③
その言葉を聞いてしまった私は、アリアの微笑みを思い出すだけで、心が崩れそうになる。子供が欲しいと二人で愛を育んだ事もなかった事になるのか?最初から存在してなかったみたいに。……それはあまりにも残酷だろう。
そんな事を頭の中でグルグル回りながら、考えていると、私の心を無視して、話を続けていく、淡々と。そこには優しさと温もり、そして何も亡くなった『無』そのもの。
「どうして……」
『……持病の再発です。心臓が持つか分かりません。子供さんを産むのは母子共に危険ですので、今回は諦めたほうが……』
「聞きたくありません」
『ギイロさん、現実を受け入れないといけませんよ。奥様にもきちんと説明しますので』
「……説明ですか?アリアに何と言うおつもりで?」
『先ほど、貴方に伝えたのと同じふうに伝えます』
「アリアの気持ちは……私の気持ちは、考えていないのですか?」
『言わないと、知らないと、ダメでしょう?分かりますよね?』
何故だろう、淡々言葉を並べているように聞こえるのは、そこには始めから感情なんて存在してなかったみたいに、表情を一つも変えず、説明する男のビジネスフェイスには度肝を抜かれた。いつもなら、そんな事を考えるが、今はそんな余裕なんて持ち合わせていない。孤独の闇に封鎖された私の心は、どこに流れ着けばよいのだろうか。
過去の出来事は現在の私から見ても、残酷で悲しい。しかし、あの時、もっと自分が出来る事はなかったのかと考えると、ああ、しとけばよかった、こう言えたらよかったと後悔しか出てこないのだ。
過去も現在も、自分勝手で身勝手な私。何も変わっていないと感じながら、アリアの幻影を追いかけている。見えないものを見ようとするな、昔祖母に言われた言葉だが、現在がその状況なのかもしれない。いくら見つめても、追いかけても、もどらぬ過去に、命に、私だけが取り残されて、不毛な状況に堕とされているのだから……。
ああ、なんてことだ、不毛なんて使ってしまう私は愚か者。
やはり自分の事しか考えていない、自己中心的で罪人なのだ。ランダムで選ばれて、こんなゲームの参加者になったとは考えにくい。他にも突破した人間が二十名いると言う事は、何かの共通点がある、そう考えるのが安牌だ。
『ねぇあなた……』
しょんぼりする現在の私にアリアの滅んだ声と、逆に産声をあげた、私の娘『ツミキ』の誕生した瞬間を思い出した。私はどちらかなんて選択出来なかった、しかし、アリアは違う。自分の命をかけてでも、生命の鼓動を感じるこの子を産む事を選択したのだ。何もせずに諦めても、ダメじゃないの?と怒られた日を懐かしく思いながら、瞳に涙が溜っていく、砂時計のように。
時計の針は戻る事などないのに、何を期待していたのだろうか。失う事も考えてなかった。アリアの言葉を信じて、アリアの嘘に気付けなかった。
母子共に危険と言うよりも、本当に危なかったのはアリアの方だったのだと、アリアが綴っていた、私と娘に向けての『遺言日記』を読んで、初めて気付いた。そう、最初に私に男は伝えたのではなく、アリアに伝えて、どうするのかと猶予期間を与えていたのだ。前々から仲の良い二人は、私から離れた所にいて、微笑んでいたのだと、そう思ってしまったんだ。それは、あくまで嫉妬。醜い感情の塊なのに、否定出来ない自分がいる。
読み進めていく日記、半年前から書き始めたようだ。それを考えると、その時期から全てを理解していた、と推測出来る。男をとっ捕まえて、どういう事だ!と聞くのが手っ取り早い、しかし、それはアリアを苦しめる事になる、そして、私達二人の関係もギクシャクしてしまう事にもなってしまうだろう。
一番賢い選択は、知らない振りをする。脳ある鷹は爪を隠すと同じ、環境の中で関係性が壊れてしまう時に、そっと男だけに事実を提示すればよいだけなのだから。そうすると男も理解するだろう、アリアの体に負担をかけまいと行動するに違いない。
優秀な医者なら、その選択肢しか選んではいけない、私はそう思うのだよ。三人、それぞれの価値観と優しさの表現は異なる。私には私の考えと筋があるし、アリアも男にも個々の考えがある。その三人の思想と感情が入り混じりながらも、時間を食い止める事も出来ない。ずっと支えてきてくれたアリア。傍にいたアリア。今度は私が支えとなる番なのだから、感情的になるのはよそう。
幸福な事なんてありはしないのだから。
感情に身を任せると、崩れていくのが環境と言うものであり、人間の形。そう考えると心なんてない方がいい。どれだけの苦しみや悲しみがあっても、動じる事がない方が、生きる身としては楽なのだが、仏は私達に試練を与え、感情と頭脳、どちらを選び、行動するかによって、未来の進むべき道を愉快に観察している。
そんなしょうもない想像、妄想をする事で、理性を保とうとしている、自分は子供でしかない。
(医者は医者の勤めをしているだけ、私とアリアの問題なのだから、彼には他人事なんだな)
心の弱い私は、アリアの前で悟られないように、微笑みを零し、いつも通りの接し方で愛する。クスクスと幸せそうに微笑むアリアを見ていると、目頭が熱くなるのは秘密だ。これは私だけの内緒の話。心の呟きと思っていただきたい。
『私達のあかちゃん、女の子らしいよ、嬉しい』
本当にいい表情で笑うんだな……。
キュウと胸が締め付けられ、今まで、何故、心を閉ざしていたのだろうと、責め続ける。私はアリアに苦労しかかけてないのだから。それでも笑顔を絶やさなかった、諦めなかった、彼女は母親の顔に変化し、揺らいでいる。私の不安と焦燥感のように揺らいで、泡になる、消える人魚姫のように。
「……産みたいのかい?」
ポツリと呟いた声が、アリアの耳に届いていないと思いながらも、零した言葉。心の不安を全て拭う事は不可能だ。これが私の弱さなのかもしれないな。アリアと子供、どちらを選ぶなんて、残酷な事をさせるものだ。私は我に返り、手で零してしまった言葉の余韻を集め、飲み込もうとしたが、遅かった。アリアは、その呟きを耳に震わせ、そして悟ったように呟き返す。
『私とギイロ、貴方の愛の結晶が、この子なのよ。産まない選択肢は考えてないの。例え私がどうなろうとも』
「……っ、アリア」
口角は上げているが、瞳は泣いている。
私からそのような言葉が出てくるなんて、考えていなかったのだろう。吐いた言葉は元には戻せない。当時は、そんな顔させたくなかったし、聞いてはいけない言葉だと考えていたが、この子……アリアの忘れ形見のツミキを育ててきて、聞いておいてよかったと思っている。
ツミキがいつか大人になり、母の事を知りたいを願った時に、色々語れるし、この『遺言日記』も読ます事が出来る。泣く可能性もあるが、アリアの真心に触れる事は出来るから。母の温もりを知らないツミキの心を支えるのは、父親の私しかいない。役目もきちんと果たさないと、妻に申し訳がたたない。
オイオイと涙する私の昔が瞼の奥でゆっくりと沈み、消えていく。最後まで、その時が来ても、笑顔でい続けるつもりだったのに、それが出来ない私は夫として失格なのかもしれない。そんな私を見ても、仕方ないんだから、ギイロ、私はいつまでも傍にいるから……、その温もりで余計涙が毀れたのは言うまでもない。
時は過ぎ 産声だけが 残りゆく 果てなき先の 苦しみの中
命は枯れ、時は過ぎ、私も年を老い、そしてアリアの娘、ツミキはアリアの生き写しのように、美しく育った。昔の思い出を感じながら、複雑な心境になっているのは内緒だ。
私の心にとどめていきたい、この気持ちはまがい物なのだから。私はツミキを愛した。アリアの代わりなど考えれないので、誰とも再婚せずに、時の流れのまま、どこに流れ着くのか、楽しみでもあり、悲しくも儚い夢を見つめている。
そんな私の心境に、気付く事のないツミキが私の腕に抱き着いて、上目遣いをする、見つめてくる瞳は、宝石そのもののようで、怪しくもあり、心を搔き乱している。いつか私とアリアが互いに愛したように、この子にも愛する人が出来るのかと、未来を考えると、チクリと痛みが走ったんだ。男一人で育ててきた、愛娘でもあり、ある意味、愛人にも似た立ち位置なのかもしれないな、そう心で呟きながら、ツミキの瞳を見つめ返した。ふふふ、と微笑むツミキは、本当に美しく育った。
あの時のアリアのように、同じ表情、仕草、そして色香。
ああ……堪らない。
『パパ、どうしたの?』
不思議そうに首を傾げるツミキ。私はその視線から逃れるように、顔を背けた。
『あー、またあたしから目を逸らすんだー。パパってば、恥ずかしがり屋さんなんだから』
「大人をからかうの、やめなさい」
『えー、つまんなーい』
駄々っ子のように、むう、と頬を膨らまして、いじけるツミキは愛らしい。この子に恋焦がれる人はこれから、どんどん増えていくだろう。今でさえ、告白されたとか、ツミキから聞かされるのだから、父としても、思い人としても複雑なのだ。
そう、結論、私が再婚を選ばない理由は、娘にある。独り占めしたいと男としての感情と、家族愛の狭間にいる私は、本当に罪人。自分の気持ちを否定しても、溢れる気持ちに嘘をつけずにいる。唯一、誤魔化しながらツミキに気付かれないようにするのが、精一杯なのだ。
「いい大人なのだから、こういうふうに、甘えてくるのもおよしなさい。彼氏も出来ないぞ?」
男としてより、父としての発言は現実を突きつけながら、また私を傷つけていく。アリアの時は彼女の意思を優先させた、だからこそ余計、この子には幸せになってほしいと願う。無垢な愛情と言うのだろうか。
心と心が繋がる、血筋のように。離れても、この子は私を忘れる事も、拒絶する事ない、そんな自信があるからこそ、大人の余裕を醸し出せる。
『冷たいなぁ、いつも言ってるじゃんか。パパしかありえないって、他は論外』
あれからもう二十年が過ぎたのに、私自身六十歳になったのに、こんな会話も関係性も間違っているのに、突き放す事が出来ないのは、弱点であり弱さそのもの。そんな私とツミキを見つめながら舞い散る風は、ふふふ、と微笑みを音に変え、囁くのだ。
ギイロ、貴方は若い時と何も変わってないわね、そうやって恋をすると、突き放せない。例えそれが『禁断』な恋だとしても。
果たして、貴方に本当の幸せを掴み取る権利はあるのかしら、と意地悪く天から見ている、アリアの声が聞こえた気がした。包まれていく優しさの中で、微睡んでいる私と娘。これから頭を抱える事も多いだろうが、その障害を乗り越える元気など、私には、もう残っていないのだ。ツミキは知らない、何も知らない。
夢想の中で抱きしめながら、耳元で『愛している』と呟き、快楽へと飲まれ、果てている父の姿など……知らない方が幸せなのだ。きっと脆く崩れてしまうから、これは私の夢の中だけで楽しんでいる、新しい遊び。ツミキはいつも『パパを愛している』とか『大好き』とか『抱いて』そして『女として見てほしい、娘じゃなくて』と現実でも誘惑するのだから、理性を崩す訳にはいかない。私にはアリアがいるのだから。ツミキは入ってきてはダメなのだ。
心の中まで、体の深くまで、侵入してはいけない。いい父でいる為。
微笑んで、幸せを守る為なのだからね。
「そんな事を言っている暇があるのなら、文学を学ぶ事を優先しなさい。ツミキ、お前は一応小説家なのだから」
『えー、無駄な事なんて一つもないのに、経験積まなきゃ。だからその為にも……パパの力が必要なのに』
「お前は、ああ言えば、こう言う。誰に似たんだか」
『パパに似たのよ。それ以外あり得ないわ』
意地悪なツミキ、堕天使のように怪しく微笑みながらも、突き放した手を再び絡ませ、私に甘えてくるのだ。まるで猫が甘えるように。そんな娘の言葉と行動に翻弄されながらも、冷静さを保つ、私の身にもなってもらいたいくらいだ。吐きたくもない、溜息が出るのは予測出来るだろう。
箱入り娘として甘やかしすぎたかと自問自答してみたが、優越感に浸る私も変わり者である意味、小説家のツミキを創り上げた第一人者なのかもしれない。それは過度な自信であり、傲慢かもしれないが、現実、そうなっているからこそ、言える事だと考えている。
『あたしはどのジャンルでも書き続けていきたい。心を描くように。だからパパの心の色もあたしからしたら、素敵な宝石なの』
「はあ」
『溜息吐かないでよ、真剣なんだから。あたしはパパに恋してる。それだけなの』
恋をしていると真っすぐ言葉に出せるツミキは、やはりアリアの娘だな。いつもそうだった。私が崩れた時も、真っすぐな言葉で愛を語り、自分の意見を持って、支えてくれていたのだから、我、娘、褒めてやりたい。そういう部分は、立派に育ったと認めている。いい方向に向かったのは、ツミキの力である。
そこに私の影響力があるのか分からないが、少しでもこの子の心の希望になれたらいいんだが。それは私の独占欲と我儘だろうか。
『だからさ、あたしを抱きしめて?ママを愛した時のように、あたしを愛してくれれば、他に何も望まないから』
ツミキの気持ちは痛い程、分かる。こんな私でも愛や恋を語る事が出来るのだから。受け止めてやりたい、支えてあげたい、だが、それは私の役目ではなく、他者のするべき事。邪魔者は撤退するよ、ツミキが娘じゃなかったら、冷たくあしらいながら、遠くで見つめて、孤高の中で愛を語る。
それが私の本来の愛情表現。アリアもツミキも、岡の言葉で突き放しても、優しいのね、と傍から離れない。私は何も優しくしている訳でもないし、自分のしたい事をしているだけだ。
――これが私の自由の形。
「私とお前は、血の繋がった親子なのだよ。それが不可能な事くらい、分かるだろう?」
『うーん。じゃあさ、あたしが娘じゃなかったら、愛してくれてた?』
「私には、アリア、お前の母がいるんだ。それ以外考えられない」
『……嘘つき』
ツミキの顔が徐々に修羅いなっていく。まるで、本当はあたしを愛しているのに、認めたくないだけでしょう?などと言いたいように、そうやって天真爛漫な娘の姿が眩しくも、羨ましい。私はどちらかと言うと無表情に近いし、感情を出す事が苦手だからこそ、ツミキは私に似ているのではなく、アリアに全てがリンクしているのだろう。そう決めつけるしか出来ない。