第六話 「グランドエスケープ」
「モグリ……さん」
立っている彼に呼びかけても返事はない。
当然だ。
首がついてないのだから。
「レインさん……」
こひゅ、こひゅ、という音はしている。
息をしているのだろうか。
けれどもう死ぬだろう。
彼女の体は分断され、
上半身のみとなったそれからは血と臓物がまろびでている。
目に光はない。
「………………」
最後に倒れているカルマさんを見た。
両手足が弾け、達磨になっている。
激しい痛みの所為だろう。
意識は消えている。
どうにかしなければと思った。
けれど知っている。
俺には不可能だ。
だってあと少しすれば、俺も彼らと同じになる。
「ふふ、ああ、懐かしい。
あのときを思い出すよ」
シルヴァが近づいてくる。
俺に考える力があるのなら、逃げるべきだ。
勝ち目なんてないのだから。
あるいは俺に人情があるのなら、奴に立ち向かうべきだ。
敵は裏切り者で、皆の仇なのだから。
けれど、俺は動けなかった。
恐怖で足がすくんだ。
逃げることも、立ち向かうこともできずに。
俺はただただ自分が死ぬその瞬間を待っていた。
俺はあのときから、何も変わってはいなかった。
「十年ぶりだね。ノア・グランドくん」
シルヴァは懐に手を入れて、白い仮面を被ると、
そんなことを言っていた。
あのときの光景が蘇る。
愛する人の肉片と、血の臭い。
銀の長髪。
ああ、どうして忘れていたのだろう。
「自分を責めることはない。
この仮面には特殊な魔法が掛けられている。
私の姿を君が記憶することはできない」
奴の言葉は毒のようだ。
俺の体を蝕んでいく。
吐き気を催すそれは、俺の体を拘束する。
奴が近づいてくる。
逃げなければ。
殺されてしまう。
足を動かせばそれでいい。
それなのに、俺の脳はそんな命令すらまともに出せないらしい。
声もでない。
目前に奴の仮面があった。
「さよなら、ノア」
銀の閃光が奔る。
――ああ、俺は死んだ。
俺は諦めていた。
血飛沫が舞った。
「……?」
けど、どこにも痛みはなくて。
その血が、自分のものではないことに気付いた。
「――おい」
声が聞こえる。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「おい、馬鹿ノア。
な~に勝手に諦めてんだよ」
そこには、手足を失ったカルマが、腹に穴を空けて立っていた。
足は膝の先からなくなっている。
太ももには幾筋もの血管が浮き上がり、なんとか立っているという印象だ。
そんな彼は不適に笑う。
手も足もなく、断面からはおびただしい量の血が流れている。
そんな彼の目には、一切の絶望は映っていなかった。
「カルマさん……」
「辛気臭い顔すんな。ここは俺がどうにかする。
絶対後で追いつくから、お前は逃げろ」
彼は言うと、一呼吸入れて再び口を開く。
「炎系超級魔法・飛翔龍ノ流爆」
超級魔法。
属性魔法、その最上級魔法。
幻想界と呼ばれる、存在すら確認されていない、伝承上の異世界から属性に沿った異生物を召喚する最強の魔法。
彼がその魔法名を唱えると、フロアを埋め尽くすほどの魔法印が出現し、そこから飛び出すように竜が顔を出した。
飛竜の鱗は赤竜と同様に鋼鉄の鱗で覆われている。しかしその体長は一回りも二回りも大きい。橙色の炎を身に纏うそれは荘厳であった。
「GUOOOOO」
飛竜は低く唸ると、標的であるシルヴァを睨みつける。
同時、シルヴァの魔力が跳ね上がる。
飛竜は翼をはためかせ一陣の炎風となる。
「ノア、想像することは人間に与えられた確かな力だ。
強く強くイメージすれば不可能なんてない。
だから、生きろ。
最後の最後まで諦めないでくれ。俺も……諦めないからさ」
銀の閃光と炎風が激突し、衝撃は迷宮を揺らした。
俺はカルマの背中に、
「……ごめんなさい」
そう声をかけてから逃げ出した。
カルマはそれでもやはり笑っているようだった。
―――
俺は走って走って、走った。
螺旋の道には遮蔽物がない。
魔物は天井から降ってくる。
俺は痕跡を残さぬよう、また危険を避けるためにも魔物との戦闘はなるべく避けた。
索敵魔法・探査を使い、魔物たちの落下点を事前に察知。闘力を足に込め、そこを走り抜ける。躱しては逃げ、魔物の背に回り込み、別の魔物からの襲撃から身を守る。
どうしても戦闘せねばならぬ場面では、長引かないように全力を投じて切り伏せた。
「はっ、はっ、はっ」
疲労は確実に体を蝕んでいく。
俺はいつしか思考をするのを止めていた。
ただただ本能に従い、生き残るために必死だった。
しばらく進むと、そこは道が二つに分かれていた。
そこで初めて足を止めた俺は、一度頭を落ち着かせる。そう簡単なものではないが、「落ち着け」と頭に命じ、無理やり落ち着かせようとした。
「ど、どうしたら……」
どちらかが罠の可能性は高い。
けれどいくら下を覘きこんでも、その先の道は分からなかった。
背後からは今にもシルヴァが襲い掛かってくるかもしれない。
そうではないにしろ、ここに留まっていても魔物に食い殺されるのがオチだろう。
「迷っている時間はない、か」
俺は右の道を選択し、再び走り出した。
―――
先を進むと、螺旋の道は再び変色していた。
変色、というよりも今度は変形に近いのかもしれない。
無機質な白から黒へと変わっていた道は、より自然的な、より迷宮的なものに変わっていた。
土と岩。それが連なる螺旋である。
「……よし」
障害物ができたのは嬉しい誤算だった。
これなら隠れ場所も見つかるはずだ。
追いかけてくるのが魔物ではなく人間である以上、安全地帯への退避は得策ではない。入り込まれれば、即死は免れない。
だから俺は、隠れられそうな場所を模索しながら、進んだ。
先へ進めば進むほど、岩の数も大きさも増えていく。
走ってもいられず、自然と足取りは重くなっていた。
先ほどから、魔物は一向に現れない。
俺はそのことに違和感を覚えながらも、歩を止めることなどできなかった。
そんな時である。
ズン。
「――っ!」
緊張が、再び俺の首元を掴み上げた。呼吸は浅くなる。
体にのしかかったのは、魔力だ。俺は咄嗟に近くの岩肌に身を寄せて隠れた。
重い魔力の元を辿る。その力は上から働いているようだ。
俺は前方上方を眺めて、絶句した。
「「「「「ウゥゥゥゥゥ」」」」」
低く野太い声は一つではない。
十、二十――いや、三十はいる。
「「「「「ウラァァァァアアアアアアア!!!」」」」」
けたたましい地響きとともに彼らは落ちてきた。
筋骨隆々の怪物たちの体は黒と緑を混ぜたかのような色だ。
人の頭など簡単にかち割れそうなほどの大きさの棍棒を軽々と持ち、携えている。
二足歩行の豚の怪人共。
敵はオークの集団だった。
そして、
奴らの登場と同時、俺の背筋は凍り付いた。
カツ、カツ。
足音と共に、オークの集団など比にならないほどの絶望が背後から迫っているのを感じる。
この魔力は、シルヴァのものだ。
ということはカルマはやられたのだろうか。
「嘘だ、そんなの……」
彼はこの国で最強の冒険者なのだ。
そう簡単に殺されるわけがない。
シルヴァがいくら強いとしても、そんな現実は到底受け入れられない。
あの人のことだ。もしかしたらまだ死んだふりでもして生きているのかもしれない。
だったら、俺が連れ帰りに行かなくては。
俺が、助けなくては。
カツカツ。
けれど、足音が鳴るたびに、振り向くのも憚れるほどの恐怖が俺を支配した。
「くっ!」
俺は反射的に判断を下し、オークの集団に飛び掛かった。
「グォ!?」
彼らの隙間をするりするりと駆け抜けていく。
そう、戦闘は最低限にしておかなければ駄目なのだ。
まともに戦っていては、すぐにシルヴァには追い付かれる。
シルヴァとの戦闘は避けなければならない。
現状、奴と戦う力は、俺にはない。
「邪魔を、するなっ!!」
足を掴んできた豚怪人の腕を俺は魔力と闘力を込めた一刀で切り捨てた。
振り返らずに走る。
二方向から抑え込むように跳んでくる奴らの首をV字の炎刀で斬る。
死体を踏んで前へ。
「くそっ、数が多すぎるっ!」
数が多すぎて、戦いを完全に避けるのは不可能だ。
俺は願っていた。
先へと進めば、隠れやすい地形も現れるかもしれない。
そうすれば、やり過ごすこともできるのでは。
そうすれば、戻ってカルマを連れて帰ることだって……。
けれど、
俺のそんな希望は、すぐに打ち砕かれてしまった。
「嘘、だろ……?」
土と岩の道を進んだ先。
そこには再び黒の無機質な道が続いていた。
隠れる場所など、どこにも見つからなかった。
カツカツ。
「――ッ!」
足音が響き、同時、二十ほどあった後方のオーク共の魔力が、すべて消滅した。
迷っている暇などない。
俺は全速力で螺旋の道を下ろうと足に闘力を込める。
走りだそうとした、その直前、
「「「「「ウゥゥゥゥゥ」」」」」
俺は上を見た。
「「「「「ウラァァァァアアアアアアア!!!」」」」」
奴らは再び落ちてきた。
地響きが鳴り、螺旋の道は激しく揺れる。
俺は驚愕のままに先を見据える。
敵は先ほどの数が可愛くなってくるほどの群であった。
「か、確実に、百以上はいる。……無理だ、切り抜けられない」
俺が立ち止まっている間にも――、
カツカツ。
足音は着実に近づいてくる。
次第に大きくなってくる。
どうする。どうするどうするどうする?
目前には百を超えるオークの集団。
後方からは銀の魔法を扱う超越者。
どちらに出向こうとも、肉片に変わる未来しか見えなかった。
「駄目だ、俺はもう、死ぬんだ」
せっかく助けてもらったのに、ごめん、カルマさん。
俺は諦めていた。
どうせ死ぬくらいだったら、自分の手で。
そう思い、剣の柄に手を当てた時である。
底の尽きない闇、けれど、唯一の突破口。
その奇跡は、磨かれた刃を鏡にして、そこに映りこんだ。
と、同時、カルマの最後の言葉が頭をよぎった。
――最後の最後まで諦めないでくれ。俺も……諦めないからさ
俺は己れの頬を殴り、再び走り出す。
向かう場所はオークの群れでも、シルヴァの前でもない。
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!」
大声を出し、己を叱咤し、俺は螺旋の中心に向かい走る。
螺旋の中心にあるものは何か。
底なしの闇だ。
五十層から続く、この螺旋の道が終わる場所。
そこまで闇は続いている。
悪く転べば即死。
そうでなくとも、大怪我は避けられないだろう。
怖くて、恐くて、仕方がない。
でも、
それでも、彼と約束したから。
最後まで、可能性がある限り、もがいてみせる。
死んでしまった、大切な人たちのためにも。
俺は覚悟を決め、底知れぬ闇へと、身を投げた。