第6話
そこは、人込みと大きな仕事車でごった返す街であった。
門司港駅行きと書いてあるバスがテリーを飛びのかせる。その横をダンプが爆走する、思わずテリーが後ずさる。
今迄経験したことのない圧倒的な交通量に圧倒されるテリーであった。
危ない街だと認識したテリーは、慎重に歩を進める。まずは腹ごしらえとばかりに嗅覚を研ぎ澄ます。
微に漂ってくる数々のにおいの中に忘れえぬものが紛れていた。
今となっては懐かしい我が子のにおいであった。
これは確かにミミクロ。そのにおいを辿ること10分、一軒家の庭先にたどり着く。
庭の中に犬小屋があり、何かに驚いたよう耳が黒い子犬が飛び出し、テリーのいる垣根に駆けてくる。
驚くはずである、忘れようもない我が母のおっぱいの匂いなのだから。何よりも恋しかった匂い。
あらん限りの力で尻尾を振り振り、垣根に鼻を突っ込むミミクロ。
丸々と成長している我が子の姿を認めるとテリーはワンと一鳴き、幸せにおなりと踵を返した。
行かないでと泣くミミクロ。テリーの姿が見えなくなってもいつまでも佇むミミクロ。
どっと空腹感がテリーを襲う。食べ物の匂いを追うと魚屋のごみ箱があった。
テリーが漁っていると、野良犬が飛んできて俺のしまを荒らすなと、今にも噛みつかんばかりに吠え立てる。
テリーは咥えている尾頭付きの骨は離さず、一目散に逃げた。
また一つ学んだテリーは、なるべく野良達のいない場所で空腹を満たしながら旅を続けていた。
ただ、迫害は野良だけでなく、悪戯っ子達も脅威だった。休んでいるだけなのに竹の棒でテリーを追いかけまわす。相手が弱いとわかると苛めはひどくなる。子供に限らず人というのは、己の鬱憤を晴らす為だけでも平気で残虐性をエスカレートし得るのである。
他人の不幸は蜜の味。とほざく輩のなんと多いことか。テリーの心がささくれてくる。
車で運ばれた景色の記憶と微かな匂いを頼りに恭介のもとに急ぐ。
国道沿いのドライブインのゴミ箱を漁っていると思わぬご馳走に巡り合った。レアなステーキとデミグラスのたっぷりかかったハンバーグ。我を忘れて齧り付くテリー。
そこに油断が生じていた。
野良犬二匹に囲まれていた。万事休すかと思われたその時、テリーはゴミ箱に残っていたステーキを放り投げた。野良達がそれを追いかけたすきにテリーは脱兎のごとく逃げ出した。ステーキに未練はあったが、背に腹は代えられない。だがその代償がほかにも待っていた。国道に飛び出したらスバル360(※16)がテリーの行く手を阻んだ。辛うじて交わしたのもつかの間、反対車線を走ってきたハーレー(※17)に撥ねられたのだった。
腰をしたたかに打ち、右後ろ脚が地面に着かない。もたついていると野良が追って来るやもしれぬ。いざりながらも必死で逃げるテリー。やっと水場のある公園にたどり着き、草むらの陰に体を横たえることができた。
じっと身を休めるテリー、これは怪我した時の動物の本能的自衛術である。
三日ほど休んだのだが、一向に足は良くならない。水は飲めるが空腹は満たされぬ。
さらに運の悪いことに悪戯っ子達に見つかり、身動きできないテリーをいたぶる。
「何してるん」と一人の女の子が男の子たちを押しのける。
「ヤバい、立夏ばい皆逃げろ」と悪戯っ子達が蜘蛛の子を散らすように逃げる。
立夏と呼ばれた女の子がテリーを見る。立夏は喧嘩は強いが気の優しい子なのだった。
「可哀想に、足がだらんとなって、怪我してるんやね」としゃがみ込み、頭をなでる。
その日から立夏は給食のパンと脱脂粉乳を残し、テリーに与える。おかげで悪戯っ子も近づかないし、少しづつだが体力も回復してきた。ただ足の具合いは一向に良くならなかった。
「お父さん、立夏がこの頃残りご飯を持って公園に行きよりますの。付いて行ってみると野良犬に餌ば与えちょるんですが。大丈夫でしょうか」と立夏の母、鶴が心配する。
鶴に促された父友和が立夏を連れて公園に行き、ぐったりしているテリーを見る。
「足骨折しとるな。立夏、うちの戻って割り箸と包帯を持ってきなさい」と友和。
立夏が持ってきた物でテキパキとテリーの足を正常に戻し添え木を施す。
テリーは、優しい立夏の引き連れて来た人に悪い人は居ないはず、黙って身を任せたのであった。
「これでよくなる。一週間で歩けるようになるだろう。それまで食べ物持ってきてやりなさい、立夏」と友和。
彼は学生時代柔道部に籍を置き、整復の心得はあったのだ。
立夏一家の優しさに触れ、雷太夫婦や悪戯っ子などの人間への不信感をいくらか払しょくできたテリーであった。
父の予想通り七日目にテリーは歩き出していた。
立夏が添え木を外してよいか聞くと、自然と取れるに任した方が良いと答える友和。
公園を去る決心をした日、テリーは食事を持って来てくれた立夏の後ろからそっと付いて行くと、立夏が入った玄関先でワンと吠えた。
出てきた友和、鶴、立夏の前で恭介だけに示していた小首をかしげる親愛の情を現す仕草をすると、ワンともう一鳴き、尻尾を大きく振りながら去っていった。
「賢こい犬だね、名前も知らないけど、立夏、良いことをしたね」と友和。
「わざわざ挨拶に来たんやねえ。世話してやって良かったね立夏」と鶴も納得。
「家で飼ってやればよかったかな、父さん」と立夏。
「いや、そうなら中に入ってくるはず。何かやるべきことがあるみたいだよあの犬は」
「首輪が付いとったき飼い主のとこに戻るんやろうね」
「無事に戻れることを祈ってやりましょうね」と鶴が手を合わせる。
ようやく門司港に別れを告げ、南下の旅を続けるテリーの姿が烏野峠にあった。
人間は優しい人よりもそうでない人の方が多いことも学んだ。苦難多き道のりが続いていた。
美しかったテリーの毛並みも、やつれ、色褪せてきている。
それでも恭介の町まで半分のところまで来ていた。すると、なんとナキムシの匂いが強くなってくるではないか、ナキムシの暮らす山田市は烏野峠を降りたところにあったのである。
恭介の待つ帰り道であっさりとナキムシの居場所にたどり着いていたのだ。
ミミクロより泣き虫のナキムシのことを考え、そっと風下の方から家の中の様子を見ると、ナキムシが子供とじゃれあっている。幸せそうだった。ほっとするテリー。ナキムシに気づかれぬよう別れを告げ、旅路に戻るテリーだった。
タロウの貰われていった先は行橋市である。この山田市は恭介の町へ帰る通り道であったが、行橋市は違っていた。海側に迂回することとなる。疲れ切ってはいたが、ミミクロとナキムシの安息を知り、タロウの幸せな姿も一目見たくて、重い足を引きずって、タロウの微かな匂いを頼りに海辺の町を目指すテリーであった。
旅慣れてきたテリーであったが、怪我の後遺症と疲れのせいであろう、瞬発力が落ちていたのだ。一匹の野良に捉まり、顔と前足をしたたかに咬まれたのであった。
この怪我を治すのに数日を要していたが、この数日の間にまた一つの優しさに巡り合えていた。
腰が90度に曲がったお婆さんに介抱してもらえていた。この出会いがなかったら、おそらくテリーといえども旅を続ける体力も気力も失せていたかもしれぬ。
人間不信への抗いにも疲れて。
満身創痍ながら、お婆さんに別れを告げ、またしても苦難の道に一歩踏み出すテリー。
やがて、軽くびっこを引きながらもタロウの様子を確かめると、ホッとして今度こそまっしぐらに恭介が待つ川崎町を目指すべく、最後の旅に出たテリーであった。
「今日も帰ってない!」縁の下を覗きこむ恭介の声が虚しい日々が続き、やがてそんな声も絶えて久しい晩秋のある日。ジリジリジリと終業のベルが鳴り、生徒たちが一斉に学校を飛び出す。
学校の帰り道、野球場跡の西側坂道の下の方で一匹の犬が佇んでいた。
恭介が友達の輝と一緒に坂道を降りてくる。
「恭ちゃん、なんかちょと汚か犬が座ってこっち見とるよ」気味悪いと立ち止まる輝。
「えっ、犬」まさかと思いつつ、輝を押しのけ、佇んでいる瘦せた犬を凝視する恭介。
こんな無惨な姿がテリーのはずない。いや、こんな姿でもテリーであってほしい。
入り乱れる感情が恭介をたじろがせ、近づけさせる。何かがこみ上げてきそうなのはなぜ。
そっと犬の前にしゃがむ恭介。犬が恭介を見る。そして小首をかしげた。
(無様なテリーで御免ね、約束通り帰ってきたよ、恭介。)とでもいうように。
「テリーイー」
恭介は涙を散らせながら大声でテリーの名を呼び、小刻みに震えているテリーを抱きしめた。
(※16)スバル、富士重工の軽自動車。当時は360CCの排気量であった。フォルクスワーゲン模倣車。
(※17)ハーレーダビットソンの単車。バイク好きの憧れの単車。