狼川とは良く言った
狼川砦、というのが砦につけられた名前だった。
これは軍用の地図にしか所在の標がない。
俗人はいない。
アンシャルらに提供された部屋に案内したのも、部屋の支度をしてくれたのも、砦を守る兵士のひとりだった。
「新しい軍衣は必要ないか?」
階級章を剥ぎ取られた事が明らかな軍衣を着続けているダンカーを思いやってアンシャルが言うと、ダンカーはかぶりを振った。
「まだまだ砦の内情は苦しいからな。補給隊に余計な苦労はかけたくない」
ここは、聖咒兵団の砦の中だ、と目顔でアンシャルが合図すると、ダンカーは棒読みで補った。
「と、言う事であります、上官どの」
ロサミナは帳の向こうの寝台で、うつぶせになって休んでいる。
アンシャルは思案しつつ、友人を探しに行った。
友人は何やら忙しそうにしていたが、厭な顔はしなかった。砦の守備隊以外の者と言葉を交わす機会は滅多にないのだろう。
「来る途中で新種の魔物に遭遇したんだってな?」
「ああ」
アンシャルはどんな魔物だったかを説明した。友人が渋い顔をする。
「飛ぶ奴はこれまでにも一応、いた。しかし法力を込めた銃弾がきかないのはまずいない。どうなっているんだ」
「それはわからん。倒せば塵になって消えてしまうんだから。だが、あれを倒せたのは、口を開かせて、そこに銃弾を叩き込んだからだと思う」
「口を開かせた? どうやって?」
「私の部下が、突進して剣で首を打撃したんだ」
「打撃か」
「刃も通らなかった。しかし、打撃には強くなかったらしく、首を傾けて嘴を開いたんだ」
「……嘴の中か……そんな的を短銃で狙える者は滅多にいないなあ」
ふたりとも頷きあった。
アンシャルは射撃の大会で、国を代表する選手に選ばれた事がある。魔物の口中を射撃できたのは、アンシャルであったればこそだ。そういう意味がこもっていた。
「おまえたちのような二人組が百組もいたらなあ」
「ソレは不毛な考えだ。なんとかして奴らの口を開かせる方法を考えろ。それが支援隊士官の役目だぞ」
「それは正論だ」
友人は溜息をついた。
「それで、どうだ、この先の道筋は」
「この砦のまわりは似たようなものだ。山道の方でも新しい魔物が出た」
アンシャルはその言葉を聞いて顔色を変えた。
山道では馬を飛ばす事ができない。
つまり、逃げる事が難しいのだ。
かといって山を迂回するのも論外だ。日数がかかりすぎる。
難しい顔をして考え込むアンシャルに、友人が持ちかけた。
「船を使うのはどうか?」
「船だって?」
「この砦は、上流の町から船で補給を受けて、その受領証を下流の町の代理店に渡す事になっている」
「上流の町に持っていくのではないのか」
「それがちがうんだ。というのはな……何故狼川という名がついたと思う?」
秘密めかして友人が言うのへ、アンシャルはただ耳を傾けた。
「このあたりは川の流れが激しいんだ。山地にかかっているからな。なので、このあたりは川を遡る事はまず、できない」
ほら、川の音が聞こえてくるだろう。
その通りだった。
こうして、休むべく部屋に引き上げてみても、遠くに川の轟く音が聞こえる。
むしろ、それほど激しい流れに乗って下る事ができるのだろうか?
船を操る要員はいるという事だが。
川を下る伝令などのため、同じ代理店で軍馬を受け取る事はできるという。
アンシャルは頭の中の地図とひとり検討を重ねたが、ついに決心した。
船を使おう。
その方が魔物に襲われずにすむはずだ。
「ロサミナ。船酔いはするたちか?」
答は返ってこなかった。
「船って……これが?」
ロサミナは船を見ると後ずさった。
むしろそれは、短艇と言った方がいいようなものだ。
船室などもない。
それどころか、そもそも、帆がない。
帆はどこにあるんだ、と尋ねられた時の船頭の驚きようといったらなかった。
「勘弁してくだせえよ! 川の筋を読むだけでもいっぱいなのに、帆なんかあったって、いらん方角に船を持っていこうとするばっかりで、たちまちひっくり返っちまいますよ」
「そういうものなのか」
「風の力も強えからね」
甲板の中央に、補給を請け負っている商会に返却する空樽や空き箱、返品すべき不良品などが積まれ、覆い布をきっちりかけて、縛り付けてある。
乗客は安全のために、その積み荷を縛った縄につかまって行くのだ。
立っても座ってもいい、と船頭は言った。
しかし甲板はそれほどきれいとは言いがたい。
結局、アンシャルもロサミナも立ったままで行く事を選んだ。
ダンカーはといえば、積み荷の上によじのぼって一番高いところに陣取っていた。
再三船頭に「危ねえよ兵隊さん!」と言われたにもかかわらずだ。
そして、なぜ船頭が危ないと言ったのかはほどなく判明した。
船は平たい底を持った、高さのないものであるにもかかわらず、激しい流れに左岸に押され、右岸に押されるうちに大きく左右に揺れるのだ。
流れが速いから、船は前後にも多く揺れる。
いや、そんな表現では到底足りない。
ロサミナの顔色はみるみるうちに青ざめていく。
「大丈夫か」
「あんまり大丈夫じゃないわ」
アンシャルは黙って、ロサミナのすぐ後ろに位置を変えた。
ロサミナの腰にゆるく手を回す。
「自分でつかまっていなくてもいいぞ。私に寄りかかれ」
ロサミナは逡巡したが、気分がかなり悪くなってきていたに違いない。
小声であやまりながら、アンシャルによりかかった。
かすかに、良い匂いがする。
香油でもつけているのだろうか?
ふと、ダンカーと目が合った。
油断するなよ。
明らかにそう言っている。
そうだ。
ロサミナに触れているのは、あくまでもロサミナを守るためだ。
わかっているとも。