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門出。


その主婦は疲れきっていた。


運命的かどうかはもう忘れてしまったが、きっと当時はそうだったはずだ。

隣り合った席で偶然触れた肩にビビッときて恋人同士となり、結婚まではあっという間だった。

お互いろくな恋愛経験もない、至って普通のよく居るカップル。中の中の平凡。良くも悪くも普通だった。

貯金もなく結婚式は挙げなかった。婚礼写真だけでもと張り切ってスタジオで撮り綺麗なものを残した。当時はまだスリムで、時々取り出してはうっとりと眺めたものだった。

子供は兄妹と見事に授かった。幸せだった。

赤子時代は毎日が戦争のようで、スマホで不安要素を必死に検索しながら余計に不安を抱えて、夜通し寝かしつけ頻回授乳をこなした。

母親になってからはやたらと涙脆くなり、泣く子と共に幾度も泣いた。それで割とスッキリするものだった。イクメンなんて存在は知らない。

実の父親にすらピリピリとして威嚇をしていたと笑い話でよく持ち出されていた気がする。

大きな病気も怪我もなく健やかに育ってくれた。幸せだった。

子育てにはノータッチな割に口だけは挟む夫とはじきに不仲になっていった。若い女と歩いていたわよと同じマンションのママ友に告げられても、何の感慨も湧かなかった。財布は自分が握っているし何より可愛い子供たちが居る。幸せだった。

やがて子供たちも友人と過ごすようになり、ひとりの時間が増えた。飲食店で短時間のパートを始めた。

お綺麗ですねと父親世代の客に褒めそやされ、こんな母親だったら自慢なのにとバイトの若者たちに世辞を言われて、乾いた笑いを浮かべてきた。それでもまだ、幸せだった。


(幸せって、何だっけ)


そう疑問に思うようになって何年経ったか。その主婦はパート帰りの夕暮れの道をひとりトボトボと歩いていた。

梅雨入り前のジメジメとした風が少し汗ばむ肌を撫でるように吹き去る。

履き古したクロップドパンツに体型を大いに隠してくれる長い丈のリネンのシャツ。洋服なんて何年も買い足していなかった。

ペタンとする頭頂部が余計にくたびれて見えるので、緩やかにウエーブさせた髪も何ヶ月前に美容院でセットしてもらったものだったろうか。『今流行りなんですよお』と言う可愛い美容師にお任せで染めてもらった色も根元から落ち、肩甲骨を覆うあたりから夕陽に煌めいていた。

気恥ずかしくも要望を伝えた後に、独り言のように喋り続ける小洒落た若者に愛想笑いを貼り付け長時間座り、整えられた見事な後ろ姿も家に帰ると微妙に見えてしまうあれはどういう現象なんだろうか。

それより蒸し暑い。出産してから急に汗かきになってしまった。人体の不思議だった。その上付いた贅肉はちょっとやそっとでは落ちなくなっている。それを隠す為の服装がより肥大させて見せる事なんて最早些末な事だった。帰って早く発泡酒で喉を鳴らしたかった。


(半月か…)


帰り道の川沿いの土手は月が綺麗に臨める。あの柔らかで朧げな明かりだけが癒しだと思って、挙動不審にならない程度にちらちらと見上げながら歩くのだった。

疲れ目にも優しく映る慈愛の光。多感な年頃、謎にも自分は月に帰らなければと想いを馳せていたのを未だに抱えていてつい苦笑が漏れた。寄り添い犬を散歩する若者に怪訝と見られてわざとらしく咳払いをした。

静かな土手は風の音ばかりで目紛しく思考が巡った。

ジョギングをする薄着の壮年の男の足音も、クスクスと笑い合い広がって歩く女学生も、時間通りに汽笛を上げ走り抜ける快速電車も、全てが遠く薄れて感じた。虚無なんて言葉をスマホの辞書で検索して、やはり漏れるのは苦笑だった。


(このまま、孤独に生きるのかな)


子供たちは手を離れ、夫は空気だ。

家で顔を合わせるよりは気楽で良いと思ってしまうが、何てつまらない人生なのだろう。

かといって自分から行動を起こそうとはとても思えない。決して裕福ではないが自由に、多忙な中であんなにも焦がれたひとりの時間がたっぷりとあるのだ。つまらない、ひとりの時間が。


(このまま虚無に、くたばりたくない)


煌々と水面を照らす月を見上げて、落ち窪んだ双眸は虚にも瞬いた。目尻にも口元にも老いは深く刻まれている。化粧ではもう誤魔化しの効かないアラフォーの粗にはお手上げだった。


(贅沢は言わないから、せめて)


向かってくる自転車の腹立たしい程の眩しさを端に避けながら使い古した小さな鞄を持ち直した。中身は財布とスマホとハンカチと鍵と、頭痛薬。必要最低限の荷物を手にその主婦は立ち尽くしていた。


(せめて、何だろう。まあいいや)


シンとした家に帰って風呂に入りTVを垂れ流して、発泡酒片手に酩酊し眠りにつくだけだ。それでも朝はやって来る。

年々肩は重いし首も腰も痛い。股関節周りも調子が良くない。偏頭痛もある。

それでも朝が来れば起きて、適当に身嗜みを整えたら生きなければならないのだ。何て素晴らしい人生。


(あれ、青み色の月って何だったっけな)


雲ひとつない夜空にいつも浮かんでくれる相棒の見慣れない色合いにふとスマホを探ったその主婦は、立ち止まったままで検索バーに文字を打ち込みながら立眩みを覚えた。

健気にも定刻通り走り抜ける電車の音と、得意げに歩く散歩中の犬の荒い息遣いと。耳鳴りのように纏わり付く。青みがかって見える月がやけに眩しかった。

早く帰ってもう寝よう。

よろめき踏み出した一歩、やはり履き潰したスニーカーの擦れた底面はしかし土手道を踏みしめなかった。寝入り端のびくりと痙攣するあれのように身を揺らして、その主婦は深く暗く、落下していった。




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