鈍刀。
日々の業務といえば、ひたすらに記録士の重要点を頭に入れてひたすらに護身の術を習う、というものだった。
意外と剣術体術を教わる時間は楽しいもので、帰宅後やや不本意そうでもある守ノ内にも色々と教えてもらえて、雪妃も素人なりに形になってきた。
代わりに、視察に当たっての各地の歴史や文化、経済状況等の把握に於いては語るに及ばず。それでも銘菓や国民食辺りなら嬉々として挙げられそうだった。
この日は一週間ぶりの休日。
公休を合わせてくれた守ノ内の単車の後ろに乗って、雪妃は華都の外れにあるという刀匠房へと向かっていた。
新たに搬入された衣装箪笥の中から本日守ノ内が引っ張り出してきたくれたのは、いつもの清楚系ではなくカジュアル寄りな淡い煉瓦色のサロペット。幅広なパンツの裾が風を含んで涼やかだった。
エンジンを切ると聞こえてくるのは川のせせらぎと小鳥の囀り。自然の残る奥まった場所である。
「私もこちらでお世話になってるんです。腕の良い方なんですよ」
「へええ。でも、良いのかな?素人のただの軍属なのに刀だなんて」
「折角振れるようになってきてますしね、護身用に一口あっても良いかと」
着いた先、傾いた荒屋のような外観に思わず足も止まってしまう。
そこで腕組み、じっと地面を睨め付け座り込む老い黒ずんだ刀匠の中々の迫力ある姿に、雪妃は更に踏み込み難くなってしまった。
「こんにちは、漣さん」
にこやかに声をかけて、守ノ内は微動だにしない刀匠漣 一斎の前に腰を屈めた。
寡黙ながらも気の良い人です、という前情報しかなかった雪妃は、取り敢えず縮れたような白髪の男の傍に倣って蹲み込んでおいた。
「…ああ、勝永か」
「ええ。ご無沙汰してます」
淡褐色の瞳はゆっくりと整った顔立ちを見遣って、そして地面へと落とされた。その虚な表情に、どこか具合でも悪いんじゃないかと雪妃も思わず怪訝としてしまう。
「昨日お知らせしたお嬢さんですよ、一振り頼みます」
「昨日の今日で来るやつがあるか。悠長な割にこういう時だけ急きおって」
「ふふ。すみません」
目すら合わせてくれない漣にもめげず、雪妃はペコリと頭を下げる。
刹那、何の前触れもなくふくらはぎをがしりと掴まれる。その筋骨隆々とした腕に思わず雪妃はヒョエと尻餅をついた。
「…瞬発力はある、か。野猿だな」
「うお、おあ…さ、猿?また猿なの?」
「ふふ。猫とか兎とか蛇だとか、もう少し可愛らしい例えにはなりませんかね」
悪態を吐くにも吐けない相手なので、雪妃はグギギと堪えるしかなかった。漣はそのまま無遠慮にも足腰へと触れ、毎日の美味しい食事で肉付きもよくなってきた二の腕の具合を確かめてくる。
似たようなテラコッタ色のパーカーを着た守ノ内は苦笑して、屈んだ膝の上で頬杖をついた。
「お嬢さんは身軽なので、小振りのが良いですかね」
「フン…猿の玩具なんぞ打たんわ」
「まあまあ、飾りでも良いんです。どうせ私が守りますからね」
「猿…ワイは猿なんか…?」
地面に体育座りをしてブツブツ呟く雪妃を目の端に収めて、漣は鈍く重たい空よりも更に深い息を吐いた。
「野猿、水でも汲んでこい」
「へあ?ワイか?水?どこに?」
「それくらい周りを見て己で考えろ」
「うっうぐうう…」
地面を見据えるばかりの漣の縮れた頭を見下ろし立ち、雪妃はグギギギと堪えながら近くに転がった盥を拾い上げた。
「では、私も行きましょう」
「おまえは座ってろ。久方ぶりに来たんだ、ゆっくりしていけ」
底の抜けたものばかりの容器に唸る雪妃を苦笑して見て、守ノ内は浮かせた腰を粗末な作りの木椅子に戻した。
勝手に荒屋を覗き込み辺りを漁りだす背へと、漣は鼻を鳴らす。
「あまり意地悪をしないでくださいよ、大事なお人なんです」
「おまえにはシロツメが居るだろう、早く子をなし儂に跡継ぎを託せ」
「おや、お嬢さんとの子を授かったら、それも一考しましょうかね」
「フン。異界の者は夭折のきらいがある、おまえもよく知っているだろう。やめておけ」
屑鉄を手元で弄っていた守ノ内はフッと目を細めた。吹き抜ける風に、散らかった辺りの様々な残骸は音を立てて転がっていく。
「自ら苦に入る事もなかろう」
「やだな、若くして先立つようなら、天から引きずり下ろしてでも手元に戻すまでですよ」
守ノ内は苦笑してパラパラと払った粉を地面に落とした。じっと向けられる落ち窪んだ双眸は、揺れる空色の髪を虚にも映し出す。煤汚れた作務衣から解れた糸も風に揺れた。
「…なあ勝永よ、儂も老い先長くない。あれもおまえを好いておる。孫娘の晴れ姿をせめて、冥土の土産に持たせてはくれんか」
老いが進んでも尚内なる剛健さを保っているようにしか見えない刀匠。守ノ内は目を瞬かせた後に照れ笑いを浮かべてみせた。
「すみません漣さん。私が欲しいのはお嬢さんなんです、他は要らないんですよ」
「そうか…そうか」
「それに、跡継ぎなら立派なお弟子さんたちが居るじゃありませんか。すっかり有名になっちゃって」
「フン、拝金主義の軟派な若造共よ。拵ばかり豪奢に飾り刀身は鈍、袂も分かったわ」
ここには八人の弟子と同志の刀匠が居たはずだが、成る程静かな訳だと守ノ内は肩を竦めた。
武器としてではなく鑑賞目的の美術刀剣は近年高い値をつけられ取引される。職人も国や有力貴族にでも抱えられなければ食べていけないが故に、多くがそちらに流れるのもまた道理であった。
「世知辛い世の中よな、漣もこれまでか」
「何を言いますか、まだまだこれからですよ」
「しかしな…勝永。儂も耄碌したか、不埒な輩共を笑えぬ程に腕も落ちた。地に鈍刀ばかりが積まれていくわ」
「不調ですか。ならば景気付けに一振り、頼めませんかね」
「フン、あれには鈍で十分だろうが。そこに転がってるのを持っていけ」
工房の隅で無造作に積み重なった刀身の数々は、並の刀鍛冶の渾身の一振りよりも余程価値のある仕上がりである。
首を捻りながら覗き込んで、守ノ内はその中のひとつを取り出し宙にかざし見た。
「へえ、流石美しい地鉄ですね」
「フン、それは刃文が気に入らん」
「そうです?私は好きですけどね、綺麗な直刃です」
「じゃあ、それにでもしておけ」
詰まらなそうに吐き捨てて、漣は気怠げに元の姿勢に戻る。ちらと工房の向こうを見遣って、中々戻って来ない雪妃に大きな嘆息が漏れた。
「使えん猿だな、水汲みに国境でも越えたか」
「ふふ。少し見てきましょう」
「要らん。鈍でもくれてやるんだ、働かせとけ」
「川はすぐそことはいえ、危険はないですかね」
「ガキの使いでもあるまいに。勝永、あれが戻るまで肩を解してくれ」
首を垂れる漣に苦笑しながらその盛り上がる肩に手を置いた。決して険しくはないが固い表情ばかりをする眉雪の男も、やや口元を緩めて目を伏せた。
「儂はな、おまえのような息子か孫が欲しかったわ」
「ふふ。それはどうも」
「だから早う婿入りせんか。あれが唯一の心残りよ、孫娘の僥倖を願うばかりでな」
「良いご縁があるよう、私も願っておきますよ」
「ああも可憐で見目好い娘というに、何故だ」
太い首元を摩ってやりながら、守ノ内は困ったように微笑むばかりだった。
嘆息を漏らす漣は、喧騒から離れた穏やかな雲間の光差す下で力なく項垂れた。
「おおい、水汲んできたよ」
ぶんぶんと手を振り亜麻色の髪が木漏れ日に揺れる。微笑んで顔を上げた守ノ内はその後ろに続く姿に首を傾げた。
「おかえりお嬢さん」
「ただいま。お弟子さんたち?とそこで会ったよ」
「そうですか。皆さんもお久しぶりですね」
にこりとする守ノ内に弟子たちの顔も強張った。厳しく指導に当たる尊敬する師匠と、中枢軍の顔とも呼べる憧憬する中佐の組み合わせには思わず息を飲んでしまった。
「…何をしにきた」
「お食事をお持ちしました。すぐ帰りますから」
「フン、余計なお世話だ」
低く吐き捨てて漣は工房の奥へと篭ってしまう。弟子たちは顔を見合わせ握り飯の入った籠を持つ手を震わせた。
「穴あきだらけで困ってたら、声をかけてもらえて」
小振りのバケツに張った水を受け取ってやりつつ、守ノ内は緊張した面持ちの弟子たちへと目を向けた。
「そうでしたか、助かります」
「い、いえ。こちらこそ…」
「守ノ内中佐は師匠にご依頼でも…?」
「ええ。そんな所です」
作務衣姿の若い顔ぶれが不安そうな色を浮かべる。不調に荒れる師を思ってなのか、それとも。
弟子たちの視線を追って工房奥を不思議そうに見遣っている雪妃へと微笑んで、守ノ内はその肩を抱き寄せた。
「取り敢えず戻りますか」
「う、うん。爺ちゃんどうかしたの?」
「さて、色々とあるようです」
立ち尽くす弟子の横を過ぎていく。
腰を摩るひとりに雪妃は苦く笑い頭を下げて、返ってくる苦笑も頭をぽりとかいた。
「守ノ内中佐のお連れの方だったとは」
「うう…ごめんね、つい」
「良いよ、こっちこそごめん」
「おや、何かあったんです?」
気まずい顔の雪妃を見て守ノ内は首を傾げた。弟子たちの方も何とも複雑な表情を浮かべてみせる。
「いやね、ボーッとしてた所だったからさ」
「こんな所で何してるのかと、声をかけたら急に捻りあげられてしまいまして」
「不審者と勘違いされたのかな、いやはや、訓練が行き届いてて」
「あはは…」
この穴あきにどう水を入れて運ぶのか、トンチなのか?と首を捻っていた雪妃は、不意に肩を叩かれ振り返った先の集団に顔を顰めた川縁で、取り敢えずパキラに教わった通りに実行したのだった。
くすりと笑う守ノ内は納得したように頷いて、隅に駐めた単車からヘルメットを頭に被せた。
「良い実地訓練となった訳ですね」
ペコペコと頭を下げながら後ろへと跨る雪妃を確認して発進する。砂を巻き上げ走り去るそれを、工房の奥の落ち窪んだ双眸は暗い色を持って見遣っていた。
***
「成る程ね、爺ちゃんもちょっと寂しそうだったもんね」
華都のどこへ行っても人集りで賑わう中で、黒蜜のかかった寒天を頬張り雪妃は神妙に頷いた。
裏通りにある小さな甘味処は落ち着いていて、暖色系の明かりもどこか懐かしい雰囲気がする。
向かいでコーヒーカップに口を付ける守ノ内の伏せられた長い睫毛を見ながら、丸く盛られた小豆餡を木のスプーンで掬った。
「美味しいですか、もっちさんのお勧めのひとつらしいですよ」
「誠に美味」
「ふふ。それは良かった」
頬杖をついて眺めてくる整った顔は微笑みを湛える。一々眩しいな、と思いつつ雪妃は負けずに艶めいて見える白玉をもちもちと噛みしめた。
「そういえばもっちが、甘いの巡りしようねって言ってたよね」
「ええ。彼は忙しいので年内に行けたら良いな、くらいに捉えておいてください」
「へええ?勝永以上にあちこちフラフラしてるイメージだったけど、お仕事忙しいんだ」
「仕事というか、まあ。あれもあの人のお務めなんですかね」
ちらと窓の外へ苦笑を向ける。
モゴモゴしながら目を追うと、愛くるしい童顔が人集りを連れて大行進していた。軍服姿という事はやはり業務中なのだろうか、弾けんばかりの笑顔で女たちを引き連れるその甲高い笑い声まで響いてきそうだった。
「まあまあ、幸せそうなお顔で」
大佐は堅物で中佐は呑気、そして少佐は女好き。熱い緑茶を啜りながら雪妃は苦笑してそれを眺めた。
「またこちらに引き連れて来ないよう、願いましょう」
「本当だよ、もっちは勝永大好きマンだもんね」
「ふふ。懐いてもらってはいますかね。それより私は、お嬢さんに好いてもらいたいんですけど」
「ごふ…いやね、好いておりますとも。ええ」
「違うんです、愛して欲しいんです」
「愛、愛ね。うん…」
ぺろりと平らげたガラスの器にスプーンを置いて、雪妃も頬杖をついてにこりとする守ノ内を見上げた。
「わたし、もういい歳なんだよ?」
「ええ。免許証でしたかね、見させてもらいましたね」
「そう、もうすぐまた年取るしさあ。恐ろしい事に」
「おや、誕生日です?」
「こっちと一緒なのか分からないけど、七月に」
「へえ、私と同じ月なんですね」
「あら、そうなんだ。ちなみにおいくつに…いや、やっぱりいいや」
「私も二十歳になりますよ、早いものです」
「は、はた、二十歳…?ほげえ」
つまり今はまだ十代なのか、と雪妃は身悶えた。随分と落ち着いていて、もう少し上かと思っていた。どちらにせよ若者である事に変わりはないのだが。
「そうか、勝永くん。君は二十歳に」
「ええ。共にお祝いができますね。お嬢さんは何か欲しいものあります?」
「ええ…?ないよ、もう十分あれこれもらってるし」
「そうですか?何が良いかな」
伸びてきた手は机の上で指を絡めてくる。雪妃は空いた器を下げに来てくれた店員へと会釈をしながら、何とも言えない顔で美貌の微笑みを見上げた。
「わたしよりも勝永だよ。めでたくお給料ももらえるしさ、何か欲しいものないの?」
「私です?そうですね、お嬢さんにもらえるなら何でも嬉しいんですが」
「う、うむ。何でも自分で揃えられそうだから難しいな」
高給取りへのお礼も込めたお祝いとは何がいいのか。またアルフォンスにでも聞くか、と雪妃はしなやかに絡む指を見るともなく見下ろした。
「お嬢さんです」
「うん?」
「私が欲しいのは、お嬢さんだけですよ」
「へあ?い、いえね。そうじゃなくて」
「お嬢さんの人生を、私にください」
「え、えっと。それは」
パッと払う雪妃の手を掬いなおして、守ノ内はくすりと笑いその指先に口付けた。
「とはいえ、それは誕生日にもらうものでもないですね」
「そ、そうですとも。仰る通りで」
「お嬢さんはいずれもらうとして、その他だと何かな、特に思いつかないな」
うぐうと呻く雪妃に微笑んだ顔は、ふと遠くへと向けられる。渋い顔のままで雪妃はそちらへと視線を移した。
「やっぱり、カッちゃんだ」
鈴の音のようだった。
おお、と雪妃は思わず唸る。肩先でさらりと菫色の艶髪を揺らした少女は大きな瞳をにこりと笑ませた。
「珍しいね、甘味処に居るなんて」
「どうも。漣さんの所に寄ったついでにと」
「お爺ちゃん元気だった?」
「ええ。たまには顔を見せろと言ってましたよ」
「そっかあ、次のお休みにでも行くね」
ころころと笑う姿は可憐という言葉がしっくりくる。ほけっと見上げる雪妃に、俄かにその白磁の頬は緊張を持ったが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「話すのは初めてですよね。総務部装備課のシロツメです」
「初めまして、雪妃です。ええと肩書き…何だっけ」
「うふふ。中枢軍守ノ内部隊録事、カッちゃんの推薦なんですってね。羨ましい」
「ははあ…そう、ロクジね」
華奢な肩を包む豊かなフリルが揺れる。白い襟付きのブラウスに花柄の膝丈のフレアスカートは清楚な雰囲気によく合って見えた。
(大魔王のどストライクなタイプの子なのでは…親しそうだし。こんな美少女を抱えてこやつめ)
守ノ内に握られた手をそろりと離しながら、雪妃は薄化粧の乗った華のあるシロツメの楚々とした仕草を見上げる。
「ここは紅茶のシフォンケーキが美味しいんですよ、もう食べました?」
「なぬ。あんみつは頂き申したが」
「あんみつも良いよね、でもあたしはあの粒々入ってる豆が苦手で」
「ああ、それだけ嫌っていうのよく聞くよね」
「そうなの。残すのも悪い気するし、雪妃ちゃんもまだいけるなら是非」
「うおお、全然いける。勝永、まだ時間平気?」
どこか気の抜けたような表情をして見える守ノ内へと雪妃は首を傾げた。
「どしたの?」
「あ、いえ。まだ平気ですよ」
「やったぜ。シロツメさんおひとりなの?良かったらご一緒に」
「え、良いの?友だちが捕まらなくて、でもどうしても食べたくなっちゃってさ」
「その気持ちよく分かりまする。また行く時は是非、拙者にもお声がけを…」
「良いの?嬉しいな、誘いにいくね」
いそいそと端末を取り出すシロツメにお任せして、備品の記録端末に華やかな顔が追加された。中枢に来てからは女の子と関わる事も少なかったので、雪妃の顔もニンマリと緩んだ。
「紅茶も良いけど他にもあるんだよ、ショーケース見た?」
「ほほう。ちょっと見てくるね」
嬉々として席を立つ雪妃をシロツメはにこやかに見送った。奥へと詰めて腰掛けて、先に運ばれてきたコーヒーカップを手に取る馴染みの菫色の頭を、守ノ内は肩を竦めて見遣った。
「何よ、デートの邪魔だとでも?」
「その通りですよ、もっちさんにでも聞いて来たんです?」
「知らない。あたしにはいつも付き合ってくれないのに」
「甘いのは苦手なんです、それこそもっちさんとでも行けばいいのに」
「あたしはカッちゃんと行きたいの。全然デートしてくれないんだから」
フンと鼻を鳴らすシロツメに、守ノ内は苦笑を滲ませた。
「私はね、お嬢さんを好いてるんです。他とは行きませんよ」
「そんなの知らない。それに、今度行こうって言ったのカッちゃんじゃない」
「それはお嬢さんが来る前の話ですし」
「酷い、何回約束反故にする気なの?」
「約束というか、シロが勝手にそう思ってるだけでしょう。皆で行こうと言っても、中々都合も合いませんからね」
「だから、ふたりきりでいいでしょ?あたしは元々そのつもりでいるのに」
頬を膨らませ、シロツメは飲み干したカップをソーサーに置いた。サーバーを手に伺いに来る店員に、憮然とした可憐な顔は黙ってソーサーを押しやった。
「視察、南なんだってね。お土産何が良いかな」
「遊びじゃないとまた祐に言われてしまいます。もうお土産はありませんよ」
「えー?皆の分っていっぱい買ってくるからでしょ、あたしの分だけなら良いじゃない」
「そうもいかないんです」
「ケチ。何でも嬉しいから何かお願いよ」
ケーキを運んでくる店員と何やら楽しそうに話し戻ってくる雪妃へと、シロツメは微笑みを向けた。
「何にしたの?」
「人気なのはやっぱり紅茶のなんだって。でもプレーンなのを先ずはと勧められては抗えませんよね」
シロツメの横へと座ろうとするその腕を掴まれて、うおと雪妃は守ノ内の横へと倒れ込んだ。
「何すんじゃい」
「お嬢さんはこちらです」
「むう、可愛い子を眺めながら食べればそりゃあ、美味しさも増すけどさあ」
「うふふ。雪妃ちゃんの方が可愛いのに」
「とんでもございません。綺麗だよね、守ノ内殿も隅におけませんな」
肩を預けてくる守ノ内を押しやりながら、雪妃は目の前のシフォンケーキに目を輝かせた。ホイップの添えられたふわふわの幸せを形取っている。
いただきます、とフォークを差し込んで、甘さ控えめなそれを惜しみなく味わった。
「お嬢さんが食べてると、何でも美味しそうに見えちゃいますね」
「美味しいんだよ何でも。中枢って素晴らしいね」
「ふふ。それは何よりです」
愛おしげな視線を受けながら頬張る雪妃を、シロツメはやや不機嫌さを持って眺める。自分には向けられた事のないその表情は、羨ましくもあり憎らしくもあった。
「一緒に過ごしてるんだってね、カッちゃんすぐ散らかすから迷惑かけてない?」
「ん、そうなんだ?わたしの方が散らかしちゃってるくらいだよ」
「ふーん。その、一緒に寝てるの?」
「う…寝てるけど、寝てないといいますか」
「ふーん?そうだよね、カッちゃん意外と奥手だし。照れ屋さんだもんね」
「お喋りも良いですが、降る前に帰りますよ」
楽しそうに笑うシロツメは、眉を寄せる守ノ内へと形の良い口元を深めてみせた。
「ほほう。おふたりは仲良しなんですな」
「うん。真田さんと連れられて来てからだから、もう十二、三年くらいだよね。ずっと一緒だし」
「へええ。幼馴染みたいなものかあ、良いね」
「カッちゃんの方が歳上なのに甘えん坊さんだったよね。いつも手繋いで、お風呂も寝るのも一緒でさあ」
「…昔の話です。お嬢さん、食べたら行きますよ」
「はーい」
カタンと立つ守ノ内の複雑そうな微笑みを汲んで、雪妃は大人しく従う事にした。色々と弱みでも握られてるのかな、と可笑しく思いながら紅茶を飲み干す。
「もう行っちゃうの?残念」
「またご一緒させてね」
「うん。カッちゃんも約束、忘れないでよ」
困ったように首を傾けて、守ノ内は雪妃の肩を抱いた。いつもより足早にも感じるのが雪妃に苦笑を浮かべさせる。
「カッちゃん、シロツメさんに弱いのか」
「やめてくださいよ、そんな事はありません」
「そう?あんな可愛い子が幼馴染だなんて幸せだねえ、君は」
どうにも複雑な表情を見せるので、流石の雪妃も弄るのは控える事にした。きっと何か色々とあるのだろうと察しておいて、駐車場までの道は人の流れを眺めながら静かに歩いていった。
「ただの、幼馴染ですよ。家族みたいなものです」
ぽつりと呟く守ノ内に、雪妃はふふと肩を揺らした。
「へええ、そうなんだね」
「シロも両親を早くに亡くしてて、私も義父は軍で忙しい身でしたし。漣さんの所によく預けられてたんです」
「そっか…」
「なので、変に誤解したりしないでくださいよ。お嬢さんはすぐに私を軽薄者扱いするんですから」
「沢山侍らせてる訳じゃないんだなって、逆にびっくりしたくらいだよ」
「ふふ。もっちさんの修羅場を飽きる程見てきてるんです。ああはなりたくないんですよ」
「成る程…もっち、中々派手に食い散らかしてるもんね」
当の本人は悪びれもせず、後悔も全く見られないのだが、手を出された女たちの揉める姿を雪妃も幾度か見てしまった。
男が絡むと女は怖い。それはどこの世界でも同じなのかもしれない。
走り出す単車の後ろでテラコッタ色のパーカーの背に体重を預けながら雪妃は目を伏せた。
(可愛らしい子だったな…)
大きな菫色の瞳を縁取る長い睫毛を思い出す。花咲くように笑う顔も、時々拗ねたように尖らせる口も、折れそうに細く華奢な姿も、見ていてとても庇護欲をかき立てられる儚げなものだった。
その視線が注がれる先の空色の髪をした男もまた、珍しくも落ち着かない様子だった。
(参ったなあ…)
菫色の双眸が滲ませる色を雪妃はよく知っている。隠そうともしない焦がれるような色合いは紛れもなく、恋する女の色だった。
(折角お友だちになれそうなのにな…揉めたくないなあ)
心地良いぬるま湯に浸かっていたようなものである。雪妃は腰元に掴まる腕を緩めて、ちらとこちらを窺う守ノ内に笑みを返した。
重く立ち込める鈍色の空は湿った風に流れていく。砂地を巻き上げ駆け抜けていくと、軈て驟雨が広大な城郭内を一面に濡らしていった。