れた堪忍袋の緒を放り捨てるように手を高く振り上げると、机を叩き壊さんという勢いで振り下ろす。その暴力的かつ威圧的手法で亜莉亜さんを黙らせようとしている姿に、胸の奥からジワジワと苛立ちが込み上げてくるのを感じながら、何とか自分だけでも冷静で居ようと掌を握りしめていた。
「今すぐ叩き出してやろうか!」と叫ぶと、ぜいぜいと息を切らしつつも亜莉亜さんを見て言葉にならない唸りを上げていた。
獣のような息遣いだけが反響しているこの部屋に、さっと影が落ちた。
それは外界を照らす太陽が分厚い雲に遮られたことによって訪れた薄闇だったのだろうが、私には、いやきっと、ここにいる全員が、彼女のその艶やかな唇から零れ出した魔法のように感じたのではないだろうか。
「いい加減にするのは貴方達よ」とゾッとするような声音で呟いたのが、亜莉亜さんなのだと気がつくにはかなりの時間を要し、それに気づいた頃にはもう誰かが口を挟む前に早口で彼女はまくし立てるようにして言った。
「何が任せることがあるかよ、叩き出すよ、つまらない冗談はやめなさい。私は頭に来ているのよ、何故か分かるかしら?そもそも警察には連絡したの?しないのは何故?曰く付きの刀?その刀に宿る因縁は何?何故黙るの?私に隠し事をしているのは何故?何を隠すの?珠玉の子どもたちだと言った息子が殺されたというのに、この期に及んで何を隠そうとしているの、何を守ろうとしているの――全部話しなさい!!」
その凄まじい激流に圧され、私達は皆黙り込んでしまった。あれほど激昂していた叔父さんでさえも初めは口を開いたり閉じたりして何か反論の糸口を探しているようだったものの、亜莉亜さんの静かに燃えるその瞳に射抜かれると、ゆっくりと項垂れて意気消沈した。
私は視線を落として静かに自分の指先を見つめると、その枝分かれした一本一本が小刻みに震えているのに気が付き、自分の身体がどういった意思の元に動いているのかが不思議で、思わず笑いだしてしまうところであった。
亜莉亜さんの怒りに撫で斬りにされた時津家の面々を見ても、哀れに思うどころかむしろその逆で、当然の報いだとさえ思ってしまっていた。心は、昔から付き合いのある時津本家の人々よりも、精々数ヶ月の付き合いでしかない亜莉亜さんの味方をすることを選んだようであったと自覚した時、どこかくすぐったい気持ちになって、この指先の震えは自分の思うままに生きる亜莉亜さんへの不格好な尊敬の念なのだと納得できた。
すると、奇妙な高揚感にしみじみと感じている私の耳に低く鼓膜を震わせる声が聞こえた。
「・・・何と言われようが話せん。警察には俺たちが届けるから、部外者はもう帰ってくれ」
「言葉が通じないようね・・・」と亜莉亜さんは少しだけ普段通りに戻った声音で歯切れよくそう告げると、すっとジーパンのポケットに片手を突っ込むと、おもむろに携帯を取り出して彼らによく見えるように高々と掲げてみせる。
「何の真似だ」とすっかり怒気を失った叔父さんが小声で尋ねると、彼女は優雅に微笑んでそれにこう答えた。
「私、こう見えて人脈が豊富なの・・・そうね、警察にだって古い知り合いがいるわ。ムカつく奴だけど、頭はキレるし、何よりも容赦がないわ。」
最後の部分はゆっくりとした口調で脅すように言ってのけると、亜莉亜さんはふざけた様子で携帯を耳に当てて電話をかけるふりをした。
「さぁ、今大人しく私に話すか、それとも警察に洗いざらい調べられてから私に話すか、どっちかお好きな方を選んでいいわよ?」
さすがに必要以上の挑発行為であったように思えたので、私はコツンと彼女の後頭部を軽く叩いた。そうすると亜莉亜さんは驚いたように目を見開いてこちらを凝視すると、ふっと相好を崩して「生意気ね」と囁いたのだが、その声は完全に普段の冷静な綺羅星亜莉亜そのものであったため、私は誰にも悟られぬようにほっと胸をなでおろした。
しかし、安心したのも束の間で、彼女の挑発を受けた叔父さんはゆらりとソファから腰を上げると、怒りとはまた別の必死さに追い詰められている面持ちで「手荒な真似はしたくない」と指の骨を鳴らした。
これにはさすがの亜莉亜さんも気圧されたような顔つきになって、「貴方、正気なの?」と呟いた。
「それほどまでに、我々は追い詰められている。頼むから、部外者は引っ込んでいてくれないか・・・」
「それほどまでにお家が大事?」
「大家の名誉も、歴史も背負わぬお前に何が分かる」
「残念だけど私は分からなかったわ、そんなもの反吐が出る」
「・・・もういいから、引っ込んでいろ」
未だ震えてばかりいる三好兄ちゃんはさておき、叔父さんのその行動に信兄ちゃんは目を見張りながらも止めるような素振りを見せず、叔母さんと水織姉に至っては黙認するかのように沈黙して目を瞑っていた。
一触即発の事態に私も腹を括るしかないと覚悟を決め、いつでも飛び出せるように身構えてから、続く亜莉亜さんの言葉を待った。
どうせこの人の答えは決まっている。
「嫌よ、そんな手段でしか守れないものなら、さっさと捨てなさい」
その身に危険が及んでいるとは思えないほどに優雅な微笑に誰もが息を呑む。だが、数秒後には叔父さんがため息を吐いて、「ならばしょうがない」と彼女に一歩近づいた。
ほら、やっぱりこうなった、と私は半ば自棄になって身体を叔父さんと、未だ偉そうに深々と座り込んでいる亜莉亜の間に滑り込ませ立ちはだかった。
時津家の人間である私が彼女の味方をすることがそれほどまでに意外だったのか、叔父さんは腫れぼったい目を丸くして口を開けている。その叔父さんに出来るだけ穏便に事が済むように言葉を選びながら私は告げる。
「この人はどうでもいいんだけどさ、亜莉亜さんが怪我したら深月が悲しむんだよね。だから、ごめんね、叔父さん、叔母さん」
「緋奈子・・・。」と叔父さんと叔母さんが声を合わせて私の名を呼んだが、その声には咎める様子は無く、ただ姪を心配する響きだけが充分に込められて私の元へと届いていた。だが、それでも戦闘態勢を崩す気配のなかった叔父は、様々な呵責に苦しめられながらも私と亜莉亜さんの目を交互に睨みつけていた。
これからどうしたものか、と依然続く剣呑な空気に頭を悩ませていると思わぬところから和解の声が上がることとなった。
「もう、やめよう、父さん、母さん」
その悲痛な声は、顔を真っ青にした信兄ちゃんのものであった。
「話すべきだ。緋奈子や、その客人を傷つけてしまうくらいならば、時津の名に傷がついたほうがまだマシだよ・・・話すべきだ。」
か細くも、確固とした意思を感じさせる囁きを耳にして、彼の両親は言葉を失って黙り込んでいたのだが、ややあって叔父さんは踵を返して、鈍重な獣のような足取りで座っていたソファに向かうと、ドシンと腰を下ろしてから天を仰いだ。その隣では茜叔母さんが涙まで流し始めており、彼らが抱えている事情というものの重大さが微かに漂ってきているのが理解できた。
彼はそんな二人を優しい目で見つめると、「きっと大丈夫だよ」と呟いたが、その声が二人に届いたかどうかは定かではなかった。
信兄ちゃんは私達の方へと視線を向けると、それから背を丸くして怯えている弟、入り口近くで置物のように立っている妹を順番に見つめて、再びこちらを真っ直ぐな瞳で見据えて言った。
「僕が話そう。名刀『桐姫』――いや、妖刀『ヒメキリ』について知っていることの全てを」
妖刀、という穏やかではない言葉に身を固くした私は思わず亜莉亜さんの方を振り返ったが、彼女はというと、全くそうした恐怖を察知できていない様子で目をキラキラと輝かせているばかりであった。そんな彼女が急に恨めしくなり、コツンとまた後頭部を肘で小突く。
「何よ」
「別に」と口を尖らせて私が答えると、彼女は一瞬不可解なものを見る目をしたが、直ぐに呆れた様子で口元を曲げると、「なぁに、お礼を言ってほしいの?」と小馬鹿にするようにして私を覗き込んだ。
その態度が増々腹立たしくて、苛立った口調で「大体、私が庇わなかったらどうする気だったの」と意地悪に尋ねると、再び彼女は表情を変えた。まるで百面相でも見ているみたいだと思ったが、こんなにも目まぐるしく表情を変えること自体は彼女にとってさほど珍しいことではなかった。そうしてにんまりと子供のように純朴に笑うと、彼女は悪びれた様子をもなくこう告げたのであった。
「馬鹿ね、貴方が庇わないわけないじゃない」
「・・・何でさ」
「ほぅらまた愚かな質問。だって貴方は、真っ直ぐな人間だもの。呆れるくらい、ね」
その笑顔に少し深月の気持ちが分かったかもなんてことは、私は絶対に認めるつもりはない。
(ⅲ)
室内には芳醇な珈琲の香りが広がっており、その香気を吸うだけで滞った思考が澄み渡っていくのではないかと思えたが、どうやら私の身体はその真っ黒な液体を体内に取り込むまでは満足してはくれないようで、終始無意識の内に鼻をひくつかせてしまっていた。
書庫で武野さんと話の続きを別室ですることになった私は、そのままの足で武野さんの私室へと向かい、そこで彼お手製の珈琲を入れてもらっていた。
詳しい知識は無いのだが、彼はドリップ式の淹れ方で私に出す珈琲を用意してくれた。その味はとても綺羅星興信所では出て来ようもない程高級感に溢れており、一口呑んだ時点で思わず笑みが零れ落ちて感嘆の声を漏らしてしまう一品であった。
ここに来てたった二日しか経っていないのだが、こんなにも舌が肥えるものばかり食べさせられては、帰った後のことが今から既に心配である。別に興信所で妙なものばかり食べているわけではないが、そこで出てくる食事が比較にならないくらい時津邸での食事は美食ばかりだったのだ。
そこに来てこの珈琲・・・これが今日限りかも知れないと思うと、悲しみや残念といった感情を通り越して最早、絶望すら感じてしまいそうだ。勿論、多少の誇張は混じっているが。
「こんな美味しい珈琲は呑んだことがありません・・・」と掛け値なしの称賛を武野さんに送ると、彼は無愛想なまま顔つきのまま「恐縮です」と用意していたかのような口調で淡々と告げた。
お世辞と受け取られたのか、彼は結局顔色一つ変えないまま自らの寝台に腰掛けてこちらを黙って見つめたのだが、私はてっきりガラステーブルを挟んだ正面の一人がけソファに腰掛けるものだと思っていたので、何だか距離を置かれたような気持ちになった。
私の目線に気がつくと、彼は少し考えるように目を閉じた後、音もなく立ち上がり私の正面へと移動した。
「若いお嬢さんは、こんな年寄と相席は嫌かと思いまして」
「とんでもないです」と私は手を顔の前で交差させて夢中で左右に振ったのだが、彼はそんな私を上目遣いで見つめると自分の掌を重ねて口を横一文字に結んだ。私のやけにコミカルな挙動に対して、武野さんの一挙手一投足は強い真剣味を帯びているように思え、何だか私がふざけているみたいだと反省して真面目な顔つきをする。するとそれに呼応したように武野さんは語りだした。
「生きていれば、きっと綺羅星様と同じくらいの年頃だったでしょう・・・」
私は不意に告げられた思わぬ名前に驚いたが、ふと、それはどちらの綺羅星だろうかと思い至り聞き返そうとしたのだが、紅葉のあの年齢不詳の容姿から鑑みるに明らかに亜莉亜さんの方だろうと一人で納得できたため、そのまま黙って話を聞いていた。
「彼女は信一郎様の御学友で、小さい頃からずっと一緒でした。学校の帰り道などは必ず時津家に寄られていたので、信一郎様以外ともとても仲が良かったのを覚えています」
武野さんは記憶の蓋を開いて、その当時のことを思い返しているはずなのだが、その瞳からは郷愁の念のような過去を振り返っているような様子は見受けられず、淡々と無機質に刻まれた文字を読み返している風に私の目には映った。
そこで一旦話を区切った彼はおもむろに立ち上がると、小窓の前までゆったりと歩いていき、遠く広がる田園風景を黙って眺めていた。
彼と居る時間の半分ほどは沈黙で占められていたのだが、決して居心地の悪さを感じさせる類の静けさではなく、会話と会話のインターバルとして意図的に設けられたもののように適切な間の取り方であったと思える。
「信一郎さんとその女性は、恋仲だったのですか?」
「いえ、存じ上げません。ただ、傍目から見てもお二人は特別仲が良かったと思います」
私はその話を聞いて、信一郎さんの輝かしくも甘酸っぱい青春時代を勝手に妄想してしまう。きっとこの何もない街だからこそ、二人の日々は一層美しく、残酷に過ぎてしまったのではないだろうか。などと、恋愛の『れ』の字も知らない自分が語るのは少しおこがまし過ぎたかもしれない。
「時津家が何か遠出をしたりするときも、あるいは邸宅でレジャーを行うときも、彼女は一緒でした」
そう言って外の景色を目を細めて眺めた武野さんの瞳には、ようやく過去を懐かしむような色合いが覗けたのだが、それもほんの一瞬で消えてしまった。
「夏ならば、海、花火大会、秋は紅葉狩りに焼き芋、冬は雪合戦にクリスマス、春ならばお花見にハイキング・・・彼女は最早時津家の一員だったと言っても過言ではありませんでした」
武野さん自身も時津家の一員と言っても過言ではないのだ、とすれば、その女性を失った痛みは彼にとっても察するにあまりある痛みだったであろう。
感情を押し殺したようなその呟きを耳にしながら、私は段々と自分がしていることの意味が疑わしく思えてしまっていた。今の私がしているのは、過去に傷を抱えた人間から、その傷を抉って記憶という血を啜っている行為に他ならないのではないか。
私はその痛みをよく知っている。
幼い頃の自分が味わった痛みを思い出しながら、本当に話を進めてしまって構わないのかという不安は大きくなる一方であった。
そんな私の不安を他所に、武野さんは一際大きく息を吸い、普段以上に低い声で話を続けた。
「この場所は山中にあるため、真夏でも比較的涼しい日が多いですが・・・。あの日は、異様に蒸し暑い日だった。隣の県では過去最高気温を更新するほどの猛暑だったそうです」
彼が見つめる窓の外を、群雀が閃光のように通り過ぎていき、一瞬影が差したことで、瞳に入る日差しがやけに強烈に感じて私は反射的に目を細めた。
そんな私の様子を知ってか知らぬか、一旦話を止めていた彼は再び静かに声帯を震わせて、過去の残像を切り取って今に表出するのだった。
「そんな日でした、あの娘が首を吊って死んでいたのは」
次は、武野さんの瞳に影が差したのがぼんやりと見えた。もう、群雀はいない。
ゆらりと空気が揺れたのが分かり、私は彼の瞳を直視できなくなってしまい伏し目がちに俯いた。視界の隅でかすかに捉えていた彼の目が、悲しみではなく無感情で染まっていたこと、いや、そう努めていたことが何よりも見ていて胸が詰まりそうだった。
武野さんは窓の側から離れて再び私の正面のソファの元へと戻ってくると、静かに腰を下ろし、完全に静止している珈琲の湖面を無言のまま見つめていた。それからその液体が飲み物であったことを思い出したように手を伸ばすと、カップの縁に口をつけた。だが、テーブルの上に戻されたカップの中身を見る限り、本当に飲んだのかと不思議になるほどの量しか減ってはいなかった。私はなんと切り替えしたら良いか分からずに、沈黙を保ったまま彼と同様にカップを掴み中の珈琲を喉に滑らせたのだが、どうしてだろうか、先程よりか遥かに味が落ちているように感じられた。
「まるで、蝉の抜け殻のようでした」
沈黙を切り裂くその言葉に、私の頭には木にしがみつく茶色く乾いた殻が思い起こされ、その空っぽになっても尚残る不気味な存在に眉をしかめて渋面を作った。普段から渋い顔をしている彼の顔を上目遣いに覗き見ると、やはり平然として無感情のように私の目には映ったが、それが作られた表情であることは容易に理解できた。
私はここまでほとんど無言で話を聞いていたため、彼の一人語りのようになりつつあったが、ようやくここで、「そうですか」と口から気の利かない囁きが漏れたことで、武野さんも私の存在を思い出したように面を上げてかすかに口元を歪ませた。もしもこの仕草が笑顔を作ろうと思ってやったものなら、彼は私以上に作り笑いや愛想笑いといった類の行動が苦手らしかった。
これ以上、踏み込むべきではない気がする。やっと過去になり始めた心の傷のカサブタを剥がし、再び彼を苦しみの海に引きずり戻すのはどうにも気が進まないし、何よりその苦しみを知る一人の人間として、そのような真似は出来なかった。私自身が怖くなったのだ。
例え、彼女のためとはいえ、それで違う人間を傷つけてしまっては元も子もない、本末転倒ではないか。
「ありがとうございました」
そう小さく言って立ち上がり、腰を曲げて深々と頭を下げてから、ゆっくりとした緩慢な動作で顔を上げた。彼が「聞かないのですか」と抑揚のない口調だが意外そうにそう尋ねたので、わずかな逡巡の後、先程まで彼が見つめていた窓の外へと視線を向けて目を合わせないように口を動かした。
「話せば、また傷は膿みます」
武野さんに多くを語らせてしまった今となっては、その気遣いも自己満足に過ぎないのだろうと理解していた。しかし、臆病者の私にはこれから先へと踏み込む勇気は何処からも湧いては来ず、代わりに日陰者らしい陰気な考えが沸騰した水の底から昇ってくる泡のように次々と浮かんでいた。
一体自分は何をしているのだろうか。話を聞くことを、首を突っ込むことを望んだのは自分なのに、いざ誰かが傷つく可能性が出てくると二の足を踏んで立ち止まるばかりか、後ずさりばかり繰り返している。
彼女のために何か出来るかも知れない?終わらせてあげたい?そんなことはどうせ不可能ではないか。
昔からそうだった、彷徨う魂たちが何かを伝えたがっていることは本能的に理解できても、その言葉をしっかりと聞き取ることは出来なかった。何かを求められてもそれが分からないのでは、望みを叶うる術など有りようもない。それどころか、その鮮烈な助けを求める声を恐れ、無意識的に感覚を遮断して気を失うという情けのない防衛本能ばかりが磨かれる一方だった。
踏み込みたいと思っても、足は動いてくれない。
聞きたいと願っても、どうせ身体がそれを拒む。
自分自身で制御できないこの不完全な身体に、いい加減嫌気が差してくる。
そんな私の心の葛藤など知る由もない武野さんは、静かに首を振って「優しい方ですね」と呟き視線を上げて私の顔を見つめた。私は心の底からそんなことはないと否定したかったのだけれど、それよりも早く武野さんは自嘲気味に口の両端を上げると、「まあ、答えようもないのですが」と声を漏らした。
「答えようもない・・・?原因は分からない、ということですか」
「そうです」
「・・・そんなの、それは・・・」
あんまりだ、と続けて口に出してしまいそうになったものの、すんでのところで押し留まった。そのような事は部外者の私が言わずとも関係者は皆分かっていることだ。
いよいよ雲行きが怪しくなってきてしまったと、私は両目を瞑って項垂れて視界いっぱいに広がった闇に話しかける。
理由すら分からないままに葬られたとなっては、きっと送る側も送られる側にもどれだけの未練を残したのか分かったものではないだろう。
川の流れを堰き止めるようにして彼女はこの世に滞っている。その堰き止めている未練という名の大石の正体は一体何なのだろうか。それさえ分かれば、彼女を開放できるのであろうか。
そう考えた私はほぼ無意識の内に口を開いて尋ねていたのだが、その冷淡な声音はとても自分の口から出てきたものだとは思えず、ぶるりと身体を震わせた。
「彼女の未練は・・・心残りとは一体何なのでしょうか」
その冷えた声に驚いたように彼はカップに伸ばした手を止めたが、思い出したように再び動き出すとカップを掴み、口元まで最短距離で運ぶと音もなく液体を嚥下して、それから私の問いに静かに答えた。
「最早それを知る術は私にはありませんが・・・」とそこまで口にした武野さんはチラリと私を一瞥して黙ったのだが、その沈黙には『貴方にはそれが出来るのでは』といった意味合いが含まれていたような気がして何だか心苦しくなった。周囲が勝手に期待してくることは、皆と距離の遠い今の学生生活の上ではほとんどなくなっていたのだが、やはり期待に答えられないというのは虚しさを伴うものだ。
彼が私の無言をどう捉えたのかは分からないが、そのままの無表情で他人事のように淡々と話を続けた。
「もしも、あの娘が誰かの手によって死に追いやられたのであれば――」
武野さんは両手の指をしきりに組み替えて何か考え事をしながらも、目線は一点にカップの縁か湖面に向けられていた。
彼が見つめている銀の装丁が施されていたカップは、武野さんのコレクションなのか、壁を背にして立っているカントリーラックにも同様の器がいくつか並べられていて、私に出されたものもまた同じものだった。
「やはり復讐、ではないのですか」
「・・・復讐ですか」
決して予期しなかった言葉ではない。だが、その言葉を鵜呑みにしてしまうのはとても危険な気がして、私は肯定も否定もせずに低い声で繰り返しただけであった。
本来は読み取ることの出来ない死者の意思を勝手に予測して、それを生者のために都合よく利用してしまう愚かな行為の一つとして、仇討ちがある。死んだ人間の意志を神輿に担いで、生きている人間を死者へと変える。
復讐の全てが悪だとは思わない。それによって救われるものも少なからず存在しているのだろう。復讐の連鎖が、などという言葉を耳にすることもあるが、結局誰かが復讐を止めたところで他の何処かでは延々と連鎖は続いている。温暖化と同じで、高尚な何人かが対策を講じたところで、その何倍もの数の人類が加速度的に状況を悪化させていくのだからどうしようもないことだ。
だが・・・その利己的行為に死んだ人間の名前を使うことだけは賛成できない。
「まあ本当のところは分かりかねますが。ですが、もしも彼女が何か心残りがあって成仏できないのであれば・・・なんとかしてあげたいものです」
「武野さんは、その人を大事にされていたのですね」
その軽々しく出た言葉に武野さんは気分を害することもなく素早く反応して頷き、それから少しの間黙って真剣な瞳で私を見つめたかともうと、重々しく口を開いたのだが、その声には今までのものとは違った悲哀が感じられて、聞いている私の襟を正させる響きを持っていた。
「こんなことを頼めた義理ではありませんが・・・もしも彼女が成仏するようなことがあれば教えて欲しいのです」
間抜けにも「え?」と呟いた私を、変わらず真剣な目つきで見据えたまま武野さんは続けた。
「年寄りの戯言だと聞き流して頂いて構いません。ただ、もしもあの娘の声を聞いてあげることができるのであれば・・・」とそこまで一気にまくし立てたかと思うと、静かに前のめりになっていた体勢を戻して、「いえ、何でもございません」と俯いた。
こんなにも人に頼られることなど、いつぶりだろうか、と不思議に思うと同時に、私の頭は複数の思考を同時に開始した。
片方は奇妙な高揚感を伴った、これから先どうするべきかという思考。そしてもう一つは彼の言葉を低速で繰り返している無用とも言える思考。その中でも前者の思考が私の大部分を占め始めて、人のためという大義名分が随分と乱れっぱなしだった行動方針を強く固めさせるのだった。
「分かりました」
任せて下さい、という言葉は飲み込んで武野さんの方を向き深く頷く。
「ありがとうございます」
未だに完全には迷いが拭えていないし、自分のしていることが本当に誰かのためになるという確信はないが、方針の定まった私はその言葉に静かに頷いてもう一度お礼を言った。それに対して武野さんは「いえ、こちらこそ。またお力になれることがあれば何なりとお申し付け下さい」と急に元の無表情に戻って恭しく頭を下げたので、こちらも深く頭を下げてから何拍か間を置いて斜めになった身体を真っ直ぐ地面に対して垂直に戻し、「それではまた、珈琲を頂きに来ても宜しいでしょうか」と微笑んで告げた。
「ええ、またいつでもお声掛け下さい」
私が背を向けて部屋を出る直前に見た彼の表情は、部屋に入ってきたときと変わらず無愛想な能面のようであったが、同じ能面でもほんの少しだけ明るいものに見えた。
私は部屋の扉を後ろ手に閉めると、ふうっと一つ息を漏らした。それは決して落胆や疲労によるため息ではなく、一つの区切りを迎えた自分自身の精神に向けた称賛に近い一息であったのだ。
こうなったらもう一度書庫に向かい、彼女に会えないか試してみよう。もしも昨日のように強くこちらに干渉してきてくれるならば望みはありそうだ。
今度こそはしかと聞き届けてみせる、と私は肩に力を入れ息巻いて書庫へと向かう方角へと身体をずらしたのだが、途端に周囲が死んだような静寂に包まれていることに気がついて、ようやく私は今殺人現場に身を置いているのだと思い出した。
自分を取り巻く状況を再確認したところで、私の全身から血の気が失せていくのを感じながらへなへなと廊下の壁になだれかかった。
不味い、自分は一体何をやっていたのだろうか、紛いなりにも私は第一発見者だし、いや、それ以前にここは未だ殺人鬼のうろつく危険地帯なのだ。どこの物陰に日本刀を持った殺人犯が潜んでいるかも分からない、となればこうして一人で人気のない廊下に突っ立っている自分は格好の獲物なのではないか。
日が傾いて東の空から闇が迫るように、私の心にも恐怖と不安という名の宵闇が足音も立てずに忍び寄ってきていた。刹那、私の脳裏に今朝の惨劇が浮かび上がり、気がつけば私は早足になって客室へと向かっており、呼吸が早くなるのと同時に足の回転も増す一方であった。客室へと辿り着いた頃にはほぼ駆け足と言っていいスピードになっており、慣れない運動に悲鳴を上げる身体を扉に手をついて支えて呼吸を整えた。
いくら涼しい気候だとはいってもこれだけ動けば真夏の熱を嫌でも感じざるを得ない。額に浮かんだ珠のような汗を掌で拭って、扉をノックもしないままにドアノブを捻って押し開ける。
「誰も、いない・・・」
念のため私達が寝ていた隣の部屋も確認したが、予測していたとおりのもぬけの殻だったため、言うつもりのなかった独り言が虚しく空っぽの部屋に小さく滞空した。
後退りするようにその場を離れて廊下へと飛び出すと、真っ先に階下の広間へと向かった。今の私の顔を第三者が見たらあまりの必死の形相に驚いてしまうだろう。
一目散に駆け出した私の身体は、あっという間に広間正面の廊下へと到着したのだが、やはりその床に点々と散乱した血の跡に思わず身震いしてしまった。
ここに来たのは、もう誰かが警察に連絡しているだろう、そうして捜査員が現場検証を行っているだろうという予測からだったのだが、周囲には全くと言っていい程人の気配を感じられなかった。つまり、それはまだ警察に誰も連絡していないということを意味していた。
いくら山間部とは言えど、山を下って麓の市街地に降りるのに一時間もかかりはしないはずだ。私が遺体を発見してから、ゆうに三時間以上は過ぎている。警察に連絡しているのならいくら何でも遅すぎるのだ。
(一体、何をしているの・・・?)
自分のことを棚に上げて、迅速に常識的な対応を行っていない時津家の人間への苛立ちを募らせた私は、大仰に舌打ちをしてしまい、そんな下品な真似をした自分があまりにも信じられず首を必死に振った。
さて、それではどうしようかと血生臭い廊下で立ち尽くしていたのだが、急に広間の襖の影からぬっと人の頭が現れたため、私は心臓を握り潰されるかと思うほどの驚愕と共に叫び声を上げてしまった。
「きゃああ!」
「うわっ、何ですか、急に大声を出さないで下さいよ、深月さん」
広間から顔を覗かせてこちらを見ていたのは、私の良く知る人物で、何故か少しだけ迷惑そうな顔つきになっていた紅葉であった。
「そ、それはこちらの台詞です!ビックリして心臓が止まるかと思いました!」
「そんな大げさな・・・」と呆れた様子で私を見つめた彼女は廊下へと完全に身体を移動させると、一度咳払いをしてから、「どうでしたか?」と小首を傾げて問いかけを行ったが、私にはその問いの意味が分からず、彼女を鏡写ししたように首を傾けただけであった。
「どう、とは?」
「え?亜莉亜さんとどこか調査に行っていたのではないのですか?」
「いえ、違いますけど・・・」と困ったように答えると、紅葉は「そうですか」と顔を曇らせて考え込む素振りを見せたのだが、ややあって視線をこちらに向けると、怪訝そうな顔つきで私に尋ねた。
「では、深月さんはどこにいたのですか?」
「え、あ・・・それはですね・・・」
思いの外こちらの痛いところを突いてくる質問に苦笑を浮かべながら、何か誤魔化す方法は無いだろうかと真剣に悩んだのだが、良い案が湧いてくる前に彼女が私の思惑を阻むように強い口調でもう一度問いただした。
「どこにいたのですか」
その早く答えろと言わんばかりの表情に、あぁこれは下手に誤魔化すと一層酷い目にあいそうだと冷静に判断、もとい諦めて、彼女の真っ直ぐな瞳から目を逸らして答えた。
「少し、書庫の方に・・・」
敢えて武野さんと二人で話したことは伏せて行き先だけ告げると、紅葉は信じられないといった様子で手を額にやって首を左右に振った。
まあ確かに私のとった行動は、立場を考慮しなくともあまり賢明とは言えないものばかりであったが、あんなショッキングなものを二日続けて目の当たりにしたのだから、多少思考回路がショートしていたとしても致し方ないのではと、自分に甘い結論をひねり出して不服そうに紅葉を見た。彼女はその視線に気づくと、その瞳の色を呆れから怒りへと変貌させ私の方へとにじり寄って来た。
「深月さん、ご自身の立場と今の状況、本当に分かっていますか?」
「・・・わ、分かっていますが・・・」
「へぇ、そうですか。分かった上でそんな勝手な行動を取ったのですね?」
ギラリと目を光らせた彼女を見て、不味い、長くなりそうだと今更ながらに焦り出す。
そもそもこんな物騒な場所で説教だなんて、状況が分かっていないのは紅葉なのではないかと思えてくるが、それを口にしても変わるのは説教される場所と長さだけなので大人しく謝罪した方が自分の身のためである。
「す、すいませんでした」
「・・・深月さん、本当に反省していますか?」
「は、はい」と頭を軽く下げて申し訳無さそうな顔をしながら、亜莉亜さんが余計なことを言ったせいで、まるで自分は反省しない人間かのように疑われているのが不満でならない。確かに百パーセント自分が悪かったですとは思っていないが、謝罪なんてものの多くがそんなものだと思う。いや、こういう屁理屈っぽいところが亜莉亜さんに似てきたと言われるのかもしれない、それならば是非修正しなければ。
紅葉はじっとりとした目つきをこちらに向けた後、静かに肩を落としてこちらを向き直り、しょうがないなぁと言わんばかりの慈しみの光を目に宿した。
「それならば良いのですが。ただ、本当に今は危険な状況です。僕や緋奈子さんのように護身の術を持つならばいいのですが、深月さんはそうではないでしょう?・・・ちゃんと側に居て頂けなければ、いざという時に守れませんよ?」
そう一息で言い終わった紅葉を見て、やっぱり彼女は出来た人間だと痛感させられた。こんな状況下でも、誰かのことを案じ、第一に考えて動ける人間なんてきっとそうそう居ない。私達の関係がもっと違うものであったのであれば、俗に言う惚れるところだったのではないかと不思議な感覚に胸をときめかせた。
中々経験できない珍しい感覚に、説明しづらい感動を覚えていると、不意に眉間を人差し指で弾かれてハッと我に返った。
「しっかりして下さいね・・・もう、深月さんはちゃんとしているように見えて意外と危なっかしいんですから」
小さな花が咲いたような幼い微笑みを、やや低めの視線から私に向けそう告げた紅葉を見て、胸が暖かくなるのを感じた。遠い過去で燃え尽きたはずの妹とのやりとりが、今灰になって再び目の前に舞い上がって形になったような錯覚を覚えて、思わず私は微笑んだ。
「何だか、しっかりものの妹みたい・・・」
「え?」
私の口から無意識の内に漏れた本音に光の速さで反応した紅葉は、初めはただぽかんとしていただけだったのだが、言葉の意味を飲み込んだ瞬間にみるみる顔が紅潮し、顔つきは険しいものに変わっていった。後悔しても今更手遅れである。
「僕の話、やっぱりまともに聞いていませんよね」
「す、すいません」
「それと、さっきのはどういう意味ですか?」
「すいません」
「適当に謝って済まさないで下さい、僕が真月さんに似ていますか?いいえ、そうじゃないですよね。子供っぽいですか、そうですよね?」
少年に見られるのは気にしていなさそうなのに、どうして妹扱いされることが彼女の逆鱗に触れるのか不思議でならなかったが、どうやら本気で怒っているらしく、最早声量を抑えることも忘れて私に迫っている。だが、やはり見上げるような角度から恥ずかしさと怒りで染まった可愛い顔を覗かせる彼女は、とても年上とは思えなかった。
「聞いていますか!」
「は、はい、ごめんなさい・・・」
「そういう無神経なところばかり亜莉亜さんに似て!僕は心配しているんですよ!」
「え、お、怒っているのでは・・・ないの、ですか?」
「怒っています!」
何だろうそれは、と半ば諦めに近い状態で話を聞いていると、不意に私の後方から声が響いた。
「貴方達・・・一体何をやっているの」
振り返って声のした方を確かめると、そこには呆れ果てた表情を私達に怠そうに向けた亜莉亜さんと、何故か青ざめた顔つきになって俯いている緋奈子の姿があった。
天の助けとはこのことだ。日頃は天使の姿をした悪魔としか思えない亜莉亜さんだが、事こういうときの空気の読めなさは心強いものがある。案の定バツの悪そうな顔になった紅葉は、未だ不服そうではあったものの、「いえ、何でもありません」とようやく矛を納めてくれる気になったようである。
「亜莉亜さん、た・・・んんっ、何をしていらしたのですか?」
危うく助かりましたと本音を漏らしそうになったのを何とか飲み込み、先程紅葉が私にしたような問いを投げかけた。すると彼女はそれが聞こえていなかったかのようにくるりと百八十度ターンをして、背中を向けたままでそれに答えた。
「客室に戻るわよ・・・そこで全部話すわ」
「・・・はい、分かりました」
歩き出した彼女を追うようにして足を踏み出すと、以前立ち止まったままの緋奈子が青白い顔で何か言いたげに私のワンピースの裾を掴んだ。その不安げな表情に、一体何があったのかと私の心にも暗雲が忍び寄って来たのだが、それを緋奈子に尋ねる前に先を行っていた亜莉亜さんが首だけで振り向き言葉を発したことで、その機会を失ってしまうこととなる。
「深月、紅葉、人ってどうしてこうも素敵な生き物なのかしらね」
にんまりと上機嫌に笑う彼女を見て、それが皮肉なのだと直ぐに察せられた。というか、彼女が人を素敵だなんて本心で言うはずもない。
ご機嫌に頬を上気させた亜莉亜さんと、苦しげに頬を青白くさせた緋奈子の対照的な姿が、これから聞く話の性質を予感させ、重く心に沈み込むのだった。