祭典3。
薄闇に華奢なシルエットが浮かんでいた。
広い私室のベッドでそれは次第に縺れるようにひとつに重なった。ズゾゾと啜るような音が響き渡る。
「は…な、奈々実さ…ま」
びくりと震えた体の細い腕は宙を彷徨い、甘美な吐息をかき消す。弛緩し絨毯に崩れ落ちたメイド服を一瞥し、華奢な姿は紅く滑る口元を拭った。
リンと鳴らす鈴の音に静かに扉が開く。
同じメイド服姿がふたり、痙攣する横たわった身を運んで消えた。
素肌に羽織った真紅のローブを翻し、閉められたカーテンの隙間から眩しく外を窺う暗い双眸。白と黒の入り混じった長い髪が乱れたまま、陽に煌めいた。
「中枢の犬か…つまらぬ」
掠れた声は低く呟いた。
小ぶりな手がカーテンを厚く閉めなおし、脚を組み椅子に腰掛けるとすかさず乱れた髪を結い上げる手が伸びてきた。
震える別の手が熱く濡らした布で口元を拭い、化粧を施し始める。その手に口付け漏れた声に、華奢な姿の口が大きく弧を描いた。
焚き染めた香がゆらりと静謐な空間に漂っていた。
開門に合わせて届く喧騒。気怠げに立ち上がり、全てを任せて身支度を整える。
「花は揃ったか、ダリア」
「ええ、奈々実様。今季も恙無く」
柔和な微笑みを見ずに奈々実は姿見の方へと視線を移した。凹凸の少ない細い横姿。真紅のドレスが良く似合う変わらない姿を満足げに眺めて、ガラスの靴へと足先を差し込んだ。
「4と決めておる。問題ないな」
「畏まりました。どれも健康で清らかですわ」
「うむ」
恭しく頭を下げて道を譲る濃紺色のヴェールを横目にカツンとヒールを鳴らした。傅くメイド服がその後に続く。
ダリアはいつまでもそのままで、廊下に響く靴音と噎せ返るような香の煙にそっと目を伏せた。
***
中庭は少し寂れていて、水の循環していない静かな噴水と伸びっぱなしの植え込みに囲まれていた。
規制の線は張られていないが、暗黙の了解なのか白い軍服が立っている為なのか、居並ぶシスターたちを中心に見物客たちは程良く離れ集まっていた。
照りつける日差しがじりじりと肌を焼くようだった。
雪妃はどこかに紛れているのかとついチィーメイの姿を探し、群衆をぐるりと眺め回した。
(無事に見つかってるといいけど…)
一体何を探しているのか、短剣まで持って。当然教会内で包丁ハサミ以外の刃物は扱えない。色々と想像しても怖くなりそうなので雪妃は考えるのをやめて、前方で薔薇の花籠を抱えたモナの緊張を含む背を見遣った。
「雪妃ちゃん、雪妃ちゃん」
不意に呼ばれる。
聞き覚えのある声に愛想笑いを作り振り返った。きっと特注品の、派手なベストの金ボタンも弾け飛びそうな豊満な腹を抱えた、男爵だと名乗った壮年の参拝者のひとりだった。
「ポンちゃ…ポンティさま、いらしてたんですね」
「この日を待っていたよ、雪妃ちゃん。今日も美しいね」
「まあ、ありがとうございます」
金の巻き毛を今日もくるくるとさせて頬を緩ませるポンティへと微笑む。何とも愛嬌のある風船のような男爵だった。教会で欠伸を噛み殺し受付をしていた時に、お気に召して頂けたらしい。
(腹が…ポンポンぽにっとしたくなる)
スラッとした美男子を連れているので余計に丸っこく見えるのだ。にこりとしてくれる従僕に会釈をして、雪妃はさりげなくポンティの手を離した。汗ばむ手にも馴れ馴れしいのにも慣れているが、この群衆の中では少し、遠慮もして欲しい所だった。
「ポンティさま、叱られてしまうので」
「おお、そうかね。今日は任せておくれ、必ず競り落とすからね」
「へ?」
「卿、お声が」
「フッハ、そうであった。ギュス殿にも釘を刺されておったな」
「下がりましょう」
「うむ、うむ。雪妃ちゃん、また後でね」
扇子をパタパタと揺らしながら奥へと下がっていくポンティを目を瞬かせて見送った。じろと見てくるモナに肩を竦めて列へと戻った。
わあ、と歓声があがり雪妃は空を仰ぐ。
バルコニーへと現れた真紅のドレス。あれが女王さまか、と眩くも見上げた。
肖像画の通り、幼く華奢な姿だった。遠目にもその美しさが見て取れて、小さく微笑んだような顔に鳥肌が立った。手を挙げる女王に歓声がより響き渡る。
(かわいこちゃんだなあ、でも何歳なんだろう)
この国は生まれた時からずっとこの女王陛下だとジェラから聞いていた。
すぐにフッとバルコニーから下がってしまう女王を名残惜しむ声。不意に上から降ってくる薔薇の花がぽとりと、はげかけた芝生の上に落下した。
「女王陛下の薔薇よ」
「まあ、4つね」
「4よ、どなたかしら」
同僚たちは胸のプレートを忙しなく見合った。よっしゃ、とガッツポーズをする日に焼けた顔が満面の笑みで薔薇を拾い上げた。
「まあ、シスタージェラなのね、おめでとう」
「やった!念願の献花役よ」
涙を滲ませて抱きついてきたジェラを雪妃はむぎゅと抱き返した。
「雪妃、やったわ、選ばれたのよ」
「うおお、おめでとうジェラ。あっさりと決まったもんだねえ」
「執念が届いたのかな、やったあ」
クッキーを貪り紅も取れた口元は震えていた。よしよしとさらりとする栗毛を撫でて、雪妃は込み上げる思いをぐっと堪えた。
「やったあ、だけど。これでお別れなの?」
「手紙を書くよ、こっそりおやつも差し入れるからね」
「それは有難き、幸せ」
「はあ、信じられない。本当に今季は最高の祭典だわ」
巻き起こる拍手に満面の笑顔で答えて、ジェラは固い表情のモナから花籠を受け取った。
「シスタージェラ、名誉な事よ。しっかりお務めをなさい」
「はい、シスター長。お世話になりました」
涙を拭ってやりながら、モナは珍しくも小さく笑んだ。待ち受けるダリアと共に城内へと入っていくふたりへと拍手が続いていた。
(嬉しいけど、ジェラが居ないと寂しくなるなあ)
うっかり泣いてしまいそうになりながら雪妃は城を見上げた。埃の積もったここを、器用なジェラならきっと細やかに清掃してくれるのだろう。親友の門出を胸いっぱいになりながら送った。
「さあ、献花は終わりよ。そのままお待ちになっていて」
取り巻く見物客たちの方へと向かわせられ、モナに合わせて深々とお辞儀をした。
何の問題もなく終えて拍子抜けしながらも、雪妃は手を振るポンティへ愛想笑いを返した。雪妃だけではない、他の同僚たちをお気に召したと聞く貴族たちが、はけていく見物客の合間にちらほらと見えてきたのだ。
(何これ、参拝に来る邪な貴族組の)
困ったように顔を見合わせるシスターたちからも不安の色が見て取れた。
まだ教会に残っているという事は、上手いこと誘いから逃れてきたはずの相手だという事だ。ポンちゃんだの何だのと適当に遇らう雪妃とは違い、淑やかな彼女たちは困惑しながら微笑むしかなかったはずなのに。
「シスター長、これは」
「お静かに、シスター雪妃。これもお務めですのよ」
「はえ?盆暗貴族と顔合わせるのが?」
「おやめなさいな。そのような言葉は心の中だけで吐いてらして」
ギリと唇を噛むモナに雪妃は眉を寄せる。にこやかに付き人を連れて現れた司教が見えてきて、居残った貴族たちも相合を崩した。
中枢の白服たちは隅へと集まり何やら話し込んでいる。今が好機とギュスの頬も綻んだ。
「皆様、お集まりで」
「ギュス殿。今季はどのように」
「はは、いやあ今季も華々しく進んでおりますな。皆様、ご一緒にお茶でも」
取り繕うような笑いでギュスは貴族たちへ手を広げてみせた。
「シスター長、皆も一緒に」
「はい、お供致します」
ぎゅっと十字架を握り、モナはシスターたちを振り返った。
不安そうな顔ぶれに、険しい顔は固く笑みを作ろうとして、やはり険しく固まった。
「日頃教会の為に尽くしてくださる皆様ですのよ、あなたたちもこの機会にしかと、お礼を申し上げて」
「ええ…?勝手にやってるのに?」
「シスター長、感謝は致しますがあの方たち、少し強引で。恐ろしいですわ」
「そう。大人しくご一緒するだけで良いのよ。何の心配もいりませんわ」
背を伸ばし前を行くモナへとシスターたちは黙って従うしかなかった。
接待でもさせる気なのかと雪妃は渋い顔でやはり最後尾を歩く。チィーメイのようにこっそり抜け出してやろうかと足を止めた所で、不意に腕を引かれ悲鳴を飲み込んだ。
ふわりと足が浮いて、宙を舞う。
「ヒエェ…」
「何ですその声、可愛らしい悲鳴かと期待してたのに」
くすりと笑う声と共に足がついたのは屋根の上だった。抱え込む姿を見上げると空色の髪が流れ、雪妃は唖然と微笑む顔を見遣った。
「な、何?何なの?驚かせないでよ」
「すみません、悪いのに連行されていたので、つい」
「連行って…あれ、やっぱり何かあるの?」
楽しそうに先を行くギュスたちと貴族たちと、その後ろに続く足取りも重いシスターたちと。屋根に膝をついて覗き込みながら雪妃は眉を顰めた。
「悪いのなら助けてあげてよ。警備員なんでしょ?」
「助けましたよ、お嬢さんは。あちらは纏めて締め上げますので心配には及びませんよ」
「本当に?やらしい顔してたし、みんな大丈夫かな」
「ええ。やらしい大人たちですね、困っちゃいます」
苦笑する守ノ内を振り返り、雪妃はとさりと腰を落とした。
「競り落とすとか言ってたけど、司教さまがまさか…」
「ええ。祭典で女王にひとり、貴族にひとり。まあ、常日頃から高値を出す相手には渡していたようですがね」
「信じられない。あの髭熊野郎…」
「お嬢さん、飛び出さないでくださいよ。取引してる場を押さえる算段なんです。皆に任せておいて」
「うう…何も出来ないもんね。わたし勝手に降りとくから、勝永も行ってよ」
「そうもいかなくって。あなたを置いては行けませんよ」
「わたしは大丈夫だよ。ねえ、ジェラは?献花のシスターは問題ないよね?」
こうなると女王の方まで怪しんでしまう。古めいた城へ感涙しながら進んで行った親友は、無事なのだろうか。
薔薇の下で顔を曇らせる雪妃へ、守ノ内は眉を垂らして首を振ってみせた。
「献花は、そうですよね。知らされてないですよね」
「何?みんなして言葉を濁らせるんだよ、名誉な事なんじゃないの?」
「余所者には名誉には感じられませんけどね、崇拝する人々にはそうなのかな」
蹲み込んだ守ノ内の言葉に業を煮やして、雪妃は白い胸ぐらを掴んだ。
「はっきり言って。ジェラはどうなるの?」
「…要は、捧げものですかね。女王は若い娘を啜るんですよ」
「え…?」
「まだ研究も途中ではっきりしませんが、生気をなのか血をなのか。食事の代わりに、喰うんです」
「そんな…」
蒼然とし、雪妃は屋根を駆け出した。
身軽にも隣へと飛び移り、カシャン音を立てて着地する。女王は化け物だとでもいうのだろうか。若さを保つ秘訣がそれだとしたらとんでもない事である。
「危険ですよ、お嬢さんまで喰われたらどうするんです」
トンと軽やかに降り立ち並走する守ノ内をちらと見て、雪妃は唇を噛みしめた。
「ジェラを殴ってでも止めるだけだよ。それに、勝永が守ってくれるんでしょ」
「ふふ。心得ました、お守りしましょう」
まだ蒼くも見える雪妃を楽しげに見遣って、守ノ内はひょいと抱え上げた。うへえと呻く身を腕に屋根を蹴る足は、嘘のように高く跳ねて三軒先へと飛び越えていく。
「うわあ…超人なの?何かおかしくない?」
「そうです?普通だと思いますけど」
「いや、うん…まあいいや、早くって。ねえ、どうしたらいいの?女王さまは変形したりする?」
「さて、どうなんですかね。不老不死だという噂しか聞きませんが」
「何それ、仙人とかなの?」
「私も直接会った事はないんですよね。まあ、何とかなるでしょう」
「はへえ…頼むよ勝永さま。お強いんでしょう?」
「ええ。私は強いですよ、お任せください」
にこりとする顔は呑気なものだったが、不思議と頼もしく見えるのはきっと、この跳躍力もあっての事だろう。屋根を蹴りあっという間に中庭へと降り立って、震える足は薄い芝生へとついた。
「えっと、どうする?女王さまのお部屋かな?特攻してもいいの?」
「そうですね、上かな」
「ま、待って。また跳ぶの?」
「あのバルコニーが良いんじゃないです?出てきてたし」
「お、おう…そうか」
三階か五階か、ごくりと見上げて雪妃は微笑む守ノ内の差し出す手を躊躇いがちに掴んだ。
「行きますよ」
「う、うん。お手柔らかに」
改めて抱えられても羞恥どころか風を切る浮遊感の方に意識は取られた。悲鳴すらあげられない。
芝生を蹴り、壁の僅かな出っ張りを踏み、ジグザグと登って難なくバルコニーへと到達する。
(イケメン魔人パワーは凄いんだな…)
よろめき降りた腰を支える手に漸く気恥ずかしさを覚えて、近くで見下ろす澄んだ空色の双眸にうぐと雪妃は怯んだ。
じっと見つめてくる守ノ内が目を細めて微笑む。
「…こんな時に何ですが」
「は、はい?」
「よくお似合いです、綺麗ですね」
頭の薔薇に触れる手が頬を滑って、亜麻色の髪を耳にかけた。
「う…恐悦至極にございまする…」
「ふふ。いつも頭に布かぶってたから。こんな感じだったんですね、とても好きです」
さらりと言ってのける守ノ内に、雪妃はドキマギしながら後ずさった。大変心臓によろしくない。いや、それよりもジェラだ。
「よ、よし…特攻隊長に続きたまえ」
「ええ。どこまでも、隊長さん」
くすりと笑う守ノ内がぴたりと後ろにつくのを認めながら、灰色の廊下へと踏み出した。
相変わらず人気はない。
左右を見渡し、落ちている真紅の花弁に沿って左へと進んだ。突き当たりの階段を上がり、今度は右手へ。長い廊下は静まり返っていた。
「勝永隊員、こっちで合ってるのだろうか」
「さて、人でも通れば尋ねたい所なんですがね」
「メイドちゃんか…本当に人が居ないよね」
喰われて、という言葉を飲み込んで雪妃はぞわりとしながら真っ直ぐに進んだ。
不意に背にかかる温もりに怪訝と顔を上げる。
「冷えます?今日は上着、かけてあげられましたね」
「…ありがとう」
「いえ。私ね、この辺だと思うんですが。隊長、突撃命令を」
「そうなの?よーし、ドカンとゴーだ」
「ふふ。心得ました」
楽しそうに笑う声は徐に刀を抜いた。
おわ、と下がりながら雪妃は一閃する白刃が鞘へと収まるのを見遣った。抜いたと思ったら収めている刀を。
目を瞬かせている間に扉はズズとずれて、右肩上がりに入った線に沿って上側だけが床に崩れ落ちた。
「ジェラ…!」
薄闇の中に飛び込んだ外の日差し。
真紅の薔薇を床に散らし、重なる影は虚な瞳をこちらへと向けた。
「ゆ、雪妃…?」
「ジェラ、大丈夫?」
踏み込もうにも足が震えて、叫ぶのが精一杯だった。吐息混じりのジェラの声に、女王はニタリと笑ってみせた。
「中枢の駄犬か。取り込み中だ、下がっておれ」
「ジェラを離して、食べないで」
「ほう?18か、貴様の方が美味そうだな」
ポイとジェラを放って向き直る女王の仄暗い双眸に足が竦んだ。前へと庇うように踏み出す守ノ内の後ろから噎せるジェラを見遣って、雪妃はきゅっと白い裾を握りしめる。
「果敢よのう、貴様が4の代わりを務めるか」
「い、いえ。それはちょっと」
「ハ。では下がっておれ。妾は腹が減っておる、貴様は夜食にでもしてやろう」
華奢な腕は蹲るジェラの髪を鷲掴み引き上げた。悲痛に歪む顔が呻いて、雪妃は柳眉を持ち上げた。
「やめて、何でそんな事するの?」
「ふむ、おかしな事を聞く。貴様も甘味は好いておろう」
「甘いもの?大好物ですが…」
「妾もそうだ。若い娘は甘くて美味い」
ジェラの頬に口付けて女王は唇の端を持ち上げた。
「オヤツ代わりって事?そんなの、クッキーでも何でも美味しく齧っててよ」
「勇ましいな、18。まあ待っておれ。貴様も後で口を吸ってやるわ」
呻くジェラの顎を掴み、そのまま唇を重ねる。ズゾと啜る音は耳を塞ぎたくなる程に低く轟いた。
「こら、やめなさいって。ああもう勝永、どうしよう。ゲンコツしてきてもいい?」
「ふふ。隊長、号令を。私が斬りましょう」
「え?斬るの?それは何かマズくない?」
瓦礫に革靴を乗せて柄に手を添える守ノ内のシャツを慌てて引っ張った。時代劇のように斬り付けるとでもいうのだろうか。ジェラを舐め回している女王の嘲笑するような顔が、艶かしくも流し目を寄越した。
「妾を斬ると?中枢の駄犬が、不遜だな」
「不老不死なんですよね、多少斬っても大丈夫でしょう」
「フ、つまらんな。試してみるか?」
「待って待って、もっと平和的解決を」
栗色の豊かな髪を掴んだまま不敵に微笑む女王を必死に雪妃は宥める。
「取り敢えずその手を離して、痛いよ」
「じきに痛みも悦楽に変わる。18、これを助けたいのか」
「そりゃあもう、そうだよ。可哀想な事しないで」
「可哀想?妾の糧となり運良くば永劫を得られるというに、名誉だとあれも吐き捨てよう」
くっくと笑って視線が後方に向けられる。たじろぐ衣擦れの音に雪妃はハッと振り返った。狼狽する柔和な聖母の姿を認めて、怪訝と眉が寄せられた。
「ダリアさま…」
「まあ、これは大変。シスター雪妃、お下がりなさいな。何故ここに居るのです」
「何を言ってるんです、ジェラが」
「あれは今季の献花よ、そういう決まりなの。お茶を頂いて帰るのよ、皆の所へお行きなさい」
「ダリア、18ももらう。畏怖のないのは吸い尽くすに惜しいからな。貴様と同じよ」
「奈々実様…畏まりました。隣に繋いでおきましょう」
「ダリアさま、やめて。どうしてこんな事を…」
「雪妃。ご安心なさい、これも神の思し召し。最初は少し辛いけれどすぐに慣れるわ」
にこりとして手を組み、シワも深いそれは思いの外強い膂力を持ってして後ろ手に捻りあげてきた。
「守ノ内勝永様もお引き取りくださいますよう。こちらとの諍いは光の君とて、望まれる事ではありませんわよね」
「そうですか、困りました。離してもらえませんかね」
「お引き取りを。祭典は恙無く閉幕、ギュスを手土産に功をお挙げくださいませ」
微笑み身動ぐ雪妃を片手で押さえ込む。
ギリと睨めあげて、雪妃は守ノ内へと叫んだ。
「わたしは良いから、ジェラを助けて。大事なお友だちなの」
「うふふ。良い子になさいな、仲良く今後も生きられるのよ。幸せな事ね」
(うおお、何この馬鹿力。ふにゃっとしてるのにい)
あくまでも穏やかに微笑むダリアのきつく締めあげてくる腕に顔を顰めて、ふとこちらを虚に見遣る潤んだアーモンドの双眸にぞわりと総毛立った。
「雪妃、逃げて…」
「…ジェラ!」
どっせい、と掛け声があがったのは刹那の事だった。
ダリアの足が浮く。乾いた体は軽かった。子どもをあやす時にベッドに向けてこれをやると、長男は大興奮し幾度もせがまれた。腰がやられた思い出。
今回は腰より捻られた腕が軋んだ。キャアと小さく悲鳴をあげてダリアの手が離れると、そのまま仰向けに灰色の床へと落とし込んだ。中途半端な一本背負いだった。
「勝永、斬って」
床を蹴り瓦礫を乗り越えた雪妃に、目を丸くしていた守ノ内の美貌に笑みが浮かんだ。身軽な体は涙を溢したジェラへと真っ直ぐ走る。
ニタリとした女王が迫った。
それは構わずジェラの喉元へと埋もれ、啜り泣くような吐息が漏れる。雪妃は華奢な体へと飛び込んで、強かに打つ肩に顔を歪めながら転がり、女王へと馬乗りになった。
「不敬である、18」
「知らないよ。お嬢ちゃん、いい加減にしなさい」
荒く息を吐きながら雪妃は柳眉を逆立てた。小さな手に栗色の髪を何本も引きちぎり持っていて、怒りに背が震えた。
「美しいな、だがそれは何だ?異国の…いや異界か」
「お嬢ちゃん、オヤツというなら食べなくてもいいんでしょ?おばちゃんがくすねたクッキーあげるから、それ食べてなさい」
頬を撫でる手を払って、雪妃はポケットを探った。黄ばんだテーブルナプキンに包んだ先程のカリカリのクッキーをその鼻先へと押し付ける。
「折角美味しいの焼いてもらってるんだから。これで我慢してなよ」
「フ。斯様なものでは渇きは癒えぬわ」
「じゃあ飲み物も。あの紅茶はあんまり美味しくないから、果実のジュースでも添えてもらえばいいよ」
顔を覆い嗚咽を漏らすジェラを振り返って、ぐえと雪妃は呻いた。華奢な腕が伸びて喉元を握り潰してくる。
「面白いな貴様、どこから来た」
「離し…て」
「貴様の生き血を絞り添えるか、それなら許そう」
(馬鹿力パート2だ…調子に乗ってごめんなさいい)
滲む涙に視界が揺れる。
跨った下から細腕は持ち上げるように喉を鷲掴み、離そうとしてもびくりともしなかった。楽しそうに紅い口元が弧を描いた。
「雪妃…!」
震え絨毯に手をつくジェラが目の端に映った。蒼ざめているがいつもの可愛い顔だった。早く逃げて、と言葉は潰され出ない。朦朧とする意識と酸素が戻ったのは、次の瞬間だった。
ヒュッと風が凪いで圧迫感が消えた。
滑らかな断面を見せて離れていく細腕に、喉を掴む小さな手はぼとりと音を立てて床に転がった。
「貴様…」
「血もありませんか。それ、どうなってるんです?」
後方に尻餅をついた雪妃を認めて守ノ内は白刃を女王に翳した。首筋にぴたりと当たる冷たい鋒はしかし、緩い力でシャツを握る手に留められた。
「斬る…って、そ、そんな…せ、せつだん」
「お嬢さん、息を吸って。無理に喋らず」
ばちんと散る宝石の粒が外の光に煌めいた。こつんと落ちた白い手にぶつかって、赤石はまるで血痕のように目に映った。
女王の高笑いが響く。
斬られていない方の腕を床につき気怠げに身を起こした華美な姿は、不思議な色合いの双眸を守ノ内へと向けた。
「妾に凶刃を向けたな。それが世界の、光の君の意思か」
「いえ、私の個人的なものですよ。王様は関係ありません」
「ハハ、面白い。この身も斬れるか」
足で手繰り寄せた手を掴み、ぴたりと断面を合わせる。幾度か確かめるように握り開くと、何事もなかったのようにそれは元通りとなった。
「雪妃…」
「ジェラ、大丈夫?ちゅーされただけ?」
「う、うん。多分」
「はああ、良かったねえ」
ずりずりと四つん這いで寄りながら雪妃はジェラの震える体を抱きしめた。
ポロポロと溢れる涙によしよしと背を撫でて、軋む体に顰めてしまう顔を汗ばんだ栗毛に埋めた。
「もう大丈夫だよ、帰ろう」
こくこくと頷くジェラに笑みを向けて、小柄ながらも立ち尽くすと威厳のある女王の姿をごくりと見上げた。
「あのう…そんな感じで。お開きでいいですかね」
「フ…帰るか、つまらんな」
足を組み椅子へと腰掛ける女王は、頬杖をついて目を細め扉の方を見た。よろめき立つダリアがいつもの穏やかな微笑みを消し戸枠に縋っていた。
「4、薔薇をそちらへ生けよ。献花役の務めだ」
「は、はい。女王陛下」
「飼い慣らせてはないようだが、良い犬を飼っておるな、光の君は。貴様には敵わぬと見たわ。見逃してやるから去れ」
陶器の大きな花瓶へと拾い集めた籠の薔薇を生けるジェラを眺めながら、女王は嘆息を漏らした。
「疲れたな、休む」
リンと鈴を鳴らし、崩れた方とは違う隣室の扉から侍女が恭しくも頭を下げる。
徐にドレスを脱がされコルセットを外し寝衣へと着替え始める女王に、守ノ内は苦笑しながら瓦礫の方へと下がった。
「幾らでも協力してやるから、安寧を崩すなと光の君へ伝えよ」
「ええ。心得ました」
「礼はそうだな、18。果実の何と申したか」
「え?ジュースの話?わたしは林檎とか好きだけど」
「ああ、林檎か。ではそのように」
くすりとして頷き守ノ内は瓦礫を跨いだ。少し震えたダリアに会釈をして扉の横の壁へと寄りかかる。
「何という事でしょう、守ノ内勝永様」
「ええ。見事なものでしたね」
「ああ、罪深きわたくしもギュスと同罪。共に牢獄へ」
乾いた手を組み祈るダリアへ首を傾げて、守ノ内は微笑み午後の光差す窓辺を見遣った。
「決めるのは王様ですので。私には何とも」
パタパタと出てくる雪妃に微笑んだ顔を向ける。眠りについたのか、静かになった薄闇の室内を覗いてシスターたちを促した。
「では戻りましょうか。あちらも現行犯逮捕、済みましたかね」
「そうだ、みんな無事かな」
「優秀な面々ですので。そちらはお任せして良いです?」
髪の薔薇も落ち泣き腫らしたジェラは見下ろす整った顔に赤くはにかみ、肩を抱くダリアにもたれかかった。
「ええ。そろそろ帰りの馬車へ乗せないと。シスター雪妃も」
「お嬢さんは私と。少し話もありますので」
腕を引かれ雪妃は慌ててジェラに手を振りダリアに会釈をした。ジェラの笑った顔に安堵を覚えて空いた手で上着の襟元をかき寄せた。
「話って何?女王さま相手に無礼をしたから?」
「いえ、少し肝も冷えましたがお嬢さん。お見事でしたね」
「へへ…死ぬかと思った」
生々しくも喉元に残る感触と斬り離された手の断面を思い出し乾いた笑いが漏れた。
「跡が残ってますね、痛みます?」
「ううん。首なんて初めて絞められたから、そっちの方が」
「肝が座ってますよね、まさか飛び込んでいくなんて」
「うう…だって、ジェラが泣いてたんだもの。それに勝永が何とかしてくれると思ったから」
「ふふ。お嬢さんに頼りにされては、気分も良いですね」
腕を掴んだままの手がするすると掌まで降りてきてそっと握りしめた。少し気恥ずかしく思いつつも心地良く、握り返して見下ろす空色の瞳から雪妃は目を逸らした。
静かな廊下を押し黙ったままでのんびりと歩き階段を下っていく。
(何か初々しいカップルみたいで非常に…非常に、小っ恥ずかしいなあ)
ちらと見上げると返ってくるのは穏やかな微笑みで、何だか全てが夢心地になってしまう。いかん、と戒めながら空いた右手で頬を抓る雪妃を守ノ内は首を傾げて見遣った。
「ねえお嬢さん、中枢行きの話なんですが」
「う、うん?」
「どうやら先生も、アルフォンスさんでしたかね。彼の連行も任だったんですが、行くならお嬢さんもという事でして」
「へ?アル先生?何かやらかした?」
「ふふ。王様のお声がけを長年反故にしているんです。探し物をしているとかで」
「へええ。何だろね、確かにいつもフラフラしてるけど」
「見つかったのでもう観念すると。それでね、おふたり纏めて連れて行くんですが。了承頂けます?」
(探し物か、そういえばチィーメイは見つかったのかな)
曖昧に頷きながら雪妃はふと涼しい美貌を思い出す。切り詰めた顔の最年長の同僚は今頃どこを探索しているのか。まだなら手伝いたいとも思う。
「何か気にかかる事でも?」
イケメンとは察しのいいものなのか。
すぐ顔に出てしまうのもあるのだろうが、覗き込んでくる空色の双眸に雪妃は首を振ってみせた。隠したい事情もあるようなチィーメイの事を、避けていた白服に告げるのは良くない気がした。
「ううん。アル先生だったね。んん?アル先生、わたしもって?」
「そのようです。愛娘とは離れ難いと。父君ですか。ご挨拶を、しかとしないとですね」
「ええ…?拾ってもらったし保護者みたいなものだけど」
愛娘という表現に思わずはにかんでしまう。あの惚けた医師は一体何を考えているのか。ニンマリと笑う顔しか浮かばなくて雪妃は渋面を作った。
「拾ってって、お嬢さん。西の地の者らしくはないとは思ってましたが、どちらから?」
「え?えっと、分かるかな。ここの世界じゃなくって、違う場所から」
未だにどう表現したら良いのか分からない。あまりにも自然に受け入れてくれたアルフォンスだったので、よくある事なのかただあれが呑気なだけなのか。
しどろもどろに説明する雪妃へと守ノ内は首を捻りながら静かに耳を傾けた。
「へえ、異界ですか。そう言われるとお嬢さんは雰囲気が違いますもんね」
「そうなの?若い姿はこっちのと変わらない気がするけど」
「若い姿…成る程、少し納得が」
くすりと笑った守ノ内へ何となく不服げなものを感じて、雪妃はその細身な腕をぺしりと叩いた。
「何?非常に含みがありますが」
「いえ、お嬢さんは往々にして年寄り臭さを持ち出しますからね。私もよく言われますけど」
「年寄り臭い?失礼ね」
「ふふ。その可愛らしい姿で熟女ですか、堪りませんね」
きゅっと握りなおしてくる手も汗ばむようで、雪妃は項垂れながらもうひとつ、ぺしんと叩いた。
「そうだよ、ずっと歳上なんだからね。労ってよ」
「参ったな、後で肩でも揉んであげましょうか」
「あのね、これは凝ってないし。気持ちの問題なの」
「面白いな、不思議ですけどそんな事があるんですね。でも何の為に来たんでしょうか」
「さあ…分からないから、せめてこっちではね、のんびりスローライフをですね。玉の輿と共に」
固く握った拳を振る雪妃に守ノ内は苦笑した。
灰色の床を抜けて足は城門の方へと向かう。明るい日差しに目がチカチカとするようだった。
「私の妻になりますか」
「へ?」
「玉の輿がどの程度か分かりませんが、のんびりスローライフはお約束できますよ」
にこりとして向き直る守ノ内を見上げる顔は、あからさまに顰められていた。
雪妃は色々と言葉を探したが、不意に飛び降りてくる人影にヒエと繋いだ手を離した。
「あら、シスター雪妃」
「チィーメイ?随分とやんちゃになって」
「うふふ。お邪魔したかしら、守ノ内様と親しいなんて存じあげませんでしたわよ」
服装が忍びのような黒一色の身に沿ったものに変わっていた。わたわたと否定するように手を振る雪妃に微笑んで、涼しい美貌は守ノ内へとお辞儀をした。
「それより見つかったの?まだなら手伝うよ」
「ええ。感謝致しますわシスター雪妃。お陰様で見つかりましたの」
「おお、それは良かったね。何だったの?」
ハシと続けて降りてくる黒ずくめたちはギョッとしたように白服を見上げた。後ずさりお辞儀をする姿は逃げるように去って行く。
「行かないと。わたくしこれでもう故郷に戻れますの。皆によろしくね」
「え?そうなの?」
「三年前にね、わたくしの妹が献花役でしてね。遺骨も届かないと憤慨し探しておりましたの。漸く落ち着きますわ」
ごきげんよう、と風になるチィーメイを唖然と雪妃は見送った。遺骨…と震えた肩を抱いて、去って行った黒ずくめたちの方を守ノ内は目を細め眺めた。
「この国の悪習ですね。でも今季で終いです、浮かばれると良いんですが」
「そっか…」
「お嬢さんの功労です。王様もお手を出しあぐねていたので」
俄かに騒がしくなり、城下町の方から長い列がやってくる。縄で括られた白髭を先頭に華美な衣服が並んでいた。
「勝永、おまえな…」
「ご苦労様です。無事に済んだようですね」
「ああ、馬鹿の馬鹿たる所以だ。無用心にも競りを始めやがって」
厳めしい顔を渋く歪めながら真田は潰れた煙草を咥えて、じろりと隣の雪妃へと視線を遣った。
「何だ、お転婆娘。おまえだったのかよ」
「何だとは何よ。この辺禁煙じゃないの?」
「喧しい猿だな、そんなの聞いてない」
火をつけ紫煙を空へと吐き出す様へ、雪妃は憤然として視線を逸らした。
「いたいけな乙女に向かって猿はないでしょ」
「ハハ、活きの良い猿だな」
「おい、猿じゃないってば」
「まあまあ、お嬢さんはお猿さんというより猫?豹みたいな。見事な飛びかかりでしたもんね」
「そんな可愛げのあるもんか?オランウータンかゴリラみたいなもんだろ」
「あのねえ…」
この筋肉の塊に食ってかかるのは気が引けたが、嘲笑する真田に雪妃は低く唸った。
「大佐、総数13名。皆連行で?」
「おう。ギュスと取り巻き2名だけで良い。他は女王にでも任せておけ」
「は。直ちに」
生真面目そうな軍帽の下の若い顔に雪妃はニンマリとしてみせる。渋く歪めたのをつばで隠して、軍曹は貴族たちを城門へと引き連れて行った。
「さて、用も済んだし田舎から出るか。腹減ったな」
「ええ。先生はお迎えにあがってるんです?」
「おう。フラフラしてんのを捕獲しといた。先に機体に乗せてる」
「そうですか。では思い残す事もありませんかね」
何かと喚きながら足取りも重く連れられる貴族たちへと苦笑を向けて、守ノ内は丸いのに捕まっている雪妃へと歩み寄った。
「雪妃ちゃあん…どこへ行っていたんだい?見事勝ち取ったよ、釈放されたら迎えに行くからね」
「あ、はい」
「フッフゥ、予定より捻出するハメになったけれどね。何、些末な事さ。三食昼寝付き、任せておいて」
ばちんと肉に埋もれた片目を瞑ってみせるポンティへと雪妃は愛想笑いを浮かべた。辟易と肩を竦める従僕は、主人の惚け具合にも手慣れたもののようだった。
「卿、競りは無効でございます。恐らく爵位及び領地の剥奪が妥当かと存じます」
「な、何だって?何故?いや、雪妃ちゃんなら構わないよね?それでも吾輩と温かな家庭を…ね?」
白服に急かされながらも愛嬌たっぷりに笑んでみせるポンティも、流石にゆらと現れた背の高い白服の微笑みに丸い体をひょっと細く竦めた。
「こ、これは守ノ内殿…」
「何です?こちらは私の婚約者ですよ、お手は触れぬよう」
「はへえ?守ノ内殿の?そ、そ、そんにゃあ…」
がくりと肩を落としとぼとぼと連行されて行くポンティの肥えた背を、雪妃は哀れにも見送った。
「あのう…何かとんでもない事仰ってませんでした?」
「おや、もう妻と言い切ってしまった方が良いです?私はどちらでも良いんですが」
「いやいや、まだ会ったばっかり。お互いよく知らない他人。そうだよね?」
「親睦はこれから深めれば良いんです。私ね、お嬢さんの豪胆さに痺れてしまいました。存分に尻に敷いてくださいよ」
「ははあ…君ね、大概良い根性しておられる」
照れ笑いを浮かべて頭をかく守ノ内へと苦笑ばかりが漏れた。
行くぞ、と見慣れた派手な携帯灰皿へと揉み消す真田を見て、雪妃は手を繋ごうとする守ノ内の手をペッペと払って並び行った。