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目覚。

目を閉じていても飛び込んでくる光に瞼が震えた。


薄い遮光性のないカーテンは日の出を容赦なく知らせてくる。木枠の窓の隙間からは柔らかな風が朝を吹き込んできた。

まだスヤスヤと眠る相部屋のルームメイトよりも、他の部屋の同僚たちよりも、誰よりも早く簡素なベッドを軽やかに飛び降りた。

与えられた小さな木の机の上の小さな丸い鏡を覗き込んで少女はニンマリと、まさにニンマリとして白い肌を白い手で包み込んだ。

シミもくすみもない白磁のようなハリのある頬だった。加えて溢れ落ちそうな亜麻色の色素の薄い大きな瞳に、当たり前のように艶やかな唇。緩やかな髪も瞳と同じ色味を持って背に揺れていた。

しなやかな肢体は凝りもなく軽やかで、こうなると爪の先までも愛おしくなる程で、恍惚として少女は鏡を眺めた。


「主よ、本日もお恵み感謝致します」


胸の前で手を組み祈る姿は天から光すら差して見えるようだった。

信心深くも佇み、徐に一枚布の寝衣をばさりと脱ぎ捨てるといそいそと濃紺色の修道服へ袖を通した。

扉の外へと駆け出そうとして引き返し、ベッドを整え丁寧に寝衣を上に重ねて改めて飛び出していった。


「今日もいい天気だね、おはよう」


台座に飾られた上半身だけの彫刻を磨きながら少女は天使のような微笑みを浮かべた。


「吾朗、今日も素敵ね」


神々を模したと言われる美しい石の顔に語りかけながら、彫りの深い目元を撫であげた。


「涼、あなたも素敵よ。嫉妬しないで」


隣り合う彫刻の顎を拭きあげ、続いて剣を掲げ勇ましく佇む隣の上半身に少女は頬をすり寄せた。


「はあ…でも左衛門が一番素敵よ。あなたはどうして石像なのかしら」


筋骨隆々とした脇腹を柔らかな布で拭き、その尖った鼻先へと口付けた。

うふふと楽しそうに笑った少女はくるくると回り裾を閃かせながら箒に持ち替えて、玄関先へと向かった。

煩くも扉を開くと広がる緑に深々と息を吸い込み、吐き出した。


鬱蒼と茂る木々の中にこの教会はあった。聖ウェルデントという名だったか、少女はうろ覚えの響きを呟きながら伸びる階段を鼻歌混じりに掃いていった。

嘘のように広がる大自然の朝のこの時間が何よりもの至高の時だった。小鳥が囀り、近くを流れる渓流の音すら涼やかに聞こえて来る。

四季もあり、今は春。穏やかな陽気は朝だとより凛と取り巻くようで、感動して涙が溢れてしまいそうになった。


「主よ、感謝致します。もうめっちゃしてます」


教会の屋根に佇む十字架を仰いで少女は瞳を輝かせた。その場に跪き祈る姿をやがて起き出してきた同僚たちは、ほうと息を吐いて眺めた。


「シスター雪妃ユキヒは本当に敬虔でいらっしゃるわね」

「朝のお務めから早々に。シスターの鑑ですわ」


口元に手を当て楚々として笑うシスターたち。教会は質素ながらも華やかな女の園だった。

ごきげんよう、と声をかけてくる同僚たちに亜麻色の双眸を柔らかに緩めて、少女は—雪妃は膝を軽く折り祈りを返した。


「シスター雪妃、本日はまだ箒をお折りでなくて?」

「え?何でそれを…」

「うふふ。はしたないと長様もお怒りでしてよ。朝の祈りの後部屋に来なさいと伝言を受けておりますわ」

「うげえ、また愛のお小言かあ。お腹痛いってまだ使えるかな」

「まあ。そんな口調ですとまた叱られましてよ?シスターは清らかに」

「うふふ。左様で、頑張るですわよ」


立ち居振る舞いも品のある同僚たちのくすくすと鳴るような笑い声に曖昧な笑みを返して、雪妃ははあと嘆息を漏らした。

お嬢様学校さながらのここの空気だけは中々慣れなかった。しかしそれに目を瞑っても余りある開放感と充足感。ここは雪妃にとって楽園そのものだった。

西の地、田舎の方にあるという聖ウェルデント。各地に点在する聖教会のひとつは長閑な田舎らしく平穏そのもので、参拝者も柔和そうな老夫婦や品の良い貴族ばかりだった。

外出は許されなかったが、雪妃は年長者のシスターの目を盗んでは近くの草原で転がり回り、登れと言わんばかりに足場のある壁を伝い屋根へと上がって満天の星空を眺めた。

叱られる事の方が多かったが、例の如く朝一番に清掃に向かい、事あるごとに祈りを捧げる熱心な少女を非難する者は居なかった。

その内心がどれだけ欲望渦巻く敬虔とは程遠いものだなんて、誰しもが知り得ないのだった。


「ユキチャン、少し良いデスカ」


シスター長の小言をどう切り抜けようかと教会の階段の側で唸っていた雪妃は、片言の癖のある声にふと顔を上げた。

アルフォンス様よ、と俄かに色めきだす同僚たちの視線を受けながら、雪妃はモサモサした赤銅色の頭をした背の高い猫背へと首を傾げる。


「おはようアル先生、早いね」

「おはようデス。実は午前サマデス」

「ええ…?また会合と言う名の飲み会?」

「そんな所デス」


彫りの深い顔で大きく欠伸をするこの男は、教会の近くの草原で途方に暮れていた雪妃をここまで連れてきてくれた恩人、に当たるのだろうか。

教会の隣に診療所を構える異国の医師、それがアルフォンスという男だった。

混乱する雪妃の話を不審がる所か丸々受け入れて、孤児も多いから怪しまれない、とシスターとして過ごす道を与えてくれた。

本来なら感謝し媚び諂うものなのかもしれないが、どうにも胡散臭い無精髭の医師に雪妃は胡乱げな視線を向けてしまう。

白衣の下の派手な柄のシャツにだらしなくもネクタイをぶら下げただけのアルフォンスは、そんな視線も意に介さず頬を緩めて雪妃を見下ろした。


「ユキチャンのお国の件デスガ、やはりどの文献にも見当たらないデスネ」

「そっかあ…」

「異国どころか異世界デスカ、中々興味深いデス」


ざりと無精髭を撫でやりながらアルフォンスは雪妃を眺める。徐に手にしたカードと見比べる様子に、雪妃はうげと顔を顰めた。


「勝手に持ち出さないでよ、それ」

「ンフフ。ユキチャン、犯罪者サンの顔してるデス」

「仕方ないでしょ、大概みんなそうなるんだから」


骨張った指から免許証を奪って雪妃はそこに貼り付けられた疲れた顔写真をげんなりと見た。

ペーパードライバーだったのでゴールドのそれは、何年前に更新したものだったか。〈普通自動車免許〉と印刷された文面もどこか懐かしくすら感じる。手渡された聖書の文字とはまるで違う角ばった文体。

文字の読み書きが不自由なのは田舎では珍しくないというのが幸いして、この半年間死に物狂いで学び習得した、ように思う。曲がりなりにも高名な医師であるアルフォンスのお陰もあったかもしれない。

この若い姿は脳も柔らかいのかスルスルと吸収し、若いって素晴らしいと感嘆する様子は大いにアルフォンスを苦笑させたものだった。


「お手上げなので返そうと思ったデスガ、見つかると面倒になるデスカネ」

「んん、そうだよね。抜き打ちの荷物検査でそれ見られたらよろしくないか」

「見慣れぬ文字体にこの顔写真デス。よろしくないデスネ」

「この顔が、何ですって?」

「ウグゥ…何でもないデス。こっちのユキチャンも美人サンデス」


にこりとして鳩尾を抉ってくる雪妃の拳に涙を滲ませ呻き、アルフォンスはペシリと投げつけてくる免許証を受け取った。


「デ、デハ。ワタシ、鞄ごとこのまま預かっておくデスヨ」

「預かっておいて。封印しといて」

「承知デス。枕元に飾っておくデス」

「やめなさい。夢に出るよ。でもさ、アル先生もそんな怪しいのを持ってるの見つかったらマズくないの?」

「ンフフ。故郷で帰りを待つ妻デス、とでも言うデスヨ」


ヒラヒラとかざし、アルフォンスは含み笑いと共に免許証に口付けた。

不服そうに見遣りつつも、同年代だし違和感はなさそうだなあと雪妃はもう任せる事にした。


「アル先生の恋人に妙な勘違いだけはさせないようにね。修羅場に巻き込まないでよ」

「ご縁もなく独り身デス、気にしないデス」

「そうなんだ?甲斐性はなさそうだけどカッコイイのにね、黙ってると」

「ウウ…ユキチャンの言葉は身に刺さるデス」

「えー?褒め言葉なのに…アル先生可愛いシスターたちにきゃあきゃあ言われてるじゃない」

「ンフフ。男手の少ない場デス。男というだけで騒がれるデスネ」

「うら若き乙女たちに囲まれて、アル先生は幸せ者だね」


ぽりと頬をかくアルフォンスに笑みを向けると教会の鐘が鳴る。朝の祈りの時間だった。

あらいけない、と箒を手に取って雪妃はいそいそと教会内へ入っていく同僚たちに視線を移した。


「うへえ、当番なの忘れてた。もう長椅子は拭きあげた事にしとこう」

「どうせ分からないデスヨ。良い具合に古びているデス」

「そうだよね。歴史があるんだろうけどどこも傷んでてさあ、すぐ壊れちゃうよね」

「壊さないように慎ましくするデス。ユキチャン、力が有り余ってるようデスネ」

「ね。イケメン像だけは優しく拭いてるんだけど…あんな見た目のお金持ちのお坊ちゃんに会えますようにと念を込めて、それはもう丹念に」

「オヤ、玉の輿狙いは続投デスカ」

「勿論。こっちで良い暮らしをのんびりとするのがわたしの野望なんだから」


箒を抱きしめてまだ見ぬイケメン貴族へと想いを馳せる雪妃にアルフォンスは苦笑を浮かべた。


「今のユキチャンなら狙えそうデスガ、良い暮らしをのんびりと、なら。身近に良いのが居るデス」

「え?ここにそんな良い人いたっけ?見落としてた?」

「ホラ、目の前に居るデスヨ。黙ってたらカッコイイと噂の高給取りの医師デス」


にかりと笑ってみせるアルフォンスに、雪妃は口元を歪めてぽとりと落とした箒を拾い上げた。


「アル先生はさあ、身嗜み整えたらそうだけどさあ。ほら、歳も離れてるし。小娘なんかに興味ないでしょ?」

「娘サンなのは見た目だけでユキチャン、中身は熟した女性デス。同年代のオバ…お姉サンデス」

「おう、何か聞こえた気がしたけど」

「イ、イエ。気のせいデス」


微笑む顔の下でバキリと折れた箒の柄に、あらまあと雪妃は首を捻った。


「本当に脆いよね、困ったな。アル先生が転んで折った事にしようか」

「エーッ?良い大人は早々転ばないデスヨ」

「わたしね、今ならアル先生を転ばせる事が出来るような気がするの。不思議ね」

「ア…ユキチャン、待つデス。落ち着くデス。後生デス」

「ふふ。アル先生は箒みたいに脆くないもんね。痩せてるけど」


キャー!と響き渡る声は白い薄雲が漂う青空に溶けいった。祈りの為に閉められた教会の扉に、悲痛な異国の医師の叫びは虚しくも転がった地面の上だけに止まったのだった。

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