⑥
そう断言すると、それは違うよ、パパ、これは作家として大切な感情の一つなの、と小説家としての役職を盾にして、言い訳を言うに違いない。一人は死んだ妻、そしてもう一人は生き写しの生きている娘。二人の間に揺られて、揺れているのは、年老いた私。
何事もなかったかのように、朝食をとった。食卓の空気感は、いつもとは違う、違和感を感じる。そりゃそうだろう、あんな事があったのだから、気まずいに決まってる。しかしお互い違う時間帯に会社に出勤し、時間が流れてくれれば、少しずつ元通りになる。二人のどちらかの線路が脱線しない限りは、大丈夫だと信じたい。私は、どうにか制御出来るだろうが、ツミキは分からない。行動の予測が出来ない。
あんな娘の姿を見たのは、初めてなのだから、仕方ないと言えば仕方ない事だ。
会社に行く道のりが、いつも以上に、重たく、遠く感じるのは、私がツミキを想っているからだろうか、まるでツミキが私の背中を引き寄せ、行ってはだめ、と止めているふうに感じてしまう。
ああ、まずい事をした……。
そうやって、感情が落ち着きを取り戻すと、後悔している自分がいて、恥ずかしいのとしょっぱい。今日の始まりは、いつもとは違う始まり。そして現在の心も、いつもとは違う。空間が捩れると、感じるものも、見える景色も、別物に変わっていくのだ。全てが初めてで、ある意味新鮮なのだが、私には余裕がない。
ツミキはこの余韻を楽しみながらも、小説のネタにするのかもしれない。あくまでフィクションなのだから、本当にあった事、などと思う人間は誰もいないだろうし、いつもと違う作風に、読者は心を躍らすのかもしれないな。そんな事を考えていると、遠く感じた職場への道のりも、時間もあっと言う間だった。
(アリアが私の立場だったら、どのような行動をするのだろうか)
私の問いかけに応えるかのように、風がブワッと吹き荒れる。今日も寒さを感じるのだが、鳥肌を立たせてしまうのは、季節の寒気のせいなのか?本当にそれだけなのだろうか。傍でアリアが見つめている気がする。風が吹いたのは、アリアの感情表現の一つなのかもしれない。私は昔から、不安になると一つの物事に異常な執着をする癖がある。人間に執着はしない方だと思うのだが、それも自分の目線での話だ。他者から見たら、異なる解答を得る事になるのかもしれない。
『どうしたんですか?結城さん、顔色悪いですよ?早退した方がいいのでは?』
同僚がいつもと違う、雰囲気と顔色に気付いたみたいだ。私って、そんなに感情が表に出るのだろうか。隠しているはずなのに、いつもの環境にマッチしていない、違和感も感じているのかもしれない。何事があったのだろうか、と詮索をしてくる、同僚の魔の手から逃げるように、ビジネススマイルを炸裂させていく。すると余計に、浮彫になり、何か悪いものでも、食べたのでは?と更に心配させてしまう、オチつきだ。
そんな私を見かねて、裏で上司に同僚が一言伝えたらしく、強制的に、帰宅を命じられた。体調など悪くないのに、仕事位、まともに出来るのに、病人扱いされるのはプライドが許せない。
表では温厚な『結城ギイロ』として通っているから、こそ、怒鳴る事も、暴れる事も出来ない、それを考えてしまう時点で、不安定なのかもしれない。結局、何も言えず、上司の命令で、早退する事になった私は、数時間働いたのち、家路を辿るはめになる。
右手に巻き付けてある時計の針を確認すると、午後二時。この時間帯なら、ツミキも家にはいない。私の出勤時間は七時から、そしてツミキの出勤時間はお昼からなのだから、安心している自分がいる。否定は出来ない、体調は悪くないが、心の感情を制御出来ていないのだから、周りに誤解されても仕方ない部分もある。
これは私自身の弱さが原因、ツミキも誰も悪くない、悪いのは私一人だ。それで充分なのだから。
「はあ……」
最近溜息がより一層多くなってきた気がする。最初はツミキの誘惑から始まった。何度避けても避けても、追ってくる月のように、しつこく感じていたのだが、環境というものは残酷だ。それが当たり前になりつつある。いつの日にか、感情も麻痺してしまうのかと考えると、恐ろしくもある。
それ程、ツミキには影響力があるのだ。父として見てきたのだから、一番の理解者の私だから、こそ分かってしまう。本音を言えば、そんな事知りたくも、理解したくもなかったのだが、もう遅い。
ガラリといつも通りお引き戸の音が耳を掠める。ただいまと言って入っていくが、返答がない。ホッとしたのもつかの間、ツミキのおかえり、の返答が返ってきたのだ。この時間帯なら、バイトの時間のはずなのだが、どうしているのだろうか。今日が休みとは、何も聞いていない。
「ツミキ、何故いるんだ?」
『それはこっちの台詞』
「少し体調が悪くてな。早引きしたのだよ」
本当の事を伝えると、弱点を見せてしまう事になる。それだけは避けたかった。お前の事を考えていた、止まらない感情に、誘惑に負けそうなのだ、なんて伝えてしまうと、ツミキは喜び、より強固な誘いをしてくる可能性があるからだ。それだけはなんとしても、阻止したい。職場の人間も、本当の理由など知らないから、体調のせいにしとくのが無難だと感じたのだ。
それが選択ミスだとも知らずに、軽々しく、口にする私がいる。
考えたらわかる事だ。
体調が悪いと言えば、ツミキの性格上、心配をするし、看病もする。全てほっぽり出して、私に尽くす事に、何故気付かずにいたのだろうか、と恥じてしまう。それは今ではない。ここから始まるのだ。序章でしか過ぎないのだから……。
『えっ。大丈夫なの?』
「大丈夫だ、少し休めばよくなる」
そう呟くのは本音そのもの。少し時間が経てば、収まる事なのだから、嘘など言っていないのに、ツミキは違う捉え方をしたようだ。
『無理してたから、疲れてるんだよ、今日はあたしに任せて、ゆっくりして?』
スルリと近づいてくる、娘は上目遣いを無意識にして、私を見つめてくるのだ。潤んだ瞳で、それが溜らない。
「大丈夫だから、一人にしてくれ」
いつものツミキなら、そっとしてくれるのに、今日に限って違った。そうは問屋がおろさない。
『ダメ、あたしが看病してあげる、きっとよくなるよ、すぐに……』
何故だろうか、言葉の節々に余韻があるのは、怪しく微笑む、娘の姿に何とも言えない、感情の渦が出来ていく。そして華奢な手で、そっと私の両頬を掠め取り、おでことおでこをくっつけてくる。グイッと引っ張られた顔はツミキの体温を感じながら、夢想へと堕ちていく。誰が考えたのだろうか、こんな事になるなどと、神など、この世には存在しない。いるとしたら、神に化けた、悪魔か堕天使といったところか。
「何をして……」
『何って熱を測ってるの。こうやるのが一番いいでしょう?落ち着くし』
「体温計があるから、そんな事しなくていい」
『あたしがしたいの、いいでしょう?ギイロさん』
「また名で呼ぶのか」
『当たり前、あたし、もう自分に嘘、吐きたくないから。こうやって行動で示すの』
「お願い……だ、やめてくれ」
『やだ。ギイロさん、愛してる』
「ツミ……つっ」
抵抗する間も与えてはくれない、娘。もう後戻りは出来ない気がする。私は理性と父という顔を壊さぬようにしているのに、ツミキは違う。今の関係性を壊そうとしている。そして私の心と体が反応している事にも気付いている。
小説家として、鍛えてきた見抜く力のせいだろうか。遊ばれている気もするし、私が実験体になっている感じもする。私の言葉を遮るように、唇を合わせてきたツミキの誘惑から逃れる術を知らない私は、動揺と共に、頭の理性と言う線が、プツンと切れた音が聞こえた。
もう、いい。流れるままにしよう、いつもならそんな事考えない、タブーなのだから。ツミキの策略に、まんまと嵌められた私に、もう逃げ場などない。
『ん……』
「くっ……」
脳が蕩けていく。額から彼女の熱を感じ、唇で愛情を感じてしまう。私の逃げようとする唇を逃がすまいと、強引に続ける、ツミキは悪女。だが、それも……いいものだ。
『はぁ』
「あぁ」
互いの愉悦がぶつかり合いながら溶けていくのが分かる。心も体も、もうダメだ……、理性が飛ぶ、自制が効かない。その瞬間、私も男だと身を持って知る。吐きつけられた現実は鋭い牙を剥きだしながら、崩壊へと導いていく。それはこれからの未来を変えてしまう程、衝撃的なもの。
お願いだ、今なら、まだ、戻れる、そう心で拒絶していても、柔らかな若い唇から、逃げる勇気を持ち合わせていない、私は。逃げ遅れて、場の雰囲気に流されてしまう。熱などないのに、本当に熱が出ているように、火照って熱い。
ほら、よく子供が知恵熱を出すだろう?あれと同じ感覚だ。何分間唇を合わせ、味わったのか分からない位、時間が流れている。そしてダランと唇を開けてしまった私は、ツミキの舌を受け入れてしまったのだ。私の味を味わうように、ねっとりと絡み合う互いの唇と舌が、より熱をあげていく。
『つううう、ん』
『ああっ』
今まで隠していた欲望そのものをぶつけるように、ツミキは激しく舌を絡めてくる。逃げようとすればするほど、唇を抑えて、獲物を捕らえるように、しっとりと、堪能しているのだ。徐々に意識が薄れていくのを感じた瞬間だった。満足したツミキは、プハッと唇を離し、私の唇とツミキの唇を一本の糸が繋げて、少しずつ遠ざかって、切れていった。
「ツミキ、何を……」
『気持ちいいね、パパ』
先ほどまで、ギイロさんと口にしていたのに、こういう行為をした後にパパなんて呟くのは、確信犯。こうやって、コロコロと言葉を変えて、快楽を私に落としていくのだ。ツミキもいい大人、だからこういう経験があるのは分かる。しかし、なんどだろうか、このモヤモヤした感じは。
「何をしたのか、分かっているのか?」
『ん。遊びだよ、遊び、続きする?』
「いい加減にしなさい」
怒ってなどいない、怒る訳がない。私もアリアからツミキへと感情が傾いているのが事実なのだから、流れに逆らう事も出来ないのが現実だ。だが、止める事は出来ると思いたい、信じたい。ツミキのこれからの為にも、このような経験は、これっきりで終わらせたいのだ。
アリアとの時も押されて、あのような形になったのだ。さすがは血を受け継ぐ者、本当に、よく似ている。心も体も存在も空気も、そして色香も、そっくり、そのまま。アリアと同じなのだ。いや、アリアよりも魅力的かもしれない。私の血も混ざっているから余計に、その背徳感が快楽へと代わり、気持ちよさが先行してしまうのだろう。
昔、聞いた事がある話がある。肉親との交わりは、他者との交わりよりも、心地よく、感じやすい事を。経験などした事なかったのだが、昔の部下の話を聞いた事があるので、今更ながら、思い知る。これがその感覚なのかと。人間から動物に堕ちてしまいそうな、恐怖と快楽が心を支配し、人としての理性を喰らっていく。
微睡みは、徐々に落ち着きを放ち、そして少しずつ、二人の息も落ち着いていく。
『ごめんなさい』
お互い、理性的に戻ったのだろうか。ツミキは私の様子を伺いながら、シュンと子犬のように、しょんぼりしている。余程、私に嫌われたくないのだろう。多分だが、私になら、何をしても許される、きっと受け止めてくれると、信じていたのかもしれない。そこが、まだ若い証拠でもあるし、甘さでもある。
「忘れなさい、私も忘れる」
『……なかった事にしたくない、思い出の一部分として覚えておきたいの。それはダメですか?パパ』
「ふう、勝手にしなさい」
『……』
「看病はしなくていい、私は大丈夫だから、仕事に行きなさい」
『今日バイトは休みだもん』
「なら本業の小説を書けばいい。いい材料になっただろう?」
『そんな事、何で言うの?』
そう、嫌味だ。こうやって嫌味を吐く事で、心を突き放す事が出来る。崩れてしまった関係は元には戻せない。失うと言う事を知るべきだと、教えるべきだと思ったのだ。内面は、快楽に溺れていたが、それは内緒。私の心の中だけで留めておくのが重要。魔が差した。ただそれだけの事なのだから、水に流せばいい。後は時間の経過がなんとかしてくれる。
『あたしの事、嫌いになったの?』
その言葉から逃げるように、無言でその場を去る。バタンとドアの音だけを残して。
戸惑いは 成れの果てにて ゴウゴウと より美しく より残酷に
泣き声は虫の鳴き声のように、シンシンと囁きかける。心の奥深くへと。私にもその他の人にも聞こえるその音色は、悲しみの呟きを残す。あれから楽しい家族生活は無になった。以前に比べて、会話も減ったし、笑顔も減った。
アリアが幸せに、と願った夢とは違う現実に耐えれない私は、言葉を発し、ツミキの心へと問いかけるように、努力しているのだが、私の拒絶が、相当ダメージとして残ったらしく、開こうともしない。
そこが本当の始まりだったのだろうな。
現在でも思う、あの時、受け入れていたなら、ツミキを助ける事が出来たのかもしれないと、心を癒すオアシスのような存在として、永遠に繋がっていたのだろうとも思ってしまう。