第七話 「地獄を超越する」
闇に身を投げると、風の冷たさと耳鳴りと痛みが、俺を襲った。
風の抵抗に何とか耐えながら、目と口を開け、両手を落下方向に広げ、魔法名をひたすらに唱えた。
「アクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクアボールアクア…………」
そう、可能な限り唱え続ける。意識を集中させ、それらを一つにまとめていく。
数百もの魔法印を、一点に集中させるのだ。
目前には一つの巨大な水球が構築されていく。
これは致死の確率を僅かでも下げるための、クッションの役割を持つ。
死ぬわけにはいかない。
落下による怪我も、最低限で済まさなければならない。
「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
直感で分かった。
もう、地面まで秒読みであると。
俺は致命傷を避けようと体を丸める。
瞬間、体を割るような痛みが俺を貫いた。
水のクッションは上手く機能したようだが、俺がそれに直撃すると、形を保てず、霧散してしまった。それは天候などない迷宮に、一時的な雨を降らせた。
俺は痛みを我慢して瞳を開けた。
全身が鉛のように重く、電流を流されたかのような痛みが支配している。
おそらく全身打撲だ。
左腕に違和感を覚え、確認する。
肘が逆方向を向いていた。肌からは骨が突き出ていた。
足はかろうじて動くようだ。
俺は体をうねらせながら、実にみっともない仕草で立ち上がった。
「はは、は……」
俺はここが地獄であると悟った。
思わず、笑みがこぼれる。
俺が落下した地点を中心に、ぐるりと囲むように魔物たちが目を光らせている。
前方には炎蛇の群。数は多すぎて測定不能。おそらく百は超える。
後方には鎧熊。真白な毛皮を鋼鉄の鎧で包んだ獣。体長は成人男性の約三倍。図鑑でしか見たことのない化物だ。それが五体。
炎蛇は普段なら鎧熊に食われているだろう。が、共通の獲物を見つけたからか、両者の視線は俺に釘付けのようであった。
魔物たちが垂らす涎の生臭い臭いに死を感じ取り、怯えで足が震える。
「炎蛇の群れを抜けるのは無理だ……。ならっ!」
俺は踵を返し、鎧熊の元へ駆ける。
一体目の股下をスライディングで抜けていく。
全身を奔る痛みは引いていた。この興奮状態を維持できれば、突破できるはず。
二体目の熊が巨体の足で蹴り上げる。俺は足の指先に闘力を流し、蹴り上げに接触したその瞬間に、力を利用し空中へと逃げた。二体目の頭上を通り越し、抜く――
「……うっ!」
ことはできなかった。
炎蛇の吐き出した炎が、俺の背中を撃ったのである。
途端にダダダダダという騒がしい足音が近づく。
うつ伏せで見えなかったが、魔力で感知した。炎蛇が倒れた俺に群がっているのだ。
取れかかっていた左腕が噛み千切られる。
身悶えするほどの痛覚が奔る。
「ぐぁ……あ、ぁぁぁあああああああ!!!」
俺は無理やりに体を起こし、未だ食い荒らそうとしていた炎蛇に剣を振る。腹を真二つに切るも、手応えはない。未だ絶命はしていない。
「GRAAAAAAAAAAAA!!」
咆声を上げたのは攻撃を受けた炎蛇ではなく、獲物を横取りされた鎧熊であった。
巨大熊は周囲を囲む炎蛇を振り下ろした拳で潰すと、俺を持ち上げた。
摑み取りされた俺は己れの骨が軋む音を聞いた。
「がァッ……か……はっ」
内臓のどこかが破裂したのか、俺は口から血を吐く。
抵抗する手段はない。
が、何もせぬよりは良いと両腕に闘力を集める俺だったが、
「GRA!?」
鎧熊は目前で倒れ込んだ。
何事かと思ったそのときには、俺は首を縛り上げられていた。
体ごと天井に迫る。目線を上げると、そこには大きな目をギョロギョロさせた爬虫類の姿があった。
透明舌虫。
周囲への色彩同化ではなく、『透明化』という固有スキルを会得したカメレオン。
炎蛇や鎧熊よりも体力面では劣るが、その特性のため、力の逆転など容易い。先ほどの熊も、俺同様に首を絞め、気絶させたのだろう。
「ぐ……あぁ……っ」
首を強く弾力のある舌で何重にも巻かれ、息ができない。
真下から熱を感じ、確認する。
熊に叩き潰された頭も、俺が切り裂いた腹も、あますことなく再生している。奴らは、スキル『再生』によって再生し、炎を向けていたのだ。
足をバタバタさせ抵抗するも、次第に体から力が抜けていくのが分かった。
消えかかった意識で、俺は再確認した。
ここは、地獄だ。
―――
《夢の間》→×
《心の宝物庫》→〇
目が覚めると、そこは見慣れた場所だった。
見渡す限りの黒。闇の世界。
俺は木製の椅子に座っている。
光などないはずなのに、自分の姿も、椅子も見える。
地獄を経てついにあの世に逝ってしまったのかとも思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
そして、いつもこの場所には彼女がいる。
「なんだよ。笑いにでもきたのか?」
「ふむ? わらわの笑いのツボは確かに浅いが、こんなブラックジョークでは笑わんぞ?」
彼女は俺と軽口を叩くと、遠くを眺めた。どこを見ようとも、何もないはずなのに。
やはり、彼女のことはよく分からないままだ。
口調や、なんとなくの雰囲気から、女の子というのは分かるが、それまで。
その表情も、存在も、ぼやけたままだ。
「お主、良いのかの? このままでは本当に死んでしまうぞ?」
「良いも何も、どうしようもないじゃないか……。拘束されて逃げ場はない。そのまま食われるか、下の奴らに焼かれるか。どちらにせよ、もう俺は終わりだ」
あの局面を打開する力を、俺は持っていない。
策も思いつかない。
「ふむ。お主は少々諦め癖が強いようじゃな」
「……は?」
俺は思わず睨み返した。
精一杯抵抗して見せたじゃないか。
そりゃあ、俺だって死にたくはない。
でも、これはもう仕方がないじゃないか……。
「そう恐い顔をするでない。今のはほんの冗談じゃ。ここからが話の本題じゃ」
「……本題?」
「うむ」
訝し気な視線を俺が向けると、女は右の手を差し出してきた。
「わらわが力を貸そう。お主とわらわであの魔物共を殺し尽くし、迷宮を下って制覇し、脱出するのじゃ」
「……」
俺は彼女の言葉をすぐには理解できなかった。
けれど、その意味を咀嚼して、吐き捨てた。
「駄目だ。それはできない」
「……ふむ? それは何故じゃ?」
少女は本当に分からないといった表情で聞き返す。
俺は頭を抱えてため息を吐いた。
確かに、ダンジョンを制覇すれば、最後に現れる転移魔法陣に乗り込めば迷宮の入り口に辿りつくことはできる。
けれど、あの地獄に一人戦力が増えたから攻略できるなんて考えは、あまりにも安直だ。
「それは……お前を巻き込むわけにはいかないからだ。お前が何者なのかは知らないが、あれらを殺し切るほど強いとは、俺には思えない。もう、誰かが死ぬ姿を見たくないんだよ。他人を巻き込みたくはないんだよ……」
紡ぐ言葉の最後の方は涙が混じり、消えかかってしまった。
嫌なのだ。
自分なんかの命のために、誰かが犠牲になるのは。
カルマは死んでしまっただろう。俺なんかのために。
不用意に人が死ぬ必要はない。
誰かが目の前で死んでしまうなら、俺一人が死んだ方がずっとマシだ。
そう思い、悩み俯いていると、彼女はふふっと笑い、噴き出した。
「ふははっ! なんじゃそれは!! もしやお主、わらわを心配しているのかの!!」
「な、何が可笑しい?」
「だって……のぅ……普通、自分の心に心配するような馬鹿奴がおるとは思わんじゃろ……」
彼女は言い、再びこみ上げてくる笑いを必死に抑え込んでいるようであった。
俺はムカッとして、問い返す。
「何だよ、俺の心って。前もそんなこと言ってたけど、こっちは何のことかサッパリなんだよ」
彼女はキョトンと首を傾げ、ああと得心がいったように顔を上げる。
「そういえば、お主には細かい説明してなかったかの?」
「ああそうだよ。いつもいつもお前は言葉が足りないんだよ!」
俺が抗議すると、彼女はそれでも知らないといった風体だ。
「そういえばそうじゃったかの……うむ、では手短に、分かりやすく」
本当に大丈夫だろうか。
「お主も聞いたことがあるであろう。人が誰しも持っているモノ。その者の渇望そのもの。人の心の核を担うモノ。アイデンティティと言い換えてもよい。それを自覚し、会得したものとそうでない者では雲泥の差が生じる……」
聞いたことがある。
魔法騎士、もしくは伝説上の冒険者たちの逸話にも、それは在った。
宝具。
人の心の形を成し、伝説級武器すら霞むほどの力を秘めた、その者だけの武器となる。
魔法騎士のトップ中のトップが持つ、戦況を反転させるほどのチカラ。
「わらわはお主の心そのもの。すなわちお主の宝具ということになる」
「そんなの信じられるか。だってお前は……」
「人間の形をしている、か? 形など粗末な問題じゃ。お主の願う姿に、わらわは成るのじゃから」
彼女の言うことは、突拍子がない。
それなのに、なぜだろう。
今はすんなりと入り込んでくる。
理解できる。
「わらわは宝具。ゆえに、わらわがお主に力を与えるのではなく、お主がわらわを使わねばならぬ。そして、そのためにはクリアせねばならぬ条件がある」
名も分からぬ彼女は、そう言って、挑戦的な目を俺に向けるのであった。
次回、主人公覚醒回
次次回、主人公大暴れ回
乞うご期待。