四章 輪の向こう側
四章 輪の向こう側
(ⅰ)
昼食と余興の後、決して和やかな空気とはいえない状況ではあったものの何とか最低限の体裁を整えて、私達はお客人として三階にある客室へと案内されたのだったが、その間は案内人の武野さんを含めて終始無言であった。
私達にあてがわれた二部屋は扉で隔てられたツインルームの和室となっており、玄関口や廊下に比べれば居心地の良い地味な装飾の部屋であった。武野さんは私達を部屋へ送り届けると、用事があれば内線電話で連絡するように告げ、丁寧な一礼の後音もなく去って行った。
そうしてようやく一息つけるようになってから、数少ない荷物を机の上に放り投げた亜莉亜さんは、未だに仏頂面なまま一直線で窓の側まで近寄って外の山々を眺めていたが、私の方を首だけで振り向くと冷ややかな口調で呟いた。
「全く、余計な真似を」
一瞬何のことを咎められているのか分からなかったが、先程勝手に興信所を代表して謝罪した件に関してへそを曲げているのだと気づき、私は内心閉口しながら波風を立てたくない一心で、眉をしおれさせて申し訳のなさを演出した。
「勝手なことをして・・・申し訳ありません」
「まあまあいいじゃないですか、彼女がやらなくても僕がやりましたし、反省しているようですからね」と亜莉亜さんの冷徹な視線を代わりに引き受けてくれた紅葉が、私の独断行動をフォローしてくれたのだが、その言葉を耳にしても彼女は眉一つ動かさずに眼球を凍ったように制止させたまま私を見据えていた。それからもう一度窓の外へ数秒ほど視線をやると、かえって呆れたようにため息を長く吐いて、目を半目にしてから嫌味を漏らす。
「あのねぇ、その娘は今間違いなく表面だけの謝罪をしているのよ」
突然、彼女が私の心を見透かした発言を行ったため、思わず驚いて「えっ」と声を零してしまった。すると成り行き上私に騙された形になってしまった紅葉が、本当に切実な顔つきをして、「・・・深月さん?」と俯きがちで上目遣いになった。
「い、いえ、そんなことは・・・」
「あぁ嫌ねぇ、嘘つきは。ペテン師というのは人間の中でも最も汚い下等さと、最も哀れな能力の活かし方を選択した存在だと思うわ」
「ぺ、ペテン師なんかじゃありません・・・」
私がムキになって否定したことが嬉しかったのか、急に上機嫌そうに口元を緩めると、これからどう私で遊ぼうかと考えているのか、赤い舌をチロリと覗かせて目をぐるりと回したのだが、ふと私と紅葉の後ろにいる緋奈子へと焦点を当てて真面目な顔つきに戻った。それからかすかに口を開いたが逡巡するようにじっと動かなくなり、再度歪に口元を歪めて声をかけた。
「緋奈子らしくないわね、貴方の可愛い、可愛い深月が弄ばれているわよ」
自分の名前が出たことでようやく心が身体に戻ってきたようで、その目からぼんやりとした雰囲気が消えて活力が宿ったのだが、直前の会話は聞いていなかったようで、「え、何、どうかした?」とここに居る人間の顔全てを落ち着きなく見渡していた。
「緋奈子さん、大丈夫ですか?少し休みますか?」
紅葉が先程までの落ち込んだ様子から一転して、直ぐに彼女を心配するように問いかけると、緋奈子は素早く首を振り、「別になんでもないよ・・・ただ」と一度言葉を区切った。
それから腕を組んで衝動的な発作でも起こしたように唸り声を上げると、バタンと背中から床に倒れ込み再度大声を上げるため息を深く吸い込んでいたのだが、私は彼女が恐れることなく勢いよく倒れたことに驚きつつも、その反動で舞い上がった彼女の短いスカートの裾とその白い太ももに目が釘付けになってしまう。
それくらい、美しく扇情的だったのだ。
傷一つ付いていない、誰も踏み荒らした記憶のない真っ白な雪原のような純潔さと、そのくせ人を誘い込む蠱惑的な白・・・。
その瞬間、ぐっと肩を後ろから掴まれて我に返った。
いつの間にかしゃがみ込もうとして膝を曲げていた私を制止したのは、無機質な瞳をした亜莉亜さんであった。彼女は前後不覚になっていた私に対してゆっくりと首を振って、声を発さず口元だけで、やめなさい、と告げた。
その意味を問う前に、空気の補充を終えた緋奈子が叫ぶ。
「あぁー!また負けた、負けたー!」
駄々っ子のように大声を上げた彼女にやおらビックリして目を見開き、突然映し出されたその不可解な痴態に空いた口が塞がらなかったが、そんなことには気にも留めずにそのままの声量で緋奈子は続ける。
「皆の前で負けるのが嫌だったから、立ち合い余興なんてしたくなかったんだよぉ!」
「ひ、緋奈子さん、気を確かに」
打ち上げられた魚のように足を跳ね上げた彼女の横に紅葉がしゃがみ込み、両の掌を向けてどうして良いか分からなくなっていたが、その仕草がまるで緋奈子で暖を取っているように見えたのでどことなくシュールに感じられた。
彼女の足が上がったことでその白い肌が際どいラインまで晒されて、思わず生唾を飲み込んでしまうが、そうして意識が霧散する錯覚を覚える度に肩に力が込められては、心が現実に引き戻されてを繰り返すのだった。
一体何をしているのだろうかと、近距離で亜莉亜さんを不満気に見つめ返すと、思いの外彼女の瞳が真剣味に満ちていたため、批判の言葉は喉元で潰れて消えた。
「でも、凄かったですよ!僕の目から見て水織さんも、勿論緋奈子さんもとても歳下とは思えない程の技の冴えでした、圧巻でしたよ」
紅葉の抑揚に富んだ賞賛に、多少の自信、あるいは機嫌を取り戻したのか緋奈子は手足の動きを止めて、じっと彼女の目を見つめていたのだが、それからチラリと私を覗き見て「だってさぁ、深月の前じゃ二連敗だし・・・」といじらしく呟いた。
こちらにアイコンタクトを行った紅葉へ頷きを返して、「そんなことないわ、惚れ惚れしたのよ」と小首を傾げて腰を下ろし、顔を彼女の目線の高さに近づけた。その拍子に私の肩から亜莉亜さんの手が離れてしまったのだが、その感触がしばらく残っていて何だか熱を帯びている気がした。
「本当・・・?」
「ええ、勿論」とその舌っ足らずな問いに返すと、ようやく機嫌がなおり始めたのか、緋奈子は身体を起こして恥ずかしそうに笑っていた。
普段から確かに落ち着きがなかったり、感情が高ぶることがある彼女だが決してこのように子供じみた真似をする女性ではなく、肝心要のところでは妙に冷静だったり、自分のことであれば至極客観的に受け止める傾向さえ見られる性格の持ち主なのだ。だから彼女があのような行動をした事自体に多少の違和感を覚えた。実のところ緋奈子の考えていた問題の核心は別のところにあって、それを私達に悟られないためにああいった道化を演じたのではないのか・・・と勘ぐってしまうほどに。
誰にだって話したくないことの一つや二つはあるものだ。
全てを曝け出すのが信頼の証ではない、のだが。
どうしても何かが引っかかった。
緋奈子のその真っ直ぐな瞳が、夏の蜃気楼のようにかすかに揺らいでいる気がして。
言葉に出来ない不安に胸を突き動かされて緋奈子に手を伸ばそうと腕を上げたのだが、突然背後から謎の引力に手繰り寄せられて、私は姿勢を崩して地面に尻もちをついた。勢いが強すぎたためお尻がじぃんと痛んだのだが、そのことで亜莉亜さんを咎めるよりも先に手を掴まれて、わけも分からぬまま無理やり立たされて半ば混乱状態に陥った。
そのあっという間の出来事に怒る暇もないまま、瞳を彼女に向けたところ、亜莉亜さんは眉一つ動かさぬまま、「来なさい」と強引に私を隣の部屋へと連れ出した。後方から私の名を呼ぶ声が聞こえたのだが、振り向く暇もなく私の弱々しい身体は開かれた扉の向こうへと移動された。
荷物一つ無いツインルームの片割れは、私が元居た客室を複製したかのような間取りであったが、唯一窓の位置だけが違っていた。
その部屋のベッドの縁に私を無理やり座らせると、真剣な面持ちになってから私の肩に両手を置き、その深い赤が混じった瞳で瞬き一つせずにこちらの瞳を観察し、私の額に手を移動させて滑舌の良い口調で呟く。
「・・・熱はないわね」
「え、あの・・・」と困った風に眉を垂らして答える。
「貴方、今日様子がおかしいわよ。人の首元に噛み付いたり、緋奈子の足を触ろうとしたり・・・欲求不満、というわけでもなさそうだし・・・まるで夢遊病患者みたいよ」
「ひ、緋奈子の足って、そんなつもりは・・・」
言われなき罪を着せられそうになって、私は慌てて反論するのだが、亜莉亜さんはただでさえ冷たく見える表情を一層冷ややかなものに変えて目を細め声を発した。
「あのね、私のときといい、緋奈子のときといい、自覚がないから心配しているのでしょう」
私はその忠言を聞いて確かにそれが事実であれば軽く考えていい内容ではないな、と妙に冷静に納得していたのだが、もしも亜莉亜さんの二度に渡る制止が無ければ、私はあの白く澄み渡った雪原を踏み荒らすこととなっていたのかと血の気が引く心地になって黙り込んだ。
今更になって事の重大さに気がついた私を呆れるようにして眉間に手を当てて、天を仰ぎ目を閉じた彼女は、ぶつぶつと何事かを漏らしていた。その姿をぼんやりと眺めている内に先程の彼女の言葉が脳裏に蘇り、私はハッとした思いに駆られ目を丸くした。
「・・・心配、した?」
思わず零れたその呟きに彼女は最初のうちは無反応であったが、そのうちそれが自分の口から出た言葉だと気づいたようで、苦い顔をしてさっと身を翻してこちらに背中を向けた。
「別に、おかしなことは言っていないでしょう?私は貴方の保護者なのだから」
私はその事務的な発言を聞いて実のところかなり落胆していた。彼女の視点はあくまで保護者にあって、私と同じ対等な立場ではないということになり、それはつまり亜莉亜さんからすると私は世話の焼ける子供程度の認識だという事実の証明に他ならない。
皿を洗った後のスポンジの泡のように、私の心の中にはいつまでも釈然としない塊が転がっていて落ち着けずにいる。握り潰して全てを捻り出そうとしても何処かにそれが残っていて、ふとした拍子に顔を覗かせて私を惑わせる。
つまらない、と率直に思ったまま顔に出して彼女の背中を見つめようと顔を上げると、その艷やかな長髪に隠れていた小さな耳が彼女の動きに合わせて姿を見せたのだが、その耳朶まで真っ赤に色づいているのが分かった。
全てを察した私は目に見えぬ何かに身体を支配されて、ぼうっと口を開く。
「亜莉亜さん、こちらを向いて下さい」
「・・・嫌よ」
彼女らしくないか細く弱々しい声音であったことが、さらにこの摩訶不思議な感情を焚き付けて、私はすっと音もなく立ち上がり亜莉亜さんの顔の見える正面に素早く移動した。その行動を予期していたのか、それともただ単に驚きを表に出さなかっただけなのかは定かではないが、私が向かい合う形に陣取っても視線を逸らすこと無く、挑戦的にこちらの目を見返してきていた。しかしその顔色は耳まで真っ赤に染まっており、先程の自分の発言に少なからず照れを感じているのは間違い無さそうなのだが、それを私に悟られぬように背中を向けていたのに、いざ向き合うと目を逸らさないプライドの高いところはとても彼女らしくもあった。
彼女の顔についた二つのレンズに自分の顔がうっすらと映っているのだが、その人物は奇妙な喜びに口元の両端をきゅっと上げて微笑んでおり、オパールの瞳には年相応の青臭さと世間知らずな不敵さが滲み出ていた。
それを目の当たりにした私は、その人物が自分だと即座に認知できずにいたのだが、自らの瞬きと連動して女性の目蓋が開閉したことで、ようやくこの明け透けな感情を放つ等身大の少女が亜莉亜さんのもつ天然の鏡に反射した自らの姿なのだと理解できた。
それと同時に今まで抱えていた見覚えのない感情の輪郭が浮かび上がって来て、その氷解していく、熟しきれていない青いままの想いに胸が詰まりそうになって、誤魔化すように軽口を叩く。
「今はちゃんと、自覚がありますよ」
「うるさいわね、とにかくしっかりしなさい。誰にでも彼にでもあんなことをしていたら捕まるわよ」
亜莉亜さんは早口でそう告げると、未だに朱に染まった顔を無理やり怒った風な様相に変えて腕を組みつつ部屋を出ていった。それをこそばゆい気持ちのまま目で追いながら、遅れてその後ろをついていくが、頭の中では彼女の忠告が的外れであることを自然と理解していた。
きっと、誰でも良いわけではない。
ぼうっとしているのか、それとも夢遊病じみた発作を突然起こしたのかは判然としないものの、今は不思議とそんなことはどうでもいいと思えたのだった。
部屋に戻ると、扉の前で待機していたであろう緋奈子と紅葉が苦い顔をして亜莉亜さんに嫌味を投げられており、どうやら盗み聞きしていたらしい様子に私は少し恥ずかしくなって顔を熱くさせた。大きな声で喋ってはいないのだから、まさか会話の内容まで聞こえたということはないだろうけれど、顔を赤くして出てきた亜莉亜さんの様子を見て驚天動地の衝撃を受けたことだけは確かなことだ。
二人に人としてのモラルを説く彼女の声や態度には、見るもの聞くものを半無条件で納得させる異様な説得力を所持しているのだが、後々になって冷静に考えると亜莉亜さんにそうした礼儀作法や常識を唱えられるのは心外な気分になる。
「・・・それじゃあ私達は、一義さんに例の件を伺ってくるから」と一度咳払いして時計を一瞥した後彼女はそう告げて、紅葉にアイコンタクトを行ったため、どうやら私のことは連れて行く気がないということが伝わってきた。
だが個人的にはもう自分も興信所のメンバーの一人のつもりでいたので、無関係な人間として扱われることには多少のショックを感じざるを得ず、ついつい口を尖らせて言葉を挟んでしまう。
「・・・私はお留守番でしょうか」
張り詰めたポリ袋に穴が空いて空気が抜けるようにして、不満の声が漏れる。紅葉はそれを聞いて困った様子で苦笑いしていて、対する亜莉亜さんはどうでも良さそうに時計の針を眺めているが、その拒絶慣れした佇まいは先程までの彼女とは全くの別人のように思えた。きっと何かをきっかけにしてスイッチが切り替わったのだろう。
その感覚が何となく私にはイメージできる。
いつも、自分じゃない、だけど確かに自分だとしか思えない自分が常に己の内側に居て、その時々の感情によって顔を覗かせることがある。
だけど、それはきっと私だけに限ったことではなく、誰しもが無自覚の内に切り替えているはずの回路。だからこそ、私達は自分自身すら制御できなくなる。
もしかすると・・・近頃自分に起きている無意識下の奇行は、私という意識が他の私との均衡を保っていられなくなっているからなのかもしれない。
思考の海に身体を浮かべ、波のリズムに身を委ねてたゆたっていたところで、彼女の声が大きな波となって私を揺らし再び現実へと引き戻した。
「貴方はゆっくり休んでなさい・・・そもそも、本来は緋奈子と旅行の予定だったのでしょう」
小刻みに盤上を巡る秒針を見つめながら亜莉亜さんがそう口にしたことで、じっと傍観に徹していた緋奈子が意外な顔をして、「え、いいの?」とフランクな口調で聞き返したが、それについて彼女は一切答えず、何が面白いのか視線はずっと斜め上の時計に夢中の有様であった。
「ええ、気にせず夏休みを楽しんで下さい。深月さんも緋奈子さんも、学生の本分は若きを楽しむこと、ですよ」と一見すると私達よりも幼く見える成人女性が片目を瞑って明るく言ったのだが、それを耳にした亜莉亜さんが鼻を鳴らしてようやくこちらを向いたかと思うと、急にシールを剥がした後のように粘着質な笑みを浮かべた。
「若さに駆られて暴走しないように、清く正しく楽しみなさいな」
「うるさい、心配されなくとも大丈夫です!」
そう言いながら舌を出す彼女に、やっといつもの純朴な笑みが戻りつつあるような気がして、私は内心安堵の声を漏らした。
我が友には、いつだって健やかな輝きを放つ太陽のような存在であってほしいのだ。
だが、そう思いながらも、彼女のそうした煌めきを奪い去るとしたら・・・また私が何かに巻き込んだ時なのではと不安を抱いてしまっている。
彼女は強い、それはその腕前を目の当たりにした私には明確に断言できることであった。
しかし、その強さ故に平気で火中に飛び込みかねない。
そんなことにならなければいいのだけれど・・・。
私が暗い想像に直立したまま俯きがちになっていると、緋奈子が優しげな音を発して私を呼んだのがじんわりと耳の中で聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。
「もう二人とも行っちゃったし、私達はどうしよっか?ご飯は食べたし・・・そうだなぁ、少し降りれば温泉とかはあるけど歩いていくには遠いし・・・」
何よりもあの階段を上がってくることで、折角汗を流しても、再び汗まみれになってしまうことが容易に想像できたのでその案は是非とも却下して貰いたかった。
亜莉亜さんが夢中で見つめていた時計の針は、まだ昼の二時過ぎを指したところであったが、既に色々なことが起こっていたためあまり動きたくないというのが本音だった。こういうときに緋奈子に合わせて活発に行動できないインドア派の身体が疎ましく思えるのだが、どうにもこうにもこれだけは今更変えられそうにもない。
「少し・・・静かなところに行きたいわ」と意図せず零れた言葉に直ぐに緋奈子が反応して、「じゃあ裏庭に行こうか!」と提案したので、先刻垣間見た趣深いデザインの庭園が網膜に再生されて、私は勢いよく首を縦に振るのだった。
(ⅱ)
結局あれから緋奈子に連れられて下の階に降りていったのだが、途中で時津本家の長男である信一郎さんと出会い、私達は足を止めて世間話をすることになっていた。
そうした会話での彼の印象は、三人の男兄弟の中ではある意味異端とも言えるほどに清廉潔白で、誠実な人間であるのが直感できるぐらいに出来た人格の持ち主であった。吹けば折れる女性のような細身でありながらも、言葉の節々には強固な精神と優れた知性が感じられ、尚の事好印象を抱いた私は、ふと疑問に思ったことを率直に聞いてみることにした。
「あの・・・さしでがましいようですが、皆さんも刀が無くなったというお話は聞いているのでしょうか?」
話がきな臭くなるのを抑えるために敢えて、盗まれたという表現を避けて問いかけをしたのだが、一瞬で彼の表情は曇ってしまい、私は余計なことを聞いてしまったようだと後悔し目線を下に下げる。
亜莉亜さんに休んでおけと言われた手前首を突っ込むのはあまり良くないのかも知れなかったものの、単純に彼らに慌てた様子が伺えなかったことが奇妙に思えてならず、ついつい質問せずにはいられなかったのだ。
彼は陰りのある顔つきのまま困ったように愛想笑いをして口を開く。
「勿論知っているよ。君たちに会う前に行っていたのは、その刀が納められていた神社なんだ」
私のアンテナにその仰々しい言葉が引っかかり、オウム返しで「納められていた・・・?」と話の腰を折る形で口を挟んでしまったのだが、彼は気を悪くした様子もなく依然として苦笑を残したまま頷いた。
「まあ、古い刀だからね。色々とあるんだ」
「時津家って、古さと剣術だけが取り柄なんだもんねぇー」と茶化すように横から緋奈子が言ったため有耶無耶になったが、今の彼の発言は明らかにその『色々』について言及を避けた立ち回りであったように思えてならない。
それと・・・先程の『納められていた』という言葉のニュアンスだが、奉る、いやまるで封じていたとも言わんばかりに大げさではなかっただろうか?
眉間に力を込めてそこまで考えてから、私はふっと小さく誰にも悟られぬように息を漏らした。
馬鹿馬鹿しい、大げさなのは私の思考の方だ。剣術で栄えたような大家が刀を崇め奉るようにして扱っていても何ら不思議ではないし、そう考えれば若い世代の子供たちが焦る様子もないのは世代間の価値観の変異であると結論づけることもできる。
ほっと一安心した私は改めて意識的に相好を崩し、彼にお礼を述べた。
「ありがとうございます、少し気になったもので」
すると彼は「どういたしまして」と儚げに微笑を浮かべた後、私達が降りてきた階段の方へと視線をさっと向けて、言いづらそうに目線を反らしながら質問をした。
「あ、あの・・・亜莉亜さんは一緒じゃないのかい?」
緋奈子の魅惑的な太ももの白さを想起させるように青白い頬を朱に染めて、信一郎さんが居心地悪そうに重心を右に左にと移動させるのだが、私はその花も恥じらう乙女のような素振りにある予感めいたものを感じて押し黙ってしまった。その代わりに緋奈子が何でもない風に両手を頭の後ろにやって返答する。
「ああ、あの人達なら今頃、叔父さんに刀の話を聞きに行ってるよ。一応仕事で来てるからね」とそこまで言い切ってから、ふと顔を上げて信一郎さんを凝視すると、何度も「え?」と口に出しながら私と目を伏せた彼とを交互に見比べていたのだが、突然何らかの臨界点に到達したのか声にならない叫びを掌で抑えながら目を丸くして信一郎さんの肩を叩く。その衝撃で彼が思った以上によろけたのだが、きっと今の張り手は凄まじい腕力が込められていたに違いない、と言い切れるほど乾いた音が廊下に木霊していた。
「え、嘘ぉ・・・ひと目惚れってヤツ?きゃぁ!」
「きゃぁって・・・そんな女の子らしい声出せたの」とあまりにもイメージとかけ離れた甲高い声を彼女が上げたために、予期せず本日二度目の私の本音が顔を出してしまい、じろりと緋奈子に睨まれる。度々彼女が亜莉亜さんに向ける類の視線だったのだが、まさかそれが自らに向けられることになるとは露も思っておらず、その威圧感に圧倒され「何でもないわ・・・」と引き下がるしかなくなってしまった。
やはり、この視線を受けても尚毒を吐ける亜莉亜さんは只者ではない・・・。
一方、信一郎さんは高速で進むうら若き乙女の妄想に歯止めを掛けるために、慌てて手を左右に振りながら、「いや、そういうんじゃないんだ」と早口で呟いてから、少し考え込むように押し黙って肘をさすりながら話を続ける。
「まあ・・・素敵な女性だとは思った、かな」
その素直で、曇りのない好意に、否、迷うこと無くそれを示せるという特権に私はひりつくような感情を覚え、目を強く瞑り、囃し立てるような緋奈子の声から意識を遠ざけるために歯を強く噛み締めた。
特権、とは何だろう。
好意を堂々と示せる権利のことだろうか。
美男美女お似合いだろうなとか、優しく大人びている彼なら、きっと亜莉亜さんの破天荒さも困ったように笑って受け入れられるのだろうなとか、勝手な想像をしているだけで、何もかもが擦り切れそうになる脆弱な自分が許せなかった。
この制御不能の感情を飲み込む術を知らない私は、結局最低な形でそれをアウトプットしてしまう。
「趣味が、悪いんですね・・・」
そこまで発言して数秒後、二人の動きが固まってしまっていることに気づき、ハッと我に返って無理やり笑顔を作り、冗談っぽくして「あんなに傲岸不遜な人間は中々いませんから」と続けたのだが、彼は私の偽物の笑顔を唖然として数秒間見つめたかと思うと、ややあって次はしっかりと精悍に笑って優しげな口調で言った。
「だけど、綺麗な人だよね、彼女」
じぃっと私を見透かすような澄んだ瞳で見つめられて、思わず口をつぐんでしまう。
この人は私が何と言い繕ったとしても、この内側にある答えを見抜いているのだろうと抵抗なく察せられ、それならばとこちらも半ば意地のような形でそれに答えた。
「そうですね、『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』とは正に亜莉亜さんのためにある言葉だと思います」
「え、えぇ・・・深月までべた褒めじゃんか」と何故か肩を落として、愚痴っぽく呟いた緋奈子の眼前に人差し指を立てる。それを彼女が目を丸くして捉えた後、私は庭園に続く道らしき方へと足を進めながら、くるりとターンして見せた。
真っ白の彼女に貰ったワンピースの裾が傘のように均等に膨れ上がって、その白い残像を木で出来た廊下の上に刻みつけると、私はにっこりと艶やかな微笑みを浮かべてから一言ずつ丁寧に発音する。
「でもね、『綺麗な花には棘がある』というの亜莉亜さんにぴったりの言葉だと思うわ」
そう告げてから私は蛇足かと思いつつも、「亜莉亜流に言うと、ね」と加えてから緋奈子に対して片目を瞑ってみせる。
明確に亜莉亜さんをイメージして行われた一連の動作に目を見張った信一郎さんは、呆れたようにも、感心しているようにも受け取れる苦笑を浮かべて静かに言った。
「君は・・・本当に彼女が好きなんだね」
その言葉に私は少し失望した。
失望など、いつぶりに他人に抱いただろうか。両親が死んでからはずっと諦観と支え合って生きてきたこの身だ。
それにしても彼は思い違いをしている。
きっと彼は誰の中にだって真っ直ぐな感情があると信奉しているんだろう。
だが、彼には悪いが、瓶の底で澱に浸かりながら生きてきた私の中にはそのような一言で片付けられる感情はほとんどゼロと言って良いほど少なく、逆に自分自身でも分からなくなるような複雑怪奇な信号しかこの表皮の下には存在していないのだ。
だからこの質問には何の動揺もなく答えられた。
「違います」
そうしてその場を後にして行く自分が何だか普段とは違いすぎて、自己の意識と身体との一体感を失ってしまったように思えたが、そのある種の浮遊感が新鮮で刺激的であったため、私は満足した心地になって、次に気がついたときは庭園の見える縁側まで辿り着いていた。
パッと後ろを振り返ると丁度緋奈子も縁側に出てきたところであったが、彼女は正気に戻った私を見つけると呆れたように口を斜めにして腕を組み、責めるような語調で告げた。
「深月、急にどっか行くから信兄ちゃん驚いてたじゃん」
「あ、ごめんなさい・・・」と申し訳無さに肩を小さく竦めながらそう返すと、緋奈子はいつもの優しげな顔つきに戻って、「まあ、いいんだけどね!趣味が悪いってのは私も同感だし!」といたずらっぽく笑ってみせたので、私はとても救われた心地になった。
多少の寄り道はあったのだが、当初の予定通り私達二人は件の庭園を訪れ、その荘厳さに感嘆のため息を漏らして庭園の中通路をゆったりとした歩調で進んでいった。
桜の木を取り囲む色とりどりのペチュニアの花に沿うように通路を半円形に曲がると、中心に据えられた桜の背面へぐるりと回り込む形になるのだが、大木の向こう側には六メートル程度の池が広がっており、その中心には睡蓮がひっそりと華やかに咲いていた。
蓮の葉に乗ったアマガエルが私達に気づいた途端勢いよく飛び込み、水面を黄緑のラインが裂いていく。その水面下には何匹かのオタマジャクシが忙しなく尻尾を動かし微動している。そしてその上空には蜻蛉が二匹繋がったまま水面をノックするように飛び回っており、産卵の準備をしているようであった。
彼らの子供が生まれ出でたとき、水の中は阿鼻叫喚の地獄と化すか、あるいは餌の方が住む世界を変えてその子達にとっての地獄となるか・・・。
どちらにせよ、地獄が残る。
幸福は、誰かの不幸と引き換えにしてもたらされている、とは誰の言葉だっただろうか。
幼い頃の私が味わった不幸が、きちんと誰かの幸福に羽化できていたならばいい。
どうして、今こんなことを考えているのだろうと、可笑しくなっていると、ふと勝手に視覚的情報を搬入してくる二つの眼が奇妙な影を捉えた。
池の向こうにある山茶花の生け垣、そのまた更に向こうに赤煉瓦で造られた二階建ての建物が見える。
蔦が伸び切って朽ちかけた壁面に備え付けられてある窓の先を何かが横切った気がして、目を見張った。いや、正確には横切ったというよりも往復しているという表現が適切かもしれない。
「緋奈子、あの建物は?」とぼんやりとした口調で尋ねつつも、その焦点は一箇所に釘打たれたように動かなかった。
「え、ああ・・・あそこは昔叔父さんたちが住んでたところだよ。今は倉庫代わりに使ってるみたいだけど」
そう言った彼女は「あ」の形に口を開いてから嬉しそうにこちらを振り向いて、私の手を取り、言うが早いかそちらの方向へとグイグイ引っ張っていく。
「そういえば、あそこに古い本とかも仕舞ってあるんだったよ!静かだろうし、掃除はいつも武野さんがしてくれてるはずだからきっと読書には最適だよ」と読書する習慣のない彼女がそう告げたので何処か少しだけ微笑ましかった。
黒い小石が敷き詰められている庭を、軽快なリズムで音を奏でながら来た道とは違うルートを通って時津邸へと戻っていく。
田んぼの畦道や、長い階段を登っているときは無論感じていなかった山中特有の涼しさを身体全体で受け止めつつ、遠く高い空に煙のように広がっている入道雲に夏の雨の臭いを予感しながら、汗ばんだ彼女の掌を見つめた。
マメが出来て、それが破けてを繰り返しただろう掌には女性特有の柔らかさと冷たさを確かに残していながらも、彼女が努力を欠かさない武道家であることを如実に示しており、私は何の傷もついていない自らの掌が急に情けなくなってしまった。
緋奈子のように卓越した才能も、それを最大限活かすための努力もしていなければ、紅葉のように冷静で客観的な物の見方、さらには気遣いや仕事が出来るわけでもない。そうなると尚の事、亜莉亜さんの足元にも及ばないだろう。
自分にも何かが欲しかった。
研ぎ澄まされ、磨き上げられ続けた何ものかが・・・。
なんて口にすれば、皆きっと笑うのだろう。
私の根拠のない不安感をよそに緋奈子は一切の迷いなく道を進んでいる。
時津邸の構造は、庭園を中心にしたコの字型のデザインであり、庭園から見て正面側に昼食を食べた広間、その二階には私達に用意された客室が位置している。さらに庭園から見て左側には本家の人たちの私室があるらしく、逆に右側には使用人の部屋や娯楽部屋が設けられているようだった。おそらく亜莉亜さんたちは今頃建物の左側部分で、一家の大黒柱に事件の経緯を聞いているところのはずだ。
庭園の位置とそこから入った邸宅の入り口を鑑みれば、現在地は建物の右側に位置する部分の真ん中辺りに相当するだろう。改めて私はここの敷地の広さに驚かされた。自分と緋奈子の横をすり抜けていく木枠窓の向こう側の景色が私の暗い瞳の虹彩に反射し、幼少時代の幻を脳髄に蘇らせていた。
子供の頃に見えていた煌めきに満ちた世界が、今では思い出の中にしか感じられないのはどうしてだろうか。昔も今も変わらず未成年のままなのに、何が変わってしまったのだろう・・・。
きっと複雑になってしまった。色んなものが私の人生に絡みついて来て、それを取り払うのに必死になって時間を費やしている内に身体だけが異様に成長し、精神は歪な方向へと枝を伸ばしてしまった。その枝は四方から来る外敵を排除するためにあちらこちらに伸びてしまい、今では不規則で醜い形を為してしまったようだ。
ベージュ色をした板張りの廊下は数十メートルほど続いており、ダーツ・ビリヤードルームやオーディオルームといった掛札がぶら下がった部屋が確認できたが、緋奈子はそれには目もくれず突き当りにある勝手口の扉まで初めの勢いのまま辿り着くと、息切れをしている私が彼女の予備パーツのように、だらりとした手を介して繋がっていることを思い出して申し訳無さそうに眉を下ろした。
「あ・・・ごめん」
「もう、そんなに引っ張らなくてもちゃんとついて行けるわ」
冗談半分、本気半分といった様子で彼女を責めるような目つきをした私に、「そうだよね」と軽く笑いながら彼女はその手を離したのだが、くっついていた部分から急激に熱が冷めていくのを感じ、心の隙間に一陣の風が吹き抜けていく。同様に開け放たれた眼の前のドアからもひんやりとした山の空気が建物内に流れ込んできて、二人の髪がふわりと舞い上がる。
夏の夕暮れを前にした涼やかな風が正面に続いている旧邸宅との道をなぜて、思わず私は彼女よりも先に出てその風を受け止めながら周囲を見渡した。
左右が木の塀でしきられているため風の通り道になっているのだが、そのせいか気温がやけに低く、またそれと同時にやたらに羽虫があちこちで集団を形成しており、通る際に気をつけなければ口の中に入ってきそうだと不快な想像をしてしまう。それを緋奈子も理解しているのか、二人の薄く黒い影は黙ったままの状態で颯爽と細道を過ぎ去っていった。木の塀の所々には欠損箇所が有り、その古さと続く建物の老朽を示しているのだった。
(ⅲ)
「うわぁ、思ってたよりも埃臭いね」
そう言った彼女は鼻と口を手で覆って、顔の前で手を縦にして左右に振った。実際彼女の言う通り、旧邸宅はとても手入れが行き届いているとは思い難く、四隅には蜘蛛の巣が張り巡らされており、窓枠の縁や手すりには埃が積層している。底が抜けないことのほうが不思議に思えるほどに床板は悲鳴を上げ、それなりのサイズの窓から漏れる光が宙を舞う塵に反射しその空気の悪さを助長していた。
私としてはこのような建物の中に安住の地があるとは考えられなかったのだが、折角緋奈子が私のためを思って提案してくれたプランだったので無下には出来ず、導かれるままに奥の方へと歩みを進める。
「ねぇ、深月」と先頭を歩いていた緋奈子がターンして振り向き、珍しくこちらの顔色を伺うような遠慮がちな声音で彼女が問いかけた。
「どうしたの?」
「あのさ・・・やっぱり、深月ってさ」
そこまでは何とか口には出来たが、それ以上がどうにも自分の口からは言えない、といった風に躊躇して緋奈子は視線を床に落とし立ち止まったので、私もつられて足を止めた。
どこからか吹き込んだ風が彼女の短くなった髪を揺らしたので、私達は入り口の扉を閉めないままやって来たのだと気づいたが、歯切れの悪い緋奈子の様子が引っかかって口をつぐんだままその表情を観察した。やはり普段どおりの彼女らしくない不安気な面持ちで一瞬だけ私の方を向いて、それから目が会うや否や窓の外の光景を見つめだす。
「緋奈子・・・どうしたの、貴方らしくないわ?」と首を傾げつつも、自分のその言葉に彼女がどう反応するかをひっそりと待つ。するとようやく真っ直ぐに顔をこちらに向けて、何度か口を開閉した後に決死の覚悟を決めたような形相で私へ告げた。
「やっぱりさ、好きなの?」
「・・・え?」
刹那、静寂が訪れた。
思わず耳を塞ぎたくなる、痛みを伴う静寂だ。
だが彼女は私が両手を耳のところに持ってくる暇を与えずに、苛立つようにして言葉を続けた。
「亜莉亜さんのこと」
先程までは言葉に詰まりながら、たどたどしく語っていた彼女だったのに、その一言を発するときはやたらに滑らかで、もう随分前から言葉を口にする練習をしていたかのように自然だった。
あまりにも不意打ちだったため、一瞬間私は言葉を失っていたが直ぐに感情を立て直し、何でもない風にその問いに答える。
まるで、あらかじめ答えを用意していたかのように。
「勿論好きよ、モラル的には色々と欠損した人だけど・・・それでも私を救ってくれたんだもの」
胸の奥に閉まってあって、開封厳禁と名付けられたフォルダから一枚だけ写真がはみ出している。亜莉亜さんの照れ顔が刻みつけられたその写真は、私の体温を上気させた。
私のその言葉に彼女はふっと一瞬だけ表情を陰らせたが、まるで予期していたかのようにすぐさま平静を取り戻して「そっか」と簡素に返したのだった。
頭の中の残像を、瞳を閉じて消し去ってから、私は再び前を歩き始めた彼女を呼び止めるように声をかけた。
「でも・・・勿論緋奈子のことだって大好きよ」
それを聞いた彼女は急に電源を抜かれた機械のように体を大きく震わせてから、目を大きく見開いて首だけで私の方を振り向いたのだが、次第に恨みがましい顔つきへと変わっていった。凛とした眉の角度をキツくして、腕を組んでから私の視線と自らの視線とを衝突させる。それから口を少しだけ開けて言う。
「深月のそういうところ、ずるい」
「え・・・」
驚きに私が聞き返すと、緋奈子は気まずそうな顔になって何事もなかったかのように踵を返しながら「何もない」と呟いた。
ずるい、と聞こえたけれど・・・自分の聞き間違いだろうか。
だが、私の何かが彼女を傷つけた気がする。
遠ざかる緋奈子の背中に手を伸ばして声をかけようとしたのだが、一体全体自分が何を口にし、何に対しての言い訳をしようとしているのかが分からなくなり、その手は虚空を掴んだだけで終わった。
そうして彼女と距離が開いたため、小走りで詰め寄ってすぐ後ろに並んだ。本当だったらその隣で肩を並べたかったのだが、今はそれを彼女が望んでいないと自然に察せられた。
建物の突き当りにある古びた二枚扉を緋奈子が開けようとしたが、レールの何処かが錆びているのか上手く開かず、彼女が両手に力を思い切り込めて戸を引いたことでようやくズレるようにして開いた。
むせ返るような埃っぽさと、カビ臭い古書の匂い、それから鼠でも死んでいるのか生臭い香りが立ち込めている。そのせいで室内は何とも言えない雰囲気に包まれており、なるほど、これはこれで味があると言えなくもないと一人で納得していた。
「あの・・・少し手に取って見てもいい?」と遠慮がちに尋ねる。
「うん、勿論・・・」
一応彼女の許可を得て、身長よりも二倍近くある本棚を仰ぐようにして見上げる。
どうやら吹き抜けで構成された二階造りのようで、見上げた視界には手すり付きのスペースが確認でき、どこかから上がることができればこの書庫を一望することができそうである。そうした本棚の列が四、五列あったかと思えば壁面にはマガジンラックが設置されていて、娯楽本も並んでいるのが確認できた。剣術一家といえども、やはり読書する習慣がある人間がいるのだなと奇妙に納得しながら、私は左手にある本棚へと近寄った。ざっと眺めてみたところ、武術に関する本はほとんど存在せず、文学小説から歴史小説といったものが主に並んでいた。
ふと見覚えのある背表紙を見つけ、引き寄せられるようにその本を手に取る。
「面白そうなの、あった?」
どうやら彼女はこの独特な空気が耐え難い様子で、入室した途端直ぐに窓際に向かいその鍵を解錠し窓を開けており、大きく開かれた両開きの窓から新鮮で心地よい風が入り込んでくるのを肌で感じた。
その空気を鼻孔から深く体内に取り入れて息を吐き出すようにして言う。
「ええ、今読んでいるものと同じ・・・『嵐が丘』よ」
かすかに頬を綻ばせてそう答えると、彼女は「ふぅん」と興味が無さそうに窓枠に乗り上げ、足を組んでから頬杖をついたのだった。その裾が上がって露出する交差した足は変わらずに真っ白いままで私の心を揺さぶった。
彼女は私の食い入るような視線を敏感に感じ取り、あるいはあからさまであったために気づいたのかは定かではないが、ともかくさっとまくり上がった裾を手で下ろし、顔を赤らめてから私の方を睨みつける。
「・・・なに」
「え、いえ、何もない・・・です」
思わず敬語になった私を彼女は睨み続け、その責めるような視線から逃れるようにして私は本を元の位置に戻して反対の本棚へと向かったのだが、こちらも内容は似たようなもので大して代わり映えしないラインナップであった。チラリと彼女に視線を戻すと、既にその目は外の庭園へと向けられていたが、一階からではほとんど生け垣しか見えなかった。
私は彼女の側へと歩み寄り、身体をくっつけるようにして同じ窓枠に腰掛けた。狭い隙間に身体をねじ込むようにしても緋奈子は隅には移動せず、かえってじっとしていたためほとんど互いの距離はゼロ、ないしマイナスであったのだが、それも緋奈子とであれば何だか嬉しかった。
急に密着して来た私に愚痴を零すように緋奈子が私の名を呼んだが、聞こえぬふりをして外を眺め続ける。
山茶花の深い緑に強張った身体の緊張が軽くなっていくのを自覚して、ほっと息を漏らしながらも緋奈子へと言った。
「室内と違って、窓の外はいい空気ね」
「・・・別に、中も嫌な匂いはしないじゃん」
未だにご機嫌斜めな様子の彼女の言葉に笑いながら、「そんなことはないでしょう?変な匂いがするわ」と答えた。
「変って・・・ちょっと埃っぽい匂いはするけどさぁ・・・一体何の匂いがしてんの?」とそこでようやく彼女が笑ったことで、内心ほっとしながらその問いにテンポ良く返事をする。
「そうね・・・何だか、こう・・・生臭いような、うぅん・・・何か干からびているような・・・」
瞬間、自分の口から吐いて出た言葉に、身体が凍った。
パッと、心の中の自分を見つめる。
少女が、見ている。
こちらを、見て、嗤っている。
薄桃色の唇が、歪な弧を描いていた。
合図だ。
自覚した瞬間から、この感覚は光の速度で私の全細胞に圧力を加え始めるのだ。
ぎしぎしと、軋む音が耳の中でなっている。
私はここに来た理由を思い出して、二階の窓を反射的に見上げた。
「―――っ」
直視したことを後悔し、私は何とかそれから目を逸らそうと試みるが全て徒労に終わった。
干潮時の波打ち際のように血がさっと引いていき、周囲の温度が突然下がってしまったのかと錯覚を覚える。
窓の直ぐ側の梁に、天から伸びた蜘蛛の糸のように麻縄が垂れており、その縄の終点にミノムシに似た姿でそれはぶら下がっていた。
不可思議な力でも働いているのか、それを揺さぶるほどの強風が吹いていないこの室内でも物体は一定間隔で揺れている。
まるでメトロノームだ、と場違いに考えた。
久しぶりに目にした歪な存在に四肢が冷え切っていくと同時に、早鐘を突く心臓の鼓動の音が遠く耳の奥で鳴り始めた。
少し離れた窓枠の方で緋奈子が私の名前を呼ぶ気配を感じたものの、小刻みに揺れるあの姿に視線が縫い留められたように動かせず、そのため否が応でも観察せざるを得ない状況に陥っていた。
白のTシャツに紺色のスカートを着ており、その裾の先からは青白く細い手が枯れ木のように地面に向かって生えていて、さらに髪は黒く短い。充分に目視できる距離だというのに顔の輪郭はぼやけて、一体どんな顔立ちをしているのかは確認できなかったが、まず女性だということは体つきで分かったし、同様に体つきや肌質からその年齢も、私達とそう大差ないくらいだと推測できる。
見た瞬間は全身から血液でも抜かれたのかと思えるほどに寒気を感じたのだが、そのせいか、急速に思考が冷静さを取り戻していき、私は意識してその呪縛から逃れることに成功し緋奈子の方を見やった。
「深月・・・?さっきからどうしたの、ボッーっとして」
「・・・その、ここ・・・」と私は彼女にどう伝えたらいいものかと苦心しながら、次の言葉を探していた。
最初はあまりにも唐突だったので驚きはしたが、首吊り死体の霊を見ること自体はそう珍しいことでもなかったため、比較的スムーズに落ち着きを取り戻すことが出来た。もしかすると近くに人が居たこともその助けになったかも知れない。
折角一度逸した目を再び彼女に向け、その様子を確認する。
改めて観察してみると、彼女の輪郭や存在感はもうほとんどこの世には残っておらず、その身から出る残滓を多少知覚することが出来るくらいで、昨日今日亡くなった人間の霊ではないことは間違いなさそうであった。少なくとも四、五年、いや十年は経過していると予想してもよさそうだ。
緋奈子は、明らかに挙動不審になった私を怪しむようにじっとりとこちらを見つめていたが、私に倣うように視線を二階部分の窓へと向けると、途端に目と口を大きく開いて、それから私の方をゆっくりと緩慢な動作で振り向きながら苦々しい口調で尋ねた。
「ちょ、ちょっと待ってよ・・・な、何かいるのぉ?」
「え・・・えぇと」と突然怯えの様相を呈した緋奈子を見て困惑した私は、何と言ってあげるべきなのかが分からず曖昧な言葉を漏らしてしまった。
「えぇ!ほんとに居るの?冗談じゃない、早く出ようよぉ!」
「待って緋奈子、落ち着いて、一人で行かないで・・・!」
私の態度から状況を的確に判断し、足早に部屋を立ち去ろうとする緋奈子を止めようとするも、彼女の猪突猛進ぶりに圧倒され、結局窓を開けたままで去りゆくその背中を追って扉へと近づいた。
そのときだった。
彼女が戸に手をかけるよりも数瞬早く扉が浮き上がり、入ってきたときと同様にレールに詰まって大きな音を立てた。
「え、え、知らないって、誰?もういやぁ!」とそのポルターガイストのような非自然的作用に驚愕し、緋奈子が情けない叫びを漏らして取り乱す。
私は、「落ち着いて」と震える彼女の肩に手を置くが、かえって彼女を驚かせたようで、再び甲高い叫び声を上げてその身を飛び上がらせてしまった。
この間も彼女はこんなに怯えていただろうかと記憶を辿ろうとするも、また扉が大きな音を鳴らして一人でに浮き上がり、ガタガタと短い間隔で上下運動を行ったため、いよいよ緋奈子は声も出せなくなってその場にへたり込んでしまった。
私はそのあまりにも強烈な現世への干渉に違和感を覚え、もう一度首吊り女の方を振り向いた。今にも消えそうなほどに霞んだ彼女にこのような力があるとは思えないし、私自身ポルターガイストというものに遭遇したことはなかった。
何かがおかしい、そう考えた私は意を決し緋奈子の前に進み出て両手を戸に掛ける。
「深月!ぜったい、絶対止めたほうがいいってぇ!」
彼女のヒステリー気味の制止を無視して、思いっきり扉を横方向へとスライドさせる。
足元に蹲っていた緋奈子が反射的に頭を抱えこんで短い悲鳴をあげたが、その開け放たれた扉の前に立っていたのは霊体などではなく、予想通りただの人間で、さらに言えば見知った人間でもあった。
「あ・・・?何してんの、こんなところで」
「・・・そ、宗二兄ちゃん、と三好兄ちゃん?」
目を潤ませて座り込んだ従姉妹を目の当たりにした二人は互いに顔を見合わせた後、肩を竦めながらも短く息を吐いて口を開いた。
「何やってんだよ、こんなところで」
「に、兄ちゃん達こそ・・・何してんのさ」
緋奈子は泣き面を見られたことが余程恥ずかしいのか、顔を真赤に染め、咳払いをして二人に当たり散らすように厳しい口調で質問した。
その見覚えのない敵意に触れられ、不快な顔を隠さなかった宗二さんに比べ、三好さんはかなり冷静なままで彼女を見返すと無言のまま首をかすかに捻った。
二人の姿をその目で確認したからなのか、緋奈子はすっかり落ち着いてぶつぶつと小言を呟いている。まあ、元はと言えば彼らの突然の来訪によって酷く取り乱したようなものなのだから、二人のお陰というのは多少不適切な言い回しになってしまうだろうが。
「僕達はここに保管している本を借りに来ただけですよ」
そうつまらなさそうに言って彼は入り口に立ち尽くしたままの宗二さんを押しのけたので、それを見た私も入室の邪魔にならないようにさっと扉の前から身体を横にずらして退いた。
彼は何故か部屋中をぐるりと二度三度程見回してから、何かを警戒するような足取りで敷居を跨いだ。それと同時に私の後方で何かが音を立てた。
そこそこ重さのある麻袋を落としたような乾いた音に、風で何かが倒れでもしたのかと何となく身体を回転させて背後を見据えたとき、私の頭は鈍器で殴られたような衝撃を覚えて一切の思考を数秒の間停止させてしまった。
「ひっ・・・」
風が狭い隙間を通り抜けるような声が口の端から漏れ、それを耳聡く聞き取った緋奈子が不思議そうに私の名前を呼んだのだが、そんな声が気にならない程に私の目に留まった物体からは異質さが放出されていた。
子どもたちがはしゃぐ公園で眠る、浮浪者。
真っ白なハンカチに染み込んだ一滴の珈琲の染み。
道路に血を吐き横たわる獣の死骸。
それらに似た穢れが途端に室内に拡散していく。
誰もが忌避し、見て見ぬ振りをしている。
私は何を見ていない振りをしているのか、いや、違うそんなことはどうでもいいはずだ。
何故今それが気になる。
自分の感情に忌避感など抱いていない。
私は、見て見ぬ振りなどしていない。
全く違う自分が同時に行っている二種類の思考が、視覚による情報収集を疎かなものに変えてしまっていたが、麻袋のように横たわった彼女の瞳が、唇が死んだ虫の痙攣のように小刻みに動いたことで再び冷静に稼働する。
ぶら下がっていた彼女の死体が地に落ち、生者である私達を恨みがましく睨めつけながらも、その口元からは呪詛らしき言葉が抑揚のない口調で延々と繰り返されている。
彼女が何者なのか、時津家の人間なのか、一体どうしてこんな人生の締めくくりを迎えたのかは全く想像も出来ない。だが確かなことは、彼女の中には未だに消化しきれていない怒りや憎しみが残っているということだ。
何を言っているのかここからでは聞き取れず、もう少し距離を詰めれば彼女の声をしっかりと聞き取ることが可能そうであったが、決してそれが今の自分に良い影響を与えるとは思えなかった。
目を背けて、適当に理由をつけて今すぐにでもここから立ち去ることがベターな選択肢だということも理解できている。だが・・・。
今見て見ぬ振りをすることには、まるで先程の自分の問いを暗に肯定してしまうようで、釈然としない苛立ちと多少の抵抗を伴うものであった。
室内に足を踏み入れた三好さんとは違う方向、すなわち芋虫のように地面に身体を擦り付けている彼女の元へと足を一歩二歩と進めて、震えだしそうになる手足と心をワケも分からぬ意地だけで押し留めた。
彼女の瞳は私を捉えておらず、ただ虚ろに宙を右に左にと彷徨っているだけだったが、二人の間の距離が二メートルもない位置まで移動すればその声だけははっきりと聞き取る事が出来た。
――ドウシテ
そう何度も、何度も壊れた機械のように言葉を発し続けている彼女を見ていると、全身から冷や汗が滲み出るのと同時にどうしようもならない憐憫を感じてしまっていた。
「貴方は・・・」と続く言葉もないのに独り言を呟くが、元々声量の小さい私の声は誰に聞こえるでもなく泡のように弾けて消えた。
女の無反応さに思わずため息が出る。
もうやめよう、自分に何が出来るわけでもない。
私はただ見えるだけだ、成仏させたり、除霊したりといった超能力じみた芸当ができるわけでもないのだ。
何かしてあげたいなどと思うのは、自分のことさえままなっていない今の私には分不相応の、思い上がった願いだ。
どうせ、救えはしない。
そう考えて、無力感に近い胸の痛みを誤魔化すように、「ごめんなさい」と呟き踵を返したときだった。
――ドウシテタスケテクレナイノ
ほんの耳元で囁かれたような肉声に反射的に背後を振り返る。
先程までは何も映し出していなかった鈍い輝きをした鏡のような瞳が、仄暗い闇を宿して、驚愕と恐怖に目を見開いた小娘の顔を映していた。
その双眸に反射した自分の姿を認識した途端、意識が身体と分離するような錯覚と共に、全身から五感が遠のいていくのを感じた。肉体的な感覚の代わりに私の身体を支配し始めていたのは霧がかったように不鮮明な記憶、光景で、それらの多くが身が捩れるような恐怖や悔しさを想像させるようなものだった。
見たくもない、暴力。
聞きたくもない、悲鳴。
知りたくもない、痛み。
目を閉じ、耳を塞ぎ、認識しない。
自分を守る最上の手段だ。
雑然としたテレビの砂嵐とホワイトノイズの中に、断片的ではあるが彼女がこうなった悍ましいルーツが垣間見えた気がしたが、私は彼女の記憶の欠片が体内に逆流してくる恐ろしさに、自ら電源を切るようにして意識を手放した。
最後に脳裏に浮かんだのは、麻縄で丸く結われた輪の向こう側に見える、この部屋の景色だった。
(ⅳ)
相変わらず過装飾で趣味の悪い廊下を黙々と歩き続けていると、まるでこちらの方が異質であるかのような錯覚が生じる。
コの字型の建物は三本の直線的な廊下を主軸にしてデザインされているようで、二階だろうと一階だろうと必ずこの端から端まで見渡せる廊下を通らざるを得えない設計となっていた。私達招待客は構わないだろうが、ここにずっと住んでいるとあまりに明け透けなデザインに嫌気が差さないのだろうかと不思議に思える。
私達に用意された部屋から右手に真っ直ぐ進んで突き当り、その左手にある扉を開けるとコの字型の角を曲がる形で本家の人間の居住区へと出る。最初は派手な印象を抱いた時津邸だったが、こうしていくつかの場所を見て回ってみると、思いの外シンプルな構造で、どのエリアも他と変わらないデザインで統一されているのが分かる。ただそのデザインの内容が、不必要なまでの装飾と過大な空間といった個人的にはナンセンスの極みであったから、決して評価できるものではなかった。
昼間の西日が窓から降り注ぎ、それを浴びながら紅葉が腹の立つ意味ありげな笑みを浮かべてこちらを横目で見ているが、それに気づきながらも私は敢えて無視を決めこんでいた。
こういうときはどうせ碌でもない話の内容なのだ、そんなことに時間を割いてやるほど暇ではない。
彼女を視界に入れないために逆側の窓から外を眺めて、足早に目的の部屋まで進んでいく。
ここからは外の大きな桜の木が植えてある庭園が一望でき、その雄大さ、雅さには流石の私も感心する他なかったのだが、その向こう、庭園を挟んで時津邸と対象になるように建てられている大きめの建造物に目がいった。
明らかに時津邸よりも年代物の建物であったが、かといってそこまで昔の建物とは思えない程度の老朽化具合だったため、今でも何かに使われているのか、あるいは誰かが住んでいるのかもしれないと予測し、今から会う人間に尋ねてみてもいいかと心の中で判断した。
ここ最近ずっとつまらない仕事漬けであったため、久しぶりにスパイス香る出来事に巡り会えそうな予感を感じ、心の何処かでは舌なめずりしている自分の存在を確かに自覚していた。
紅葉のせいで事務所ではフラストレーションを募らせていたのだ、今回はじっくりと楽しませてもらおう。私のサマーバケーションを。
無意識の内に口元が綻んでいたのか、会話の端緒を探していた紅葉が目聡くそれを捉えて指摘してくる。
「亜莉亜さん、何か嬉しいことでもあったんですか?」
その言葉の後に、あったんでしょう、と断定の意味を含む言葉が付加されていたため、私は舌打ちをしながら「別に何もないわ」と淡白に返答する。
「深月さんのことですか?」
そう言って見当違いのことではにかむ紅葉の顔は、どう見ても二十代の女性のものではなかった。
「別に何もないと言ったでしょう、どうしてそうなるのかしら」
「さっき、二人きりで何を話されていたんですか?」
「鬱陶しいわね、何でもないわよ」
珍しく詮索屋になっている紅葉に苛立ちを感じながらも、話を打ち切るために足早になって目的の部屋へと急ぐ。日頃大人しい分、自分の意志を一度前面に押し出してきた紅葉は梃子でも動かないと知っているからだ。
「えぇー本当ですかぁ?」
彼女は前かがみになって、行く手を塞ぐように私の前に身を乗り出して薄ら笑いを浮かべている。紅葉だってその職業に恥じぬ程度には優れた観察眼を持っている。自分の内側に土足で入り込まれるような真似はあまり愉快ではない。
身体を半身にしてその追求から逃れるようにして脇を通り抜ければ、事前に一義さんと約束していた部屋はもうすぐ目の前になる。
「亜莉亜さん」と私の半歩後ろで立ち止まったままの紅葉が急に真剣な口調になって私の名を呼んだ。
その様子からして、彼女が先ほどまでの冗談とは違った趣旨の話をしたいのは想像できたものの、私は意図して大儀そうな表情を作って首だけで振り向いた。奇妙な優しさが込められた瞳を真っ直ぐにこちらに向けて佇む姿は、アシスタントとしての綺羅星紅葉ではなく、親しい友人の顔をした綺羅星紅葉であったように思えた。当然、私が彼女に同様の親しみを抱いているかは別としてだが。
一度視線を床に落として、言葉にするべきか逡巡するかのような素振りを見せたが、結局顔を上げてほんのりと和やかに微笑み口を開く。
「良かったです、最近は深月さんのお陰で張り合いが出来たみたいで」
「・・・張り合いなんてないわよ」
肩車をしたところでとても手の届かないくらい高い天井から、SF映画に出てくる宇宙船のような形状をした照明が垂れ下がっており、窓から差し込む光量だけで充分に明るくなっている通路を不必要に照らしている。
自然の光だけでも何一つ不便ではないというのに、どうして真っ昼間でも明かりを点けているのか。きっともう習慣化しているのだろう。当たり前になった事象は、その必要不必要に関わらず目的もなく使われることが往々にしてある。
紅葉にとって、人とのリレーションシップというのがそれに当たるのであろう。
「嘘ですよ、だってさっきはあんなに真っ赤になって出てきたじゃないですか?」
自分が人と人との繋がりのお陰で生きていけていると信じているから。
「赤面するのなんていつぶりですか?」
他人もそうだと思いこむ。
「・・・僕は嬉しいんですよ?」
誰もが自分以外の何者かと支え合って生きていたいと願っているのだと。
「まるで――」
孤独で生きることは間違っているのだと言わんばかりに。
「あの頃の亜莉亜さんが、戻ってきたみたいで・・・」
あぁ、もう、うんざりだ。
憐れまれるのも、手を差し伸べられるのも。
要らないのだ、とうの昔に捨ててきたのだ。
「黙りなさい」
一人では生きられないような、そんな脆弱な自分はもういない。
そうでなければ、私の目的は果たせない。
私の怒りの放射を受けた彼女は、あ、と口を開けて、自分の発言を悔いるように悲痛な面持ちになって俯いた。
「ぼ、僕は・・・ただ、亜莉亜さんが元気になってくれたのが嬉しくて・・・」
黙れ、なんて命令普段は気にもしないくせに、こういうときだけしおらしくなって自分はいつだって善人であろうとし続けるのだ。いや、違う。紅葉は性根からの善人で人格者だ。この歳でこれだけ気遣いが出来て、人の痛みに敏感で、それを無償で癒そうと世話を焼く人間が善人でなければ、この世の全てが悪と不義理で満ち満ちていると言えるだろう。
だが、時に善意は人の誇りを踏みにじることもあるのだと、彼女は学んだほうが良い。
「余計なお世話よ」
私の拒絶を示すような一言に、紅葉はまた辛そうに顔を歪めてから、何かを口にしようと小さく息を吸ったが思い留まったように押し黙るのだった。
背後から後を追ってくる気配を感じなかったが、私は腕組みをして淡々と無機質な心持ちになって目的の部屋の前まで足を進めた。
チラリと彼女を一瞥したが、未だに項垂れて足を止めている。
こんなときだけ年相応の脆さを見せる紅葉に呆れや、苛立ち、そしてほんの少しの申し訳無さを感じたからか、「行くわよ」という言葉がつい口から出てしまい、それを耳にした彼女は弾かれたように面を上げて、身体を引きずるようにして私の隣まで近寄ってきた。
「すいません」
「・・・別に、何でもないのよ、こんなことぐらい」
紅葉の謝罪にそう答えながら、自分の心の中だけでもう一度、こんなことぐらい、と復唱して自分に言い聞かせた。
様々な感情が撹拌されて出来上がった気持ちを切り替えて、目の間の扉を凝視してノックする。私達の客間とは違って荘厳な鉄の装飾がはめ込まれた二枚扉の向こう側から、「どうぞ」と野太い声が響いてきたので、一度紅葉の方に目をやり、彼女が普段の仕事モードの顔つきになっているのを確認した後浅く頷き、扉を開けた。
「失礼します」と事務的な挨拶を述べて部屋の敷居を跨ぐと、どう見ても私達と同じ遺伝子構造を持っているとは思えない体つきをした一義さんが、両手を膝に乗せて悠然とした態度でソファに深々と座り込んで煙草を咥えていた。
その煙が天井を這うようにして流れていくのを視界の隅で捉えながら、促されるままに彼と向き合うようにして置いてあるソファに腰を掛ける。
彼を改めて観察すると、年齢は六十歳をわずかに過ぎたくらいだろうか、大木に刻まれている年輪のように深い皺が彼の人生の幹の太さを感じさせるが、やはりその体躯からは年相応のものを確認できなかった。
「煙草、良かったかな?もう吸っているが」
「どうぞお構いなく、私の知り合いにも愛煙家がいますので平気です」
一義さんは獣のような唸りと共に口元を歪めて、「そうか」と短く呟いた。
彼は一度ぷかりと煙で作られた輪を吐き出すと、ぎょろりと肉食獣のような野生を宿した瞳をこちらにぶつけた。
「さて、では早速本題に入ろう」と煙草を口に咥えながら話を切り出す。
机の上には灰皿が無いが、一体全体吸い殻はどうする気なんだろうかと不思議に思ったが、自分には関係ないと意識を素早く切り替えて話を聞く体勢を整えた。
「もう一ヶ月近く前になるかな・・・、時津本家に昔から保管されてきた刀、『桐姫』が神社から盗み出されたのは」
一義さんは遠くを見つめるように視線を虚空に向けて、器用に煙草を咥えたまま話を続けており、私は話が一区切りするまでは口を挟まず静観することに決めた。
「『桐姫』には大した学術的価値は無い、どっかに売り飛ばしたって碌な金にもならんというのに・・・」
「あの、警察にはもう知らせてあるんですよね」
「・・・まぁな」と素っ気なく返事をした彼は、喋るのをやめて再び煙草を嗜むことに集中し始めたため、私は違和感を覚え、結局口を挟まずにはいられなかった。
「あまり・・・熱心ではないのね、まるで取り戻せなくてもいいみたい」
「先程も伝えたと思うが、大した価値が無いのだ。別に見つからないならそれでもいい」
「それじゃあどうして緋奈子たちを呼び出したのかしら」
あまりにも要領を得ない返答に、思わず反射的に強い語調でそう返してしまい、隣の紅葉が心配そうに私の横顔を見つめているのを感じた。
そうだ、私が初めからきな臭さを覚えていたのはこの点だった。
「刀が盗まれました、だから親族を呼び出します、というのは些か不自然な話の流れではないかしら?」
自分の体内を巡る血流が静かに冷えていき、私の思考がクリアになっていくと同時に段々と無機質な声音に変わっていく。
私の言葉に彼は重々しく喉を鳴らしたのだが、反論しようという気配は微塵も感じられず、ただそのギラついた視線をこちらに向けたまま蓄えた顎髭を指先でいじるだけであった。
一つ息を吸って、「これはあくまで想像だけれど」と前置きをする。吸い込んだ空気が彼の吸う煙草の煙で煙たく、思わず顔をしかめたのだが元々こうした顔つきだったため誰も気づかなかった。
「親族だけが知る秘密が、その刀・・・『桐姫』にあるのではなくて?例えばそう、刀の出どころや使われた経歴だとか・・・後ろ暗いものがあったとか」
こつんと遂に紅葉が私の脇を肘で小突いたが、この穿った質問に彼が一切の動揺を見せなかったことで私の予測はあながち間違いではなかったことが確信できた。
彼は短くなった煙草を指に挟むと、ソファの肘掛けの先端をスライドさせて、そこに吸い殻を捨てた。煙草を吸わない私からすると、そのようなギミックを搭載したデザインのソファなど無駄に思える。
一度彼は背もたれに身体を大きく預けると、空気中の塵という塵を吸い込むかのように大きく息を吸い込んだのだが、その姿が大海を泳ぐジンベイザメがプラクトンを飲み込むために口を開ける仕草に酷似していたため、ほんの少し笑いが漏れてしまった。
「ああ、そうだな。貴方には隠しても無駄そうだからな、話すべきなのかもしれんな」
彼は低い声でゆっくりとそう呟くと、記憶の箱の蓋を開くように両目を閉じて、それから掌を組み合わせて姿勢を前に倒して語りだしたので、私達二人は無言で頷いた。
「亜莉亜さんの言うようになぁ、『桐姫』にはあまり表沙汰にしたくはない事情がある・・・あれはな、曰く付きの刀、いわゆる妖刀なんだよ」
そのあまりにも突拍子もない発言に、私と紅葉は声を揃えて「妖刀?」と聞き返してしまい、思わず顔を見合わせた。
どうやら話は思った以上にこちら側の世界に属した性質を持ったもののようだと、昂ぶる好奇心が抑えきれず思わず一人ほくそ笑んだ。
彼は私達の驚いた反応に満足したように深く頷き、苦笑いとも嘲笑とも言えない表情を顔に浮かべて鼻息を漏らした。
「それがどんなものなのか、お聞きしてもいいですか?」
「そうしたいところなんだが、俺も詳しくは知らなくてなぁ・・・。」と彼は芝居がかった風に肩を落として残念そうな口ぶりで、「ただこの刀が、数多の名家を没落させたという事実だけが伝わっているのだ」と大仰に瞳を伏せて言った。
なるほど、一族の没落に関わる重大な秘密を部外者の私達にそう安々と教える気はないということか。
そうでなくてはならない、疑心と探り合いこそが退屈な日々を彩る最高の調味料の一つなのだ、わざわざこんな僻地にまで足を伸ばしたのだから、それぐらいのやり甲斐はなくては困る。
私は深月や緋奈子のようにレジャーでこの地を訪れたわけではない。
「とにかくそんなわけのわからない曰くがある刀が、どこの誰とも知らない人間に盗まれてしまったのだから、俺たちも気が気じゃないわけだ」
「なるほど、ですが・・・それでは僕たちは何をお手伝いすれば?」と紅葉が尋ねる。
「とりあえず刀が納めてあった神社を教えよう。そこに何かしらの手がかりがあれば、それを教えてほしい。場所は武野にでも聞いてくれればいいからな」
そう言って話は終わりだという様子で一義さんは立ち上がり、黒い絨毯の上を落ち着きのある足取りでゆったりと歩いて扉の前まで移動し、私達が応接間の外へ直ぐにでも出るようにドアを開け放って片手でどうぞ、と促した。
私たち二人は誘導されるままに立ち上がって扉の前まで来たが、扉の隣に門番のようにふてぶてしく佇んでいる彼の方を横目で見据えて、数秒間視線を交差させたあと、彼に尋ねた。
「最後に一つ、いいかしら?」
「何かな?」と彼が許可を示すより早く身体を彼に向き直り、わざと高い声を出して媚を売るように小首を傾げた。
「そんな持っていてもデメリットしかない刀をいつまでも保管しているのは、何故?」
「・・・どんな品であっても、先祖代々受け継がれてきたものだ。俺の代で勝手に処分できんさ」
くだらない、と私は微笑みの裏でそう考えた。
何が先祖代々だ、物を捨てられず部屋を散らかす人間と同種ではないか。自分たちにとって本当に必要なものを正しく選択することさえ出来ていないだけだ。こいつらが積み重ねてきたのは、技術ではなく、塵芥のように積もった無意味な時間か・・・。
私はにこりと笑って「そうですか」と返し、最低限の礼儀を払うために頭を下げて廊下へと続く扉をくぐった。それに続くように紅葉も応接間から出ると彼は「では、頼んだぞ」と険しい顔を扉の隙間から覗かせて、私達が返事をするよりも早くドアを閉めてしまった。
それから紅葉と視線を交差させると、どちらからともなく無言でその場を離れて、一先ず自分たちの部屋へと戻った。
客間の扉が閉まったのと同時に、紅葉が難しい顔をして「どう思いますか?」と先刻の気まずさをすっかり忘れてしまったかのように問いかけてきたので、私も迅速かつシンプルに彼女に答えた。
「嘘の塊ね」
「・・・言い方が悪いですよ」
「本当のことなのだからしょうがないでしょう。『桐姫』とやらの曰くについても、明らかに私達に何か隠しているのにそれを語ろうとしない。だけど・・・」
そこで一旦言葉を区切り、ベッドの縁に腰を下ろして足を組んで思考するが、こういうときに勝手知ったる我が家でないと飲み物が即座に用意できないというのは、多少のストレスを抱いてしまう。しかし、ようやく立ち込め始めた『謎』という見通しの悪い霧への昂りに勝るものではなかった。
あちらには私達にまだ話していないことがあるのは確かだが、彼が犯人を探しているというのはどうやら嘘偽りなく本気のように感じられた。果たして彼の、あるいは時津本家の本当の目的は何なのか・・・。
どちらにせよ、いよいよ楽しい時間の幕開けだ。
私は忠犬のように言葉の続きを黙って待っている紅葉へと視点を合わせて、溢れ出る高揚感を隠すつもりもなく、口元を下向きの放物線状に変形させて吐息とともに呟きを漏らした。
「最近は刺激が少なくて退屈していたのよ、こういうのを心待ちにしていたわぁ」
その呟きに紅葉は「くれぐれも失礼のないようにお願いします」と呆れたように返し、「とにかく、一義さんが言ったように武野さんに神社まで案内してもらいましょうか」と彼女も私のアシスタントとしての顔つきになって付け加えた。
反対する理由もないので私はその提案を無言で承諾し、再び廊下への扉に手をかけて室外へと歩み出た。
すると、左手の廊下から大きな足音を立てて何者かが走り寄ってくる気配がして、私は反射的にそちらの方向へと顔を向けたのだが、その足音の主は深月と時津邸を散策していたであろう緋奈子であった。愛しの深月とのデート、という彼女にとっては嬉しいばかりのイベントであったはずなのにその表情は蒼白で、良くない何事かが起こったことを示していた。
「何かあったんですか?」と私の横から紅葉が一歩前に出て、心配そうな口調で走り寄ってきた緋奈子に尋ねる。どこから走ってきたのかは分からないが、彼女は切羽詰まった顔つきと動きに反して息一つ乱していなかった。
「み、深月が急に倒れて・・・!」
「え、どうして!?」と目を丸くして紅葉が聞き返すものの、彼女は困惑した様子のまま「それが全く理由は分からなくて・・・急にぼぅっとしたかと思ったら、真っ青になって倒れたから・・・。とにかく一緒に来てよ!」と要領を得ない返答をするばかりであった。
それを聞いた紅葉が小さく私の名前を呼んでこちらを振り返った。許可を求めるような仕草ではあるが、どうせ私が何と言おうと彼女は緋奈子に従って深月の元へと走っていくだろう。それが分かっていたため私は「行くわよ」と迷いなく短く返すのであった。
彼女が倒れた原因について明確な心当たりは無かったものの、私の脳内には先程聞いた妖刀の話がぐるぐると換気扇のように回っていた。




