第7話
「大変、母ちゃん。テリーば戻ってきたけど、すごく具合が悪そうなんだ」
恭介は血相を変え、母の許へと駆け込んだ。
「何ちゅうことやろうか、こげに痩せちボロボロになっちもうて」テリーに駆け寄り体をなでると、なんとあちこちの毛に血のりが付いているではないか、朋子は急ぎ湯を沸かしてテリーを洗ってみると、まさに満身創痍とはこのことを言うのであろう。前足はびっこを引き、後ろ足の長さも違っている。左の目尻から頬にかけて醜い傷跡、お尻の傷は特に酷かった。膿が出ている。雷太の横暴に抗って庇うこともできず、テリーを見放した。こんな姿にしたのは間違いなく自分のせいだ、と自分を攻めずにはいられない朋子であった。
恭介を伴い診療所に出向くも若い医師が取り付く島もなく拒絶する、けんもほろろに。
恭介達が諦めて診療所のドアを開けたちょうどその時、往診帰りの滝先生に出くわす。
「恭介、その犬はテリーか、よう帰ってこれたな」と目を細めている。
「先生、テリーが具合が悪いと。診て頂けませんか」と朋子。
「そりゃいかんな中に入り」とテリーを一目見て重傷さを見抜き、受け入れてくれた。いつも恭介がお世話になっていて、テリーも可愛がってくれていた、ベテラン医師である。
「滝先生、犬ごとき、診るのはやめてもらいませんか」と先ほどダメ出しした大友医師が老医師に詰め寄る。
「大友先生、私は年老いてはいるが、医師としての志はおろそかにしてはいないつもりです。医師としての志とは、医業を行うにあたって、その相手に何のボーダーも設けないことです。深い傷を負っている、あるいは命の灯が消えかかっている、それが生き物であれば医術を尽くして救う。それこそが医師の仁と誠であると信じています。確かに私は獣医ではないが、テリーの深い傷に対処する術は心得ている。だから治療する」いけませんか、と滝医師。
そこに居合わせた患者の一人が小さく拍手する。やがて看護師達までが拍手を送った。
「保険は利きませんよ滝先生」「おれ今から飯に行ってくるから、後は待たしといて」と看護師に言い捨てると診療所を出ていく大友医師。人間いろいろ、医者もいろいろ居る。。
「傷口に抗生物質を塗って、二針ほど縫うた。飲み薬は止めとこう、適用量が分からん。暖かくして、安静させとけば良くなるじゃろう」お大事にと滝先生。
「ありがとうございました、先生」朋子と恭介が深々と頭を下げる。
抗生物質など無縁だったテリーにその薬は劇的に効くはずだっだ。
「これでテリーは良くなるよね母ちゃん」と恭介。
「滝先生のお陰ばい恭ちゃん。テリーはきっと元気になる。きっと」と朋子。
しかしもう一つの不安材料が存在していることを知る二人は、しばし黙り込む。
曾我家の夕餉の食卓に三人がそろう。
「困った犬だなテリーは。もう一回後藤君に頼んで今度は関門海峡の向こうに捨ててもらわなならんな。さすがのテリーも海は渡れまいからな」と雷太がほざく。
二人が危惧していた言葉が雷太の口から発せられた。
朋子の顔から血の気が引いていく。
バン、と箸を叩きつけ意を決したように雷太を睨みつける。
「あんた、まだそんなこと言いよるとね。もう黙っておれん、言わせてもらうばい」と朋子が居ずまいを正し、雷太に真っこう向き合う。
「後藤さんはテリーを門司港に置いてくるち言いなさった。犬は一日60キロ走るという。門司港からここまで100キロぐらい、丸二日もあれば帰っちこれる距離たい。遠いところの匂いを辿り辿り、迷ったとしても一週間もあればいいはず。なんで二ヶ月もかかったとやろか、あんたには皆目解からんじゃろし、解かってやる気もなかろうけんどね。私にはよーく解かるたい。母親やからね、解かってやれるのよ。
門司港にはミミクロが貰われていっちょる。ミミクロの元気な姿に安堵したら、他の子達の安否も知りたくなった。それで山田市に行ったナキムシと行橋市に居るはずのタロウに会って、帰ってきたとよ。恭介のもとにね。二か月の放浪はきつかったやろう。傷だらけの姿がそれを物語っちょる。
神や仏に一切頼まず、理屈や損得など与り知らない、子への愛、恭介への愛、そのためなら自らの身を顧みることなく、科せられた本分に律義に従順に、そして懸命に、それがテリーの生き方」涙で声が詰まる朋子。タオルで顔を乱暴にまさぐる。
「うむ、テリーに限らず生き物の母親はそれぞれ、宿命的、必定的に子を愛すものだ。確かに昨今、人間のやることは畜生にも劣る行為が多発しているからな。親が子をしつけと称して虐待もどきの体罰を加える、それも死に至らしめるまで続ける親もいる。
生活苦で心中を図り先ず子を殺す。親の勝手な都合で抵抗する術も力もない子供達が犠牲になっている。そんな人間に比べたら、至極当然なのだがテリーは母親として立派だ。でもな恭介、朋子、詮所テリーは犬なんだ。曽我家の守護神であるお狐様には逆らえない。これは仕方がない」と雷太。
び~んと鼻をかみ、涙を振り払って雷太に向き直り問い詰める朋子。
「お狐様は曾我家を守ってくれていますか。テリーを捨てたあと、曾我家にいいことありました。
いいや、この二か月悪いことばっかり。酔っぱらってバイクで電柱に正面衝突。人でなくて良かったばってん、頭を5針も縫いなさった。酔って教頭さんと殴り合いの喧嘩して減捧。モンスターピアレンツからの行き過ぎ指導へのクレーム。家には犬は一匹も居なかったです。
戦争の生き残りという慚愧、戦友への憐憫、そんな心の瑕疵が、行き過ぎる思考や論理に走らせ、酒に紛れを捜す。三か月と十日前やはりバイクで大怪我しなさった時、あんたを死の淵から助けたのは、犬のシローやったんよ。飼い主の叱責にもめげず大きな声で吠えてくれたおかげで発見された。
シローはテリーが産んだ子供たちの父親ばい。シローが曾我家にテリーが世話になっとるのを知ってか知らずか分らんけども、あんたを必死で助けたんよ。犬はあんたに災いどころか、好運ばもたらしとるじゃなかね。
恭介とテリーの絆はあんたの実情を少しも伴わないお狐様信仰では断ち切れんと。それでんテリーをまた捨てるっちゆうんなら、恭介も捨てちください、勿論私も」
朋子自身が驚いていた。
口喧嘩では雷太の屁理屈にいつも丸め込まれていたのだから。
雷太の耳に刺さったのは心の瑕疵という指摘だった。朋子の本音が、心の奥底に沈殿していた忸怩たる澱を撹乱して、テリーの健気な忠誠心が濁った澱を掬い取っていく。
やがて雷太の心の新陳代謝が再稼働し始めていく。
「父ちゃん、僕も毎朝神棚に手をば合わせるきもうテリーをどこにもやらないで」
と手を合わせる恭介。
しばらく瞑目していた雷太が長めの息を吐き、語り始める。
「朋子、恭介、父さんは二年間銃弾の飛び交う戦地を生き延び、終戦で捕虜になり、命からがら帰って来た。守り神であるお狐様のお陰だと信じこんだ。何かのお陰と思わなければ、おめおめと生き延びた自分は天皇陛下に顔向けできぬ、死んでいった同胞にもだ。逃げていたのだ、慚愧や憐憫が怖くて。世間に対して斜に構えることで誤魔化していた。
母ちゃんに真摯な言葉でどやされて、テリーに生き抜くことの勇気を見せられて、父ちゃんやっと目が覚めることができたようだ。
テリー、ごめんなさい。本当に申し訳なかった。許してもらえるなら、テリーには曾我家の大事な家族の一員になってもらいたい。恭介、朋子、父さんを開放してくれてありがとう」
雷太が薄っすら涙して宣言した。
晴れて曾我家の一員になったテリー、早く元気になってまた野球場跡の原っぱで遊ぼう。
だが、恭介とテリーの姿が原っぱに影を落とすことは二度となかった。
人間用の抗生物質はたとえ塗り薬であっても、動物には少々過激で心肺機能に副作用が出たのであった。
衰弱してなければ、乗り越えられたのかもしれない。以前の元気なテリーだったら多分跳ね返せていたはず。
怪我は急速に回復していたのであるが、反面、テリーの心肺機能は限界を超えていった。
そして、ある朝、テリーは恭介の寝ている丁度真下の縁の下で、恭介の寝床に向かって、
ワンと一声。
恭介に別れを告げた。
テリーの顔は、安らかで、満ち足りていた。
完
以上で完結となります。
初投稿のため至らない点多々あったかと思いますが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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