一章 抜かれぬ刀
拙い文ですが、ご覧になられる方は前作をお読み頂くことを推奨致します。
少しでも楽しんでいただけると幸いです・・・。
妖刀事件
モノローグ
白いワンピースが直上で輝く太陽の光を反射して、あまりにも健やかなシルエットを茶色の地面に投影していた。私はその瑞々しい姿に目が回るような思いになり、無意識の内に瞳を閉じて彼女の残像を瞼の裏に強く焼き付けようと努めたのだが、鶯や小夜啼鳥すら足元に及ばないほど澄み切ったその声に呼びかけられて私は無意識の内に目を開けていた。
「緋奈子?」
私は彼女の天使の羽衣のような純白のワンピースにその黒く長い髪が対象的に映っているのを見て目を細めてため息をついてしまうが、それに対して困ったように彼女は笑った。
「ふふ、変な人」
見渡す限りを青々とした山々に囲まれ、すれ違う人の数は今の所両手の指で事足りるようなこの田舎町に、彼女――秋空深月と二人きりで旅行できる、という話になったとき私は喜びと期待で身体が飛び上がるような思いになったのだ。
確かに様々な事情、用事があってのデート(これは私の中だけの呼称である)ではあったものの、それでも深月との距離を縮めるのには千載一遇のチャンスであったことだけは確かだった、だったはずなのに・・・。
私は立ち止まって再び大きなため息をついて肩を落とす。すると、その横を小言を吐きながら何者かが通り過ぎていったため一瞬だけ太陽の光と、我が最愛の友の姿が遮られてしまい、私はついついその人物の後ろ姿を睨みつけてしまう。
「ふう・・・暑いわねぇ、日陰になるような建物もなければ、身体を冷やせそうな場所もない・・・」
「・・・じゃあ、来なきゃ良かったじゃんか」
車を降りてから愚痴ばかり垂れている彼女に、私は渾身の嫌味をぶつけるが、まるで聞こえていないかのように女性は掌で汗を拭っていた。その姿を見てか、少し前方を楽しげに歩いていた深月がチョコチョコと小走りで戻ってきたかと思うと、ポケットからハンカチを取り出して女性に甲斐甲斐しく差し出す。
「亜莉亜さん、どうぞ」
「あら、汚れちゃうわよ?」
と言いつつもそれを受け取って額をハンカチで拭う女性、綺羅星亜莉亜は、「構いません」と答える深月にかすかに微笑みを見せて後ろを振り返った。
亜莉亜さんは動きやすさを重視したようなパンツルックと太陽光を吸収したいと言わんばかりの真っ黒なノースリーブを着ており、その凹凸に富んだスタイルを惜しげもなく見せつけている。その自信満々な格好が私にとってはまた業腹であった。
彼女の視線の先には、遥か後方で足を止めているもう一人の連れの姿があり、何をしているのか定かではないが一向にその人物は舗装されている道と、田んぼの畦道との境から動こうとはしなかった。
「紅葉!何をしているの、いい加減諦めてこっちに来なさい!」と亜莉亜さんが少々の苛立ちを込めた声音で大きく叫んだが、その人物、綺羅星紅葉は依然として立ち止まったまま動き出そうとする気配は見受けられなかった。
いつものスラックスにワイシャツ、それから黒地のベストにグレーのネクタイというフォーマルで男性的な服装であったが、彼女はれっきとした女性で、ついでに言えばここはフォーマルさとは無縁の田舎町の、そのまた中心の田んぼである。何だかややこしい印象を受ける彼女であったが、実を言うとここ数週間前までは私は紅葉のことを男性だと思っていたので、未だに微妙な違和感を覚える。
「やっぱり僕は遠回りになってもちゃんとした道を通ってきます!」
「ダメよ、私の荷物まで遅れちゃうじゃないの!」
彼女の傲慢とも言うべき叱咤に、渋々といった風に紅葉が畦道を歩みだしたが、途中途中で挙動不審な動きをしてその足を止めていた。
「あれ、紅葉何してんのさ?」
まるで奇々怪々な踊りを演じているような珍妙さに、つい私が問いかけると、呆れたような声と表情で亜莉亜さんが、「虫が苦手なのよ、あの子」と答えた。
そのあまりの意外さに吹き出しそうになりつつも、ふと隣り合う彼女たちの姿が目に入って、二人を引き剥がしたい衝動に駆られたが、亜莉亜さんと深月が並んでいる姿は絶世の美女と題してもなんら不思議ではない、むしろ万雷の拍手を頂くに相応しい一枚の絵画のようで、私は悔しくも見惚れてしまった。まるで二人だけの聖域がそこに広がっているようで、私は蚊帳の外に押し出されてしまった心地になっていた。
亜莉亜さんが、深月の姿を頭の先から爪先までさっと眺めた後、腕を組み顎に手を添えて緩慢な動きで口を開く。
「ふぅん・・・やっぱり貴方は白も似合うわね」
「え、は、はい、ありがとうございます・・・でも、本当に頂いて良かったのでしょうか?」
自分の外見を褒められたことで深月は顔を赤らめて俯き、チラリと面を上げてそう尋ねたのだが、私はその一言を聞き逃すことが出来ずに亜莉亜さんが返事をする前に強引に口を挟んだ。
「え、なにそれどういうこと?そのワンピース、え、プレゼント?」
私は二人の顔を交互に見つめ、それから責めるように興味なさげな態度の亜莉亜さんを睨んだが、彼女は何でもないように青い天を仰ぎ、「もうすっかり夏ね」と私の話など聞いていない素振りをした。仕方がないので私は、自分でも良く理解できていない様々な感情がごちゃまぜになった視線を深月に放り投げるようにして向けた。
彼女は一瞬目を丸くして困ったように眼球を右往左往させたが、私が答えるまで逃がすつもりはないのだというテレパシーを執拗に送り続けたところ、諦めたようにこちらと視線を合わせてワンピースの裾を両手の指先で摘んでから言った。
「その、まあ、そういうことかな・・・」と深月は先刻よりも顔を真赤に染め上げて、羞恥で惑う心を落ち着かせるためにかギュッと指先に力を込める。その愛らしい仕草をさせたのが自分ではないことに嫉妬の炎が天を焦がすまで高く火の手を上げた。
このままでは私と深月のデートの予定だったものが、亜莉亜さんと深月のデートといったおぞましいものにすり替えられてしまいかねない。
「私だって、まだプレゼントなんてしたことないのに」
「すればいいじゃない?」と突然今まで他人のふりをしていた彼女が軽口を挟んできたため、私の苛立ちはついにピークに達して、亜莉亜さんに大股で詰め寄った。
「大体!なんで二人がおまけでついて来てんのさ!」
「あのねぇ・・・それは貴方も知っての通り、貴方のお父上に頼まれたからでしょう?」
その冷淡に告げられた言葉に私は言葉を詰まらせて黙り込むほかなくなってしまうが、それでも恨みがましく彼女を睨みつけていると、深月が明らかに落胆した口調で言った。
「やっぱりこんな明るい色、私なんかに似合わないわよね・・・」
そもそもそんな話をしているわけではなかっただが、彼女の儚くも、庇護欲を刺激する佇まいと言葉に私は今までの小汚い感情を忘れて彼女に駆け寄って手を握りしめた。
「そんなことないって!天使だよ!黒も良いけど、白も最高に良いよ!」
私が大声で叫んだ言葉が、八月の高い空と蜻蛉の飛び交う田んぼに響き渡り、農作業をしていた地元の人間の何人かがこちらを驚いたように振り向いた。
無数の赤とんぼが空を舞い、私達の間を戦闘機のように高速かつ正確に縫うように通り過ぎていくが、後方ではそんな赤とんぼに急襲された紅葉が情けない声を上げており、その声で私はハッと我に返る。
「あ、ありがとう・・・」と照れたようにして顔を俯かせている深月を見て、私は理由も分からないまま心のなかでガッツポーズを行った。
なんだか良い雰囲気なのではないかと、彼女の赤面している姿を見て私は様々なシチュエーションに思いを巡らせ、その内の一つを行動に移した。
「深月、今度私がプレゼントした服も着てくれるよね?」
「え、いえそんな何もないのに貰うわけには・・・」
「い・い・か・ら!」
私があまりにも強い語調で懇願し、というか強制したことで深月は渋々首を縦に振ったのだが、そんな私達の姿を見てか、突然亜莉亜さんがせせら笑うように鼻息を漏らしたので、私は「何よ」とつっけんどんな態度で睨んだ。
すると彼女は一度咳払いをしてから、目をゆっくり瞑ると、またゆっくりとスローモーションで開き、その乾いた血のような瞳を厭らしくギラつかせて言った。
「契約書の内容に目を通さずにサインするような真似をしてはダメよ、深月。ほとんど布切れと変わらない服装をさせられることになっても私は知らないわよ」
その台詞に私が言葉にならない声を上げている間に深月は、「ぬ、布切れ」と夢うつつのように呟いて私を横目で見てから、さっと逃げるように目線を逸した。そんな危険を察知した小動物のような俊敏さを見せた深月に私は思わず、「しないから!」と大声で叫んだ。
思いの外上手くからかえたからなのか、満足そうに亜莉亜さんが腹を抱えて笑い出し、その笑いが収まる頃になってようやく紅葉が私達に追いついて、必死の形相を浮かべて茶番をしている私達をじろりと見た。
「何をこんなところで悠長に立ち話しているんですか!早く案内してください!」
紅葉はそう言うとグイグイ私の背中を押して先へ先へと促した。
本当に、どうしてこんなことになってしまったのか。
私は背中を押され妙な姿勢になったままで大きなため息をつき、それに反比例するかのような小さな声で呟きを漏らす。
「深月との・・・デートがぁ・・・」
私は激しい後悔と落胆の最中で、そもそもの事の発端を思い出していた。
一章 抜かれぬ刀
(ⅰ)
私は五月のある事件を理由に片足の足首を骨折しており、つい最近ようやく稽古に支障をきたさないほどに治癒したばかりであった。医者の宣告よりも早い段階で完治出来たのでは日頃の鍛錬とバランスの取れた食生活の賜であると自負していたし、もちろん、年齢的な要素があったのも理解していた。
あの夜、紅葉におぶって自宅まで送ってもらう途中で目覚めた私は、家の前でインターホンを鳴らしている亜莉亜さんを不意打ち気味に目のあたりにすることとなり、そこでようやく自分の置かれている状況を思い出して周章狼狽した。
その日、両親には友達の家に泊まりに行ってくると伝えてあり、まさか危険極まりない怪事件に片足を突っ込んでいるとは彼らは夢にも思っていなかっただろうし、その突っ込んだ片足首を骨折して帰ってくるとなっては、どんな風に叱られるか想像もしただけで身がすくむ心地であったのだ。
のんびりとした声で玄関先に出てきた母は背負われた私の姿に目を大きく見開き、凄まじい鋭敏さで駆け寄ってきてから「何があったの」と普段は物静かな母もさすがに強い口調で私に問いただした。
何と答えて良いかも分からず、私が言葉にならない声を口から漏らしていると、横から亜莉亜さんが「それに関しては私からご説明させて頂きます」と普段の高慢ちきな態度からは想像のしようもないほど丁寧で落ち着いた喋り方で母に答えた。
得体の知れない人物に今更気づいたかのように母は二人の名前を尋ねたが、亜莉亜さんはそれに対しても誠意を隅々まで行き届かせた応対をして、私を中に送り届ける許可を求めてから運び込んだ。
それから間もなくして私は自分のベッドに横たえられることとなり、紅葉と亜莉亜さんは厳しい目つきをした母に連れられて何処かへと消えてしまった。きっと稽古中の父も呼んで、奥の応接間で二人の話を聞くつもりなのだろうと予想した。私も同席しようと申し出たのだが、亜莉亜さんが私の肩に手を置いて、「ここは任せなさい」と有無を言わせず起き上がろうとしている私を制したので結局皆を見送ることとなってしまった。
私がそうして眠れぬまま天井を見上げてから幾ばくかの時が経って、自室の扉が叩かれる音が聞こえてきた。ついに来たかと身構えてから「起きてるよ」と返すと少し遅れてから扉が開け放たれて、無言のまま微笑みを浮かべてこちらを見据える父の姿が現れる。表情そのものはとても穏やかだったけれども、得も言われぬ威圧感がその立ち姿には込められていた。
父は電気もつけぬままベッド脇まで音もなく寄ってくると正座で腰を下ろして、腕を組み私を見つめる。
「大筋の流れは綺羅星さんに聞いた」
その痩身からは似つかわしくないほどに重心のブレを感じないどっしりとした声で父が呟く。空気がその低い声に振動しているのが肌に伝わってきて、私は何と口を開いたら良いのだろうと頭を回転させたが、我が友と違って打開策が捻り出せるほどに上等な代物ではなかったようで、結局口ごもったまま大して何も言葉が浮かばないでいた。
「え、と・・・お父さん、その・・・」
「だが、肝心な箇所は聞けていない」と父は一瞬だけ表情を険しくして私の声を遮るようにして発言した。
私が父の言葉を待って瞳をパチパチとさせていると、彼は相好を崩して腕を組み直した。
「彼女もとんだ食わせ者だったよ、事件のあらましは素直に教えてくれても、肝心なところは頑として口にしなかった。あの状況であれだけ開き直られると如何ともし難いなぁ・・・」
その言葉に私は何となく応接間での光景が想像できるようで、きっと彼女のことだから何を言われてもあの完全無敵の微笑みを消すことなく堂々としていたのだろう。怒鳴りつけられようと、罵られようと、あるいは脅されようとも彼女はお構いなく笑っていたはずだ。
私は感心しているのか呆れているのか分からない表情をしていた父の言葉にあやふやな苦笑を漏らして適当な相槌を返す。
「とにかく、肝心要を私は知らないままだ」
「それって・・・」と父に尋ねる。
「緋奈子が何故そんな危険な事件に関わることになったのか、ということだよ」
それを耳にして私はぽかんと口を開けた後、あの人は・・・と歯噛みして両手で頭を抱えて呻き声を上げた。脳内では亜莉亜さんが時折浮かべるあの厭らしい笑みが何度も蘇ってきて、次第にムカムカとしたものが胸のうちからせり上がって来るのを感じた。
本当に重要な箇所は自分の口から話せ、ということなのだろうが、任せろと言ってくれた手前もう少し入念なフォローでも行われていたのかと勝手に期待していた自分としては、途端に窮地に追い詰められた心地に陥ってしまっていた。
「さあ、聞かせてくれるかい?それとも、緋奈子も話したくはないかな?」
その有無を言わせぬ問いに私は懸命に首を左右に振ってから、答える準備をするつもりで身体を起こして父に上半身だけを捻って向けた。
最終的には色んな理由が重なり合った結果だとは思うが、結局突き詰めたらたった一つだけの理由のために私は立ち向かったのだ。
「友達のためだよ」
「友達?あの二人のどちらかかな?」
「いや、ちょっと前に新しく出来た友達だよ」
そう私が答えると父は少しだけ意外そうな表情をした後に、小声で相槌を打った。
「その友達のために怪我をしたというのか?」
「別にその子のためじゃない」と急に冷たい口調になってしまったと反省しながらも私は話を続ける。
「私は私のためにやったの、約束してたから、絶対に、守るって・・・」
それだけ口にした後、私はその約束が果たされなかったことを思い出して急に目頭が熱くなったが、何とか歯を食いしばって涙を堪える。しかし、努力の甲斐も虚しくかすかな涙が両目に溜まり始め、それを父に見られぬように腕で激しく拭き取った。
そんな私の姿を見て父は優しげな笑みと共に息を漏らして言った。
「人を庇って怪我をしたと聞いたよ、僕たちに心配をかけたことは良くないことだが、やったことは人として立派だったんじゃないか?」
その私を称えるような言葉に私は激しく頭を振って、堰き止めていた感情の濁流を感じながらも父に絞り出すように、ぶつけ散らすようにして大声を上げる。
「違うんだ、私、絶対に負けないと思った、初めて試合じゃない立ち合いをした・・・だけど・・・」
「・・・まさか負けたのか?」と父があまりにも意外そうな顔をして言ったのだが、そうして怪我したことより私が負けたことの方に食いつくのが、武人としての興味なのか、それとも時津流の愛弟子として育て上げていた私が敗れ去ったことへの失望からなのかは分からなかった。
負けた、という単語に私の中で燻っていた、踏みにじられた誇りが過敏に反応して、醜い自分が首をもたげて父を睨んだが、父の無風の湖面のような瞳にあてられ徐々に冷静さを取り戻して呟く。
「いえ、自分で言うのもなんですが、完全に圧倒していました」
家族としての父ではなく、今や剣術の師範としての顔で私に尋ねる父に思わずこちらもそれ用の顔を出して口調を変えてしまった。
途端に部屋の空気が張り詰め、まるで稽古中の道場のような鋭い静謐が充満していくのを感じて、私は生唾を音を立てて飲み込んだ。
「では何故負けた」
「初めて、死合いました」
「・・・なるほど、トドメを刺せなかったんだね」
「・・・そうすることが正しかったのでしょうか」
私が縋るような視線と共に父を見つめると、彼は変わらず穏やかな面持ちをしたままでゆっくりと首を振った。
「そんなわけないだろう、人を殺していいわけがあるか」
「でも、そのせいで大事な友だちも、私も死ぬところでした・・それでも、間違ってなどいなかったのでしょうか?」
その感情的とも言える私の反論に父は眉を吊り上げ怒ったとも、苦しんでいるとも言える表情を浮かべ組んでいた腕の高さを少し上げて答える。
「そうしなくても生きていられたのなら、それが正解だったんだ」
「そんなものは結果論です!」と父の綺麗事染みた返しに嫌気が差して私は声を張り上げた。
父の言うことも分かる。人を殺してしまえば、きっと二度と取り返しがつかない闇の中を彷徨うこととなり、深月の隣にだって立てなくなってしまうことだろう。
だが、それができなかったことで私か深月のどちらかが息絶えてしまうこととなれば、それこそ何よりも無意味なのではないだろうか。
生きていなければ、この世の一切に意味など無い、そう言い切ってしまえるのは自分が未熟だからなのだろうか・・・。
「私は・・・そのとき相手にこう言われました。『人も斬れなくて、何が侍よ』と。悔しいですけど、何も言い返せなかった・・・私は守ってあげなくちゃいけなかったのに・・・!」
その言葉に父は深く息を漏らして瞳を閉じてしまって、どこか深い海の底へと潜っていったのではないかと錯覚してしまうほど静かに黙り込んでいた。それから暫くしてようやく父は瞼を上げたかと思うと、「ならば、次また同じ状況に陥ったとしたらどうする」と答えに窮するような質問を私に投げかけてきた。
つい数時間前の光景が脳内にフラッシュバックして、私は小さく身震いしてしまう。今まで味わったことのないような痛み、緊張感、無力感、そして・・・そして何よりも・・・。
私はその先を考えることが怖くなり、誤魔化すように肺の中の酸素を一気に放出して父の顔を覗き込んだが、そこには先程から変わらず波風の立っていない水面がこんこんと広がっているだけであった。
「分かりません・・・」と私は正直に答える。
「それではきっとまた同じことになる」
「では、どうしろと言うんですか」
「次はちゃんと決めることだ、斬るにせよ斬らぬにせよ、成り行きではなくて、自分の意思で選んだ故の行動として・・・」
そう父は私に諭すようにして告げた後、来たときと同じように静かに立ち上がり音もなく扉の前まで戻って行ったが、その背中には言いようもない悲壮、怒り、またあるいは奇妙な喜びのようなもの映し出されており、今父の中では様々な感情が渦を巻いているのだと何となく得心した。
どうしても、あの女の言ったことが脳裏に焼き付いて消えなかった。
深月のためになら、何にだってなりたかった、彼女という花を守る雀蜂にも、侍にも・・・だが、そうはなれなかった。
それが実力不足ならば話は単純明快で、これから再び特訓に励めば良いだけのことだったのだが、技でも体でもなく、心だったのだ。
自分の心を律する術も体得しないまま力と技だけを磨き上げてきた私の限界がきっと今訪れたのだと、暗闇の中漏れてくる光を眼にして自然と理解することが出来た。
だが、問題が理解出来てもそれを解く手段が見当たらない今、その壁はとても分厚く高くそびえ立っていて、それを越えていくために自分がどうするべきか全く分からなかった。
そうして項垂れている私を見て、父が粛々とした口調で呟く。
「今度は、その人を連れてきなさい。娘が命をかけて守るほど愛している人間の顔は、一度良く見てみたい」
「え?」
父はそう告げると逃げるように扉を手早く閉めて部屋を出ていってしまい、後には一人残された私が、面倒なことになってしまったと苦悩に呻く声だけが漂うことになった。
「絶対、絶対何か勘違いしてるよぉ・・」
(ⅱ)
そして、月日は過ぎて私が彼女たちと出かけることとなる一週間前、丁度夏休み期間中の登校日を前日に控えた昼下がりのことで、部活が休みだった私は自宅の道場での稽古を終えて、座禅を組み脳内で訓練の振り返りを行っているときのことであった。
足音も立てずに誰かが近寄ってくる気配を感じて、目を閉じたままそちらに意識を向けたが、その人物は私の真正面にまで来ると途端に存在を主張するように音を立てて腰を下ろす。他の同門の人たちが来るには少しばかり早かったので、おそらくはお父様だろうと思い私は長い眠りから目覚めるように時間をかけて瞼を上げた。
だがそこに鎮座していたのは予想に反してお父様ではなかった。
その人物は優しげな視線でこちらと目を合わせると、私の組まれた足を見てから、「もう大丈なのですか」と深々として落ち着いた口調で私に問いかけた。
「はい、もう大丈夫です。いつもいつもご心配かけてしまってすみません」
私は姿勢を正してから座ったままで丁寧なお辞儀をした。すると相手は口元に手を当ててから静かに声を上げて笑い、「もう、稽古中ではないのだからそんなに畏まらないの」と冗談っぽく言った。
私もそんな相手の様子にいくらか張り詰めた体の緊張を解き、いつも接しているときのように姿勢を崩してそれに答える。
「こんな風に稽古中とそれ以外とで話し方を変えるのって結構大変なんだからね。そこんとこ分かってる?お母さん」
私がそう言うと、「ええ、そうよね、ごめんなさい」と朗らかに笑いながら答えるものだから、全く分かっていないことがしっかりと私に伝わってきた。
道場内には先程までの熱気や触れれば切れるかと思えるほどの研ぎ澄まされた緊張感がすっかり失われており、今や私達の声と外から聞こえてくる生を叫ぶアブラゼミの声意外は何も聞こえない静謐に包まれていた。
私は姿勢を崩しながら、未だ愉快そうに微笑んでいる母の姿を見つめた。もう四十を過ぎ去った女性の顔つきだとは到底思うことが出来ず、その洗練された立ち居振る舞いもさることながら、二十代の頃から衰えを見せていないのではないかと疑いたくなるほど引き締まった肉付きは現役の剣士のものであると言ってもあながち過言ではなかった。
母はややあって、着物の袖を身体の前で交差させてから急に真剣な顔つきになって口を開く。
「本当に心配ばかりです、貴方に関しては」と若干咎めるような口ぶりの母に、私はそれが何を責める言葉なのか気づいたので少しだけ俯き視線を下げて、「すみません」と謝罪する。
母も父と亜莉亜さんから事件のあらましと、私が関わることとなった起因については既に知っているわけだったが、それらについて母が何かを聞くことは一切なかった。それが優しさなのか、それとも他の何かなのかは私には知る由もないが、少なくとも私のためを思っての行動だということは、言葉はなくても日々の暮らしから肌を通して伝わってきていた。
私は以心伝心なんてものを信じてはいないし、言葉も聞かず相手を理解できると考えるのはとても思い上がった行いだと確信しているものの、不思議なことに両親だけは言葉を介さずとも私のことを分かってくれている気がしていた。もちろんそれは、二人の子供だという自覚から生じる甘えなんだということも薄々気がついてはいたのだが・・・。
暫く母と二人で世間話をしていると、遠くから誰かが歩いてくる足音が聞こえ、母と私は自然とそちらの方へと身体を向けることとなり、それから間もなく道場の扉を開けて入ってくる父の姿が確認できた。
珍しく何か急いでいるような素早い動きで寄ってきて、「ああ、二人共ここに居たのか」と早口で言った。普段の落ち着き払った物腰からは想像もできないものだったため、母が不思議そうに口を開き、「どうされたの?」と父を見上げて質問をした。
父は「それが困ったことになってなぁ」と前置きして話を始めることとになったのだが、今はとりあえず割愛させてもらう。
私はその話を聞いて、すぐさまに明日深月に相談しようと決めたのだった。
(ⅲ)
八月の空には、地上を這うしか能のない哀れな人間を焼き尽くさんとするほどに燃え盛る太陽が高々と君臨しており、私達人類は自らが作り上げたアスファルトの反射熱に下からも焦がされて苦しんでいる・・・などと私は灼熱の外気を味わいながらも悲観的な感慨に耽っていた。 私は既に通い始めて二ヶ月近くが経った通学路をなるべく日陰を探しながら黙々と歩いていたのだが、最近はずっと冷房の下でばかり過ごしていたせいか、ちょっと歩いただけで汗が滝のように流れ始めていて、その不愉快さに思わず眉を歪める。
燦々と地上を照らし、アスファルトに私の真っ黒い影法師を焼き付けようとしている太陽に手をかざして、深く憂鬱のため息を吐いた。
どうして登校日なんてものがあるのだろうか、お陰で資料整理もまだ途中のまま出てきてしまったではないか。興信所では亜莉亜さんの、というか紅葉の手伝いをする私という人間が増えたことで請け負える仕事がほんの少し多くなったらしく、最近は忙しい日々が続いていた。だが、五月の一件のようなドラマティックな依頼は全く無く、その多くが浮気調査、人探し、ペット探し、失せ物探し、はたまた迷惑駐車常習犯の身元調査など・・・その実地味なものばかりであったのだが、こうした根気の必要となるコツコツとした作業は私の気質に向いていたらしく、忙しいながらも割と充実した夏休みを過ごすことが出来ていた。
ただ、そうして仕事を手伝っているうちにハッキリしたのが、興信所の主であり代表者、大仰に言えば探偵綺羅星亜莉亜と呼称しても差し支えないはずの彼女が、そのような地味作業では全くの役立たずだということだった。
大事な資料は捨てる、失くす、尾行中に勝手に帰る、依頼されたペットを見つけても捕まえようとしない・・・などといった邪魔をしているのかと見紛う所業の数々であった。
そうして私が興信所でのあれやこれやを思い出している内に、いつの間にか私の身体は学校の校門を潜り終えて、昇降口に辿り着いていた。
考え事をしているとあっという間に時が過ぎる。それをこうしてまざまざと実感させられる度、過ぎ去った時間に思いを馳せるときは必ず体感的に短く感じるものなのだろうと思わずにはいられなくなる。きっとタイムマシンでも完成して、人間が時間に干渉できるようにでもならない限りは。
何人かのクラスメートがぼうっと考え事をしている私を見るなり控えめな挨拶をして、足早に去ってこちらを盗み見るように内緒話をやっている。緋奈子と仲良くなってから、ほんの少しだけ周りのクラスメートと会話らしきものをする機会も増えたのだが、結局壁一枚隔てた先にいる住人たちは私のことを遠巻きにするのを止めはしなかった。まあ仕方がない、最初に壁を建てたのはこちらの方なのだから文句は言うまい、と諦観して私は彼女たちに続くようにして教室へ向かった。
数週間ぶりに教室の戸を開けると、私の顔を見るや否や一人の人物が駆け寄ってきた。普段朝は時間ギリギリまで部活動の朝練に出ている彼女だったが、どうしてか今日は私より先に教室で待機していたようだ。
「久しぶり、深月」と手を振って彼女はまだ席にも着いていない私に声をかけた。久しぶりとはいっても、頻繁に彼女が興信所に遊びに来るため、かれこれまだ数日ぶりだったのだが。
「ええ、おはよう緋奈子。こんな時間に珍しいわね」
と彼女を自らの側近のように横に従えたまま自分の席へと移動し腰をかけ、バッグを机の側面に引っ掛けて彼女の方を見据えるが、その背後にたむろした何人かのクラスメートと目が合ってすぐに逸らされてしまった。ここまで露骨だと少々腹立たしいものもあるが、緋奈子のいる手前顔に出すのも悪い気がして私は何とか我慢してみせた。
そんな私の様子に気づくことはなく、彼女は苦笑いをした後「実は・・・」と前置きをしたかと思うと暫く顔を俯かせてもじもじ口ごもっていた。
普段は凛として自信に満ちた態度を崩さない緋奈子が私の前では、時折こうした弱さを晒すことがあるのだが、それが何だか二人だけの特別なものに思えて、実のところ結構気に入っていた。
彼女の不審な行動に生暖かい目つきを向けていると、緋奈子はやっと決心した様子で私の方に身を乗り出して睨むような視線で見据えてくる。
「あのさ、来週末とかって暇?」
「・・・来週末ですか?」
彼女のその提案に私はそう答えながら、まさかこれは遊びに誘われている、という状況なのではないのかと表面上は冷静さを保ったまま彼女の発言を受け止めていたのだが、心のなかでは楽観的な予測を行う自分とそれを嗜める自分とが争っていた。
友人から遊びに誘ってもらえるなんて初めてのことだ、今まで彼女が遊びに来ることはあったのだが、どうやら今回はそれとは違うパターンの声のかけ方である、ショッピングやレジャーを期待しても良いのでは・・・。
いやいや、まだ彼女は何一言口にしてはいないのだから早計というものだし、下手に期待値を上げて後で必要以上に落胆する羽目になるのは避けたほうがいい。
はやる心を抑えつつ、じっと緋奈子の次の言葉を待っていると、彼女は少しだけ昔の髪型に近づいた髪を指でつまみ上げて、それをいじりながらも視線を宙に彷徨わせて話を続けた。
「ちょっと用事があって、S県にあるウチの父方の実家・・・つまり本家に帰省することになったんだけどさ、そのぉ、お父様もお母様も次の日から外せない用事があって暫く遠出するみたいで一緒に来られないらしいんだよね」
「え、ま、まさか・・・」
ヘリウムガスを吸って浮き上がった風船のような心地で話を聞いていた私の、傍から聞けば意味の分からない相槌に彼女は「まさか?」とオウム返しで言葉の意味を尋ねてきたが、私は「何でもないの」と誤魔化して先を促した。
「それで、良かったら一緒にどうかなぁって思ってさ、いや、無理にとは言わないんだよ?山奥で何にもないし、数日もしたら飽きるかもだし、大した歓迎もしてあげられないかもしんないしさ・・・」と段々尻すぼみになっていく彼女の発言をロクに最後まで聞かないまま私は感情に突き動かされて、彼女の言葉の上から大きな声を上げた。
「行くわ!」
他のクラスメートのことを顧みていない声量で私が返事をしたため、周囲の人々がこちらを何事かといった風な目線で凝視しており、私は自分の感情を上手く制御できなかった未熟さに羞恥が込み上げてきて、蚊の鳴くような声で「すみません」と呟いた。
「ほんとに無理してない?」と彼女が周囲の関心が弱まってから遠慮がちに聞いてきたため、私は一旦咳払いをしてから二度三度程頷き、「本当よ、友達と一緒にお泊まりだなんて初めてだから・・・つい嬉しくって」と先程のことで慎重になり、必要以上に小さな声でそれに答えた。
お婆ちゃん、私は少しずつ、なりたい自分に近づいているような気がします。
私の返答を聞くと緋奈子は大きく安堵の息を吐いてから、今しがた深い海の底から浮上してきたかのように大きく酸素を吸って破顔した。その真夏の太陽のような眩さ、美しさを目の当たりにして、私はこんな華やかで可愛い太陽ならば焼き尽くされようとも構わないと浮かれた気分で考えてしまう。
「良かったぁ、断られたらどうしようかと思ってたんだよ」
彼女がそうはにかみながら口にしたところで、朝のチャイムが鳴り響き、同時に担任の古川先生が教室へと入ってきて暑苦しく必要以上にうるさい声で挨拶をしたため、クラスメートたちは蜘蛛の子を散らすようにして自分の席に着いていく。
「緋奈子、今日は帰りに興信所に寄っていけるかしら?」」
「うん、部活が終わったらすぐに行くから、詳しいことはそっちで話すね!」
そうして例外なく我が友も自らの席へと早足で去っていくのだが、彼女が立っていたその向こう側にたむろしていた数人の生徒たちが依然としてこちらを盗み見ていたことに気がついて、私は少しだけ嫌悪感を露わにして彼女たちをジッと見つめ返した。すると再びさっと目線を逸らされて、逃げるようにして彼女たちも席へと戻っていったが、その経験したことのない、言いようもない視線に私は少しだけ背筋が冷たくなった。
一体何なのだろうか、と一度は訝しがったものの気にしすぎてもしょうがないと思い直し、私は視線を担任の古川先生へと向けた。
そうして瞬く間に久しぶりの学校生活が過ぎ去り、部活をしてから帰る緋奈子を置いて一人帰路に着いた。登校日なので授業は昼過ぎには終わり、西の空には未だ力強く輝く太陽が惜しみなく大地に光を撒き散らして、道行く人から水分と気力とを奪い去っているようだった。
十分程歩き、興信所の目の前まで来ると、駆け足で階段を上がって扉の前で一旦立ち止まり、来客の気配が無いかを確認してから勢いよく入口のドアを開ける。中にはひんやりとした気持ちの良い冷気が漂っていて、私の全身が声を上げてその環境を喝采しているのが感じられた。
汗をハンカチで拭い、事務所を通り抜けて隣のリビングに顔を出すがどちらとも誰もおらず、私は不審に思って首を傾げる。普段ならこの時間は紅葉が料理をしているか、書類整理をしているかのどちらかなのだが・・・今日は珍しく自室に籠もっているようだ。事務所の方はいつ来客があっても良いように冷房を入れっぱなしにしてある。
すぐさま冷蔵庫に駆け寄り、キンキンに冷え切った麦茶の入ったピッチャーを取り出し、戸棚から用意したコップに勢いよくそれを注ぎ込む。その水音を聞いているだけでも身体から熱が逃げていくような気分になってくるが、当然それだけでは満たされないため、水滴のついたコップを掴んで一気に喉へと流し込む。冷たい液体が喉をつたい、それから胃の中に流れ込んでいくのが感じられ、コップを空にした瞬間私は思わず品のない感嘆の声を漏らしてしまった。
すると、誰もいないと思っていたのに突然背後から小さな笑い声が聞こえてきて、私は心臓がキュッと締め付けられるほど驚かされる。
「随分美味しそうに飲むのね」
その声に慌てて振り返ると、ニヤけ面で腕を組んでこちらを見つめている亜莉亜さんの姿があった。
夏の暑さのせいか、今日は長く垂れた後ろ髪を頭の後ろで尻尾のように結い上げており、彼女が壁にもたれて首を傾げるその動作に連動して左右に小刻みに揺れていた。
「あ、亜莉亜さん・・・いたのなら声をかけてください」
はしたないところを見られてしまった羞恥から赤面しつつ、意地悪そうに微笑んでいる彼女が妙に魅力的だったので私は誤魔化すようにして、派手に音を立てながらコップなどを片付ける。
それから亜莉亜さんは音もなく私の背後まで近づいてきたかと思うと、何があったのか、背後から急に私に抱きつき深い溜め息をついて、耳元で艶やかに吐息混じりの囁きを漏らしてきた。
「深月・・・おかえり」
私の耳朶に彼女の息が吹きかけられ、無意識に身体が跳ね上がってしまう。彼女の甘い香りがすぐ側で感じられたことによってか、異様な胸の高鳴りが私を襲って段々と鋭敏な思考が奪い去られていく。
(え、何?何が起きているの?)
不鮮明な頭で考えてみても状況が全く理解できず、彼女の表情を確認しようと首を回そうとするが私に巻きつけられた腕がそれを許さず、さらに背中には彼女の豊かな胸部が押し付けられており私の心臓はいよいよ限界を超えた速度で早鐘を打っていた。
「あ、亜莉亜さん・・・その、あの・・・」
「深月は、私のこと好きよね?」と突然彼女は抑揚のないトーンで驚愕の問いを私にぶつけてきたのだが、私は何と答えていいか分からず、くらくらと目眩のするような心地のまま、胸の内の私達に意見を仰いだが彼女たちは相変わらず各々好き勝手なことを考えており、どうやらこの大きな問いに回答をもたらす手助けをする気は皆無のようだった。
事務所ほどではないが、比較的涼しいはずのリビングがやけに暑く感じられたのだが、その暑さというのも自分の中心からもたらされる熱と、私の背中から送られてくる熱とで混沌としてしまっており、室温が高いのか、それとも私が熱いのか、それさえも不明瞭になってしまっていた。
亜莉亜さんのことをどう思っているのか・・・。
彼女は私の命の恩人と言っても過言ではないし、その美貌や知性には憧れを禁じえないほど魅力的だから、好悪で判断できる気持ちだとは考えられず返答に非常に困ってしまう。
亜莉亜さんの吐息が再び耳にかかり、私の身体は反射的に竦み、顔に熱が集まってしまい、自分の行動が全く制御できないことに恥ずかしさとかすかな憤りを感じてしまう。
非常に予想外の場面に出くわすと、こうして簡単にコントロール下から外れていってしまうこの身体がときに疎ましかった。
「わ、私は・・・」
胸の中の遥か彼方でひっそりと篝火が燃えているが、それが一体何を知らせるために燃えているのか分からなかったし、その意味に気づいたとき私と亜莉亜さんの間に挟まっている世界が激動のままに形を変えて、何か違うものに生まれ変わってしまう気がして私の心がその先を明確にするのを拒んでいた。
喉の途中に引っかかったその謎の感情に言葉を詰まらせていると、亜莉亜さんは大層切なげな声を上げて続けた。
「愛しの深月・・・書類が溜まっていて困っているの、お願ぁい、助けてくれるわよね?」
「・・・・・」
その過剰に演出された色っぽさとは裏腹のふざけたお願いの内容に、私は全ての感情をシャットアウトして執拗に絡められた腕を強くつねり上げて、彼女の小さな悲鳴を耳にしながら身体に残留していた感情の残りカスを強く吐き捨てた。
「・・・はぁ、知りません、離れてください、自業自得です」
ようやく解放された身体を滑らせるようにして、彼女から距離を取って上階へと続く扉に手をかけた。その間にも亜莉亜さんはつねられた箇所を、目を細めて見つめながら品のない、大きい舌打ちをしている。
「可愛くないわね」との自分本位な言葉に、私は振り返り軽くまなじりを吊り上げてから丁寧に返事をしてあげた。
「可愛くなくて結構です、大体紅葉にばれたら私が怒られるじゃないですか、とばっちりは嫌です」
「あらぁ、お子様ね。こういうのはバレないようにするのが背徳的でいいんじゃない?」
そう言ってウインクをする彼女は確かにチャーミングではあったが、発言の内容があまりにも非道徳的かつこちらを馬鹿にしたものだったため、私は今度こそハッキリと険しい顔つきをして無言を貫き、自室へと向かった。扉の向こうでまだ何か亜莉亜さんが言っているようだったがそれも気にも留めず、もうすっかり登り慣れた階段を上がっていき私室の扉を開けて中へと足を踏み入れた。
部屋に入った途端に目に入る抽象的な絵画を横目に、机の上に先程の彼女への怒りを込めてバッグを無造作に放り投げる。
いつもいつも紛らわしい、というかああいった冗談を口にする彼女の気持ちが知れない、まるで小学生のようだと、胸のうちにある苛立ちを細かく砕いて少しずつ整理しながら、さっと服を着替えてからベッドに腰を据えて、サイドテーブルに置いてあった本を手に取り開いた。
頭の中に自分以外の自分のクスクスと小馬鹿にした笑い声が響き、頭を振ってその残響をかき消した。
静謐の中にページを捲る乾いた音だけが一定の間隔を保って鳴っており、時間という時間が加速度的に私の中を通り過ぎていくが、どうして集中している時間とはこうもあっという間に流れていくものなのだろうかと、不思議でたまらなくなった。
物語の中では名家に拾われた男の子が、身分違いの憧れをその家の娘に抱くのだが、虐待を受けたり、生まれや血筋といったものに囚われたりで、二人は結ばれずに時は進んでいく。
人は何故そうしたものに縛られるのだろうか、形なき因習が明確な根拠もないまま形あるものを制御し、支配しようとする。近代科学が跋扈するこの世の中においても、そうした迷信じみたものが人間社会にこびりついて剥がれなくなってしまっているが、幽霊や未確認生物といった証明のしようがない存在についてはその多くが与太話として一蹴される。それなのに例えば、血液型による性格のカテゴライズや寝るときに北枕はダメだとか、科学的な根拠がないのに多くの人が未だ手離せずにいるものを列挙したら枚挙に暇がないのは何故だろう。
血液で人の性格が決まるわけがないし、死人の頭の向きが生者に深く関わるわけではないのにそれを気にする人は気にするし、信じるものは信じるのだ。それなのに霊的なものを多くの人が信じられないのはあまり納得がいかないが、見えない以上それも仕方がないことなのだろう。
そうして余計な考え事をしている内に、窓から夕焼けが部屋に差し込み始めたため私は、もうこんなに時間が過ぎていたのかと、本から顔を上げてすっと立ち上がり、外の光景を見るためにベッドの反対側に身体を移動させて窓の木枠に手をかけた。
空に浮かんだ一際大きな雲の切れ間から、鮮やかな橙色の夕日が顔を覗かせ周囲を淡く染めており、私はその一日の終りとも言うべき光景に目を奪われながらもそっと一つ息をついた。だがそうして黄昏れていたのも束の間で、そろそろ緋奈子が部活を終えて興信所にやって来る頃だろうと予想して赤いブックカバーで覆われた文庫本を閉じ、いそいそと下の階へと降りていった。
そろそろ食事の準備を紅葉がしている頃だろうと思っていたのだが、彼女の姿も、もちろん亜莉亜さんの姿もリビングに無かったため私は首を傾げ、続いて事務所へと続く扉の方へと視線をやった。もしも仕事が忙しそうならば、今日は率先して食事の用意を行おうと思いその扉のノブを捻ってゆっくりと押し込む。
するとそこにはいつも通りソファにかけて淡々と仕事をしている紅葉と、デスクに向かって深々とチェアに座して、珍しく書類に向き合っている亜莉亜さんの姿があった。彼女は黒縁の眼鏡をかけてとてもつまらなさそうに頬杖をついていたが、私が部屋に入って来たことに気づくと、じろりと不機嫌そうに一瞥してから直ぐに目線を手元の書類に戻して、大儀そうに欠伸をするフリをした後口を開いてこう言った。
「あぁ、仕事が終わらないわぁ。それもこれも誰かさんが手伝ってくれなかったお陰ね」
その私へのあてつけらしき皮肉の言葉に、まるで子供のようだと呆れた目を彼女に向けたが、一応珍しく仕事をしている様子なのだから、多少の小言は聞き流してあげようと思い口をつぐんだ。
対して紅葉は私の方を見やると爽やかなテノールで「おかえりなさい」と笑顔を向けてから、その微笑みを崩さぬままで亜莉亜さんに首だけで向き直った。
「仕事が終わらないのは、どれもこれも誰かさんがいつもサボっているからです」
「何よ・・・深月はそうは思わないわよね?」
紅葉の言葉に舌打ちをした後彼女はそう言って、妙に圧力のある視線でこちらを睨むようにして見据えているが、つまりこれは俗に言う忖度というもので彼女に同意しなければ、嫌味を漏らすなり何らかの形で私に危害を加えるぞという警告のつもりなのだろう。
相変わらずこういうときは私よりも精神年齢が幼いのではないかと思えて、ついつい苦笑いが漏れそうになるが何とかそれを堪え、紅葉の方へと顔の向きを変えるとあちらも私のことを見ていたようで視線が交わり、互いに亜莉亜さんへの呆れを表現するように肩を竦めた。
この場を手っ取り早く収めるには、とりあえず彼女の言葉に同調してあげるのが一番なのだろうが、例え本心では違っても、日頃からこんなに苦労している紅葉の肩を持たずにいるのは何となく心苦しい気がして、私は結局非難を恐れず本心通りに伝えることに決めた。
「そうですね、それでもいつも仕事が終わるのは、あれもこれも優秀なアシスタントが自堕落気味な探偵さんをサポートしているからだと思います」
私の発言を聞いてこちらを睨んでいるだろう亜莉亜さんの方は敢えて振り向かないままで、ゆっくりと紅葉の座っているソファの反対側に腰を下ろし、「手伝います」と声をかける。紅葉は「本当にいつもすいません、まだ学生なのにこんなことを手伝わせて」と申し訳無さそうな声で言ったので、「とんでもないですよ、居候の身なのですからこれぐらいはさせて下さい」と何だかこちらの方が申し訳なくなって気づいたらそう口にしていた。その言葉を聞いた紅葉の面持ちは明るく、彼女が私の言葉を受けて少しだけ喜んでくれているのかもしれないと勝手な想像を膨らませた。
書類を扱っている私の耳に、今日だけで何度目かも分からない下品な舌打ちの音が聞こえてくるが、これも無視して仕事をしていると、痺れを切らしたようにして亜莉亜さんが言葉を発した。
「最近日を追うごとに生意気になっていくわね、深月。聞いているの?こっちを向きなさい、大体今の台詞はここの主である私に言うべきではなくて?それともなぁに?私ではなくて紅葉の味方をしたいのかしら」
明らかに怒気を孕んでいたが、あまりにも傲慢な物言いだったので、私の方もついつい意固地になってしまう。
「私はするべきことをしている人間の味方ですから」と頑として書類を見つめたまま彼女の無機質な冷たい口調の問いに返す。
「・・・もう、紅葉といい緋奈子といい貴方といい、どうして私の周りの小娘たちはこうも私に反抗的なのかしら」
悲壮感溢れる様子でそう言った彼女であったが、まさか本気で自分がそうした扱いを受けている理由が分からないわけではあるまいなと彼女の方をチラリと盗み見ると、頬を膨らませた彼女と目が合い、そのお菓子を買ってもらえなかった幼い子供のような仕草に我慢できずにクスリと笑い声を漏らしてしまった。それを大きな瞳で見咎めた彼女は、腕を組み眉間にしわを寄せて如何にもご立腹であるといった風な顔のまま私に問いかけた。
「何が面白いのかしら?」
その冷酷で、私を刺し殺さんとするかのような視線と物言いに気圧されて、私はさっと目を逸らして作業に戻り、身の安全を守ることにしたのだが、そんな私を見てか、亜莉亜さんは指で何度か資料を弾いて乾いた音を立ててから依然として荒い語気のまま粘着質に私を責め立ててくる。
「そもそも、何で私が手伝えと言ったときは手伝わなかったくせに、今更手伝っているのかしら?それもそっちを」と彼女は紅葉を指差し、苛立ちを隠さぬまま告げたのだが、それに対して紅葉が穏やかな笑顔を貼り付けたままで「人徳の差でしょうね」と亜莉亜さんの神経を逆撫でするような発言をしたため、怒り心頭の彼女はその両手でデスクを思い切り強く叩いて立ち上がり、「紅葉!」と大きな声を上げて威圧した。そんな二人のやり取りを見て、その間で私はしどろもどろになりながら、何とか止めたほうがいいのだろうか、でもどうやって止めたらいいのだろうかと思索していると、紅葉が一度私の方を向いて首を振った後、再び彼女に向き直り「何でしょうか?」と返事をした。その紅葉の有無を言わせぬ迫力の込められた一言に、亜莉亜さんは怯んだように言葉を飲み込んで、「もういいわ、勝手になさい」と尻尾を巻いて席に着いた。
二人の奇妙な力関係をまざまざと感じられる一幕に、私はどこか感心するような心持ちになっており、お互いに遠慮のない発言をしていながらも、互いを信じているような雰囲気を醸し出しているその繋がりが少しだけ羨ましくなった。
私にもそうした相手がいれば、きっともっと充実した人生を過ごせる予感がしてならないのだ。ふとその相手に私の大事な友だちの姿が一瞬だけ泡のように浮かび上がったが、同様に泡みたいに弾けて消えてしまった。緋奈子とあんな風に言い争うことなどまるで想像できなかったし、したくもなかった。
そうして暫し皆が一様に黙って仕事に没頭していると、不意に室内に扉が叩かれる音が鳴り響いた。私は扉の向こうの人物に心当たりがあったため率先して立ち上がり、短く返事をして扉を開けると案の定その先には制服姿の緋奈子が笑みを浮かべて立っていた。
彼女は事務所に全員が揃っているのを入り口から確認すると、よく通る溌剌とした発声で「お邪魔します」と挨拶をしてから私の手招きに促されるようにして入室し、眼鏡をかけて何かの紙に無心で印鑑を押している亜莉亜さんを、まるで未確認生物でも発見したかのように凝視して足を止めた。
「え、何事?」
その一言から、いかに亜莉亜さんが日頃全く仕事をしている姿を見せていないかが容易に想像できてしまい、彼女がどうして、人徳の差という紅葉の発言に口を閉ざしたのかが如実に示されていた。
返事をしない亜莉亜さんの代わりに「たまには働いて頂かないと困りますからね」と紅葉が答えたのだが、それに対して緋奈子は得心したように何度も頷くのであった。
私は来客用に利用されている机の上を一瞥し、そこに資料が居場所もなく散乱としているのを確認して、ここでは仕事の邪魔になりかねないと判断し、緋奈子に上の私室に行くよう提案したのだが、その発言を耳にした亜莉亜さんが未だ頬杖をついた状態で厳しく私に言った。
「ダメよ、ここで話しなさい」
「え、いえ、仕事の邪魔をしてはいけませんし・・・というか友達を自分の部屋に上げて何か問題があるのでしょうか?」
「なぁに?私達が居ては困るような話をするつもりなのかしら」
そう言って彼女は妙に勘ぐるような素振りを見せたわけだが、そのようなことは全く見当違いの発言ではあったものの、こちらとしても痛くない腹を探られるのは不愉快だったので、少しムッとした態度で彼女を見返して、「別にそういうわけではありませんが」と不満たっぷりで呟いた。しかし、それを聞いた緋奈子が明らかに狼狽して私と亜莉亜さんの顔を繰り返し見つめながら、右腕を彼女らしくない弱々しい力で引っ張って私の名を呼んだのだが、その不可解な態度を目にした亜莉亜さんが誰よりも先に口を開き嬉しそうな顔をした。
「あらぁ、深月にそのつもりはなくとも緋奈子は二人きりでなければ不満みたいね?」
彼女は遂に資料からも印鑑からも手を離し、そのうえさらに眼鏡さえも机上に放り出して両手で頬杖をついて、無駄に上品な微笑みを横たえた状態で窓の外を眺めていたので、どうやら彼女は地味な作業に退屈して、いつものろくでもない暇つぶしを始めたようであると私は渋面を作った。
話の矛先を突然向けられた緋奈子は、ピクリと身体を反応させてぶつぶつ何か言っていたが、上手く聞き取ることが出来ず、私は黙ってその自信なさげな顔つきになっている彼女を見つめていた。だが場の均衡を破るように紅葉がため息をついて亜莉亜さんを睨んだことで、緋奈子の動きも落ち着きを取り戻していった。
「亜莉亜さん、ふざけてないで仕事をしてください」
「心外ね、ふざけてなんかないわよ。私は深月の保護者なのだから、その貞操を守る義務があるの」
彼女は大げさに両腕で自分の身体を抱きしめるようなジェスチャーをして、まるで悲劇のヒロインのように悲哀を含んだ口調で発言したのだが、あまり上品とは言い難い話の中心に自分が据えられていたため、私は呆れたような顔で「何の話ですか・・・」とため息交じりに呟くのだった。
緋奈子はその貞操という生々しい単語に過敏に反応して眉を吊り上げ怒りを露わにしたが、仕事を放棄して緋奈子で遊ぶことに頭を切り替えた彼女にとってその反応は、ただ亜莉亜さんの嗜虐心をくすぐるだけになってしまうと何故彼女は気づかないのか・・・。
「いいこと紅葉?十代二十代なんて皆、一歩踏み越えればあっという間に獣と同等かそれ以下のものに成り果てる精神性を持つものなのよ」とすらすら暗記していたかのように言葉を紡ぎ、それから窓の外に広がる真夏の夕焼けから視線を緋奈子に移して、「私は深月をそうした獣から、なるべく、なるべーく遠ざける責務があるの」と上品に笑んだまま告げたことで、明らかに自分が揶揄されていると感じ取った緋奈子は赤面しながらも声を大にして言った。
「私が獣だって言いたいわけぇ?」
「あら、誰も貴方のことなんて言ってないわよ?」
そう言って次第にその微笑みを下卑た笑いに変えていく彼女を横目に見て、私は深い溜め息をつくと同時に足早にソファの前まで移動して腰を下ろし、我が友を手招きして、「何もやましいことなどないのだから、ここで話しましょう」と緋奈子に提案した。彼女は一瞬躊躇するような素振りを見せてから大人しく私の隣まで歩いてきて腰を下ろしたのだが、その表情には何かを残念がっているような、あるいは危惧しているような複雑で弱々しい気持ちが垣間見えたため私は怪訝な顔つきで彼女を見やった。
「じゃ、邪魔じゃないかな」とまるで邪魔だと言ってほしそうな口ぶりで緋奈子が目の前の紅葉に尋ねるが、対する彼女は困ったような苦笑いを浮かべているだけで何も返事をすることはなく、結局亜莉亜さんが命じた通り、朝の続きはこの事務所で行われることとなるのであった。
「良い子ね、深月。昼間の一件はこれで手打ちにしてあげるわ」
そう言ってとてもご満悦といった様子で満面の笑みを浮かべる彼女がどこか小憎たらしく、またほんの少しだけ幼子のように無邪気にも見えたことが愛おしく感じられて、私はその奇妙な想いが混合された感情を誤魔化すように悪態をついた。
「手打ちって・・・私は迷惑をかけられただけじゃないですか」
すると彼女は心底意外そうに目を丸くしてから、ぱっと花咲くように優雅な笑顔を見せて両手を顔の前でピッタリと合わせてからこう私達に告げた。
「まぁ何を言っているの、私に抱きしめられてあんなに喜んでいたじゃない」
私がその言葉を聞いて慌てて否定するよりも随分早く、緋奈子が音を立てて直立し、「は?」とあまり意味があるとは思えない単語を発しながら亜莉亜さんを睨んだため、私の口を挟む余地が失われてしまい、行き場のない羞恥や苛立ちといった感情が私の中でとぐろを巻くこととなった。
そのあまりにも真に迫った表情に、まさか亜莉亜さんは本気で私が喜んでいたと勘違いしているのか、と疑問を抱いて彼女を俯きがちな姿勢のままチラリと一瞥したのだが、私と目が合った瞬間に先程までの艶やかな笑みを一変させ、時折彼女が見せる例の下品な笑顔に段々と変わっていったのを見て、私と緋奈子をからかうために一芝居打ったわけだと確信した。
ならば相手にするだけ時間の無駄だ。
そのはずなのだが・・・。
「どういうこと深月、何でそうなったの」と突然目くじらを立てた緋奈子が私を立ったままで見下ろして強い口調で問いかけるが、その圧力ときたら思わず身体を反らして彼女と距離を取りたくなる程強烈なものであった。面倒なことになったと眉間にしわを刻み、「急に後ろから抱きつかれただけよ、いつもの亜莉亜さんのおふざけだから気にしても・・・」とあくまで淡々とした口調で彼女の問いに答えたのだが、「いつも!?」という彼女の悽愴な叫びによって私の思惑は外れてしまうこととなった。
「いつも?いつも抱き合ってんの?」と上から彼女が私の肩を押し潰すようにして両手で掴み、目を大きく見開き息を荒くしたまま私に詰め寄って来たので、こちらが面食らってしどろもどろしていると、亜莉亜さんが少し離れたところから「照れる必要ないじゃない」と変わらず厭らしい笑みを浮かべたまま言ったため、緋奈子が顔を真赤に染め上げて声にならない声を上げて硬直してしまった。
あぁ、何だか面倒なことになってきた・・・と徐々に現実逃避を始めた思考がぼんやりと別のことを考え始めた頃に、ようやく天の助けの如く、紅葉が手を打ち鳴らして「し・ご・と!」と殺気立った空気に一石を投じる一言を告げた。それによって亜莉亜さんは無言のまま眼鏡をかけなおして再び資料を手に取り作業に戻り、緋奈子はというと未だ不完全燃焼と言わんばかりの様子であったが、渋々腰を下ろし咳払いをして私の方へと身体の向きを変えて話を始めた。
これにてようやく当初の目的が果たせそうであったが、思いの外遠回りになったため私は空腹に苛まれながら話を聞くことになった。
(ⅳ)
「えぇと、つまりS県に旅行に行くってことよね?」とその仕草が可愛いと自覚してか否か分からないが、深月が小首を傾げて緋奈子の話を端的にまとめて告げたのだが、それを聞いた彼女はらしくない顔つきでうっすらと頬を染めて頷いた。
私はその青春物語のような茶番劇を見せられて多少の寒気すら感じながらも、呆れたように目を細めて口を挟んだ。
「なぁに、お泊りデートって、貴方結局獣なんじゃない」
「は、はぁ?違うし、その、色々と問題があるから深月も一緒だと助かるなって思っただけだから!」
「へえ、色々って?」
私が間を置かず即座にそう聞き直すと、彼女はしまったと言わんばかりに顔を歪め言葉を詰まらせてその視線を忙しげに左右に動かして口ごもったので、私はやはり自分の予測は正しかったと一人得心した。
お盆も過ぎたその特異な時期に、親族一同を本家に呼び寄せるような何事かが起こっているというのに緋奈子はそれを説明しようとしておらず、明らかにその話題を避けるように会話を進めていたのが今明らかとなったのだ。
緋奈子は全くもって隠し事が出来ない、直情的で愚かな単細胞人間だ、と彼女を酷評しつつも内心では緋奈子のことを何だかんだ言って気に入っている自分のこともまた認めており、それはどうしてなのかと思考してみると、やはり単純、シンプルであるという性質は純粋な美しさと強さをその内に秘めており、それがそうでない人間を魅了するのだと結論づけた。つまり、私や深月のように複雑過ぎる作りをした生物にはどことなく眩しく見えるのだろう。
逆に言うと深月のように私以上の複雑怪奇さを宿した人間は、こちらからしてみれば脆弱さと不気味さとを同時に感じさせる存在になり得るというわけだが、彼女はその中でもまたさらに異質で、グロテスクな輝きを放ちながらもどこか絶佳な美しさを纏っている・・・そう、例えば美少女の死体、あるいは呼吸の音が聞こえないことが不自然にさえ思える現代風の日本人形、またあるいは、血塗られたような花を咲かす彼岸花のような・・・。
その単語が脳を一閃した瞬間、嫌な記憶がフラッシュバックし頭痛のようなものが私を鋭く襲ったが、それら全てをすぐさま消し去るために目を瞑り、ゆっくりと開いた。次に私の目が緋奈子を捉えていたときには、もうすっかり頭の中は白紙の状態に戻っていた。
「いや、まあいいじゃんそこは・・・」と話をはぐらかすのに必死過ぎて逆に怪しさが露出してしまっていた彼女に、「そう露骨に隠されると、少し気になりますね」と珍しく紅葉が興味有りげに首を突っ込んだため、いよいよ緋奈子は挙動不審の極みに達して指先を弄りだしたのだが、それでも頑なに彼女は口を割ろうとしなかった。
果たして何を隠しているのか・・・こうなってくるといよいよ箱の中身が気になって仕方がなくなる。浦島太郎がその誘惑には逆らえなかったように、今の私もまた好奇心という病に冒され、そぞろな気持ちで緋奈子を観察しているのだった。
部屋の中が奇妙な静けさに包まれており、壁にかかったアンティーク調の時計が時を無造作に刻み続ける音だけが空気を震わせては私達の命を一分一秒も待たずに削っていく。
窓の向こう側の外界に視線を移すと、灼熱に晒されて足早に通り過ぎていく人々の姿がわずかに確認することができ、いかにこの建物の内外で環境が異なっているかを容易に想像させ、私は目閉じた。
自然から生まれ出た我々人類は古き祖先の時代からその自然環境の中で日々を送ってきたというのに、気づけば私達は環境さえも創造し、自然がある種のレジャーであるかのような生活を送り始めている。きっとそう遠くない未来に我々の周囲からは自然物が消え失せ、それを模して製造された人工物、あるいは人工栽培、人工繁殖により生み出された半人工物のみが席巻する世界になるのだろう。
だが、それも致し方あるまい。そうなってしまうのであればそれだけのことだ。
人間がただそれだけの種だったと笑うなり諦めるなりすればいい。
自然破壊をする人間だって自然が作り出したものなのだから、それらが行う行為の全てが自然でなくて何なのだろうか?その行為を不自然で間違ったものだと一括にしてしまうことこそ、我々が神の手を離れて存在する、いや、神に成り代わって惑星を支配する存在だと思い上がっていることのなによりもの証拠ではないか。
「もぅ、分かったよ、言えば良いんでしょ、言えば」
大きなため息とともに吐き出された緋奈子のその愚痴っぽい言葉で、私は自らの内側にある私以外誰も居ないこの世の果てから引きずり戻され、かすかな不快感を覚えて眉間にしわを寄せつつも、顔の向きを何もない空中に向けてその話に耳を傾けることに意識を切り替えた。
「別に大したことないんだよ、確か時津本家で保管していた刀が盗み出されたとか何とかで・・・それでわざわざ皆を呼び集めてるんだってさ」
「へぇ・・・」とその話に漂う微量のきな臭さにますます好奇心をくすぐられ、私は両腕と足を組んで話を聞く体勢を万全に整えてからすぐさま口を挟んだ。
「まずその刀は許可を貰って所持しているものなの?」
「え、いやそうじゃないかな」
許可を受けていない状態で刀を所持している可能性を考えてそう尋ねたのだが、よくよく考えれば彼女の家は代々続く剣豪一家だ、許可を受けて日本刀ぐらい所持していても不思議ではないので、その点において時津本家の人間が慌てているという可能性は無さそうであった。いや、もちろん刀剣を紛失しているという状況は立場上、確実に内心穏やかではないだろうが。
そして私の質問に続いて紅葉が「そんなに大切なものなのですか?」と真面目な顔をして問いかけたのだが、緋奈子は「さあ、まあ呼び出すぐらいだからそうなんじゃない?」と先ほどと変わらず大して興味なさげにそれに答えた。私は彼女の見え透いた魂胆をついついからかいたくなってしまい、愉快さを隠すことなく笑いながら口を開く。
「ふふ、緋奈子にとっては深月を連れて行く口実に過ぎないというわけなのね」
「え、いやそういうことじゃなくて・・・わ、私は馬鹿だからさ、その本家も困っているみたいだし、もしかしたらこの間みたいにパパっと深月が解決しちゃうかもしれないじゃん?」
その言葉を受けて深月が大層恐縮であるという顔つきになった後、「あの一件は真月がわざと私に解かせたようなものだったし、それに―――」
そう口にしてから、チラリと私の方を見やり少し困ったような様子を覗かせたが、再び緋奈子の顔に焦点合わせ今の瞬間のことなどなかったかのように話を続け始めた。
数ヶ月前の事件、あれは彼女の妹、真月が起こした一件であり、深月を誘い出すことがその本懐とされた犯行であったのだが、私はとある事情から誰よりも先に事件の全貌に気が付き、深月が主体となって事件を解決できるように影から導いていた。
深月の能力を欲した私が、事件を利用する形で彼女をこちらの手元に引き入れようと考えていたのだが、結局それは彼女の祖母の残していた遺志によって私自身が惑わされてしまったことと、深月自身が私の思惑を察していたことで中途半端な結果に終わった。
あの事件の真実は、私と深月だけが知っている。その方がいいと、私達で決めたのだ。
「そうだ、それならば私よりお二人を連れて行った方がずっと頼りになるわ!」
そうして妙案だと言わんばかりに手を合わせて彼女は告げたのだが、緋奈子のセンシティブな感情に気づいていないが故の無自覚な提案に緋奈子はもちろん、紅葉も複雑な表情を隠しきれなかった。二人の関係がどうなろうと私の知ったことではないが、折角苦労して手にした卓越した霊視霊感の力だ、手放すにはあまりに惜しい。できるだけ私の側に置いておきたい、そう考えるのは当然のことだろう。
「で、でも急にそんなこと言っても迷惑だろうし・・・」
「え、ええそうですね、僕たちも暇ではないですから・・・」
人の気持ちに敏感な紅葉が彼女の意図を察して素早いフォローを行うが、それを聞いて深月が申し訳無さそうに項垂れる姿を見て、紅葉は気遣わしげな顔つきで口を閉ざしてしまった。誰にでも彼にでも気を遣うからそうなるのだと私は紅葉を心の中で嘲笑した。
対立する二つの意見はシーソーだ。右に重心を寄せれば左が上がるし、逆もまた然りである。子供だって知っていることを大人である紅葉が気づかないはずもないのに、何故彼女はこんなにも調和を重視するのか・・・理解に苦しむ。
こんなにも個として独立した存在で満ちた人間社会で、調和が取れてしまうことの方が不自然極まりなく、かえって混沌としていたほうが自然だと思えない人間ばかりなのは一体どうしてなのか。
そんなことを考えている内に段々と紅葉に腹が立ってきて、彼女の思惑を徹底的に壊滅しないと気がすまない精神状態に陥ったのだが、もちろんそれだけが理由ではなく、深月の信頼を出来るだけ勝ち得るため、そして単純に私自身この窃盗事件に興味が湧いたというのもあっての行動である。
「いいえ、来週は特に予定なんてないはずよ。それに緋奈子には前回随分とお世話になったのだし、この辺りでその恩に報いるのも人情ではなくて?」
私がそう口にしたところ、深月だけが表情を明るく輝かせていたが残りの二人は恨みや呆れといった負の感情をこちらに真っ直ぐと向けており、いかに彼女たちが私をそうした善良性から程遠い人間であるかを理解してくれているのかがハッキリと伝わってきて、思わず私は感嘆のため息をついて二人を見つめてしまった。我ながら、義理や人情などという言葉には全身が寒気立つ思いであった。
私とは違って大げさに肩を落として落胆のため息を漏らしている緋奈子、そしてそれを憐れむように見つめている紅葉、さらには私の方を向いて「亜莉亜さん、少しだけ見直しました」とはにかみながらそう告げた愚かしい深月の姿・・・それらを同時に視界に入れたままこれから始まる非日常に思いを馳せて、私は少しばかり胸がはやる気持ちになっていた。
(ⅴ)
結局あの後緋奈子が両親に話をした結果、是非亜莉亜さんたちも一緒に来てもらって力を貸してほしいと逆に頼み込まれてしまったため、頼もしいことに彼女たち二人の同行も決定したのだが、終始緋奈子はそれについて複雑な表情をしているだけであった。
そうしてあっという間に数日が過ぎ、出発の朝が来て、私は亜莉亜さんから今朝突然渡された箱に入っていた白いワンピースを身にまとい表に出てシャッターを開けた。普段着慣れぬ色のためか、なんだかくすぐったい気持ちで胸が一杯になっていた。
それから私と紅葉で多少の荷物を車に積んでから先に亜莉亜さんが待機しているはずの車内に乗り込もうとしたのだが、私は彼女の姿が運転席ではなく助手席にあったことに大変驚いて目を白黒させた。
「え?亜莉亜さんが運転するのではないのですか?」と私がキョトンとしたまま表情のまま質問すると、心の底から不思議そうな顔をして「どうして私がそんなことをしなくちゃいけないの?」と答えたので、何かの冗談というわけでもないのだと理解し、それから少し遅れて乗り込んできた紅葉の顔を見つめて、「じゃあ誰が運転されるのですか?」と愚問を呈してしまった。すると亜莉亜さんはバックミラー越しに私を見据えてこう口にした。
「馬鹿をおっしゃい、運転席に乗っているのだから紅葉に決まっているでしょう」と呆れたような口調で私を咎めた亜莉亜さんの言う通りではあったのだが、あまりにも信じがたいことだったため、それでも私は食い下がって質問を続ける。
「え、でも、普通自動車の運転免許は確か18歳からではなかったでしょうか・・・?」
私のその質問の何が可笑しかったのかは分からないが、それを聞いて彼女たち二人は突然吹き出してしまい、そのせいで私は暫く質問の答えを待たなければならなくなってしまった。ようやく笑い声が収まったかと思うと、亜莉亜さんが少しだけ瞳に涙を浮かべたままで「貴方、この娘をいくつだと思っているの?」と聞いてきたのだが、その泣き笑いのような表情があまりにも純朴で少女のような可憐さを放っていたため、私は不思議な力に抑え込まれてまともに返答も出来ぬまま口を閉ざしてしまった。
黙ってしまった私の代わりに紅葉が、カーエアコンの送風で髪を揺らしながら、こちらも少女のようにあどけない顔つきで微笑んだまま「僕はもう22歳ですから、免許も持っていますし、深月さんたちよりもずっと年上ですよ?」と衝撃の発言を行ったことで私はまたぽかんと間抜けな顔をしてしまい、遺憾だが再び彼女たちに物笑いの種にされることとなった。
ようやく二人が落ち着いたところで、「泣くほど面白かったですか」と私が口を尖らせて独り言のようにそっぽを向いて呟くと、「いえ、すいません、色々と誤解されがちなんですよね、僕」と紅葉が形だけの反省を口にしてから涙を指で拭っており、その助手席では未だに鈴を転がしたように澄んだ声で笑っている亜莉亜さんが「もう、本当に愚かで可愛いわね深月は」と小馬鹿にするようにして私の鼻先を指で突っついたものだから私の堪忍袋の緒は突然音もなく千切れてしまった。
「大体、二人とも紛らわしいの!」
私が出したいきなりの怒声に二人はピタリと笑うのを止めて、硬直した表情でこちらを見ていたが私はそれに一切構わずに説教を続ける。
狭い車内で反響する私の大声を、私の中の冷静な部分が、外で鳴いている蝉の声と遠く重なるような錯覚を覚えていたが、声を出している私はまるで気づかぬままであった。
「紅葉は男装をしているし、男とも女とも区別のつかない喋り方をするし、一人称は僕でしょう?それに敬称無しで名前を呼べなんて言うんだもの!それじゃあ年下の男の子だって思い込んでも仕方がないでしょう!」
「ぼ、僕のこれは男装というわけではなく・・・」
「そんなもの、受け取る側の問題です!」
丁寧な言葉遣いも忘れ、勢いのままに怒鳴り続ける私の圧力に負けてか、「も、申し訳ありません」と紅葉は早々に抵抗を諦めて、鎮火作業を行うことを決めたようだが、その隣にいる亜莉亜さんは呆れたような顔つきで両耳を塞いでおり、その姿によってさらに怒りの炎に薪がくべられた私は彼女の両手を無理やり引き剥がし、前の席に身体を半分ほど突っ込んだ状態で言葉を続けた。
「何を他人事みたいに聞いているんですか、貴方もですよ!」
「ちょっと、分かったから手を離しなさい」
「分かってないからこうしているの!」
「も、紅葉、元は貴方のせいで飛び火しているのよ、なんとかしなさい」
キッと横目で捉えた紅葉の表情は完全に自己の保身に回っている人間の顔をしており、亜莉亜さんからの助け舟の要請も知らん顔をして身体を正面に向けて俯いていたため、それを見た彼女は大きく舌打ちをして「私のどこが紛らわしいのよ」と呟いたのだが、それがまた私の癪に障り再び怒りの矛先を亜莉亜さんへと向けさせることとなる。
「貴方の場合はぜ・ん・ぶです!」
彼女の思わせぶりな発言に一喜一憂させられている日頃の恨みをここぞとばかりにぶつけようとしたのだが、恐る恐るといった様子で紅葉が声を発したため、その願いは志半ばとなってしまった。
私はまだ何か、といった目をして紅葉の方を睨んだのだが、彼女は困ったような表情をして車内モニターの方へと視線を移した。
「あの・・・もう緋奈子さんも待っている時間だと思いますが・・・」
そう言って紅葉は車のモニターに映し出されている時間を指差していたのだが、確かに約束の時間は差し迫っており、彼女に迷惑をかけることだけは避けたいと考えた私は不完全燃焼のまま矛を収め、様々な感情を長いため息とともに吐き出して座席に腰を落ち着けてシートベルトを閉めた。
「よくやったわ」
「静かにしてください、また怒られますよ」
前の座席で二人が小声で何か会話しているのが分かったが、どうせロクな話をしていないだろうと判断して私は腕を組んで、平静を取り戻すためにも黙り込むことに決めた。
それからすぐに紅葉が車のエンジンをかけてアクセルを踏み始めると、緩やかに車体が加速し、そのまま徐々に速度を上げて道路を切り裂くように進んでいき、窓の外の光景が目では追えないほどのスピードで通り過ぎていくようになった。
これから緋奈子の家に寄って、そのままの足で隣接するS県の山中にあるという時津本家を訪れるという計画であったのだが、彼女の家は興信所からさして距離もなかったためあっという間に到着し、再び車はゆっくりと減速しやがて完全に停止した。
「凄い、これが緋奈子のお家・・・」
車から降りた私は、初めて訪れた緋奈子の家の規模に驚いて目を丸くし、その敷地の端から端を見渡そうと首を伸ばして右から左へと顔の向きを変えたものの、どうやらそれが不可能な程広い土地のようであった。
古い建築様式ながらも、おそらく何度も修繕を加えているのであろう二階建ての日本家屋は横に長く、私が祖母と共に住んでいた家の三倍は有しており、それだけでも豪邸という言葉が相応しい建物だったのだが、その隣にそびえ立っている建物、おそらくは彼女の話に出てきている道場らしきものがその規模をさらに壮大なものへと昇華させていた。
一度は来たことがあるらしい二人は特段驚いた様子もなく、颯爽と玄関先へ直行していくので、私は遅れてその背中を小走りで追っていった。
そのままの亜莉亜さんが躊躇なくインターホンを押し、暫し間を置いた後「今行くよ!」と返事をする緋奈子の声がスピーカーから聞こえてきて、それからすぐに誰かが玄関に降りてきた気配がしたので、私は緋奈子が来たのだと思い扉が開くのを正面で待っていたのだが、いざ扉が開くと予想していた顔はそこにはなく見知らぬ男性の顔が現れたのだった。
後になって冷静に考えれば緋奈子の父親であることは容易に想像できたはずなのだが、思わぬ不意を突かれた形になってしまい私は言葉を失ってその顔を食い入るように見つめてしまったのだが、その瞳の優しくも静まり返った落ち着きに満ちた様子といったら、他に比較しようもないほどのものだった。思考に没頭しているときの亜莉亜さんとはまた違った明鏡止水の如きその雰囲気に私は自分の内側から溢れる何かに突き動かされて自然と姿勢を正した。
「あ、おはようございます、初めまして、秋空深月と申します」と私が深く一礼すると、それに続いて隣の二人も頭を下げて、「お久しぶりです」と声を揃えて挨拶をしたため、そこでようやく私は彼が緋奈子の父親なのだと察することが出来た。
すると彼は柔らかな微笑みを浮かべた後、「おはようございます、すぐに緋奈子は来るからね」と答えた。その落ち着き払った様子を何度か目にしただけで、緋奈子は母親似なのだろうかと邪推してしまうのに充分だったわけだが、それから彼が私のことを真っ直ぐ見てから思案げに顎を撫でたため、私は自然と彼の言葉を待つ形になっていた。
「そうか、君が・・・」
「え、あの・・・どうかなされましたか?」と彼の言葉の意味が分からなかった私は小首を傾げて尋ねたのだが、直ぐに考えを改めた。よくよく思えば緋奈子の足首が折れた後も私は彼女の両親に顔を出さずに今日まで過ごしており、その怪我は私が緋奈子を巻き込んだことによるものだったことを考えれば、自分は恨まれていても仕方がないのではと気付き、私はサーっと血の気が引いていくような思いになって、慌てて口を開いた。
「あ、あの、緋奈子の、いえ、数ヶ月前に緋奈子さんが大怪我をしたのはわ、私の責任なんです」
「え?ああ・・・」
「ですから、その、謝って済む問題ではないのは重々承知の上なのですが・・・本当に申し訳ありませんでした・・・」
私は出来る限りの誠意を尽くそうと膝を地面について頭を下げようと腰を低くしたのだが、私のその動きから勘付いたのか彼はそれを手で制して、立ち上がるように私に告げて少し冷たいトーンで続けた。
「やめなさい、子供が大人に土下座なんてするもんじゃない」
その怒ったら有無を言わせないオーラを身にまとう姿はとても緋奈子にそっくりなのだなと、場違いながらにどこか感心した心地になって彼の顔を見つめていたが、どうしても気が収まらず、「ですが・・・」と私は口にした。
その間も斜め後方では、小声で亜莉亜さんと紅葉が何事かを話しているが、きっと今は気にしても仕方がないことだろう。
そして彼はそのオーラを一変させて再び優しい顔つきになったかと思うと、おもむろに私の頭に手を乗せて言った。
「緋奈子から聞いているよ。あの子が勝手にやったことだし、私は過程はどうであれ、あの子が人を守って行動したことを誇りに思っている。それに君が緋奈子を大事に思ってくれているのも伝わっているつもりだ」
そう口にした彼の目と掌は温もりに満ちていたため、先刻は緋奈子が父親似ではないと思ったのだがそれは早計だったように思えた。何故なら私は、つい最近その優しさと温もりと同質のものに救われた覚えがあったのからだ。
初めて会った男性に頭を撫でられているというのに、どこかノスタルジックな気分になって、一体何を懐かしんでいるのか・・・と一瞬の内に記憶を掘り起こしたところ、不意に胸が苦しくなってしまったので、私はそれ以上考えることを止めた。ようやくカサブタが剥がれた箇所が、再び固まり、傷を癒そうとしているのに、わざわざまた剥がす必要はない。
これ以上はかえって失礼になるかと判断して黙礼するだけに留めていたのだが、ややって誰かの騒々しい足音が彼の背後から聞こえてきたかと思うと、見慣れた友の慌てた顔が私の視界に入ってきてこちらを見るや否や、顔をほんのり染めつつも目を丸くして大声を出した。
「ちょ、ちょっとお父さん!何も余計なこと言ってないよね!」
その勢いに気圧されて私は一歩後ろに下がってしまったのだけれども、怒りの矛先となっている当の本人はにこにことして「いいや、挨拶をしていただけだよ」と朗らかに嘘をついたのであった。
緋奈子は未だ自らの父を怪しんだ目つきで見つめていたが、その表情に一切の変化が見受けられなかったことにより諦めたようで、小さく肩を落としてから抱えたボストンバックをぎゅっと強く脇に挟んだ。
玄関先まではっきりと香ってくる畳の匂いが鼻孔をくすぐり、何となく全身から無駄な力が抜けて落ち着いた心地になり、そのお陰かとても自然に緋奈子に微笑みかけることが出来た。
「おはよう、緋奈子」
そして、よろしくねと言葉を付け足すと、スニーカーに履き替えている彼女は照れたようにはにかみながら明るく返事をしてくれたのだが、それを皮切りにしたかのように亜莉亜さんが口調を変えて「それでは調査の方は我々にお任せください」と淡々と事務的に告げて軽く頭を下げた。
その言葉に彼は律儀に何度もお辞儀をして答えたのだが、その所作があまりにも礼儀正しく洗練されていた様子だったので、私はやはり緋奈子は母似なのではないかと失礼極まりない妄想を行ってしまった。
一言二言別れの言葉を交わして、私達は時津家を後にし、日光により熱がこもった車に乗り込もうとしたのだが、すっと緋奈子の父が玄関先から出てきて私の元へとやってきたかと思うと、一度咳払いをしてからこう告げた。
「秋空さん、先程の話の続きだが・・・もしも君がどうしても責任を果たしたいと願うのであれば、うちの不肖の娘に嫁の貰い手がなかったときは、その役目を君に担ってもらうことにしようかと思うのだが・・・」と冗談なのか本気なのか分からない雰囲気で言われた後、「器量は良く育ったんだが、如何せん気質が男勝り過ぎてね・・・」と顎に手を当てながら苦笑いをしている姿を見て、冗談ではないのだと確信すると同時に、もしかすると今とんでもない提案をされているのではないかと改めて驚愕し私は言葉を失ってしまった。
亜莉亜さんと紅葉は自分には関係ないと言わんばかりに先に車へと乗り込み、エンジンを掛け始めたのだが、私とは反対の後部座席に乗り込もうとしていた緋奈子がズンズンと地面を抉るようにして大股で彼の前までやって来て、腕を思い切り振り上げて背中を叩いたので、八月の朝の静まり返った住宅街に乾いた音と彼女の怒声が木霊することとなった。
そして彼女の父が退散してから二人で後部座席に乗り込んだ後、未だに鬼のような形相で小言を垂れていた緋奈子は、ふと身体を斜めにして運転席を覗き見ると、大層不思議だといった表情に切り替わって、「え、何で紅葉が運転してんの?」とまるでデジャブのような問いをした。しかし、すでにその件で一悶着あった私達は皆一様に口を閉ざしていたのだが、あまりにも緋奈子がしつこくその理由を聞きたがったため、一度大きなため息を吐いて、助手席から首だけで振り向いた亜莉亜さんがこう答えたのだった。
「運転免許を持っている以外に理由が必要なのかしら」