#1-1
「エロキング」というあだ名がついたのが、すべての始まりだった。
今時小学生でも思いつかないようなあだ名なのだが、高校二年生がクラスメイトに付けられたものだというから笑ってしまう。とにかく俺にとってはこれ以上なく不名誉なものだったのだ。
原因は一冊のエロ本だった。
同じクラスの男が、学校にグラビア誌を持ち込んでいたのだ。
しかもそれが、二年生一学期初日……よりにもよって抜き打ち荷物検査の日に。
生徒たちは昇降口の前でずらりと並びながら、ひとりひとり先生にバッグの中身を見せている。俺の後ろに並んでいたその男はずっとそわそわしていたが、何も知らない俺は今日の小テストの範囲はどこだっけなどと考えていた。もちろん、バッグを地面に置いてネクタイを締め直している間にエロ本を隠されていようとは、知るはずもなかった。
そして、俺の番が来た。
何もやましいことがない俺は、堂々とバッグを開く。何気ない目つきで俺の荷物を探り始めた体育教師は、俺が持つはずのないその本を手に取り、絶句した。
人生が終わった気がした。
怒り狂う体育教師。掲げられるグラビア誌。どよめく生徒たち。理解が追い付かずよろめく俺。そして、バツが悪そうにそっぽを向く、背後の男。
――お前の仕業だな?
俺はその場でそう言及したかったが、その場の注目が許さなかった。
その場で荷物検査は中止。俺は教師数名に生徒指導室に連れられ、こっぴどく説教を受けた。弁明はしたが、聞き入れてはもらえなかった。とはいえ、エロ本一冊だ。普通なら、ここまでとやかく言われることはなかっただろう。
――この学校が通称「禁欲高校」と噂される場所でなければ。
大量の反省文と厳重注意を受けた俺がようやく解放され、教室に入った時に誰かが口走ったのが「エロキング」という単語だった。
ふざけんな!
そう叫びたかったが、その時の俺はぐったりしていて、何をする気力もわかなかった。オーバーに言えば、将来に絶望していた。その日のことはそれくらいしか覚えていない。
強いて言えば、ただ一人――興味深そうな目でこちらを見てくる女がいるくらいだった。
□
「昨日の今日で、なんてものを持ってきているんですか」
時は変わって翌日の話。
今度は、生徒会長に説教されていた。
「昨日、先生に怒られたそうですね。クラスでもうわさになってました」
生徒会長・秋ノ瀬恋歌の抑揚のない声が、人気のない生徒会室に響き渡る。四月末の早朝ということもあって、ひんやりと寒い。特に尻が寒い。なんで学校の椅子ってこんなに冷気を吸い込むのだろう?
「きいてるんですか」
「ああ、聞いてるよ」
俺は不貞腐れてそう返す。机を一枚挟んだ奥で同じように座っている秋原恋歌は、それでも俺の事をじっと見上げていた。背の順だと一番前がポジションの彼女は、当然座高も低い。これでも一応、俺と同じ学年で俺と同じクラスだという。生徒会長という役目からか、誰に対しても敬語を使っているらしい。しかし口は悪い。
「あなたは昨日、えっちな本を持ってきて没収されてました。まちがいないですか」
「だからそれは、同じクラスの田中が勝手に……」
「もしそうなら、なんでその場で注意しなかったんですか」
「う……」
ぐうの音も出ない。
「それに、あなたの言うことがほんとうだとしたら、今日のこれも誰かのものだというんですか」
「それは……」
しどろもどろになる。秋ノ瀬恋歌の小さな手に握られているのは、一冊の本。どこかで見たような巨乳のアニメキャラが表紙にどでかく描かれているが、やたら肌色が多い。そして大事な所をまったく隠していない。昨日近場の同人ショップから買ってきた、成人指定の同人誌である。
購入目的は――仕返しの為だ。
クラスで平凡な立ち位置でしかなかった俺の学校生活をぐちゃぐちゃにしてくれやがったあのエロ本野郎に、俺と同じ目に遭ってもらおうと考えたからだ。タイトルは「スーパー巨乳戦記・ダブルマウンテン」。せっかくだからと、俺が考え得る中で一番エロそうなものをチョイスしたつもりだったが……。
結果はこのザマ。隙を生じぬ二段構えで生徒会長直々に荷物検査をしていたところにあっさり捕まり、俺は二日連続でエロ本を没収されていた。
うちの高校は、とにかく校則が厳しい。夜遊び禁止・スマホ持ち込み禁止は序の口で、弁当以外の食べ物持ち込み禁止、無断の寝泊り禁止、極めつけに男女交際禁止とかいう、古臭すぎてカビが生えてそうな決まり事が残っている。だからか、エロ本一冊学校に持ち込んだだけでもご覧の騒ぎだ。
そんな経緯があって、この心翼高校は、名前をもじって「禁欲高校」という蔑称がついている。
「ほんとうに反省してるんですか」
「ああ、反省している」
秋ノ瀬恋歌の大きな目が、俺を吸い込むかのようだった。生徒会長就任時にはマスコットの方が向いているのではないか、と揶揄されていたほどの愛らしい容姿に似つかわしいその眼は、それでも逸れることはない。分かっている。そんな下馬評を差し置いて先生から絶大な信頼を得るほどの手腕があることも。風紀の乱れたこの学校をたった半年で優等生の集団にするほどの、不思議なカリスマ性も。
「今回、なんでこんな本をわざわざ学校に持ってきたのか、事情は聞きません」
俺に事情があることも見抜いていたかのような口ぶりで、
「でも、あなたが校則をやぶったら、他のひとたちも校則をやぶります。それは、あなただっていやでしょう」
「……おっしゃる通りで」
俺に諭しながら、秋ノ瀬恋歌は何かを書いている。サッカー部の予算について、という表題が用紙の最上部に見えたので、俺とはまったく関係ないものなのだろう。その書類に数字が書き込まれていくのを俺は黙って眺めていたが、
「……わかりました」
最後の欄を埋める前に、秋ノ瀬恋歌はボールペンを置いた。
「あなたがクラスでなんと呼ばれているかもしってます。反省文だけで手をうちましょう。先生には報告しません」
「いいのか?」
「反省する気はあるようですし、下手に話を大きくすれば今度はあなたが追い詰められます。いじめを生む原因を作るのは、生徒会長のわたしが望むところではないです」
秋ノ瀬恋歌から一枚の紙を手渡される。チェック項目が付いていた。「生徒間のトラブル」にレ点が付いている。「不適切な物品の持ち込み」の項目は、まるごと斜線で消されていた。
俺が受け取ると同時、予鈴が鳴った。秋ノ瀬恋歌が立ち上がると同時に、半ば安堵する形で席を立つ。
このまま何事もなく教室に戻れると思った俺の横で、秋ノ瀬恋歌はふと足を止めた。
「でも」
「でも?」
「三度目はありません」
大きな目が鋭くなるのを見て、寒気がよぎった。窓から差しこむ日光だけが暖かかった。
「では、教室に行きましょう。遅刻するわけにはいかないので」
イエローカードを受け取った俺は、秋ノ瀬恋歌の隣を歩き、生徒会室を後にする。女の子と並んでいるのはいいのだが、立場上どうにも連行されている感が否めない。たったの二日で問題児扱いとは、世の中とは世知辛いものだなあ。
「ん……?」
「どうしましたか」
俺は視線を感じ、振り返る。誰もいなかった。
「いや、なんか気配が」
「そうやって逃げ出そうとしたってむだです」
「別に逃げねーよ」
なんだったんだろう。
俺は疑問を飲み込みながら、教室へと歩いて行った。