三章 美しき一振り
三章 美しき一振り
(ⅰ)
土間を上がると、すぐに天井がやけに高い廊下に出て、その両壁に飾られている日本画や掛け軸をチェックしながら緋奈子の隣に並び立ち、誰にも聞こえないように声量に配慮して問いかけた。
「随分と良い趣味のお家なのね」
「なにそれ、冗談なら良いんだけど、本気で良いって思ってるならちょっと賛成しかねるよ・・・?」
「ふふ、貴方はそういう点ではまともなのね」
「はいはい、それ以外の点ではまともじゃないですよぉ」
互いに軽口を叩きながらも、最終的には口を尖らせた緋奈子が半開きになった襖の前まで来て足並みを緩めた。それからわざわざ私の前に出て正面に向かい合うような立ち位置をとって真剣な眼差しで口を開く。
その瞳はあまりにも真っ直ぐで、人を疑わない善良な輝きをその内側で煌々と燃やしており、その私の大嫌いな臭いに無意識的に眉をしかめて彼女を睨み返してしまった。
「亜莉亜さん、本当に色々とごめんなさい。あんな失礼な態度を叔父さんが止めないはずないと思ってたから・・・亜莉亜さんがああして止めてくれて助かったよ。」
その懸念は、きっと深月のために行われたものなのであろうことが、彼女の言葉の端々に感じられる。
そう言って顔を斜めに傾けて俯く彼女を見ていると、どうしてかとうの昔に捨て去ったはずの感情が胸に去来してしまい、私らしくもないと分かっている言葉をついつい投げかけてしまうのだった。
「何を気にしているの、ああいうのは慣れているわ」
「でもさ、多分ここ数日間あの面倒な態度のせいで、皆に迷惑を掛けるかも知れないし・・・」
時折彼女は必要以上に悲観的になる癖があって、これがまた深月のペシミストぶりとは全く異なる特徴を有しており、簡単に言うと、気にしても仕方がないことをいつまでも繰り返し想像して自分を追い詰めるような性質のものだった。かたや深月はというと、あの可愛げのない小娘は、世の中に対して基本的に諦めのようなものを抱いており、きっと自分の死にすら寛容になれるタイプの狂人に近い存在に違いないと私は考察している。
彼女の「ほんと、ごめんなさい」というナンセンスな謝罪の言葉で私はふと我に返り、これ以上彼女の半自虐的な発言に付き合っていられないと思ってため息をついて、腕組みをしてから横目で彼女を見据える。
「知らないようだから教えてあげるわ、世の中に存在する悉くが面倒で出来ているのよ。つまり、人間はどう足掻いたって面倒から逃れられないのだから・・・あぁ、もう嫌ね、こういう自分は・・・」
適当に煙に巻こうか、あるいは皮肉じみた物言いで彼女の納得を得ようかと思ったが、そういう遠回りが急激に厭わしくなったので、私はこちらを不思議そうに眺めている緋奈子の鼻先を指で弾き、彼女が怯んだところでその頬を両手で包んでから、一言一言を噛みしめるようにゆっくりと時間をかけて告げてやった。
「気にしないでいいのよ、貴方にはあの日の借りがあるの、依頼人を守ってもらったっていう大きな借りがね」
とても自分の口から出たとは思えない優しげなトーンの言葉に、内心寒気を感じながらも緋奈子の目をしっかりと捉えていると、彼女は少し困ったような顔をしてから「あれは私が勝手にしたことだし・・・」と生意気にも口ごたえしたので、私は間髪入れずに「さっきのだって私が勝手にしたことよ?誰に頼まれたでもなくね」とぐうの音も出ない一言をぶつけてやった。案の定反論できずに目を泳がせて次の言葉を探している彼女を見て、自分でも気が付かない内に笑いが零れていた。それを目にした緋奈子はほんのりと顔を赤らめながら、依然として口を尖らせたまま上目遣いで私に言った。
「こういうこと、深月にもしてるんでしょ・・・?」
「なぁに、嫉妬しているの?」
「べつにー、ただ、深月はこういうのに騙されてるんだなぁ、納得だなぁって思ってただけ」
「小生意気ね・・・」と私は言葉とは裏腹にまた微笑んでしまい、慌ててそれを意識して消し去った。
あぁ、ダメだ。
この子達といると、蓋をしていたはずの色々なものが溢れ出しそうになってしまう。
消し去ったはずの自分ではない自分が、隙あらば墓石の下から蘇ろうとしてくる。
歳をとったというのは、こうした若さに触れた時に感じるものなのだと嫌でも認識せざるを得ないぐらいには生きてきた。
あの頃には、戻れないのに。
そう考えた瞬間、十年前の記憶がフラッシュバックして、私の脳髄を揺さぶった。
まだ小汚く、古びた事務機しか置いていなかった興信所。
まだ、皆一緒に幸せになれると信じて疑わなかった幼い自分。
まだ・・・あの人が隣にいてくれた世界。
ギリギリと、耳の奥で何かが締め上げられる音が鳴っている。
鳴り止まないのは、何故だ。
止めなければ、ならない。
私は血が出るのではと思うほどの力で歯を食いしばり、無理矢理現実へと意識を戻そうと試みた。だがかえって歯が軋む音が、まるで首を絞めるような音に聞こえてしまい、私は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られたが、緋奈子が「亜莉亜さん?」と心配そうにこちらを覗き込んで声をかけたことで、ようやく本当の意味で我に返り、それから自分を落ち着けるために音もなく深呼吸を二度三度繰り返してから緋奈子に言った。
「さあ、紅葉たちを迎えにいってらっしゃい。そろそろ玄関先には来ているでしょう」
「え、でも亜莉亜さんは・・・」
「私は一足先に中で座っているわ、疲れたもの」
そうしてこれ以上は有無を言わせないといった風に彼女から離れて、私は半開きになっていた襖の奥へと足を踏み入れた。後ろで緋奈子がこちらを見ている気配を感じたが、もう振り向かずそのまま襖を後ろ手で閉めて、さっと室内を見渡した。
広間には長机が正方形を描くように並べてあり、その中でも私から見て丁度反対側の一辺だけが、一枚板で出来た立派な机によって構築されていた。そしてその机の席には先程の熊男と、奥様が座っており、その右側の一辺には上座から長男である信一郎、次男の宗二、三男の三好が座ってこちらを眺めていたのだった。すると信一郎がその真反対にある一辺を掌で指し、座るように促してきたため、私はそれに大人しく従って歩き、彼の真正面に位置する場所に腰を下ろした。
「綺羅星さん、とお呼びしても宜しいでしょうか?」と信一郎が丁寧にこちらに許可を求めてきたので、私は目だけで一礼して、「亜莉亜で構いません。綺羅星は二人いますから多少ややこしくなってしまいますので」と付け足して問いに答えたところ、信一郎はその青白い頬をかすかに染めて、「女性を下の名前で呼ぶのは、ちょっと・・・」とあまり意味の分からないことを口にした。そのせいで一瞬私ですら返答に窮することとなったが、結局彼には亜莉亜さん、と呼んでもらう形に納得させた。
そうして呼称を決めた信一郎は改めて佇まいを正したかと思うと、急に厳しい目つきに変わって自分の隣に並んでいる弟二人を睨んでからもう一度私の方を真っ直ぐ見て、真面目な口調で言った。
「そういえば先程私の愚弟たちのお陰で、余興・・・とやらを楽しめたと亜莉亜さんはお話されていましたが詳しく聞いてもいいですか?」
その信一郎の発言に隣の宗二は舌を打って反感を示し、対する三好は黙ったまま机の上のコップを眺めていたのだった。別にありのままを話してもいいのだが、母親は別としても明らかに信一郎は堅物であるから、ここで真実を話せばまた面倒なことになるなと考え、適当に話しを誤魔化すことに決めた。
「別に大したことではありません。私が予想してみせただけです・・・」と口にした後、わざと私は名案を思いついたという風を装って両手を頬の横で重ね、にっこりと微笑んでから何か口を挟もうとしている信一郎を無言の圧力で抑え、彼がゆっくりと唇の上下を重ね合わせたところで話を始める。
「そうだ、後から来た信一郎さん達の為にももう一度私の特技をご覧に入れましょうか」
「特技・・・ですか?」と私の突然の提案に彼は目を丸くしてこちらの言葉を繰り返した。
軽く頷きながら、さてお題は何にしようかと頭を回転させていると、少し離れたところで私達たち以外の誰かが会話している声が聞こえてきた。
「もう一方いらっしゃるのよね?」と奥様が旦那様に尋ねる。
「あぁ、そういえばもう一人緋奈子の友達がいるんだったか」と熊男がその無精髭を手荒に撫で回しながら呟いたので、それを聞いた宗二が皮肉じみた言葉を吐いた。
「もう一人はまともに挨拶ができるといいけどな」
「おい、宗二無礼だぞ」
信一郎の咎める言葉に耳を傾ける様子もなく、ただ欠伸をするフリをして宗二は耳の穴に小指を突っ込んで馬鹿丸出しの表情を浮かべているが、ふとその台詞によって私はピンと来たものがあったので少しだけご機嫌になっておもむろに立ち上がった。
突然腰を浮かせた私を一同が不思議そうな目で見つめていたが、元来私は人の目を気にする質ではないので、一切の気兼ねなく思いついたままに行動に移した。
「皆様、これからの私の行動をしっかりと記憶しておいて下さいね」
そう言うと私はすっと背筋を伸ばし、両手を前に重ねて一度淑女のように嫋やかに微笑み、一拍置いた後、深々とお辞儀をして、ゆっくりと時間をかけて瞬きをしてから顔を上げて一同を見渡し、最後の締めに可能な限り上品な笑顔を浮かべる。
まあ、こんなところか・・・私が思う丁寧な所作の通りにやれば後は勝手に彼女がそれをトレースした動きをするだろう。きっとあの可愛げのない小娘ことだから、こういう人前に出る場面では私の真似をするに違いない。
「以上です」
「亜莉亜さん、それが一体何になるんだい?」
「ウチで世話をしている深月――緋奈子の友達ですね、彼女は多少人見知りするところがありますが、それをきっと初対面で皆様に感じさせることはないでしょう」
「何でだよ」と宗二がさっぱりわからんといった様子で呟いたが、私が説明するよりも先に、「今の作法を教え込んでいるということですか?」とその弟である三好が答えた。
「いいえ、全く教えていません。私は人に物事を教えるなんて面倒なことは極力しません」
そう言ってから、あぁ道場を開いているだろう熊男には少し失礼だったかも知れないと思ったが、別に今更どう思われようと構わぬという気持ちになり、私はそのままの調子で、「ですが、まず間違いなく今の私の真似をするでしょう」と断言した。
「ほぉ・・・ならば随分と慕われている自信があるのだな」と熊男がこれまた奇妙な勘違いをしていたので、私自身の名誉のためにもこれは否定しておくべきだと考え、しっかりと首を横に振って見せた。
先程は他者からどう思われても構わないと言ったが、一つだけ訂正しておく。
私は、自分が人の模倣となれる人格者だとか、無償の愛を配って歩く人間だなぞといったおぞましいものと一緒くたにされることだけは我慢ならないのだ。
そういう人間にはならないことが、過去の自分との決別の証とも呼べるのだから。
「まさか・・・それは私が、深月がまだ子供とは思えないくらい可愛げがなくて、それでいて天性の観察眼を持っていることを知っているからに過ぎません」
(ⅱ)
目の間の机上には色とりどりで豪勢な食事が並べられており、私の空っぽの胃がすぐにでもそれを吸収したいと蠢いているのが感じられたが、まだ料理が運ばれている途中で誰も食事に手をつけずに談笑していたため、私もそれにならって粛々と待機していた。
私の左手に座した亜莉亜さんは、豪快な話しぶりをしている緋奈子の叔父――時津一義に夢中で話しかけられており、どうやらいたく気に入られてしまったようであった。それもこれもどうやら先程の私の挨拶を予言したことが原因だったらしく、しきりに彼女たちの会話には私の名前が登場していたが、わざと聞こえないふりをしておいた。それぐらい別に構わないだろう、彼女のせいで私は暫し笑いもののような扱いを受けてしまったのだ。
私はこっそりとため息をついて、亜莉亜さんを視界に捉えないように逆の方へと目を向けると、苦々しい表情をたたえた緋奈子と視線が交わり、自然とこちらも同じ様な顔つきに変わっていくのが分かった。
「大変だったね、深月」
「本当よ、亜莉亜さんのせいで予想もしないところで笑い者よ?」
そう私が頬を膨らませて言うと、緋奈子は複雑な面持ちで「・・・私は何だか複雑だなぁ」と聞こえぬか聞こえないかといったか細い声で告げたものの、あまりその意味を理解することが出来なかったため曖昧な微笑みを浮かべてそれを誤魔化したが、彼女が私のワンピースの裾をきゅっと掴んだことよって何だかくすぐったい気持ちになって、思わず頬を掻いた。
それから緋奈子が何か物言いたげな様子を見せたのだが、私と緋奈子の間にぬっと伸びてきた手がそれを妨げた。
「失礼します、これで最後のお料理となります」
私達二人に黙礼してから、その老齢の紳士は背筋を伸ばしてよく通る低い声で広間中にいる人間全てにそう告げた。それを耳にした緋奈子の叔父さんは両手を打ち鳴らして皆の注目を集めると、先程の紳士とはまた違う意味合いでよく響く声で叫ぶように告げた。
「ご苦労だった、あぁ、お客様に紹介しておこうか、彼は俺が小さい頃から世話になっている我が家の執事、武野だ。とても優秀な人間だから困ったときは彼に遠慮なく頼るといいぞ」
叔父さんから太鼓判を頂いた老紳士武野さんは、口元だけを笑うように歪めた後静かに頭を下げて、一歩引いた位置で立ったまま待機していたが、その高潔な佇まいと来たら・・・彼を雇っているというステータスはこの家に飾ってあるどの装飾品よりも価値あるものに思えた。
「さぁ、退屈な前置きは無しにして、とりあえずは遠慮なく召し上がってくれ!」
叔父さんが勝鬨のようにそう高らかに告げたことで、皆がめいめいに食事へと手を伸ばし始めた。
山菜のてんぷら、様々な魚を使った刺し身、鶏肉やきのこを混ぜ込んだご飯、素晴らしい技工を凝らしてカットされた野菜の煮物・・・どれから手につけたら良いのか分からなくなるほどどれも魅力的だったのと、何かテーブルマナーのようなものがあって、手をつける順番があるのかもしれないと深読みしたため、私はキョロキョロと周囲に視線を彷徨わせた。その途中でふと緋奈子の机上を見やったのだが、そこには食事が全く用意されておらず、私は思わず不思議になって尋ねた。
「え・・・緋奈子のお昼ごはんは?」
「あぁ・・・後で食べるよ」
「・・・何故一緒に食べないの?」
私が当たり前の質問をすると、彼女は小さい胸を張って背中を反らして腕を組み、眉間にしわを寄せて高い声で唸り声を上げたかと人差し指を額に当てて、カッと目を見開きそれに答えた。
「亜莉亜流に言うと・・・運動する直前にお腹を満たす馬鹿がいるの?って感じ?」
「ぜ、絶望的に似てない・・・」
「え?」と思わず口から漏れた私の本音に彼女は目を丸くして反応したので、私は発言を反省するように咳払いをしてから、「よく意味が分からなかったのだけれど・・・」と質問を続けた。
「まぁ気にしないで食べててよ、半分くらい食べ終わった頃には嫌でも分かるから・・・」
何だかネガティブなくトーンで発せられた彼女らしくない言葉に、友達として心配だったが、彼女は自らの口で説明するつもりが無いように感じたので大人しく引き下がり、箸を動かした。口に運ばれていくどの料理も瑞々しい味わいと視覚的な感動を私にもたらし、今まで経験したどの食事よりも私の身には過ぎたものに感じられてならなかった。
黙々と箸を進めていると、唐突に正面に座っていた人物、後に判明するが宗二といった名前の男性が私に声をかけてきた。
「深月ちゃんどう、美味しいでしょ?」
「あ、はい・・・とても美味しいです」
「そっか、そりゃ良かった。ところでさぁ、この後――」
その軽薄さが隠しきれていない口調にどことなく私の苦手なものを感じ、接触を避けたかったのだが、緋奈子の従兄弟だということもあって無下には出来ないなと思い直す。私は宗二さんの切れ長の瞳をチラリと覗きながら話を聞いていたのだが、不意に会話の途中で隣からやけに鋭く尖った口調で緋奈子が口を挟んだ。
「宗二兄ちゃん」と緋奈子は名前を呼んだだけだったのだが、声をかけられた彼は途端に苦々しい顔つきになって、「何だよ、話しかけただけだろうが」と荒々しい語尾で返事をしたものの、目線は右往左往しており、明らかに従姉妹相手に怯んだ様子を晒していた。ただ正直私としても、話しかけただけでそこまで冷たい態度をとる必要はないのではないかと思え、半ば彼に対して同情気味の感情を抱いてしまっていた。
緋奈子は瞳の焦点を彼の背中の襖に当て続けた状態で、瞬き一つせずにじぃっと硬直していたのだが、急に痺れを切らしたように立ち上がり、私達が入ってきた襖の前までゆったりと移動していった。その途中で彼女は再び宗二さんの方を首だけで振り向いてから、見たこともないような冷酷な瞳と、聞いたこともないような無機質な声で告げた。
「別にそれだけならいいんだけどさぁ・・・もしも、もしも深月にまで変なちょっかい出したら、本気でただじゃ済まさないから」
そう言い切るや否や、襖の向こうに消えてしまった彼女の恐ろしい姿が、網膜にこびりつくように広間の空気を居心地の悪いものに変えてしまったのだが、私は緋奈子の言った『深月にまで』という言葉と、先程紅葉が言った『品のない人』という発言から推察して、私が居ない間に一悶着あったのだなという結論に至ったため、彼女を責める気には当然なれなかった。
妙な空気になったこの場を嘲笑うように、亜莉亜さんは花の形をした刺し身を口に運んで「美味しいわぁ」と感動の声を漏らして、うっとりと宙空を見つめていたのだが、すうっと先程私に絡んできた宗二さんへと視線を移して、これまた華が咲くように微笑んでみせた。勿論彼女を知るものならば、その華が毒花であることは充分に承知している。
「宗二さん、この花を象った刺し身とっても美味しいわ」
「・・・そうかよ、それは良かったな」
二人の間で行われた一瞬の会話で、私は何となく自分が居ない内に起こった悲劇が想像できてしまい、彼には同情を通り越して憐憫の念すらも感じずにはいられなかった。
きっと軽率に亜莉亜さんに絡みついてしまったのだろう。全く哀れである。その後はどうせ亜莉亜さんが完膚なきまでに叩きのめしたに違いないはずだ。勿論口頭で、であるが。
それを改めて証明するかのように、愉快そうな様相を崩さぬままで亜莉亜さんが話を続けるのだが、その妙に甘ったるい喋り方に私は寒気すら覚えたのだった。
「でも実際の花は危険な毒素を持つものや、棘を持つものも多いですから、考えなしに手を出すのはオススメしませんね」
「何だよ、何が言いたいんだよ」と不機嫌な様子を隠すつもりもなくなった彼は、明らかな敵意を持って亜莉亜さんに対峙しているのだが、私の経験上その行為は燃え盛る炎に飛び込むよりも、鮫の徘徊する海域に血まみれで飛び込むよりも危険で、自殺行為と同義のものであると断言できた。
嬲る獲物を見つけた彼女は一瞬だけ口元を下卑た風に歪めたが、流石に大勢の人間がいる手前押し留めたのか、再び品のある愉快そうな笑みを貼り直して彼に言った。
「いえいえ、どうやらこの付近には花と見れば触りたがる愚か者が出没しているようですから・・・その方の耳に入ればと思いまして。それに・・・」と彼女は一旦話を区切って私の方を一瞥すると、何故か私を見つめたまま鼻を鳴らして口を開いた。
「その花自体には棘も毒も無かったとしても、それを守る蜂に刺される危険性だってありますからね・・・とはいえ私個人としては、一見何の危険性も無いような花こそ、その身に劇毒を秘めている可能性が高いと思っていますけれど」
どう考えても初めは先程の緋奈子の態度についての暗喩で、最後の部分は明らかに彼女の首元に噛み付いた私への皮肉だったろう。その証拠に未だ私の方を見つめたまま自らの首筋をさすって見せていた。
彼女の小馬鹿にしたような発言に宗二さんは勿論のこと、その母親である時津茜さんも先程から渋い顔をしており、場の空気は明らかに緊張感を加速度的に推し進めていた。
おそらく事の発端は彼の何かしらの行動にあるのだろうが、流石にこれからお世話になるという家で、そこに住む人間を侮辱し続けるのは後々仇になって返ってくるだろうことは容易に想像できる。
私は亜莉亜さんがこれ以上誰かをその怜悧な脳と言葉とで撫で斬りにする前に話題を変えることにした。
「あの、先程こちらの裏庭で女性の方とお会いしたのですが・・・彼女はまだいらっしゃらないのですか?」
これはずっと気になっていたことではあったのだが、先刻裏庭で会話をした女性の姿がどこにも無いばかりか、明らかにこの食事の場で彼女の席が用意されている様子がなかった。容姿だけを見て考えれば私達とそこまで年齢が変わらないように思えたので、もしかするとこれまた緋奈子の従姉妹だったのではないかと予想していたのだが、それならばこの場に居なくてはおかしい。
私が一人頭を悩ませていると、亜莉亜さんの正面に座っている色白の青年が柔和な表情を残したまま落ち着いた口調でその問いに応じてくれた。
「あぁ・・・水織に会ったんだね」
彼がそう女性の名を呟いた刹那、得体の知れない静寂が広間を覆っていくのがはっきりと感じられて、私はピクリと一度だけ身体を動かし硬直させた。まるでその名前は口にしてはいけないタブーであったかのような空気に胸の奥のほうがザラザラとしたものに撫でられたような心地になった。
私はどうにかこの不安感を拭おうと紅葉の方へと視線を向けたが、彼女はただ黙ったまま沈黙に描かれた見えない文字を探し出そうとするかのように瞬き一つせず、信一郎さんの顔を一点に見つめていた。その異様なまでの集中力に驚きつつも、続けて亜莉亜さんを横目で捉えたのだが、彼女もまた同様に彼を一心に見つめているのであった。ただ、その目つきは紅葉と違って、退屈極まりないと言わんばかりのものであったが。
「大丈夫だよ、水織も直ぐにここへ来る。ただ・・・」とそこまで言ってから一息つくようにして間を置いた後、チラリと彼は父親である一義さんを覗いたのだが、私の目にその仕草は許可を求めているように映った。
視線を向けられた叔父さんは大仰に頷いてみせた後、その野太い声を震わせて言う。
「そろそろ準備も出来ただろう。実はな、君たちが来るということだったので、こちらとしても余興を用意しておいたのだ」
そう口にした後、「もっとも、先に素晴らしい余興を見せてもらったのだがね」と髭を蓄えた口元を歪めて彼は続けたのだが、その皮肉とも、ただの称賛とも取れる一言を送られた当の本人はまるでそんなもの聞こえていないかのように眠そうにゆっくりと目を閉じていた。
「余興、ですか?」と私達二人が黙っていたためか紅葉が率先して口を開き、叔父さんが話を進めやすいようにフォローしたので、彼はその一言を待っていたかのように再度大きく頷き、過剰とも思える大声で執事である武野さんを呼んだ。
すると彼は私達が出入りした襖の向こうから音もなく現れ、「お呼びでしょうか」と精巧な機会のように丁寧なアクセントで、しかし抑揚のない口調で言葉を発した。
「用意は出来ているか?」
「無論です」
まるであらかじめ準備されていた質問に答えるかのように淡々と素早く受け答えをした武野さんは、その後に続いた叔父さんの「ならば始めてくれ」といった重々しい呟きに無言で頭を下げて、また元の場所に消えていった。
武野さんが姿を消した数秒後に突然広間の電気が全て消えて、室内には夕闇に包まれたかのような薄暗闇が広がった。廊下と襖の隙間から漏れるわずかな光だけが光源となったこの場所で、私達が一体何が始まるのかと様子を伺っている中、正面に座した三人の表情だけが俯きがちで沈んだ様子だったのが印象的だった。
そうして三人の顔を見つめているうちに突然正面の襖が開き、明るい太陽光が眩しく室内に入り込んできたのだが、どうやらそれは襖の向こうで着物を着た二人の家政婦が両側から戸を引いたためのようだった。
暗闇から転じて明るくなったため一瞬私の目がくらんで、隣室の様子が分からなかったのだが直ぐに瞳が光の加減を調整すると、そこには袴を身にまとった女性が正座をして向き合っていると分かった。しかもその一人が自分の良く知っている人間であったため尚の事私は目を見開いた。
「緋奈子・・・」と独り言のようにその名を呟く。
彼女はスクリーンの向こう側の人間であるかのように、私達の存在になど目もくれず凛とした姿勢のまま何かを待っていて、それは向かいに鏡合わせのように座っていた女性もまた同様だった。私は彼女の顔には見覚えがあり、庭先で稽古をしていた女性、つまりは先程信一郎さんが水織と名前を挙げていた人物に間違いないようだった。
これから何が始まるのかと目を光らせているのは私達三人だけで、他の人々は既に内容を知っている様子で静かにじっと座ってそれが始まるのを待っていた。
不意に一切の物音無く二人がすっと立ち上がったのだが、その手には竹刀が握られており、それを見てようやく私達はこれからどんな余興が始まるのかを理解することが出来た。
(手合わせが始まるんだわ)
お互いに切っ先を向け合い、微動だにしないままで睨み合っており、もしかすると呼吸すらしていないのでは、あるいは生きているのかさえも疑ってしまうほどに彼女たちは完全に静止していた。だが、そう見えるのは身体の大きな部分だけで、細かい動作をする部位、例えば眼球などは常に相手の一挙手一投足を見逃すまいと機敏に動いていた。
あまりにも長い睨み合いの中、ふと紅葉が隣の私にしか聞こえないぐらいの声量で呟きを漏らした。
「・・・あの人、凄い」
紅葉は目を見開いてその手合わせ、というか水織さんをじっと凝視していたが、私が何が凄いのかと問いかけようと目を逸らしたその一瞬間の内に乾いた大きな音が響き渡ったため、何事かとパッと視線をまた元に戻した。そこには先程の位置から一歩大きく前進して水織さんに肉薄する緋奈子の姿があった、鬼気迫る形相で自らの竹刀を押し込もうとしているが、対する彼女は何事もなかったように涼しい顔をしたままその力を抑えつけている。
私はそこまで来てやっとあることに気が付き、思わずその疑問点を声に出してしまう。
「防具を着けてない・・・」
その質問とは呼べない一人語りに誰も反応することなく、まじまじとその立合に釘付けになっており、あの亜莉亜さんでさえも目が離せないという様子で腕を組んでじっとしている。
このままでは押し込めないと判断したのか、一度軽やかに緋奈子が後退し、再び切っ先を彼女に向けて相手の出方を伺っているようだったが、水織さんは全く動き出す気配がなく、結局緋奈子の方からまたぶつかっていく。
今度は上段からの振り下ろしではなく、竹刀の柄を自分の顔の横まで持ってきてから、その切っ先を相手に向けて水平に構えたままで猛烈な速さで突進していた。その一撃も虚しく捌かれて空を切るのだが、その迫力、人体の急所を狙う正確さといったら・・・防具もなしであんなものを受けてしまっては本当に大怪我でもするのではないかと心配になるぐらいだった。
思わず耳を塞ぎたくなるほどに強烈な、竹刀がぶつかり合う音が延々と広間に響き渡っている中で、私はその一幕に目を奪われずにはいられなかった。
精緻極まりない動作、ほとんど初動の見えないほど俊敏な動き、そして相手の一撃を恐れず対処するその胆力・・・一体どれだけの鍛錬を積めばここまで美しく、洗練された身体の使い方が身につくのだろうと不思議でたまらない。
しかも水織さんは、そんなややもすれば一撃必殺になりうる攻撃を、汗一つかかずに一つの動作だけで躱しているのだ。まるで当たっても構わないと言わんばかりに紙一重のところで躱すこともあれば、緋奈子が技を出す前の段階からそれを潰して防ぐこともあった。一見すれば緋奈子が一方的に攻め込んでいるようにも見えたが、彼女の必死な姿に対して相手が落ち着き払っているのを見れば、例え素人の私であってもどちらが劣勢で、追い込まれているのかぐらいは判断できた。
もう何度目になるかも分からないバックステップを踏んで緋奈子が体勢を整え、再度攻勢に移る準備をするが、その顔にはこの一瞬の内に蓄積された疲労が明確に表れており、私が思っている以上に精神力も、体力も消費する高度な戦いなのだなと一人で納得していた。
水織さんは相変わらず冷たく無機質な瞳をしたままでじぃっと待っていたが、その姿は獲物が通り過ぎるその背中を待っている肉食獣のように、研ぎ覚まされた静かな威圧感を片時も手放すこと無く保持し続けていた。
そして、ようやく試合が動きだす。
緋奈子は何の予備動作も無いままに飛び込み間合いを詰めたのだが、素人の私には分からない程度の隙でもあったのか隣の紅葉が声にならない息を漏らしたとほぼ同時に、水織さんの身体が滑り落ちていくように前のめりに傾き、やがて臨界に達したと見るや目にも止まらぬ速度で緋奈子に急接近し、彼女が振り下ろした竹刀を半身で避けたかと思うとその首元にすっと添えるようにその刃先を当てた。
私はその息もつけぬほどに鮮やかな一太刀にぞっと寒気を覚えたのと同時に、唖然とした表情を浮かべた後直ぐに悔しそうに顔を歪めた緋奈子を見て、どうしようもなく苦しくなってしまった。
余興とは言ったものの、きっと真剣勝負だったに違いないのではないか。少なくとも緋奈子の方は全力だったように感じられたし、あの苦虫を噛み潰したような顔つきが何よりもの証明と呼べるだろう。
決着がついてもしぃんと静まり返っていたのが無理もないほどに迫力のある一幕であったが、誰よりも先にその静寂を亜莉亜さんの拍手が打ち破り、私達もそれに倣う形で手を打ち二人に称賛を送る。本家の人々は宗二さんを除いて皆が一様に各々に拍手か、または賛辞を告げていた。
「どうだったかな、時津家の技の冴えは」と未だに驚きとある種の興奮の中にいる私たちに、一義さんがまるで自分がその場に立っていたかのように誇らしく語ったが、亜莉亜さんは初めから答えを用意していたかのように美辞麗句を次々に並べて、彼の機嫌を右肩上がりに高めていった。
すると叔父さんが私の方をしっかりと見据えて、「深月ちゃんはどうだったかな」と既にご満悦といった風な笑顔で尋ねてくるものだから、私は背筋を伸ばして肺に空気を多量に溜めてから一息に答えた。
「とても・・・凄かったです。素人目に見ても二人共、相当卓越した腕前なのだと思いますが・・・?」
「そうだ、当然緋奈子も相当に腕が立つのだが、うちの水織は未だ同世代相手には負けなしといった無双ぶりを誇っておるのだから・・・将来が楽しみでならん!」
そう言うと腹を膨らませて、大きく息を吐いて見せたのだが、どうにも彼の顔つきが言葉とは反対に残念そうな様子に変わっていったので私は不思議に思って次の言葉を待った。
彼はそれから欠伸をする前のように口を開いて、直ぐにまた閉じてを二度程繰り返してから力なく脱力し言葉を紡いだのだが、言うか言うまいか悩んでから口にしたらしい発言は確かにそういった類の言葉だった。
「水織が・・・女などではなく、男であったならばどれだけ時津家に栄光をもたらしたか・・・」
「一義さん、止めて下さい」
彼の妻である茜さんが、その女性蔑視とも、暗に息子たちを貶めたと言える発言を直ぐに咎めたのだが、その彼の一言で居心地の悪い沈黙が広間にじっとりと広がることは止められなかった。とりわけその発言を聞いて、次男である宗二さん、三男の三好さん、そして汗を拭いながら広間に足を踏み込んだ緋奈子は渋面を作って明らかな不快感を示していたが、話の中心に据えられているはずの水織さん本人は、自分には関係がないと言わんばかりに眉一つ動かさず私達の右手の机、つまりは自らの両親の正面の位置に一人で腰を下ろすのだった。
彼のそのたった一言で私の中の時津家の印象ががらりと変わっていき、その男尊女卑とも言える発言に怒りを超越して呆れを覚えると同時に、こうした古い家柄では珍しいことではないのだろうなと冷静に分析する自分がいることも自然と受け入れていた。
水織さんだけではなく、緋奈子だって時津家の女性だ。今の発言は彼女だって傷つけたことだろうに・・・。
「娘も、息子たちも、珠玉の子どもたちです・・・」と悔しそうに呟いた茜さんは、言葉とは裏腹にそれを自らさえも信じ切れてないといった物悲しい顔つきをしているのであった。彼女のフォローは虚しくも失敗に終わり、かえってその息子たちの表情を曇らせただけだった。
息が詰まりそうになるほどの閉塞感が部屋中に充満し、誰も彼もが失言を恐れて口を閉ざすか、あるいは苛立ち、自責感に苛まれて項垂れている。唯一宗二さんの感情の発露だけが激しく、彼はチッと舌を鳴らして箸を投げるようにして机の上に置いて、「思ってねぇことは言わない方がマシだろ」と血を吐き苦しむようにして漏らした。
男だったら・・・か。
ここでも縛られている。
人は、形のない鎖に・・・自らが繋ぎ合わせ続けた、長い金属の輪の連続に気がつけば囚われて思考の自由を損ねている・・・。
ふと、亜莉亜さんの方を見つめた。
もしも、もしも彼女が男性であったら・・・私はこの正体不明の感情の行き着く先を、迷うこと無く与えてあげることが出来るのだろうか・・・?
こうして私だって縛られている、それが情けなくて苛立ちと虚しさを感じずにはいられない。
気がつけば彼女と視線が交差している。
その双眸の内側では灼熱が滾っており、彼女の昂ぶった感情が解き放たれる場所を求めて今か今かと渦巻いているのが感じられた。
どうしてその危うい光から目が逸らせないのか、彼女の瞳の中に答えが映っているわけでもないのに、何を探し求めようとその深淵を覗き込むのか。
彼女の美しくも、鮮血のように恐ろしく赤赤とした唇が徐々に形を変えていくのをぼうっと眺めていたのだが、それが言葉を発するための動作だったということに気づくのに少しだけ時間がかかってしまった。これも、彼女の魔力なのかもしれない・・・。
「お言葉ですが」と静寂を切り裂く言葉で、腰を浮かしかけていた宗二さんは動きを止めて中腰のような姿勢でじっと彼女を見つめていた。
亜莉亜さんは髪を艶やかにかき上げると、目を細めて誰を見るでもなく視線を右から左へと虚空をなぞるように動かしてから、自分を真っ直ぐ見据えている一家の主の視線をどっしりと受け止めている。
「何か・・・」
「世の中には、くだらない悪習が小汚い羽虫と変わらぬぐらい飛び交っております。男だ、女だ・・・能力の優れている、劣っている・・・群れを成して震えて生きるマジョリティが作り出した基準が、規律や慣習といったものを捻出している・・・・そうして人の評価が考査され、その価値を押し付けられて喜び、または苦しめられる。だけれど、それはどこのどいつが決めた基準だったかしら?」
「あ、亜莉亜さん・・・」
明らかに怒りに支配されて、口調さえも変わり果てていく彼女を見かねて紅葉が口を開くが、その忠告に耳を貸すこと無く彼女は反骨心、または純粋極まりない怒りに導かれるように言葉を繋いでいく。
「私は別に貴方達時津家がどういった価値基準に縛られていようとも興味はない。だけれど、それで私と私の連れを愚弄する、あるいは不愉快にさせるような真似をするのであれば・・・黙っているつもりは無いわよ」
ふと、考える必要もなく彼女の意思が天啓の様に私の脳裏の隅々にまで行き届いた。
亜莉亜さんは女性として、緋奈子の友として、なにより一人の人間として言葉を刃に変えてこの家の主に楯突いたのだ。
その明らかに礼儀を失した彼女の態度に、顔を赤らめ怒りを露わにしながらも、どこか座りの悪い様相をした叔父さんはゆっくりとした口調で彼女の一刀に答えた。
「悪いが、ここは時津家だ。郷に入りては郷に従ってもらいたい・・・」
「お断りよ、一番嫌いなのよね、従うって言葉」
いよいよ殺伐とした空気が立ち込めて、二人の視線は互いを食い合うように殺気立ち、お互いに逸らそうとする気配は微塵も感じられぬ中、私はこれでは下手をすれば興信所に今日のうちからとんぼ返りになるやもしれぬと腹を括っていたのだが、その後思わぬところから仲裁の声が上がることとなる。
「お父様」と、透明感と触れれば切れるような冷たさが共存する声が二人の間に割り込み、彼女たちの睨み合いは中断させられることになった。
「何だ、水織」
「私は女だとか、男だとか関係なく、時津家のために誠心誠意尽くすつもりでいます」
「・・・そうか」と彼は娘が自らに賛同するような発言を行ったため、一瞬顔を緩めたが、続く水織さんの言葉に再度しかめ面をさせられる。
「ですが同時に、誇り高き血脈の人間として、また緋奈子の姉貴分として・・・彼女のお客様に対して貶したり、無礼を働いたりはするべきではないと考えています。争い合うなどもってのほかです」
そして締めくくりに、「違いますか」と言い放ってからまた他人事のように瞳を閉じたのだが、一義さんはその体躯に相応しい獣のような低い唸り声を上げて、暫く経った後その鬱積した感情を放出するように大きく息を吐いた。
「あぁ、お前の言うとおりだ」
そう彼は告げると亜莉亜さんに向き直り、深々と頭を下げようと両手を床に着いたのだが、それが行われる直前になって彼女が、「私のような不作法者に謝罪など要りません。されるのであれば、ご自身の姪とお子さんたちにしてあげてくださいな」と既に感情のリセットが行われた後の微笑みを浮かべて黙礼しながら告げた。
そうして彼が思いの外丁寧に謝罪をした後に、亜莉亜さんが戸惑い気味の男たちに対して優しい口調で言う。
「貴方達だって、それを甘んじて受け入れるようなことがあってはならないのではなくて?武術では及ばなくても、いくらだって勝ちようはあるのよ」
一家の大黒柱が自分の子供達に頭を下げる中、彼女は意地でも謝罪するつもりはなかったようだが、彼女の自由奔放な自我のために収拾がつかなくなったこの状況をどうするのか・・・とチラリと不満を抱えて彼女を一瞥したが、既に興味などないと言わんばかりに残った昼食を箸で突き始めたので、私は唖然とした。
一番おかしいのは亜莉亜さんで間違いないのではないか・・・いや、そんなことはずっと前から分かりきっていたことではあるが・・・。
隣で紅葉がふぅっと風の抜けるようなため息をついて、しょうがないなと言った様子で肩を落としているのを見て、彼女がこれから不肖の従姉妹のために泥を被るつもりなのだと瞬間的に理解した。普段から損な役回りを演じさせられている紅葉だ、いつもお世話になっている分こうしたところでお礼をするべきなのかもしれない、そう考えて、紅葉が動き出すよりかすかに速く、勇気を出して私はわざとらしい大きな咳払いを一つした。その不自然な行動に周囲の注目が集まっていくのを肌に感じつつも、私は少し足を引いて机と身体の間に頭一つ分のスペースを作ってから、凛とした声を出せるように友人をイメージして口を開いた。
「皆様、こうして私達のために用意していただいた余興の場を、数々の無礼で乱してしまって本当に申し訳ございません」
突然の謝罪に驚く周囲を他所に、私はチラリと亜莉亜さんに嫌味っぽい視線を送ったのだが、彼女は紅葉ではなく私がこうした行動に出たことが心底意外だったようで、その猫のような大きい瞳を丸々と見開いて、口をぽかんと金魚のように開けていた。
それが何だかとても愉快で、私は自分の内側だけで私達総出で笑った。
「興信所を代表して、お詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした」
深々と頭を床まで下げた私の、そのある意味で身の程を弁えていない発言を聞いて、亜莉亜さんはふんっと鼻を鳴らして目を瞑った。