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訓練。


試験の日からおよそ一週間。

日中は晴れ間の覗く日が続いていた。

白の軍服の上着の裾を膝丈まで伸ばしたようなデザインの制服を着込んで、雪妃は軍施設の方まで毎朝守ノ内と通う日々を送っていた。

訓練所の隣、二階に広がる企業然としたフロアで同じ制服の事務員たちは皆、パソコン画面に向かっている。

雪妃も記録用の端末を一台貸し出された。文庫本サイズのそれに録音をしたり文字入力をしたり、撮影をしたりするらしい。


(タブレットみたいなものかな、操作も簡単だし良かった)


直感的な操作のできる便利な箱にホッとする。

フロアの端の席に座り込んで画面を弄りながら、マニュアルをひたすら読む毎日だった。


「雪妃さん、訓練だって」


トンと肩を叩かれて見上げた先に、先日の実技試験で赤組だった蒼念の優しげな面持ちがあった。深い藍色の髪をした四つ年上の彼だけが、先日の試験から仮採用を受けたらしい。

並んで訓練所の方へと向かいながら、すれ違う同じ制服たちに会釈をしていく。


「事務員に何で?と思っていたけど、緊急時も多少は戦力に、という訳だったとはね」

「ね。ここにいるのはみんな強いんだと思うと、恐ろしいものだねえ」

「あの時の皆が採用ではなかったようだし。中々厳しいね」


白服たちの中からアイスブルーの短髪が抜け出てくる。渋い顔をされるのにも慣れてきて、雪妃はニンマリして手を振ってみせた。


「ニヤけるなよ、遊びに来てるんじゃねえんだぞ」


低く告げて踵を返すパキラについていく。筋トレをしていたり打ち込みをしていたり、訓練所はいつも騒然としていた。


「じゃあ今日は剣な。握った事あるか?」

「ないない。包丁なら多少は」

「だよな。あくまでも護身用だから」


短刀を渡されて、意外な重みに顔も顰めてしまう。


「普通にこう、普通にやる」

「普通にって、それが分からないんですが…」

「煩え、黙って見てろ」


的に向かって回転させ投げつけ、パキラは苦々しく振り返る。


「これは刺突か投擲用な、刺すか投げるかして逃げろ」

「おお、逃げるのか」

「当たり前だろ、戦闘員でもねえんだ。視察先でも絡まれたらどう逃げるかを一に考えろよ」


最初に教わったのは、相手に掴まれた時の身の躱し方だった。兎に角逃げろと二言目には言われて、何とも想像はし難かったが危険を伴う事を暗に言われているようで、少し背も震えた。


「次、蒼念は腕に覚えがあるようだから割愛で良いな。阿保の方は握り方から」

「呼び方、君ね」

「煩え、持て」


さらにずしりとする刀を渡されて、ううと雪妃は唸った。こんな重たいものを皆腰に下げて、その上軽く振っているようにも見えるのが不思議だった。


「右手が上な、柔らかく」

「ねえ、もっと軽いのないの?」

「甘えんな、危ねえからフラフラすんな」

「そうは言いましてもね」

「慣れろ。つってもそれは使わねえだろうし、基本だけ覚えて帰れ」

「雪妃さん、手首はこう折ると関節が動きやすくてね」

「ははあ…」

「んじゃ、蒼念に習って振ってて。ちと離れる。危ねえ真似はすんなよ」


端末を取り出して恭しく答えながらパキラは目だけをふたりに向ける。

上官との口の利き方と差がありすぎやしないか、と唸りつつも雪妃は蒼念の分かりやすい説明にきゅっと柄を持つ左手を握った。


「まさか雪妃さんは現場担当とは、視察ならそう危険はないと思うけどさ」

「うう…そうあるよう祈るよ」


苦笑する蒼念に、雪妃は振りかぶり方を教わりながらふと首を捻る。


「蒼ちゃんは現場じゃないんだね、武器も扱えるのに」

「僕はまあ…内部希望だったからね」

「ふうん?足も早かったし、でも手を抜いてたでしょ?」

「え…?」

「わたしよりも動けそうなのに、目立たないようにしてた感じだったからさ。そんなに事務が良かったんだ」


見本を見せてくれるその構えは素人目にも綺麗な形に見えた。苦笑を浮かべる蒼念は刀を鞘に収めて、訓練に勤しむ白服たちを見渡す。


「そんな事はないよ、ただ事務の方が内部を色々と見て回れるかなあってね」

「ふうん?確かに中がどうなってるのか、興味あるよね」

「そうそう。一般人は立ち入れないしね、軍に組み込まれると上の目とかあって自由に動けなそうだし…とか言うと怪しまれてしまうかな」

「確かに。それなら怪しまれてるのはわたしの方かもね、一々見張られてるというかさ…」

「また囮になってよ、雪妃さんが目立って動くとその隙に僕は動けるし」

「ええ…?面白いのあったらちゃんと共有してよ」

「フフ。面白いのか、色々とありそうだよね」


私語すんな、と戻ってくるパキラにふたりは口を噤む。

事務職員は立ち入りを控えるよう言われているフロアにも、涼しい顔をして踏み込んでいる蒼念の背を幾度か見かけていたので、そういう意味では仲良くなれそうだなと雪妃は思っていた。


「昼から銃器な。座学もあるから、寝るなよ」

「職員も銃器を?護身で?随分と本格的なんですね」

「ああ、まあ一応な」

「へえ、事務員を人質にとっても返り討ちに合うかもなんですね」

「まあ、そうかもな。てかおまえは一々物騒だな、本分は経理だからな、把握しなくて良い事をあれこれ知りたがりすぎだろ」

「すいません、ただの興味本位なので。深い意味は」

「他所に忍び込むのも程々にな。採用取り消されて、地下牢行きだぞ」

「田舎者なのでついあれこれ気になって…気を付けます」


藍色の髪をかきながら蒼念は苦笑する。

問題児だらけだと、パキラの顔も渋くなるばかりだった。

胡乱げに刀を振るふたりを見遣っていた軍曹は、ふらりとやって来る長身にぴしりと居住まいを正した。


「おや、今日は刀ですか」

「は。午後は銃器に入る予定です」

「そうですか。必修とはいえ、あまり危険なものには触れさせたくないですね」


にこりとした守ノ内に、蒼念も緊張した面持ちで会釈をした。刀を覚束なくも鞘に滑り落として、雪妃も嬉々として振り返った。


「勝永が来たって事はもうお昼か、今日のランチは何だろ」

「ふふ。覗いて来ましたけど、お嬢さんの好きな肉料理でしたよ」

「ニク…お肉、やったあ」


昼時になると迎えにやって来る守ノ内がいい時報代わりだった。日替わりのランチは日々のお楽しみのひとつとなっていた。


「蒼ちゃんもたまにはご一緒しようよ」

「いや、恐れ多いというか、僕はお邪魔だろうし」

「いえいえ、お邪魔だなんて。そんな訳がございません」


行きましょう、と促す守ノ内にパキラは敬礼する。小さく手を振り返して、蒼念も雪妃を見送った。


「ここに来て、一番驚いたのはあれなんですけど。守ノ内中佐と雪妃さんがねえ」

「まあな。勝永さんの趣味を疑っちまうわ」

「フフ。お似合いだと思いますけどね、弱点なしのあの方にも弱みが出来た、という訳ですね」

「そうかあ?つうかあの阿保じゃ弱みにもなんねえだろ、単なる足手纏いだよ」


苦い顔をするパキラも館内に響く昼の知らせにまた後でな、と離れていく。

片付けを始める白服たちの若い顔へと蒼念は視線を遣って、細い目は楽しげに尚、細められていた。



***



「初仕事は6月、南からですね」


日替わりランチのチキンソテーを頬張る雪妃に守ノ内は微笑んで告げた。

広い食堂の中央は高官の席と暗黙のルールがあるようで、混み合う中でも周り一列はいつも空席になっていた。その外周を軍人たちが、更に外側が事務員の席となっているらしい。

街で向けられたような好奇の視線は流石にないが、事務の皆さんの視線は未だにやや刺さる。しかしもう気にしてもキリがないので、雪妃は諦める事にした。


「6月かあ、南ってどんな所なの?」

「海の綺麗な所です。聖メント教会のある地でね、暑いんですが、観光地でも有名でして」

「へええ。常夏の島みたいな?楽しみだなあ」


南国といえば白い砂浜、椰子の木が沢山の、底も見えるような澄み渡る海のリゾート地のイメージがある。旅行気分は未だ覆せない雪妃の口元も緩んだ。


「海に落ちる夕日も格別なんですよ。是非見に行きましょうね」

「ほほう。ロマンチックで良いね」

「遊びに行くんじゃないんだぞ、任務だ」


カシャンとシルバー類を鳴らして机にトレイを置きながら、厳めしい顔は守ノ内の隣へと座り込んだ。


「お嬢さんと良い雰囲気を味わうのも大事な事なんです」

「喧しい。脳内に花咲かせるのも程々にしろよ」


ポイと机に放られる布地を、雪妃は肉に添えられた芋へとフォークを刺しながら横目に見遣った。オレンジ色を基調に白い三本の線と太陽、花形がふたつ刺繍されている。


「腕章、つけとけよ」

「おお。これ勝永の肩の模様のやつ?」

「中佐の隊の記録士という訳ですね。お嬢さん、記念すべき隊員第一号ですよ」

「あら、そうなの?」

「こいつは隊を持ってないからな。頑なに」


身を乗り出し右腕に留めてやりながら、守ノ内は苦笑を漏らした。


「だって、ひとりの方が動きやすいですし。指示するより、自分でやった方が早いじゃありませんか」

「もう聞き飽きたわ、陛下もおまえには甘いからな」

「ふふ。きちんと仕事はしてるんです、王様にはこのまま目を瞑っててもらいましょう」


腕章を満足そうに見て、守ノ内はあまり興味なさそうに食事を進めるばかりの雪妃へと苦笑を深めた。


「今月はあと叙勲式くらいですかね。もう南の視察の編成は組んだんです?」

「ああ。うちのを出すが、本当に二名で良いのか」

「助かります。お嬢さんとふたりきりでも良いんですけどね」

「馬鹿言うな、任にならんだろ。目付け役とその補佐だ」


特盛の白米をかき込む真田は例の如く渋い顔をする。ふたりで行かせては数ヶ月戻ってこないどころか、フラフラとそのまま年単位で帰ってこない恐れすらある。何か騒ぎを起こすのも目に見えていて、この上官は益々嫌な顔をしてしまった。


「大陸の事もある、呑気に遊んで来るなよ」

「ふふ。心得ましたよ」


米一粒まで残さず綺麗に平らげた雪妃の満足そうな姿に微笑んで、毛利は上品にも小さく切り分けた鶏肉を口に運んだ。


「ヤアヤア、お久しぶりな感じデス」

「あれ、アル先生だ」

「ユキチャン、調子はどうデスカ」


徐に頭ひとつ飛び出た猫背が鷹揚に手を挙げ歩いて来る。いつもの飄々とした様子に雪妃の顔も明るくなった。


「相変わらずボサボサだね、わたしは絶好調ですとも」

「ンフフ。詰めっぱなしでろくに鏡も見てないデス」

「そうでしょうね。ちゃんとお風呂入ってるの?その派手なシャツのままなんじゃ…」

「女性も居るから、色々世話焼いてもらえてるデスヨ。ユキチャンに中々会えないのが苦痛なくらいデス」

「ほほう。そちらも至れり尽くせりですな」


煙草臭い抱擁を受けながら雪妃は苦笑する。白衣の下の派手な柄のシャツは先日別れた時のままのようだった。


「良い働き口ができて良かったデスネ。可愛いのが総務に来たと、こちらまで届いてるデス」

「オホホ…こっちの相場は分からないけど、中々良いお給料だって聞いたよ」

「そうデスネ、街で齷齪働くよりは稼げる額デス」

「そりゃあ有難いね。頑張って働かないと」


笑む雪妃の額に口付け隣へと座るアルフォンスは、向かいで微笑む守ノ内にギクリとして、亜麻色の髪を撫でる手を止めた。


「ウウ…何デスカ、怖いデス」

「いえ、羨ましいなと見てるだけですよ」

「ヒィ。ユキチャンと一緒に寝てるモリノウチサンの方が羨ましいデス」

「そうなんですが、お嬢さんはお風呂に入ったら朝まで爆睡なんです」

「ンフフ。ユキチャン、よく寝るデスネ」

「隙あらばあれこれしようと目論む私はずっと、お預け状態なんですよ。先生のその手、斬り落としても良いですか」

「ヒエェ…スキンシップデス、斬られたくないデス」


パッと手を離してアルフォンスは身震いした。デザートにもらったプリンを掬った雪妃は、憮然として幸せな甘みを頬張った。


「日頃使わない頭使ってるんだから、ぐっすりなのも仕方ないじゃない」

「いえね、可愛らしい寝顔を眺めるのも良いんです。ただ、生殺し状態でもあるんです。何も出来ないんですからね」

「いえいえ。何もしないでくだされ」

「それはご愁傷サマデス。ユキチャン、押しに弱いデス。グイグイ行くと良いデス」

「おいい、妙な事吹き込むでないよ」

「成る程。嫌がられては私が死んでしまうので堪えてたんですが、そうしてみます」


にこりとする守ノ内へと渋面を作り、雪妃は隣のアルフォンスの腕を強かに殴っておいた。


「ウグゥ…ユキチャン、端末はもらったデスカ」

「うん?記録のやつ?」

「そうデス。ちょっと貸すデス」


四文字のパスワードも知っていたかの如く解除して、アルフォンスはスイスイとページをめくり新しくアイコンを追加した。


「何じゃこれ?」

「連絡用ツールデス、これで視察に出ても連絡取れるデスヨ」

「ほほう。借り物なのに勝手に入れて良いの?」

「使える物は何でも使うデス」

「ええ…?叱られたらアル先生が勝手にい、って罪を擦りつけとくね」


緑色のアイコンを開き、何やらトトと登録していく骨張った指を雪妃は首を傾げながら見遣った。


「ンフフ。パスワードも自分の誕生日はいけないデスネ、ワタシのに変えといてやるデス」

「おお…よくわたしのって分かったね」

「ユキチャンの事なら何でも分かるデス。しかしこっちのユキチャン、いつ生まれたデスカネ」

「ね、気が付いたらこれだったし。それまでのこの子はどうなってたんだろね」

「フム。興味深いデスネ、そのうち調べるデス」


ストンと端末と共に渡された斜めがけの収納袋へと収め、アルフォンスは静観するばかりのふたりの佐官へと肩を竦めてみせた。


「ユキチャンも、佐官ふたり護衛につけて全く持って安全デスネ」

「おい…俺を巻き込むな」

「ンフフ。おふたりサン、ユキチャンを頼むデスヨ」


ポンと亜麻色の髪を叩いてアルフォンスは席を立った。午後の始業を知らせる音色は緩やかに騒めく館内へと響いた。


「また様子を見に来るデス。怪我には気を付けるデスヨ」

「うん、アル先生も研究?頑張ってね」

「任せるデス。ボチボチやるデス」


つむじへと唇を寄せてフラフラと人集りに紛れるアルフォンスをくすりとして雪妃は見送る。当初は戸惑った過剰なまでのスキンシップも、今となってはごく自然な挨拶代わりとしてすっかり馴染んでしまった。


「おまえらもダラダラしてないで戻れよ」


丁寧に手を合わせてトレイを手に立った真田は、厳めしい顔のままふたりのトレイも掴んだ。

礼を言う雪妃にフンと鼻を鳴らし、返却口の方へと逞しい背は去っていった。海が割れるかのように人波は屈強な男へと道を譲り端に避けていた。


「名残惜しいですが、また終業時お迎えにあがりますね」

「ありがとう、でも真っ直ぐだし迷子にはならないよ」

「良いんです、私が一緒に居たいだけなので」


カタンと立つ守ノ内へと何とも言えない顔を向けて、雪妃はその後ろについていった。帰路はまだ一本道なのだが、館内は覚えきらず迷ってしまいそうだった。


「いつもありがとね、何だかんだ頼りきりで」

「いえ、もっと頼ってくれても良いんですよ」

「甘やかし過ぎたらわたし、何も出来なくなっちゃうじゃない」

「ふふ。もう、私なしでは生きられないようになってください」


振り返る守ノ内の微笑みは午後の業務へと戻る人々の目にもきっと、眩く映っているのだろう。雪妃はぐっと詰まりながら、肩を抱いてくる手をペシンと叩いた。


「お仕事中、お兄さん」

「本当は抱きしめたいんです。これでも譲歩してるんですからね」

「ぶふ…君ね、部下のみなさまの目もあるんじゃないの」

「構いませんよ、婚約者だと皆知ってるでしょうし」

「はええ?そうなの?」

「悪い虫がつかないよう、しかと見せつけておかねばですからね」


真田が通った時のように、行く先の道は譲られ開かれる。気まずくも通り抜けながら雪妃は項垂れた。


「ところでお嬢さん、どこに向かえば良いんです?」

「えっとね、筆記試験やった部屋だって」

「第三会議室かな、心得ました」


のんびり進む足に任せて白い廊下を歩いていく。微笑む顔の俄かに葛藤するような色を認められるくらいには、日々の多くをこの男を見上げて過ごしてきているのかもしれない。


「どしたの?」


首を傾げ見上げてくる雪妃に、守ノ内は困ったように微笑んだ。


「いえ。言った先なんですがやっぱり」

「ん?」

「少し、抱きしめても良いですか」


ぴたりと足を止めて、のわあと呻いた雪妃を守ノ内は抱き竦めた。窓から差し込む陽に目を細めていた雪妃は、白い軍服の迫る胸元にむぐと埋もれて非難の声を上げた。


「あのねえお兄さん、ちょっと」

「…先生にだけあんなの、狡いですよ」

「へ?いやね、アル先生のは別に」

「狡いです。早く私にも許してください」

 

耳元にかかるような声にどきりと身動いでしまう。むむうと唸って雪妃はその胸を押しやった。


「許すも何も、わたしはアル先生に何か許した訳では…」

「私もしたいんです」

「へ?」

「私もお嬢さんと、したい」


何を、と言う言葉は飲み込んで雪妃は守ノ内を見上げた。空色の瞳が揺らいで見えて、思わず眉を寄せてしまう。

顎を掬ってくるしなやかな指に、雪妃はビエと肩を揺らした。


「あ、あのう…」  


穏やかに、愛おしげに覗き込んでくる守ノ内には大いに胸をかき乱されてしまう。押しやった先で握る拳も、力強い鼓動を捉えて小さく震えた。


「…お嬢さんは」

「ふ、ふぁい」

「どうしてこうも、私を虜にするんですか」


力なく倒れ込んでくるように抱きしめなおして、守ノ内はコツンと雪妃に額をぶつけた。

大きな亜麻色の双眸が近くで瞬くのを見て、ふーと長い吐息が下方へ向けて吐き出される。


「そろそろ、唇のひとつでもくださいよ。私、発狂してしまいそうです」

「そ、それは、困ったね」

「困ってるんです。どうしてくれるんです」

「う、ううう…」


勿体ぶってる訳じゃないけど、と雪妃は呻いた。


(好意を、弄んでるようなものなのか…?でもなあ…)


常に側に居てくれる温かな存在に親愛の情は確かに抱いていたけれども。

城郭内で、軍施設内で、多く向けられる羨望と憧憬と情愛と、色々混ざった視線を浴びても尚、分かりにくい愛想笑いでそれは流し愛おしむ感情を一身に注いでくれる守ノ内の姿。それを漫然と浴びるだけで、雪妃は何も返していない。ある意味残酷な事をしているのだ。

保身に走る自分は醜いな、と自嘲して雪妃はそっと空色の髪を撫でやった。


「あのね、勝永」


ぴくりと肩を揺らし顔を上げる守ノ内へと雪妃は小さく微笑んだ。

色々と、躊躇ってしまうその理由はよく分かっている。真っ直ぐな未来ある若者の大事な時間を奪ってしまっているようで、雪妃は胸をチクリと痛めながら口を開いた。


「わたしは…」

「おうおう、お熱いのは良いがな。家に帰ってから幾らでもやんな」


カッカと笑う声が届いて、守ノ内に苦笑が浮かぶ。後藤さんだっけ、と雪妃は巨岩のような姿を仰ぎ見た。


「パキラが迷子かと心配しとったぞ」

「う、またネチネチ言われちゃうかな…」

「カッカ!あれも心配性なだけよ、早く戻ってやんな」


腰の三口もの佩刀を鳴らして後藤は高らかに笑った。頭をかいて守ノ内も口元に笑みを浮かべる。


「すみません、どうにも愛おし過ぎて」

「結構結構、カツ坊も漸くかと皆喜んでおるわ」

「ふふ。そうなんですね、照れちゃうな」

「ま、今は戻してやんな。パキラの胃がまた荒れちまうぞ」


小気味好い音を上げて後藤の腕が守ノ内の背を叩いた。きっと岩をも砕いてしまうそれを苦笑で受けて、守ノ内は後藤に会釈をし雪妃の肩を押した。


「第三でしたね、行きましょう」


頷いて雪妃も後藤にお辞儀をする。

廊下の角を曲がって、似たような扉のひとつの前でにこやかな美貌が見下ろした。


「では、また後程」

「う、うん。ありがとう」


掬った手に口付けて、守ノ内はふふと肩を揺らした。


「愛してますよ、お嬢さん」

「うぐ…あ、ありがとう存じます」


ドギマギとする雪妃へと微笑む。

さらりと頬にかかる亜麻色の髪に触れて、名残惜しむように守ノ内は離れていった。

背に流れる長い髪を眺めながら、雪妃は暫くその姿を見送っていた。

そして、溜息混じり舌打ち混じりのパキラの長いお小言をこの後存分に、右から左へと聞き流す事となった。

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