第二話:鼓膜の鼓動 ①
――いってらっしゃいませ、貴方様
閉じられる門と共に、懐かしい声が聞こえた気がした。それは私が一番愛した女、妻のアリアの呟き声。私の妻は当の昔に死去したのだ。だから先ほどの声は幻聴と言っていいだろう。それかこの地獄の場所に入ってしまった事により、私自身の精神が壊れかけているかもしれない。ガラスの声がアリアの声と重なり合いながら、欲望を見せて、聞かせたのかもしれない。そう考えると、どうすればいいのかと、ギュッと目を瞑り、暗闇の中で眠りにつくしか方法を知らない。
そんな私を配慮してか、廃人は力強く、言葉をかけてくる。
『時期に 慣れて いく 大丈夫』
区切り区切りで呟く言葉は、人からかけ離れているように思える。ガラス曰く、廃人には名がないらしい。葉人は人間として生きている訳ではないのだと言われたのだが、こいつも生きているから、どんな醜くても、廃人と呼ばれても、人なのにかわりはない。
元人間で、この罪木屑死に耐えれなくなって壊れた存在らしく、言葉も、忘れてしまった奴らが多いのが現状との事。そう変えてしまったのはこの舞台を作っている者共が原因なのに、何故、人間以下の扱いを受けるのか意味が分からない。
名前を忘れ、人として生きてきた事も覚えていない、ガラスの所有物になった彼等も、被害者なのだ。その姿を見ていると、ゾッとする反面、哀れに思えて不甲斐ない。
「ありがとう、君は名前欲しくはないのかい」
不安に埋もれる私を気遣ってくれた事で、少し心が落ち着いたのは言うまでもない。だからこそ彼に与えたいものがある。元は人間なのだ、いつまでも廃人と呼ばれるのは嫌なのだよ。例え彼いあどう感じようとも、それでも与えたいと思った。新しい彼の名を……。
『名前 ほしい』
人間扱いされたのが嬉しいのか、そう語る彼の両手に少し熱が籠った気がした。感情の高ぶりは、人間の熱へと繋がっているのだろうか。嬉しい表現も、何もしない、ただ短文を語る彼にも、まだ自我が残っている事を確認出来ただけでも、嬉しく思うのは何故だろうか。
他人なのに、さっき出会ったばかりなのに、何故だか分からないが、他人事のように思えない気がする。ふと思い出してみると、ガラスのあの微笑い、廃人、いや、彼に向けた微笑みからは愛情を感じ取れるほどだ。私と会話をしている時は、ガラスから感情を感じる事などなかった。まるで渡されたシナリオを読むように、淡々と語る、説明をするガラスは人とは程遠い存在に思えたのも、事実だ。だが、あの笑顔からは元のガラスの持ち合わせている、優しさがゆっくりと風のように流れ、綺麗な空間へと変貌したのも現実。
二つのギャップを持ち合わせる彼女の本当の姿は、彼女本人にしか分からない、謎な部分でもあり、不可思議でもあるのだが、それでも信じてみたいと思ってしまったのだ。私の感じた感情のままに、流れるように、向かっていきたいと。ここから脱出するのは苦難の技なのかもしれないが、それでもガラスの言う通り、五つの門を突破し、自分が生きるに値する、選ばれた人間になればよいだけ、そう感じるのは自己満足だろうか。
私とガラスは思考が似ていると言われたが、考えを巡らせば、巡らす程、彼女の伝えようとした事、言わんとしてきた事の意味が少し理解出来た気がする。これは単に、気のせいなんかではない。そう直観と突き刺さった言葉達が、騒めきを残しながら、私と彼を包み込んでいく。そうやって一刻一刻と時間だけが過ぎていくのだ。
「私が君に名をつけてあげよう、私でも大丈夫かい?」
『ほしい 大丈夫』
「そうか、そうか。安心した、少し考える時間をくれないかい?」
『ありがとう』
「いいのだよ、その呼び名で呼ぶのが嫌なだけなんだ。私の押し付けと思ってくれていい」
ふふ、と微笑みながら、頭を回してみる。人に名前をつける事など、ツミキ以来の事で、成人した男性につける事自体、初めての体験だ。こう言っちゃ悪いが、いい経験でもある。どんな事でも、マイナスな事などないのだ。
マイナスと呟いた瞬間にそうなるだけで、自分自身で、いくらでも変えていけれる。私は前向きな性格でもないし、後ろ向きでもない、その間と言ったらいいのだろうか。自分で判断しているだけであるから、どの部分になるのか分からない。自分の評価と他人の評価は違うもの。例え自分が満足していたとしても、それを判断するのは周りの人間や、評価位置にいる人達なのだ。だからこそ、自分のやりたい事をする、願いを叶える為に行動する。そこに努力なんてない。
難しい話になるのだが、努力と思った時点でそれは努力ではなく、当たり前の事だ。余裕があるから、自分を褒める事が出来るのだから。本当の意味の努力とは高め合いながら、極める事。誰かを抜く為のものでもなく、自分自身の為にするものなのだから。最近の若い人達は、努力やその他の日本語の意味を理解出来ていない部分がある。とても残念な事だ。
ああ、私の悪い癖だ。名前を考える為に、もらった時間を、自分の思考と興奮の為へと変換して、変えてしまうのは欠点だな、これは。自分で自分を叱りながら、元の話のレールへと戻していく。そう彼に名を与える為に……。
「そうだなサイと言うのはどうだろう?」
『サ……イ?』
「ああ、気に入らなかったかい?」
『サイ』
「そうだ、今から君の名はサイだ」
『ボクの 名前 サイ』
何度も何度も自分の名前を繰り返すサイの姿を肌で感じながら、喜んでくれているのか不安になる。それでも私みたいな人間を知らないサイは、何度も何度も手に力を入れて私を抱きかかえる。私自身小柄ではないのだから、しんどいはず。
それでも、体制を何度も変えながら、私を守ろうとするサイの姿はなんとも逞しく、輝いているのだろう。出会う人との縁に恵まれている、愛情にも恵まれている方だと、彼を見つめて再確認した。そうだ、当たり前の日常が一番の幸せ。どうして忘れて、いたのだろうか。彼にも両親がいたはずだ。そして家族がいたはずだ、恋人もいただろう。こんな所に閉じ込められて、苦しくはないのだろうか。ふいに彼に聞いてみたいと思った。
いくら感情を忘れたと言っても、元人間なのだから、感情を取り戻す事も出来ると考える。そうやって少しずつ沢山の美しい記憶を取り戻し、人へと戻したい。余計なお節介かもしれないけれど、支えになってあげたいと思うのだ。彼が歩く旅に色々なトラップが発動する。普通の人なら痛みを感じて、悶えるであろう内容でも、彼には関係ないらしい。どういう体の構造になったら、こうなるのだろうか。人の手を加えられて、こうなってしまったのだろう。
人間は欲、探求心、そして金に目がくらむと、してはいけない事もしてしまう所がある。だからこそ、私に出来る事があるのならば、何だってしてあげたい。
「名前、嫌いかい?」
『大好き ボクの名 綺麗』
「そうか、それならよかった」
感情の見えない相手と会話を続ける事が、こんなに難しい事だとは考えていなかった。まるで言葉を覚える前の赤ん坊おようで、自分に息子が出来たような錯覚に陥っている。嬉しいという感情を忘れていた気がする。平和ボケしている証拠だ。自分が窮地に陥って、やっと分かる事が沢山ある。そうやって彼にはサイと名前を与え、私は今までを振り返りながら歩いていく。その時、サイが踏み出した右足が、床へとめり込んでいく。実際に説明すると、床に仕掛けられたトラップを踏んでしまったらしい。周りの空気の温度が冷たくなり、何かが飛んでくる、音が聞こえる。ビューン、ビューンと、まるで矢が放たれたような、鋭く、早い音が。
『気を つけて 針 飛んでくる』
「針?」
『ボクが あなたを 守る 安心』
その時のサイの言葉から、優しさを感じたのは言うまでもない。ググッとより深く、私の体を包み込む、体に力が入り、少しずつ広がっていく、サイの体。まるで大切なものを守るかのように、私の全身を包み込んで、離さない。なんだか嫌な予感がする。予感というものは虫の知らせとよく似ていると思う。そうやって直観に従いながらも、動かす事の出来ない自分が、歯がゆい。
私はまだ聴覚を取り戻してはいない、それなのに、何故、音が聞こえるのだろうか。不思議な現象だが、ガラスとの会話を思い出し、確信する。心の声、それが音となり、耳となり、私に警告をしている事に。もしかして私自身も、あちら側の人間に、何か細工をされたのかもしれない。それがどういう物で、何の為に、何が目的なのか検討もつかないが、それだと全てが繋がるのだ。
こうやって私を含め、幾人もの人達が壊れて、廃人になるのかと考えると、ゾッとする。人間を虫けらみたいに扱う、あちら側の人間達に嫌悪感を感じるのは当たり前の事。
『何も 聞いては だめ 感じるのも いけない』
「何故?」
『優しい人 だから 悲しむ』
「え」
ビューンと音が近づいてくる、そしてサイのうめき声が木魂する。私の心の耳を通して、永遠に忘れる事のない、破壊の音を降り注がせている。
「サイ、サイ」
何度も、彼の名前を呼ぶが、返答などない。その代わり、ピクリと動く体で、生きている事を感じる事が出来た。そこは安心した。その時にグサリと肉を貫く、鈍い音が聞こえてくる。
これは……まさか。考えたくない予測がピタリとパズルみたいにはまったのは、私の頬にサイの血液らしきものが降り注いできた時だ。守られている私では、彼を助ける事など出来ない。匂いはツンとし、そして唇から入り込んでくる味は、鉄の錆びたような味。頬に注がれたものは温もりを感じる。やはり、これは。サイの血。私を守る為に、針と言う名の矢を受けてしまったのだろう。
「私の事はいいから、自分を大事にしなさい」
『…… ダメ ガラスに 言われた ガラス 優しい 貴方も 優しい だから……』
サイは何て純粋無垢な子なのだろう。そうやって性別が違うのに、ツミキと重ねてしまう私がいるのだ。パパ、大丈夫、あたしがいるから。ニッコリと微笑むツミキが私を包み込み、サイの心臓の奥へと浸透していく。心の繋がりがあるように。ツミキが傍にいるような優しさに包まれて、耐え切れずに、涙する事しか出来なかった。
「うう。どうして」
何が何だか分からない、感情がドバッと放出して、涙腺を緩ませていく。止まらない、止められない、止めようがない。こんな時、体を動かす事が出来たのなら、守れるというのに、無力とはこんな感情の中にあるのか。傍にいるのに、何も出来ない。歯痒い、焦り、そして苦しみ。また針がサイの体に刺さる。グシャリと聞きたくもない、音だけを残して。
「やめてくれ」
私の言葉を無視するかのように、逆に加速していく針が肉に刺さる音。降り注ぐ血の雨。ガラスも、これを経験し、涙したのだろう。私と同じだと言うのなら、試されている事も同じなのだな。全て、分かったうえで、サイに守れと伝え、私に涙を流させるなんて、卑怯で卑劣で、それでも優しさと哀しみを感じてしまう。
『ガラス 待ってて 助ける』
譫言を呟くサイの言葉は、はっきりと心に刻まれていく。助けるだと?ガラスを?どうなっているのだと考えるより先に、また針が突き刺さる。もう誰も失いたくない、目の前で絶滅されるのは耐えられない。アリアの時もそうだ。自分の命が危ないのを知って、それでもと、ツミキと自分の命を天秤にかけ、私だけを残して、逝ってしまった。サイもアリアのように、形は違えど、消えてしまうのか?ここで会話相手として、心を許せる相手として、選んだ人間なのに、何故、こうも簡単に奪い去ろうとするのだ。
『あううううううう』
サイの悲鳴が加速していく。もう何も聴きたくない、もう聴覚などいらない、欲しくない。もういいから、足手まといな私を捨てて、置き去りにして、逃げてくれ。その願いも叶えさせてもらえないのか、罪木屑死は。罪を乞いながら、木は命と血を吸き上げ、星屑の一部へとなるように、死を誘う。そこから来ているゲームの名だと、思ってしまう。自分だけが生き残るなんて、ストーリーはいらない。皆が一緒に、ここから脱出して、本当の幸せへと戻る。それが一番なのに。理想はあくまで理想、現実とは違うと言う訳だ。
そんな時、ガラスの声が聞こえた気がした。こうなる事を分かっていたかのように、ジンワリ現れる声の主。そして私の心の涙を拭いながら、囁いてくる。大丈夫ですよ、サイも死にません、勿論貴方も、と。私の不安を感じ取ってか知らずか、優しく囁く声に縋り付きそうになる。私はガラスだけに聞こえる心の声に変換し、助けを求めるのだ。サイが可哀そうじゃないか、彼が何をした、どうしてこんな事を、と。冷たい空気は徐々に薄まりながら、怪しい空間へと移り変わる。その瞬間、針の解き放たれる音が止み、サイの力も弱まっていく。
『もう大丈夫ですよ、ギイロ様、そしてサイ』
サイの体は縮小し、私の視界は解き放たれる。そうすると、どうだろうか、まるで白昼夢の中にいたかのように、何もない。サイも無傷、そして血も、涙も消え失せ、そこには私とサイ、そしてボンヤリと映るガラスの姿がある。ガラスだけは実体ではなく、映像そのもので、まるで映画を見ているかのようだ。
『ガラス どうして』
「ガラス、どういう事だ、これは」
『ガラスが 現われるの 珍しい』
『ふふふ。これは人間達で言う仮想体験ですよ。痛みを感じ、温もりを感じる事が出来た貴方は、優しい心の持ち主。肉体で体温を感じずとも、心で感じる事が出来る、他の参加者の方々には出来ない芸当なのです。そしてサイ、よかったですね。名を与えてもらえて、感情を失くした廃人になった貴方が、自ら守りたいと思ったのは私とギイロ様の二人だけ。やはり私の目に狂いはなかった』
「仮想体験だと?あんなもの。サイも苦しんでいたじゃないか」
『ギイロ? 貴方の 名?』
三人の言葉のやり取りが交差しながら、演奏が始まる。私は怒り、サイは驚き、そしてガラスは。私にも読み取れぬ、心の音だ。
感情的になって、冷静さを失った私は、簡単に言えば、このゲームの三つ目の門を潜るに相応しくない人間だ。それなのに、何故生きているのか理解出来ない。ここにいる時間が経過すればするほど、頭脳の回転が鈍くなっていくのだ。それ位は、私にも分かるのだから。怒りに塗れた、私の代わりに、サイの質問に答えるのは、淡々と話す、ガラスだけだ。私にはサイの声は届かない。
『サイ、その通り。ギイロ様と言うのよ、覚えておきなさい。貴方の名づけ親なのだから』
『親? それは 何?』
『お父さんいたいなものよ。それなら分るでしょう?』
『おとう さん』
「ガラス、お前は一体」
『すみません、ギイロ様。サイは赤子同然ですので、父親を知らないのですよ。奪われたと言えば、伝わるかしら』
『おとう さん』
「奪われただと?」
『貴方に分かりやすく伝える為に、言葉を選んだだけなので深い意味はないです。想像にお任せしますね』
『ボク の』
「想像に任せるって、それは無責任じゃないか」
『私の口からはこれ以上、伝える事が出来ません。禁止されていますので、ご了承お願いします』
『ギイロ おとう さん ボクの うれしい』
言いたいことは山ほどある。しかしサイの事を考えると、怒りで、感情をぶつけても意味がない事を知る。私が踏み込んではいけない領地なのかもしれない。助けたい、救いたい、そう願っているのに、結局は、一人よがりじゃないか。
私とガラスを残して、立ち尽くすサイの姿が少しずつ潤いを取り戻していく。フッと目を閉じるサイを見ていると、その奥から可愛らしい男の子が這い出てくる。
首を傾げ、目を瞑る男の子は、サイを取り込みながら、人間へと成長していく。そして瞼が開かれ、私と視線を合わせて、こう呟く。
『ボク の パパ』
「これ……は、一体」
怪奇現象が起こっているような幻想が開かれながら、先ほどのサイの姿とは別人の姿を持ち、私とガラスを交互に観察している。まるで生まれたてだ。
「ギイロ様、この子はサイなのですよ。囚われの身になっていたサイを救えましたね。人として再び、鼓動を刻んでいくのだから』
「どういう事だ?」
『これは三つ目の門の難問の一つ。犠牲により、人を救いたいと思う心を思い出せるか、どうかのテストの一つと言っていいでしょう。貴方は突破したのです、そしてサイの本当の姿を取り戻す事が出来ました』
「本当の姿だと?」
『ええ。名を与える事により、サイは名付け親に愛情を感じるようになります、そこから自我が生まれ、守りたいと気持ちが沸いてくる。三つ目の門はお二方の難問と言えましょう』
「……ガラス、もしかして、サイを助けたくて、私に託したのか」
『それにはお答えできません。私にも言葉の『スペル』があるのです。ギイロ様、貴方と同じように』
私とサイの運命を替える為の三つ目の門の試練と言うのか?これが?あまりに残酷だが、本来の姿を取り戻したサイの笑顔を見ていると、どうしてだか切なくなる。そして訪れる。私の聴覚が戻る瞬間が。聴覚を失った代わりに心の耳を得ていた私は、元通りに戻ると、心の耳の存在が消えていくのを感じた。より鮮明にリアルに感じる音の数々に、怯えながらも、元に戻ったのだとホッとしているのが本音だ。