第1話
太平洋戦争が終わって15年、日本の隅々まで日常が行き渡った頃のこと。
此処は石炭から石油にエネルギーの変革が進み、寂れゆく九州の炭鉱町の小学校。
ジリジリジリと終業のベルが鳴り、担任が「掃除当番はさぼらんごと、後は帰ってよし」と。
その声が終わらぬうちに、脱兎のごとく下駄箱へ走る、もうすぐ二桁の年齢になる恭介。
その後を追いかける与之助と重徳。更に負けじとその後を追う富江。
二人が恭介を捕まえると校舎裏に引きずり込む。
片隅から覗き見ている富江。
幼馴染の富江は恭介を弟のように可愛がっていたのだが、恭介は席をおなじゅうせず(※1)の頃からなぜか避けるようにしている。女の子とつるむのは恥ずかしい年頃なのだ。
「きさん、持ってきちょろうね」と与之助。
「今日は母ちゃん便所行かんかったき持ってこれんかった」重徳に羽交い絞めされながら十円玉を差し出せない訳を言う。
「昨日も持ってこんかったな、重、殴らしちゃんない」
骨太に太い筋肉を纏った重徳が恭介の頭を小突き、尻を蹴り上げる。
身体をダンゴ虫状態にして被害を少なくするしかないへたれな(※2)恭介。
「明日はちゃんと持って来なな」与之助は告げると重徳を促し立ち去る。
「大丈夫、恭ちゃん」と富江が駆け寄る。
「せからしか」と差し出す富江の腕を振り払うと駆け出す恭介。後を追う富江。
家に帰るや否やランドセルを放り投げ、既に足に纏わりついている愛犬のテリーと共に走って三分ほどの、朽ちたバックネットが風に揺れる野球場跡の原っぱになだれ込む。
富江は一緒に遊びたいが、家の用事が山ほど待っている。先ずは洗濯物の始末からだ。
テリーと恭介は追いかけ追いかけられ、テリーの甘噛みにタックルで応戦する恭介。
やられた振りして突っ伏す恭介。首を三十度傾け、尻尾を振り、心配するふりのテリー。 この仕草は恭介だけに手向けるテリーの愛情表現なのだ。
疲れを知らない恭介と飽くことなく付き合うテリー。
一人っ子で友達も積極的に作れない恭介にとって、テリーはかけがいのない親友なのだ。
テリーは美しい琥珀色の毛並みを持ち、人間の気持ちを察する、頭の良い雑種犬だった。
今日も恭介はおでこに擦り傷を作っている。昨日は足に青タン(※3)を付けていた。
テリーは学校で恭介に何が起きているのか案じる日々が続いていた。
禁じられていたのだが、看過できなくなったテリーは、微かに届くジリジリ音を聞くと脱兎のごとく学校につっ走り、鋭い嗅覚で恭介の居場所を突き止めた。
ダンゴ虫状態の恭介が蹴られていた。躊躇することなく蹴っている男の子に飛び掛かると、足の脛に齧り付く。倒れたところを、更に腕や尻に甘噛みよりも幾分強めに、しかし傷つける程ではなく噛みついていた。隣にいた与之助が慌てて逃げようとして恭介にけつまずいて転ぶと、またも恭介が蹴られたと思ったテリーが与之助にも飛び掛かる。
暴力を指示し、眺めるのは好きだが、自らは親からも手を挙げられたことのない彼にとって、初めての痛い目であった。
テリーは恭介を促すと、一目散に家へ逃げ帰っていったのだった。
その夜、一台のダットサン(※4)が炭住長屋に乗り入れて来た。
(※1)7歳で小学校に入学すると、二人掛けの机と椅子に男女は並んで座らなくなる。
(※2)へたれな=弱虫なこと。
(※3)青タン=打撲によるあざ、概して青くなる。
(※4)ダットサン=日産自動車初期の社名ロゴ。各営業用車の頭につけられていた。