二章 時津家
二章 時津家
(ⅰ)
そうした経緯があって綺羅星興信所の二人が私達の旅行に付き添う形になったのだが、正直に言って邪魔である、いや、正確に言えば綺羅星亜莉亜が邪魔なのだ。
彼女は事あるごとに深月に絡んでその反応を楽しんでいる上、私と深月が仲睦まじくしていると必ずと言っていいほど揶揄してくる傾向があり、一対一で接しているときはある種の好感を持って接している亜莉亜さんだが、これが間に深月が挟まった途端に目の上のたんこぶと化す。
紅葉の運転するメタリックブルーのスイフトは私の家を発つと、ものの十数分で私達の住む賑やかなK市中心部へ入り込み、またそれから同じぐらいの時間をかけて中心部から離れて隣接するS県の県境を跨ぎ、そこからさらに一時間以上をかけて曲がりくねった山道を進むことでようやく時津本家が居を構えている山村へと辿り着くことが出来た。
本家邸宅には直接車で敷地に入ることができないため、私達は少し離れたところにある大きな駐車場に車を停めてから、近道となる田んぼ道を抜け終わったところであった。その間にも大量の虫の襲撃を受けたらしい紅葉は意気消沈といった様子で黙り込み、舗装された道を選ばせてくれなかった亜莉亜さんを鋭い目つきで睨んでいた。
田んぼ道を抜けた後は、少しキツイ傾斜になった階段が暫く続き、そしてその上に時津本家が建立されているとの旨を後ろで口を開けて階段を見上げている三人に告げたところ、「冗談でしょう・・・?」と亜莉亜さんが眉間にしわを刻みながら独り言のように呟いた。彼女だけならばせせら笑ってやるところなのだが、もう一人、我が最愛の友である深月も目をパチパチさせてその長い階段を見つめていたので、少しでも気が楽になるようと思い私は軽い口調で告げた。
「大丈夫だって、思ったよりキツくないから」
すると深月は一瞬何とも形容し難い表情を浮かべた後、明らかに愛想笑いと分かる微笑みをして一度だけ頷いたのだが、その彼女の内心を当たり前のように察した亜莉亜さんが腕組みをしながら鼻を鳴らして私の方を見た。
「貴方はそうでしょうね?見るからに幼少時から野山を駆け回っていそうだもの。でも私や深月みたいな根っからの文明人からしてみれば、ここを上がれというのは首をくくれと言っているのと同義なのよ」
「ちょっと待ってよ、それじゃ私は野蛮人だって言いたいわけ!?」
「緋奈子さんはともかく、僕もその中に含まれているのは心外です」
二人の私を馬鹿にしているとしか思えない発言が、階段の両脇に広がっている森の中に静かに浸透していき、もうどこから怒ったらいいのか分からなくなってしまった自分の頭上で鳩が呑気に鳴き声を上げている。
この周辺には昔ながらの自然環境が色濃く残っており、竹林の脇を流れる小川を覗けばイモリだっているし、田んぼの周辺には多様な種類の蜻蛉が縦横無尽に飛び回っていて、その近くの澄み切った水の流れる渓流にはこれまた様々な魚や石亀などが自由に暮らしている。そして何よりこの季節になると周囲の森林からは耳をつんざく程の蝉時雨が鳴り響き、自分の声すら聞こえなくなるときがあるのだ。
都会では仕方なく建物の外壁や申し訳程度に植えてある木々に張り付いて悲鳴を上げている蝉たちだが、こうした場所では彼らは自由に、いや本来あるべき姿になれるのだ。
感覚を自然の端々に巡らせて現実逃避をしていると、オルゴールの奏でる調べのように美しくも儚い音が耳をくすぐった。蝉たちの大合唱の中でも埋もれずに私に届く、深月の笑い声である。彼女は幸せそうな微笑みを私達に向けると、一層破顔して言った。
「仲が良いことは素敵なことだけど、遅れて迷惑をかけては大変だわ。そろそろ行きましょう?」
深月は慈悲深い聖母のような姿でくるりと身体を半回転させて階段に向き直り、覚悟を決めるようにして上の方を見上げたかと思うと黙々と足を動かして階段を登り始めたので、私達三人は顔を見合わせた後誰からともなくその後ろ姿に続いていったのだが、さながら先頭を歩く奔放なお姫様とその従者といった様相だったので、私は周りに悟られぬように俯いて苦笑いを浮かべたのだった。
だが数分ほど登り続けているといつの間にか私と紅葉は深月を追い越してしまい、亜莉亜さんはというと一番後ろの方で立ったまま両手を膝につけて、肩で息をしており、とても苦しそうな様子だったが、何かしら小言を吐く元気は残されているようだったので私達二人は彼女を放って上へ上へと進んでいった。そして深月はというと、亜莉亜さん程ではないが疲れている表情をしてはいたものの、下で足を止めている彼女の姿を目にするや否や早足で再び階段を降りてそのすぐ隣まで駆けつけるぐらいの余裕を見せていた。
「若いっていいわね・・・」
息も絶え絶えに呟く亜莉亜さんに寄り添うようにして身体を近づけ、その額をハンカチで拭ってあげている姿を見ると胸が錆びつくような息苦しさを覚えたのだが、どうしてか今の二人の邪魔をする気にはなれず、私は今見た光景の残像を打ち消すように素早く正面に向き直り再び足に力を込めて、もう半分もない階段を一気に駆け上がった。
身体から酸素が枯渇し、全力で回転し続ける足が熱を帯び始めるがそんなものは苦にならなかった。この程度で音を上げていては時津家の人間としてあまりにも情けないし、父から日々の薫陶を受けることだって叶わないだろう。
全身は目の前の運動に答えるために適切な働きをしてくれているというのに、私の精神だけがやはりまた自分の言うことを聞いてくれず、再び私の脳裏にあの夜の恥辱と言葉が蘇って来た。
『人も斬れなくて、何が侍よ』
あの日の怒りをコピー&ペーストしたかのような感情が私の頭の中を堂々巡りして、それを振り払うために全身のギアをまた一段階上げてラストスパートを駆け抜ける。そうしてやっと過去の苦しみから抜け出せたのに、次は先程の二人の姿が思い浮かんでしまい歯ぎしりする。
亜莉亜さんに向けられた深月の微笑みは、私に向けられるものと何かが違う。
もっと純粋で、心の底からの信頼によってもたらされた感情がそこには深く刻み込まれていると直感してしまった。
もしも・・・。
もしもあの日、私がちゃんと深月を守れていたならば、今彼女があの微笑みを向けていたのは私だったのではないのか・・・。
ふと彼女と隣り合って笑い合う自分の姿を夢想してしまい、かえって暗い気持ちになってしまう。
そうならなかった自分が浮き彫りになってしまうようで、私は余計なことを考えないように我武者羅に山道を走った。
紅葉が私の名前を呼ぶのを背中で聞きながら何段飛ばしかで最後の石段を登り切ると、そこには去年ぶりの広大な日本家屋が屹立しており、八月の強烈な烈光を直上から浴びて重々しい輝きを放って私の眼に映っていた。
時津本家は長い歴史を持つ武家一家、もとい軍人一家であるらしく、いつの時代も優れた軍人を世に輩出してきたことで有名なところには有名だったのだが、さすがにこの平和主義的な時代においてはそうした側面は衰退しており、今やただの剣術一家という看板と広大な土地、そして歴史だけが残っていた。もちろん私はそうした家系に生まれたことを幸運だと思える程には才能を伸ばしてもらえたし、武術自体も大好きであったが、如何せんしきたりや慣習じみたものを重要視する点だけは正直好ましく思っていなかった。
そうして物思いに耽っている内にいつの間にか紅葉が階段を登り終えて私の隣に立ってこちらを覗き込んでみせたかと思えば、汗だくになっている私の頬に背負ったリュックから取り出したであろう水筒を押し付けて妙な笑い方をした。別に水筒の表面は特段冷え切っているというわけではなかったものの、紅葉のその気を遣うような面持ちに私は勝手に宥められたような気持ちになり、次第に冷静さを取り戻しつつあった。
「水分、摂ってくださいね」
まさか彼女が私の考えていることを見抜いていたとは思えないが、きっと急に走り出した自分を何事かと心配しつつもそれを問わぬままフォローしようと試みたのであろう。軽くお礼を言って遠慮なく水筒を受け取り、中の液体を一気に体内に流し込むと、程よく冷やされていたお茶が四肢にエネルギーを運び、頭が一層冴え渡っていくのを感じて、水筒から口を離すとゆっくりとした動きで階段の下を覗き込んだ。
そこには完全にグロッキーになってしまっている亜莉亜さんと、その少し前を元気づけながら歩いて来る深月の姿があり、私は先程と違って息苦しさや苛立つような感情を覚えることもなく、ただため息を一つ吐いてから隣に並んでいた紅葉の顔を横目で見据える。
「彼女、まだ若いんじゃなかったっけ?」
「日頃家で本を読んでばかりいる代償ですかね」
皮肉たっぷりのこちらの言葉に、紅葉にしては珍しくニヒルな表情を作ってそう返答し、登ってくる二人を待つことにしたのだが、いつまで経っても中々終点まで辿り着かなかったので、結局私達も彼女たちのいる場所まで降りて、その運動不足の背中を押すことになったのだった。
(ⅱ)
「正気とは、思えないわ・・・こんなところに住居を構えるなんて、余程・・・早死にしたいのかしらね・・・」
「でも、とても立派ですね」
「・・・不必要、よ。こんなサイズ・・・」
私達三人は既に時津本家の玄関前に立って中に入る準備をしているというのに、未だに不貞腐れたように地面に腰を下ろしている亜莉亜さんは、玄関の屋根を支えているであろう柱に背中を預けて俯いたまま、苦しそうに愚痴を漏らし続けている。私はあまりにも辛そうな彼女に多少の哀れみと庇護欲、そして多めの呆れを覚えてその直ぐ側まで近づき、水筒を差し出した。
額に汗を浮かべながら、肩で必死に呼吸をするその普段より小さく見える姿に形容し難い熱を感じて一瞬動きを止めたが、ようやく顔を上げた亜莉亜さんと目が合ったことでその金縛りから抜け出すことに成功した。
「どうぞ、お茶、飲めますか?」
彼女は何も答えないまま少し顎を上げて口を開いたまま停止しており、まるで接吻をせがむような仕草に私は水筒を握る手に余分な力を込めて動揺していたのだが、そんな私の混乱を他所に、亜莉亜さんは次第に眉間にしわを寄せたかと思うと苛立ちを隠さぬままの口調で私に命じた。
「何をしているの・・・早く、飲ませなさい」
普段なら傲慢ともとれるその態度に腹が立っているところなのだが、今の彼女の切なげな様相と来たら・・・このような女性に命じられて動かずにいられる者がいるだろうかと疑いたくなるほどの艶めかしさをまとっており、私は命じられるままに水筒を彼女の口元へと近づけ、その飲み口を小さく濡れそぼった赤い唇に当てて、それから少し傾けて中のお茶を流し込んだ。
私達二人の後ろでは、緋奈子が何度も執拗にインターホンを鳴らしては「ごめんくださーい」と大声で家の者を呼びつけていたがまるで反応がなく、しょうがないので繰り返し呼び出しボタンを連打しているところで、紅葉も聞き耳を立てて中の様子を伺っているようであった。
そんな二人から柱の裏で隠れるようにして亜莉亜さんに水を飲ませている私は、まるで彼女の生殺与奪を我が手にしたかのような奇妙な高揚感を感じており、少しずつ液体を嚥下する彼女の色っぽい喉元から目が離せなくなっていた。
触れたい、と何故か思った。
何故か?いや、違うはずだ。
私の中の幼い私がこちらを見て嘲笑しており、かたやもう一人の沈着な自分は私の両目を通して同じように彼女の喉元を見つめていた。
この感情は何だろうか、それとも私は既に知っていて知らないフリを決めこんでいるのだろうか。
知っているのに、知らないふりをしていることがこの世には往々にして溢れている。
いじめ、虐待、嘘、届かぬ夢、周囲の評価、あるいは消えていく生物たち、壊れていく惑星、人に殺されていく神様。
人類皆で仲良く気づかぬふりをしている。
人という生き物が初めから手にしている浅ましき業・・・善悪を知る知識の実をかじったアダムとイヴの罪、神に背いてまでして人類の始まりたる二人は何故知恵の実を欲したのか。
知らずにはいられないからだろうか、それとも禁忌を破らずにはいられない宿命だったのだろうか。
理由はどうあれ手を伸ばさずにはいられなかったに違いない・・・、その紅く色づいた知恵の宿った結晶に・・・・。
「ちょっと、痛いっ、や、やめなさい、深月・・・!」
私はその声にハッと我に返り、今までただ呆然と映しているに過ぎなかった光景に意識を戻したのだが、私の眼前には汗がつたっている美しい喉笛が迫っており、さらにその柔肌には誰がつけたのかも知れない規則的な歯型がうっすらと残っていた。
私は理由も分からぬままぼうっと亜莉亜さんの瞳を見つめたのだが、そこには今まで彼女が見せたことのない表情、つまりは羞恥といったある種の魅惑的な感情が如実に表れていたため、私はさらに目を丸くしたのだったが、そんなこちらの面持ちを見た彼女は羞恥と怒りとが合成されたような瞳の揺らめきをもって私を睨んで小声で怒鳴りつけた。
「あぁもう馬鹿じゃないのかしら!何で噛み付いたりしたのよ・・・汗だってかいているのだから汚いじゃない」
その驚愕の発言に私は、今度は目をいっぱいに見開き、「わ、私がですか?」と間の抜けた質問をしてしまい亜莉亜さんの怒りを更に買ってしまうこととなる。
「貴方以外、他に誰が居るの・・・この変態め」
「へ、変態・・・!」
この首筋に下品な歯型をつけたのが自分だというのか、それはにわかには信じがたいことだが、言われてみれば口の中が少し酸っぱい気がするし、亜莉亜さんの今までにない表情から推察するにもしかすると事実なのかも知れないと思いつつ、その瞬間の鮮烈に焼き付いたはずの記憶が無いのは一体どうしてなのかととても不思議に思えた。
彼女は頬をかすかに染めたまま掌で痕を覆い隠すようにしながら、粘着質な視線を私に向けていたのだが急に真面目な顔をしたかと思うと、「何でこんなことしたの」と無機質な声音で聞いた。しかし、全く身に覚えがない私はどう答えることも出来ず口ごもっていた。
「まさか、無意識だったの?」
「あ、は、はい・・・すいません」
「様子がおかしいとは思ったけれど、そうなの」
そう言って彼女は酷く考え込んでいるような素振りを見せたかと思うと、能面のような顔つきに変わり淡々とした口調で、「以前にもこういうことがあったの」と独り言のようにして呟いていたため、私は質問の意図を履き違えてしまい慌ててこう答えた。
「え、ええっと・・・すいません、今までに何度か噛みつきたいなって思ったことはあります・・・すいません」
「は?違うわよ、そちらではなくて記憶がない夢遊病じみた行動があったかどうかよ!貴方の特異なフェチズムに関しては何も聞いていないわ」と呆れと怒りが半々になった語調で彼女が強く答えた。
その返しを聞いて、私は顔に熱が集まるのが分かるほどの恥ずかしさで居ても立ってもいられなくなり、ついつい彼女の前に力無くへたり込んでしまったのだが、そんな私の姿に嗜虐心を煽られたのか件の厭らしい笑みを浮かべてそっと額を私の額にくっつけた。
突然の接近ではあったものの既に羞恥の限界値に達していたためか、私がこれ以上情けない姿を晒さずに済んだことだけは不幸中の幸いであったと言ってもいいだろう。
「じゃあ、お返しに私も噛み付いていいのかしら」と息を多く混じえた囁きに私は身体が痺れていていくのを自覚しつつも、この許可を求める問いに是非を下す権利が私にはないことにもまた気づいており、「・・・貴方の好きにしてください」と答える他なかった。
拳一つ分もない亜莉亜さんとの距離が、何故だか果てしなく遠いものに思えた。
すると亜莉亜さんはぽかんと口を数秒間だけ開けっ放しにした後、コツンと軽く頭を私に打ち付けてから消えそうなまでに美しい笑みを浮かべたかと思うとこう私に告げた。
「もう、貴方らしくないじゃない、しっかりしなさいな」
急に自分だけ大人に戻ったかのように私を案じる顔つきになってから、すっと身体を離した彼女を見ると何だか誤魔化されたような心地になって少しだけ残念だった。
残念、そう残念だった。
何故だか私は、彼女と同じ痕を、彼女に刻みつけてほしかったのだ。
亜莉亜さんはようやく立ち上がり首を振って髪をなびかせると、柱の向こうの二人の元へと向かっていった。
「ダメだ、皆して出かけてるのかなぁ、昼頃には着くって伝えてたのに」
座り込んだままの私に亜莉亜さん以外誰も気づくことがなく、変わらず会話している声が聞こえてきて、誰かが私の中で立たなきゃと急かしたため、渋る身体を言い聞かせて何とか人間らしい立ち姿を整えて柱の影から皆の元へと出ていった。
私と亜莉亜さんの顔を交互に一瞥した紅葉が一瞬何かを言おうと口を開いたのだが、結局それを声にすることはなくまた体内へと引き戻したようで、それから何事もなかったかのように私に笑いかけて「少し周りを見てきましょうか?」と小首を傾げる。
「それなら私が少し建物の裏手に回ってきます」と早口で皆にそう伝えてから、返事を待たないままさっと屋敷の側面に足を向け、そのまま砂利が敷き詰められた庭をどんどん奥の方に進んでいった。本来なら身内でもない自分ではなく緋奈子が様子を見に行った方が良かったのだろうが、今は感傷的になってしまっておりどうしても一人になりたかったため、皆には申し訳ないが独断行動をとらせてもらった。
次第に彼女たちの声が遠ざかり、完全に聞こえなくなってからは砂利の鳴る音だけが周囲を占領していた気になっていたのだが、こうして一人になるといよいよ蝉の声を改めて意識することとなって、いかに私達がこうした自然の声を取捨選択して聞こえないフリをしているかがしみじみと感じられるのだった。
あと少しばかりで曲がり角ようやく差し掛かるといったところで、蝉や鳥の声でも、踏み鳴らす砂利の音でもない全く別の、空を切るような音が耳に入り始めたので、私は誰か居るのだろうと緊張した心地になりながらも足を早めて角を曲がった。
玄関の丁度反対側、つまり裏庭と思われる場所は玄関前の敷地よりもさらに広大で、尚かつ整地や木々の剪定がより一層丁寧に行われており、そこだけでも京都などにある有名な庭園だと言われても、決して疑いはしないだろうと思えるほど風靡なパノラマであった。
木々や花が植えてある場所以外は黒い小石が間隙を空けず敷かれており、庭園の周囲には山茶花が生け垣として植えられていたのだが、何よりも目を引くのはその庭の中央にそびえ立っている大きな桜の木であった。時期が時期だけに咲いた花は確認できないものの、その幹の荘厳なまでの太さ、天を覆わんとするが如く四方に伸び広がっている枝々の強靭さ・・・間違いなく私が今まで見てきた中で一番立派な桜であった。
私がその大きな桜に見惚れていたところ、再びあの空を切る音が聞こえて私は意識を取り戻しつつもその音のする方へと視線をずらしたのだが、それは桜のちょうど真下で誰かが棒状の物を手にして素振りしている音のようであった。桜を囲むようにして植えられたペチュニアの花がその人物と大木を装飾しているように赤、ピンク、紫と色とりどりに咲き誇っており、その光景自体が一つの作品であるかのように色彩、背景、その人物の佇まいの調整がとれていた。
その人物は私と変わらないぐらいの長さの髪を下の方で束ねた髪型をしていたため遠目でもおそらくは女性であろうということが認識できたが、木刀のようなものを両手で握り肩よりも高い位置で垂直に構えてから、ただ真っ直ぐに振り下ろす、といったシンプルかつ迫力のある素振りをただひたすらに繰り返していた。その姿はまるで目の前の大木を半分にかち割らんとするかのようにさえ見えた。
素人の私でさえ、これだけ離れた距離からでもその気迫をヒシヒシと感じることが出来るほど鬼気迫る後ろ姿だったのだが、不意にそうした一切の圧力が消え失せたかと思うと、彼女は振り向き、的確に私の方をじっと見据えた。
風になびく髪を押さえながらじっと私の方を見つめていたかと思うと、瞬きする程度の短い間動きを止めていたのだが、すぐさま木刀を逆手にぶら下げこちらへと歩み寄ってきたので、私も挨拶をしなければと考え同じように彼女へと近づいた。
彼女の放つ雰囲気がそうさせるのか、あるいはこの庭園の厳かさによるものなのか、はたまた先程の鍛錬中の気迫によるものなのかは分からなかったが、どうしてか全身に力が入ってしまい緊張しているのが自分でも分かった。
二人の距離が近づくにつれて、容姿端麗であること、そしてどことなく緋奈子に似た顔立ちをしていることが認識できたのだが、この場所と顔立ちからして時津家の人間なのは間違いなさそうである。
彼女は未だ微妙に距離がある状態だったが、私が口を開くより先に問いかけを行った。
「もしかして、時津緋奈子のお友達ですか」と極めて平坦な口調で問われ、その全くもって歓迎の意思が垣間見えない様子に私は少し面食らって気圧されてしまったが、なんとか平常の自分を即座に取り戻して、「はい、勝手に敷地に入ってきてしまい申し訳ございません」と平身低頭した。こうして動揺から反射的に立ち直れるようになったのは、普段私をからかってくる亜莉亜さんのお陰だなと内心で一人納得した。
彼女は私の下から上まで冷酷な目で見回したかと思うと、改めて興味を失ったかのように空を見上げ小さなため息を漏らした。
「いえ、構いません。今は皆隣の社に出かけていますので、少し経てば戻るかと思います。もしかしたら既に玄関の方に回っているかもしれませんね」
そう口にした後、彼女はこれ以上話すことなどない、といった風に音もなく踵を返して建物の方へと去っていこうとしていたため、何か失礼があってこうした無礼とも呼べるような態度をとられているのか、それとも時津本家の人々は部外者である私達の参入を実は快く思っていないのではないかと心配になってしまったのだが、その背中には完全に会話を拒む威圧感が張り付いていたため私はただ不安そうな顔つきで見送ることしか出来なかった。
それから私は仕方がなく身体を百八十度回転させて来た道を引き返したのだが、建物の側面に回ったところで私を迎えに来ていた紅葉と出くわして、表には出さなかったが多少驚いて彼女の顔を見つめていた。紅葉の方はというと相変わらずの人好きする笑顔を浮かべたままで軽く手を上げて私に合図をして、「あぁ深月さん、今皆さん帰ってこられました。二人は先に入られています」と事務的な連絡を行ったのだが、私はその微笑みの中に何かぎこちないものを感じて眉をひそめながら質問した。
「・・・どうかされましたか?」
「え、あぁ・・・おかしいな、顔に出ていましたか?」とほんのり頬に赤みをもたせて視線を泳がせる紅葉の姿は、とても私達より五歳も上だとは信じられないほどに純朴に光り輝いて見えた。
「何となく、そう思っただけですが・・・」
「さすがの観察眼ですね」と紅葉は私にお世辞を述べてから、疲れたような顔つきに瞬時に変わって、とても大儀そうに快晴の空を眺めた。普段は隙のない紳士然とした服の着こなしをしている彼女だったが、この炎天下のせいか着ているワイシャツの一番上のボタンは外されネクタイも力なく緩みきった状態で首元から垂れ下がっていたため、今日はどこかカジュアルな装いに見えた。
「まぁ、お会いすれば分かるとは思いますが・・・先程お会いした者の中に少しばかり品のない人間が混じっていたものですから」
またしても彼女らしくない、嫌悪感の発露ともいえるその発言に私は驚いたが、先刻私が出会った人物のことを考えると、礼節を欠いた人間を嫌う傾向のある紅葉が気を悪くしているのも致し方ないのかもしれなかった。やはり我々は歓迎されてはいないのではと不安に思いながらも、彼女が突然思い出し笑いするかのように息を漏らして、「あぁでも、こんなときにやっぱり亜莉亜さんの空気の読まなさは、ある意味で頼もしいですね」と言ったので、一体何の話なのか不思議に思いながらも私は一先ず苦笑いを浮かべて、背を向けた紅葉について玄関の方へと戻っていった。
そうして玄関先に戻るとドアは開いたままで放置されており、私達が入ってくるのを今か今かと罠を張って待ち構えているようにさえ思えたのだが、先程の話を聞いて今更ながらに、あの慇懃無礼な亜莉亜さんがほぼ単身といってよい状況で時津本家の人々の間に収まっているというのは非常に危険なシチュエーションなのではないかと思い至り、私は挨拶も半ばに駆け込むようにして玄関に飛び込んだ。危険、というのは亜莉亜さんがではなくて、彼女の周囲を鑑みない、包むオブラートを燃やしてしまったかのような発言が衝突を招く危険性があるという意味である。
靴を丁寧に揃えながら土間から上がるが、すでに入り口の時点で明らかに通常の家屋には不必要だと思える程の広さがあり、また装飾的な意味合いしか持たないであろう置物、雑貨類が靴箱の上にところ狭しと並べられていたのだが、全く私の感性とはそぐわないものばかりであった。もちろんこの場合は貧乏人である私が、ハイソサエティな人たちの感性についていけていないだけなのだろうが。
だがそんな中でも唯一私の注意を引いた物があった。それは時津家の集合写真と思われる、セピア色に変色してしまった一枚の写真であったのだが、随分と昔に撮影されたもののようで三十代程の大人が何名かとその子どもたちと見られるものが六人ばかり映っていたのだが、その中の何人かに見覚えがあった。
写真の右側で朗らかながらも静かな微笑みを携えている男性は、おそらく今朝会った緋奈子の父で、その下で泥が付いた顔で無邪気な笑みを浮かべているのが緋奈子のようで、小さい頃からお転婆だったことが容易に伺える。さらに、その隣に立って彼女の手を握っている少女もどこか見覚えのある容姿であったため、私はじっと目を凝らしたのだが、何度か瞬きを繰り返している内にそれが先程出会った無愛想な女性だということに気がついた。この頃はまだ愛想の良い笑顔を浮かべており、幼年時代の澄んだ気質というのは大概どこも似たようなものなのかもしれないと楽観的な考えを抱いた。
私の視線に気がついた紅葉が隣に立って同じように写真を眺め、「小さい頃の緋奈子さん、何だか今と変わらない気がしますね」と的を射た発言をしたため、私はついついおかしくなって笑ってしまったのだが、いつの間にか私達を迎えに来ていた緋奈子がそれを見咎めて、心底心外であるといった風に口を尖らせて言った。
「悪かったね、阿呆のまんまで」
その不意をついた言葉に私は身を飛び上がらせて彼女の方を振り向き、「い、いつからそこに」と弁解もせず尋ねたところ、緋奈子は依然拗ねたような顔つきをしたままこちらをじっとりと睨み腕を組んだ。
「二人が私を馬鹿にしてるところから」
「イヤですね、馬鹿になんてしていませんよ。成長しても変わらず純真なままなのは良いことですから」と紅葉がとってつけたような言い訳を並べたのだが、「もう、馬鹿にしてさぁ」と彼女はいじけたように反応し、それから少しだけ口角を上げて私達に向かって、お昼ご飯の用意が出来ている旨を伝えてくれた。
思えば今朝早くに菓子パンを少々かじっただけで後は大して何も食べておらず、それ以降は喉を潤すための水分しか摂っていなかった。そのため食事と聞いた途端に消化器官が息を吹き返したかのように動き出すのが感じられた。
私と紅葉は彼女の案内に従って廊下へと足を踏み入れたのだが、これまた不必要なまでに高い天井と、その壁面に飾られた掛け軸、水墨画、読めないほどの達筆で書かれた訓示等が、いかにも豪邸でございますといった主張を前面に押し出しているのがまた自分との価値観にそぐわず、凄まじい居心地の悪さを感じながら、ここで数日寝食を行うのかと贅沢ながらも憂鬱になってくる。
それからいくつかの襖を素通りして、丁度廊下の中央辺りに差し掛かったところで緋奈子が動きを止めてこちらを振り返った。その表情には苦々しいものが含まれており、これから彼女が言わんとすることがあまりいい知らせではないことだけはこの段階でも充分に察することが出来た。
「あー・・・面倒くさい質問とか、鬱陶しい話とかは無視していいから。何かもう叔父さんたちお酒が入ってるみたいだったからさ」
そう言われて私は露骨に顔をしかめてしまいそうになるが何とか堪えて、首を縦に振り承諾の意思を示したが、紅葉が先程言っていた言葉の意味が理解できたような気がして、これまた憂鬱さが加速していく。
彼女が準備はいいか、と言わんばかりに襖に手をかけてこちらを見据えたのだが、それが開かれる直前に、中から割れんばかりの笑い声が響いてきて私は情けなくも腰を抜かすところであった。
何が何だか分からないといった様相で驚きを隠せずにいた緋奈子であったが、すぐに気を取り戻して襖を勢いよく開けたのだが、その途端にまた先程の笑い声が轟いてついつい耳を塞ぎたくなる衝動に駆られながら、中へと足を進めた。
「おお!その娘が噂の深月ちゃんか!」
突然獣のように野太い声で自分の名を呼ばれて心臓が縮み上がる思いをしつつも、顔を伏せることなく正面に座していた声の主へと視線を向け、出来る限り自然に、かつ優雅に・・・それでいて自身に満ちた態度を心がけて挨拶を行うことに私は全神経を注いだ。
畳何枚分あるかも分からないほどだだっ広い座敷で、熊のように大柄で、野生に満ちた瞳とぶつかった。
怯みそうになる自分を、違う自分でカバーして、さらに他の人物をイメージして理想の初対面を演出していく。
そう、イメージするのは彼女だ。彼女が初対面の人間、それも丁寧な応対を心がけて客に接しているという限りなく珍しいシチュエーションを想定してその真似をする。
両手を正面で揃えて、最初は軽い笑みを浮かべて淑女然と・・・だが目には臆することのない意思を込めて。
「お邪魔しております、この度は緋奈子さんのお友達としてお招き頂いた、秋空深月と申します。もしかすると、既に噂となって耳にしているかもしれませんが何卒数日の間宜しくお願い致します」
深々とおじぎをする。
彼女がそうするようにゆっくりと目を瞑り、ゆっくりとまた開く。
そうして完全に自分の感情を自身の制御下においてから顔を上げて、正面と両脇に座って並んでいる時津本家の人間を見渡した後、可能な限り上品に微笑みを浮かべて見せた。
我ながら、完璧だったのではないか。
そう自己陶酔出来たのも束の間、このい草の香り漂う部屋に死んだような静寂が一瞬で広がっていき、誰一人として口を開かぬまま私の方を凝視していたのだが、その目が驚きというか、呆れというか、何とも形容し難い感情に染まったものだったため、私からも次第に微笑みが消え失せて、同様の色を顔に滲ませてしまっていた。
(や、やり過ぎた・・・?)
畏まりすぎたのか、あるいは調子に乗りすぎたのか、はたまた可愛げが足りなかったのか・・・。
完全に頭が真っ白になってしまい、あわや身体が震えだすのではといったところで、静まり返ったこの空気を鈴が鳴るように美しい笑い声が突如として破った。
私はその聞き覚えのある笑い声の主を探し出すと、彼女はややあって笑うのを止めてから一度例の熊男・・・は失礼すぎるが、その人物の方を一瞥してから誰を見るでもなく視線を宙に戻してやんわりとした微笑みを浮かべた。
「ねぇ、言ったでしょ?絶対に私の真似をするって」
彼女は愉快そうに口元を吊り上げて、私でも周囲の人間でもなく、ただ天井の一点を恍惚とした表情で見つめながらそう呟いたのだが、私はその言葉の意味を理解するよりも先に、うっとりとしている彼女の首元に浮かんだ今にも消えそうな痕が網膜に焼き付いていくのを感じて、それらを遮断するかのように瞳を閉じた。
(ⅲ)
「何処まで行ったんだろう、深月・・・」と緋奈子が未だに無意味にインターホンの呼び出しボタンを連打しながら、夢見心地のようにして心配そうに呟いた。
ちょっと家の裏手に回っているだけの彼女を今にも追いかけて行きそうな緋奈子であったが、私はというとそれどころではなく、先刻その深月に噛みつかれた首筋が脈を打ちひりついており、もしや血でも出ているのではないかと考え携帯のミラー機能で確認してみたのだが、うっすらと痕が残っていただけで大した傷でさえ無かった。
しかし・・・それにしては随分と傷跡が熱をもっている気がするのだ。感染症にでも罹ったのかと思えるほどその噛み跡が疼き、私の感情を逆立てるのだが、こんなことを紅葉や緋奈子に愚痴ることは出来ずただ悶々と怒りに似た感情を飲み下すしかなかった。
ようやく呼吸が整い冷静になってみると、山の中だからか周囲の熱気が自分の住んでいる街に比べて比較的弱くなっているようで、私は何となしに深呼吸をして体内に外気を取り入れる。
鳴り響く蝉の声、風により木々が揺らいで出る葉や枝の音。
流れる水の音、天を舞う鳶の何処までも響くようないななき。
そのどれもがこの世界と調和し、あるべき形を我々人間に思い出させようとしてくれているような気さえもして、私は自分がもう原始的な自然へと還れない人類の一端だという事実にどうしようもなく絶望した。
それでも今はとにかく、この澄んだ自然の声と一つになっていたかった。そうすることで自分自身が純粋な輝きを取り戻せるとは思っていないが・・・。
そんな心地になっていたからこそ、私達が先程上がってきた階段を騒々しく登ってくる一団の気配を感じて、反射的に舌打ちしてしまうこととなったのだ。
「・・・無粋ね」と誰にも聞こえないほど小さな声量で私は呟いた。
けたたましい声は私達のすぐ側まで近寄って来ており、残りの二人もその気配を察して身体の向きを階段の方へと向けて黙り込んでいた。
やがて私達の視界に先頭の人間の頭がひょっこりと浮島のように現れて、それに続くような形で身体、足と全容が顔を覗かせ、さらにその後方から同様の順序で何人もの人間が姿を見せた。あちらも私達に気づいたようで、先頭に立っていた熊のような大男がよく分からない言葉を発しながらこちらに手を振り、それに答えるようにして緋奈子が「お久しぶりです」とよそ行きの高いトーンで言った。その聞き慣れぬ声が気味の悪さを感じさせるようなものだったため、私は段々と気力が失せていき、どうしてこんなことに付き合ってしまったのかと、出来ることなら数日前の自分をひっぱたいてやりたい気分だった。
紅葉がすぐさま頭を低くして礼儀を払ったが、どうにも気分が乗らなかった私は一ミリも頭を下げず、その後ろから続いてくる時津本家の人間たちの様子をじっくりと観察した。
熊男のすぐ後ろから続いてくる若い男二人は、おそらくは彼の息子で歳は二十前半から後半といったところだろう。髪を金髪に染めてヘアワックスで剣山のような形を保っている小煩い男と、その男の話に適当な相槌を打ちながらも私と同様にこちらを瞬時に観察するような目つきをした陰気そうな男で、どちらにせよ私が好感を持てるような種類の人間ではないことは確かだった。
熊男が我々の目と鼻の先までやって来ると、挨拶を求めるように紅葉がこっそりと私の背中を突いたのだが、とてもそんな気分にはなれず、それを無視して沈黙を貫いたところ痺れを切らした紅葉が私の一歩前に出て優雅に会釈をしてから、聞こえの良いテノールで自己紹介を始めた。
「はじめまして、私達はこの度は参加できなかった緋奈子さんの両親の依頼でやってきました、綺羅星興信所の綺羅星紅葉と申します。折角の機会をお邪魔する形になって恐縮ですが、何卒宜しくお願い致します」
そうして彼女は思わずゾッとする丁寧な言葉を並べ立ててもう一度深々と頭を下げたのだが、その姿と言葉があまりにも紅葉の持つ生真面目さを象徴していたため、私は誰にも気取られぬように息を漏らして、熊男の反応を待っていたのだが、彼はその紅葉の姿に大きな笑い声を上げたかと思うとその太い腕を振り上げて彼女の肩を音がなるほど豪快に叩いた。目を丸くしていた紅葉にその大きな口を開けて彼は告げる。
「そんなに畏まらないでくれ、堅苦しいのは苦手なんだ」
「叔父さん、そんなに強く叩いたら痛いに決まってるでしょ!」
緋奈子の諫言の何が面白かったのかは知らないが、彼はまた空気を破裂させんとするかのような大声で笑ったのだが、不意にその腫れぼったい目を鋭く光らせたかと思うと、「この坊やはそんなにヤワじゃなかろう?」と不敵に言ってのけたため、なるほど、本当に武道家というものは相手の立ち居振る舞いだけである程度の実力が分かるのだな、と以前緋奈子が言っていたことを思い出して、表には出さずに感心した。・・・ただ、紅葉の性別まではその目では見切れなかった様子で、緋奈子がそれを訂正しようとしたようだが、紅葉が黙って彼女のスカートの裾を引っ張ったため未然に終わった。
紅葉を一通り眺めた彼は、そのやり取りを未だ沈黙して淡々と観察していた私へと視線を移すと、無精髭の生えた顎を手で擦りながら目をキュッと細めた。
次は私の番、というわけか。
体裁などどうでも良いのだが、心配そうな緋奈子の手前、たまには大人としての役割も全うするかと諦めて口を開こうとしたその時、熊男の後ろでひそひそ話を際限なく行っていた金髪の男が癖のある喋り方をしながら私達の側にやって来た。
「えぇー、探偵が来るって聞いてたからさぁ?どんな渋いおっさんが来るのかと思ってたけど、凄い美人で俺ビックリしちゃった」
ぴくりと、そのあまりにも軽々しい態度と口調に無意識的に眉が不快感を露わにして微かに動いた。気さくな、といった意味合いとはまた違う頭の軽そうな調子に、重しでも付けて深い水底に沈めてやろうかと本気で思ったがどうにか自制して、ギロリとその男を睨んだ。
「ねぇねぇ、名前何ていうの?」
「あ、その人は・・・」と紅葉が即座にフォローしようと声を発したが、彼が「お前には聞いてないって」と無礼極まりない態度で答えたため、紅葉は押し黙りながらも彼を睨みつけていた。その様子に緋奈子が口を挟もうとしているのが分かったため、敢えて私はそれより早く言葉を紡ぎ仲裁を言外に拒んだ。
「綺羅星」
「あー、いや下の名前は?」
「別に名乗るほどの者ではないわ」
私のその隠すことのない嫌悪感にあてられてか、少しだけ口をだらしなく開けて苛立ちを覗かせていたものの、私の顔を数秒ほど凝視すると気を取り直したかのようにまた口を開いたのだが、次の言葉までに数秒もの沈黙を要するその鈍重な思考に、私は最早憐れみさえも感じていた。
「いいじゃん、教えてよ」
考えてまで発する言葉がそんなものとは・・・。
つくづく人を苛立たせるのが達者なようだ。
「人に名前を尋ねるときは、まず先に名乗れと教わらなかったのかしら?」
私の嘲笑混じりのその発言に、男はすぐさま顔つきを豹変させて怒りを示して、まただらしなく口を開き、「はぁ?」と意味の感じられない言葉を発していた。
私はこういった種の人間が、反吐が出るほど嫌いなのだ。知性の欠片もなく、礼節も感じられないわりに人間ヅラしている連中が・・・。それに、ついでに言えば私の大事な助手である紅葉をお前呼ばわりしてないがしろにしたことも許せない。彼女をそういう風に扱っていいのは私だけの特権だ。
「やめないか」と熊男がようやく止めに入ろうとしているが、今更遅すぎる。もう相手は頭に血が上っており、誰かの言葉に大人しく従うようには見えないし、この無様な脳味噌をした人間が出来上がる過程を推察するに、余程甘やかしたか野放しで育てたかのどちらかだろう。そんな人間の言葉を聞けるほど、コイツは大人じゃない。私と同じ、社会不適合者だ。
そう考えると、ついつい口の両端が歪に形を変えてしまいそうになるが、何とかそれを抑えて相手の出方を伺っていると、彼は凄むようにわざとらしく低い声を出して私の方を向いて言った。
「でもよ、親父。この女、家に招待してやってるってのに、生意気じゃねぇか?」
「宗二兄ちゃん、やめてくんない?私のお客様なんだけど」
この一触即発の状況を静観して見守っていた緋奈子は、どうやらこちらに味方することに決めたらしく、宗二と呼ばれたその金髪頭を敵意剥き出しにして睨みつけたが、やはり彼女としても仲の良い紅葉が軽く扱われたことには業腹だったようである。
それにしても彼女は、単細胞で直情的な癖にこういった緊迫した状況になると意外にも冷静に流れを見極めようと沈黙していることが多かった。私には彼女の中に宿る天賦の嗅覚の片鱗を感じて、緋奈子の評価を改めざる終えない瞬間がままあるのだ。
そうして自らの従姉妹にも手痛い攻撃を貰った宗二は、納得がいかない風に舌打ちをしてから、未だ執拗にこちらの評価を貶めようと必死になっており、彼は父親と隣の男の顔を交互に見比べながら粘着質な口調でこう告げた。
「そもそもさ、こんな若い女が探偵なんてさ、本当に役に立つのかも怪しくねぇ?」
その荒唐無稽で、何の根拠もない女性蔑視とも言える発言に、緋奈子をはじめ紅葉すら憤りの気配を覗かせたのだが、一転して私は腹を立てるどころか大層愉快な気分になって、とうとう笑いが我慢できなくなって声を漏らしてしまった。
その声を聞いた男三人の反応ときたら、後々思い出しても可笑しくて腹が捩れるのではないかと考えてしまうほどに間の抜けた顔をしていた。当然私のこうした行動に慣れている紅葉と、慣れ始めた緋奈子は複雑な面持ちを浮かべただけであったので、その一点に関してのみはつまらないものではあったが。
いつまで経っても私を不気味そうに見つめたまま彼らが動こうとしないので、仕方がなくこちらから言葉を発する。
「ふふふ、それは困ったわぁ、どうにかして信頼して頂かなければねぇ?」
そうして紅葉の方へ同意を求めるような視線を送るが、彼女は困ったように肩を竦めて息を漏らしただけで、昂揚し始めた私の心に水をさした。しかし、紅葉が止めようとしないことからも善人代表の彼女なりにも思うところはあるようだ。
ようやく空いた口が塞がった様子の男たちは、皆一同に顔を見合わせていたが、私が「宜しければ、探偵としての私をお試しになられたらどうですか?」と両手を頬の横で合わせて口にしたところ、三人の中では如何にもインテリであると言わんばかりの男が明らかな作り笑いを浮かべて手を打った。
「そうですね、そうした余興として楽しめれば、兄さんも溜飲が下がるのではないですか?」
「何だよ三好、どうするつもりだよ」
相変わらず脳味噌の足りていない発言を繰り返す宗二へ、三好と呼ばれた男が「勝ち負けをきちんと決める、ということですよ」と答えると、宗二は品のないニヤけ面をして軽く相槌を打ち、父親らしい熊男に許可を求めた。彼は少し黙って私達三人を横目で見つめていたが、私が黙って微笑んで見せると諦めたように目を瞑って、「勝手にしろ」と呟いた。
「亜莉亜さん、本当に大丈夫なの?」と緋奈子が小声で私の腕を掴んで問いかけるが、今の私からしてみればその行為自体がナンセンスで、気に触る妨害行為のようなものだった。
ようやく面白くなってきたのだ、邪魔しないで欲しい。
私の目を見てその思いが伝わったのかは分からないけれど、結局緋奈子は心配そうな表情を残したまま私の腕から手を離して静観することを決めたようだ。そうして私を気遣う緋奈子に対して我が助手はというと、もう勝手にして下さいと言わんばかりにこちらを見つめていたが、その瞳の奥にはどこか期待するような輝きが宿っていたのは私の気の所為ではあるまい。良心の塊のような彼女でも侮辱されれば怒るに決まっているらしい。
全員の了解が暗黙の内にとられたことで、三好は大仰に両手を横に広げて芝居がかった口調で説明を始めた。
「探偵らしさ、ということだったので・・・そうですね、こちらも答えが予測できない問題にしましょう。もちろん、ヒント、というか問題を解く上で参考になる情報は提供致します」
「まどろっこしいのは嫌いだわ、早く問題を出しなさい」
楽しみを前に逸る気持ちを抑えられない私は、腕を組んでから宙空を見つめて三好にそう促した。彼は多少意外そうな顔をして見せてから、「そうですか」とあっけらかんに言って、問いかけの内容を話し始めた。
「実は、まだ後方に遅れて階段を上がってきている母と兄さんがいるのですが・・・どうです、どちらが先に階段を登ってくるかを当てるというのは?」
「へぇ、それを勘以外で推測できる方法があるのね?」と私が間髪入れず問いかけると、三好は少し動きを止めた後ゆっくりと頷き、また穏やかな偽物の笑みを浮かべて言った。
「そうですね、簡単すぎてつまらないかもしれませんが、兄は身体が弱い、とだけ伝えておきましょうか」
「お、おい、それじゃあ問題にならねぇだろうが!」
宗二は感情を昂ぶらせて弟を怒鳴りつけたが、当の本人はそれに対して極めて冷淡な口調で「いいんですよ、さっさと話を済ませたいんですから」と答えたため、彼は顔を真赤にして土に唾を吐き捨てたが、その行為がまた下品極まりなかったため、私はわざと全員に聞こえるように大きく舌打ちをした。
私は三好の説明を聞いて、徐々に興奮が冷めていくのを感じながら、世の中は何故こんなにもつまらないもので構築されているのだろうかと嘆きの息を漏らしてから、ゆっくりと瞳を閉じて、またゆっくりと見開いて退屈さを隠さずに声を上げた。
「本当ね、つまらないわ」
「では、答えを聞いてもいいでしょうか?」と彼が微笑みながら問いかけてくる。
そう・・・本当につまらない。
こんなもので問題のつもりなのか、それとも本気でさっさとこの話を切り上げたいのか、はたまたどうでもいいのか・・・。
まあ少なくとも、一応の形だけは整えておこうか。
「そうね・・・その前に、私がその答えに至った理由を形式的に一応伝えておきましょうか」
「ああ・・・そうですね、探偵といえばその過程が必須ですもんね」
私は彼の顔を一瞬だけ覗き見たのだが、その顔つきには微かに余裕、あるいは狡猾さが発露していたため、もしや・・・と考えを改める必要性を認識した。
もしや、こんなもので駆け引きのつもりだったのだろうか・・・?
いや、そんなはずはないと再び考えを元に戻して、説明を始めることにした。まさかそれほど幼稚ではあるまい。
「まず・・・そうね、金髪の貴方。貴方を見れば両親のうちのどちらかが極端に甘やかして育てた、あるいは放任主義で育ったのが容易に想像できるわ」
ほぼ名指しで侮辱された宗二がとても人間の言語とは思えない、獣のような唸り声を上げて私を睨んだが、気にせずに説明を続ける。どうせ獣じみていても、鎖に繋がれ安全な檻の内側で育った見てくれだけの臆病な獣だ。
「ご主人の様子を見るに、それはきっと奥様の方であると考えるのが自然ね・・・。その上でもう一点、ヒントとして与えられた兄は病弱という情報。病気の程度によるけれど、あの階段は健康な人間でも登り切るのに一苦労するものだったわ、正直こんなところに家を建てるのは正気の沙汰とは思えないほどに」
そうして話を進めていくにつれて、ほんのわずかではあるものの三好の表情が曇っていくのが分かり、私は彼が駆け引き紛いのお遊びをしていたことに驚きつつも平坦な口調で話を続けていく。
「つまり、甘やかし体質の奥様が病弱な息子、しかも貴方達の名前から察するにきっと長男なのね・・・なら一層のことその長男を放ったらかして自分だけ上に登ってくるとは考えにくい。だから―――」
と私が結論を述べる前に、下の方から誰かが会話しながら上に登ってくる気配が感じられ、皆が一様にその方向を凝視したが、私はというともう興味がなくなってしまい、宙に視線を彷徨わせたままその話の最後を語った。それにしても本当に深月はどこまで行ったのか、ああ首が疼く・・・と既に違うことを考えながら。
「きっと、奥様は息子さんと一緒に階段を上がってくるでしょうね」
そう私が発言し終わるや否や、私達の視線の先からほっそりとした男性とその横に甲斐甲斐しく付き添って階段を登りきった二人の姿が現れ、彼らは私達が凝視していることに気がつくと何が何だか分からないといった様子で目を白黒させて立ち止まった。
しかし色白の男性だけは私と紅葉の姿を、その弱々しさと気丈さという、相反する性質が宿った瞳でしっかりと見据えると、深く頭を下げたため、私は彼に向き直り同じ様にブレなく焦点を当ててから丁寧にお辞儀をした。すると彼は未だに息絶え絶えという様子であったものの、しっかりと姿勢を正したままこちらへと歩み寄ってきて、その憔悴した顔つきを無理やり破顔させるようにして言った。
「おはようございます、この度は遠くからご足労いただきありがとうございます・・・私は時津信一郎と申します。遅れてしまって申し訳ありません・・・」
私はその紅葉を彷彿とさせるような丁寧で紳士的な応対に好感を抱かざるを得えず、自分の持ちうる中でもとびきりに優雅な微笑みを展開して、わざと緩慢な仕草で口を開いた。
「とんでもありません、私は綺羅星興信所代表の綺羅星亜莉亜と申します。折角親族一同お集まりの時にお邪魔かと思いますが、どうか微力ながらお力添えさせて頂ければと思っております」
信一郎は一瞬目を丸くしたかと思うと視線を逸らし、眼下に広がる野山を見下ろしてから深く息を吐いてまたこちらを真っ直ぐに見据えた。何か頭で言葉を巡らせたのか、あるいは女性慣れしていないのか・・・どちらにせよ彼が慎重的で、必要最低限の知性の持ち主であることは間違いが無さそうである。
私は彼の少し後方でじっと佇んでいた母親にも簡略化した挨拶をして、それからまた信一郎の方へ向き直り、無言で彼の様子を観察した。
病弱だと特徴が挙げられるだけあって、確かにかなり痩身で肌も雪のように白く、頬も痩せこけてしまっているが、それが彼の弱々しさの中に輝く精悍な光をかえって目立たせており、とても変わった魅力として青年の姿に浮き上がらせていた。
彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている二人の弟と、何か思案気な面持ちで腕を組み黙り込んでいる父をさっと一瞥すると、再び私の方へと視線を戻して不安げな顔つきと声音で言った。
「もしや、何か弟たちがご無礼をしたのではございませんか?」
その声はあわや蝉たちの合唱にかき消されてしまうのではないかと思えるぐらい、か細い声ではあったものの、その何処か透き通っていて、なおかつ消えてしまいそうな声は、不思議と耳に入ってくる性質を持った響きとして私達の元へと届けられた。
私は二人が言い訳するような気配を覗かせたのを感じ取って、それよりも先ににっこりと微笑してそれに答える。
「いいえ、それどころか・・・大変楽しい余興をさせて頂きました」
それから二人に向けて、「ねぇ?」と言ってのけたのだが、彼らはもう声も出せずにただ頷くだけの人形と化しており、その退屈さに私はまたもすぐに興味を失って、皆に背を向けるようにして玄関口の日陰へと避難したのだった。それから信一郎は複雑な顔つきをして周りを見渡したが、皆一様に黙ってしまっていたので、結局緋奈子が妙に明るい声で「叔父さん、そろそろ中に入りましょう?」と沈黙を破った。
それを快諾した熊男を先頭に列を為して、皆が屋敷の中に入り始めた。その様子を少し脇から見ていた私達三人は、最後に信一郎が中へ入っていったのを見届けた後、顔を見合わせて笑いを堪えていたが、緋奈子がニヤけながら私を突っついたのを皮切りに、とうとう笑いだしてしまった。
「もー、ごめんね本当。あの二人は昔から女に対してはああなんだよ」
「それって女嫌いってことですか?それにしては男と勘違いされていた僕にもあぁでしたけど?」
「女嫌いなのではなく、自分に媚びず、そして自分よりも優れていそうな女性が嫌いなのよ、きっと」と私がもう誰も居なくなった玄関の扉を見据えながら口にすると、緋奈子が少し驚いたように口を開けてから何度も何度も頷いた。
「そうなんだよねぇ・・・まぁ、嫌でも理由は後からわかると思うけどさ。兄ちゃんたちもまああれで可愛そうなところもあるんだよ」
そう言って緋奈子が笑っているのか泣きそうなのか分からないような複雑な表情をした。
頭の後ろを掻き明後日の方向を向いた彼女自身が、どことなく引きずる思いを抱えているように見えたものの、何も気づかぬフリをして私も同じ様に全く関係のない場所を見つめた。
高い丘の中腹に時津本家邸宅が立地していたため、自然とそこから見える景色は彼方まで広がった美しい田園風景となっている。地獄のような階段のことさえ忘れてしまえば、この場所は古より変わらない価値を残しているパノラマを展望できる素晴らしいところのようである。
「それにしても・・・深月さん遅くないですか?」と紅葉が思い出したように言ったので、それに素早く反応した緋奈子が、「探してくるよ」と答えたものの、そうなっては私と紅葉だけで彼らの後を追うことになってしまうのでどうにも気乗りせず、その提案に私は首を横に振って返した。
「貴方が彼らの中にいてくれた方がこちらも安心できるわ。紅葉、行きなさい」
「・・・僕をペットか何かと勘違いしていませんか?」
私の命令に紅葉は渋い顔をしてみせたが、ふと何か考え事をするような素振りをしてから、大人しく深月の去っていった方へと足を向けた。緋奈子は深月を迎えに行きたかった様子だったものの、彼女としても先程の彼らの私への態度を鑑みてか、大して反論するでもなくこちらを手招きして私を屋内へ誘い入れた。
「あ、そうだ、亜莉亜さん」
建物の裏手に回ろうとしていた紅葉がさも言い忘れてました、という風な様子で立ち止まって私に声をかけたかと思うと、「先程はありがとうございました」と的外れな発言をしたため、私は身体を百八十度回転させて再び建物の方へと向き直り念の為に彼女にこう返答した。
「馬鹿言わないで、別に貴方のためじゃないわ。ただ、私が気に入らなかっただけよ」
紅葉に都合の良いように解釈されて、私の行動が私の知らないところで独り歩きするような事態になることを避けるために、念押しの意味を込めての発言だった。
自分のことをそういう善人じみた性質を持った人間だと勘違いされるのは甚だ遺憾であるからだ。
私はそういう一般的な価値観とは無縁な存在だ。もっと・・・自分の欲望に対して純粋なままに従って生きているのだ・・・。
そうやって自己暗示をかけるように繰り返し言い聞かせている自分に、何故だかとても苛立ちが募り、私は誰に言うでもなく鼻を鳴らして呟いた。
「馬鹿馬鹿しい・・・」
最後に見えた紅葉の顔はどこか嬉しそうで、それがまた私の中の何かを掻き毟って止まず、そのせいで首筋までまた熱を帯びて疼き出したので、私は思わず玄関口に置いてあった観葉植物の鉢植えを蹴りつけたくなったが、緋奈子が眼前で靴を履き替えていたので結局我慢して私もそれに続いた。