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初めてエロ動画を見た時、まず抱いたのは恐怖だった。
人は知らないモノを恐れる、という話を聞いたことがある。幽霊や宇宙人や新興宗教が怖いのと一緒で、エロ動画も、見たことがなければ怖いものなのだ。艶やかな肌と、大きく揺れる胸と、たっぷりと肉付いた尻を初めて見たその瞬間、俺はビビっていた。
女ってこんな身体してんの?
ブラってそうやって外すの?
そこにそれ、入るの?
ヘッドホンから流れる女の喘ぎ声を聞きながら、俺はそんなことだけを思っていた。リクライニングシートを傾け、吹き抜けの天井を仰ぎ見る。小さなライトとファンが交互に並んでいる。そこで俺は、自分のいる空間がネットカフェの一室であったことを思い出した。
隣には、食い入るように画面を見つめる女の子がいた。
彼女はクラスメイトである。
つまり俺は、ネットカフェで、クラスメイトの女の子と一緒に、18禁の動画を見ているのである。
完全にやべー奴じゃん。
俺が第三者なら迷わずそう言っただろう。
しかし、真にやべーのはこの女なのだ。
俺が「みーすけ」と呼んでいるこの女は、スケベだ。それはもうどうしようもなく。見ているだけで平和ボケしそうな柔らかい笑顔とは裏腹に、性欲の塊と言って差し支えない。現にこの謎のAV鑑賞会は、みーすけの方から提案したものだった。
食欲もすごい。
右手に大事そうに持っているハンバーガーは既に三つ目。午後の十一時を回ろうという時によく食えるなと感心したが、いつもの夜食らしい。いつものってなんだよ。
睡眠欲も半端ではない。
授業5コマの内、平均して4コマは寝ている。残る1コマは大抵の場合、居眠りしたら補導されると評判の数学教師田口の授業で、肘にシャーペンの芯をぶっ刺して起きているようだ。そういう授業でも大抵の場合、首が据わらずうつらうつらと傾いていた。
本人曰く、三大欲求に正直な女。
これが、俺よりやべークラスメイト、みーすけの実態である。
「この女優さん、太ももめっちゃエロい」
「お前も太くないか?」
俺は視線を少し下げながら、みーすけに問いかけた。膝まで伸びる黒のソックスの上に、肉が少し乗っていた。
「だだだ誰がデブだー!」
「それ、ハンバーガー食いながら言うセリフじゃないと思うぞ」
そんな彼女は、左手にドリンクを持っている。ストローの先が噛み潰されていた。
「なんでさあ」
右手の親指についたソースを舐めとってから、
「ハンバーガーがこんなに美味しいのかって考えたことある?」
「ないな」
「ハンバーガーチェーン店が作るハンバーガーはね、マニュアルが徹底されてるんだよ」
「全国共通ってことか?」
「そうそう。例えば今、このチーズバーガーを美味しい! って思うとするよ」
「それで?」
「このチーズバーガーは、どこでだって食べられるわけじゃん? 日本のどこで食べても、絶対に美味しいんだよ。それって幸せなことだと思うの」
「そんなもんなのか?」
「考えてもみてよ。絶対に美味しい! って分かってるものを頼む安心感って、ご飯食べるときすごく大切だよ。一口目を警戒しなくていいわけ」
「一口目ねえ」
確かに、目の前のものが不味いかもしれない……って思いながら食べる飯ほど陰気な食事もないだろう。
「だから、一口目から美味しいって分かってるチーズバーガーは、最初から最後まで美味しさが楽しめるんだよ」
「そう聞くとお得感あるな」
「でっしょー? だから今すごい幸せ。三つ目だから幸せも三倍」
「カロリーも三倍」
「うぐっ」
みーすけが腹から槍でも刺されたかのようにのけぞった。さすがに女の子だからか、体重の話は響くらしい。その割に食事制限しているところを見たことはないが。
「どうした? 食べないのか?」
「うう……食べる……」
「ならさっさと食っちまえ。元々ネットカフェは食い物持ち込み禁止なんだから」
「はーい」
返事して、みーすけは残りのハンバーガーを大きく頬張った。キャベツを咀嚼する音が聞こえる。口いっぱいにバンズと肉を含んだ後、ゆっくりと噛み込んでから飲み込む。噛んだ瞬間にバンズから漏れ出たソースが唇にべっとりついていたが、構うことなく二口目をかぶりつく。強く歯ぎしりした。ピクルスに当たったのだろう。さっきより強く噛み切って平らげた後、ようやく唇についたソースの存在に気づいたらしく、そっと舌で舐めた。その後、小さくため息。
「ん、どしたの?」
「いや、美味そうに食うなって」
「食べたかった?」
「いらねえよ」
俺が首を振ると、みーすけは「そっか」とだけ呟いて、ゴミを紙袋にまとめ始めた。俺はみーすけの横顔を眺めていた。柔らかそうな頬が、ほんのりと紅潮している。伸びた黒髪は二つのおさげにまとめており、たまにうなじが見え隠れしていた。そんな邪な俺の視線にも気づかず片付けをしていたみーすけだったが、
「ふああ……」
片づけ終わるや否や、涙が出るほど大きなあくびを浮かべた。
「そろそろ寝るう……」
「あの、俺いるんだけど」
「んん……? だから?」
「だからってさあ……」
同い年の男が隣にいるのに、よくもまあ平然と眠ろうと思えるものだ。睡眠なんて人間が一番無防備な状態なのに。
「少しは警戒した方がいいと思うぞ? お前、可愛いんだから」
「かっ……? かわ……かわいいって……!?」
少し冷かしてやると、顔から火でも噴き出たかのように一瞬で燃え上がる。真に受けたのが癪だったので、
「一応な」
「一応ってなんだよーっ!」
「しー、静かにしろって」
みーすけの口を塞ぐように片手を当てる。
「もががもがもが……がぶっ!」
「いてっ!? お、お前噛みやがったな!?」
「しー、静かにしろってー」
「真似すんなよ」
「やなこったー」
みーすけは舌を出した後、そっぽを向く。俺は右手についた歯形を忌々しくさすっていた。
「別に襲いたければ襲えばいいと思うけどさー」
「いいのかよ」
「処女だけどね。絶対痛いって泣き叫ぶけどそれでもいいならどうぞ」
「それは困るな。やめとく」
「……意気地なし」
「なんか言ったか?」
「べっつにー」
みーすけはそう吐き捨てながら、パソコンの上にあるライトを消す。あたりはぼんやりと暗くなるが、吹き抜けの天井からわずかに光が届き、月光のようにお互いの顔を照らしていた。
「おやすみ」
「おやすみ」
それだけ言って、俺とみーすけは寝る姿勢に入る。
が、みーすけは一瞬だけこちらに振り返って、
「信じてるから」
にこっ、と歯を見せて微笑んだ後、すぐに背もたれに寄りかかり、目を瞑った。寝息が聞こえてくる。その間、実に二十秒。早業だった。人はこんなにも簡単に意識を失えるのか。一周回って死んでるんじゃないか? 心配になり、手を伸ばす。
制服の上からでも分かる、大きな胸が上下する。暑かったのか、胸元のボタンが二つ外れている。深い谷間が見え隠れしていた。たぶん、さっきの動画の女優より、大きいと思う。
手を伸ばせば、俺は容易にソレに触れられる。
それくらいに無防備だった。
天井が空いているとはいえ狭い個室に、年頃の男女がふたり。よもすれば襲われるとも限らないのに、この女はぐーすかと眠っている。俺は、みーすけにそっと忍び寄り……
「ったく……」
開いたボタンを留め、ブランケットをかけた。俺も寝るとしよう。一度大きく伸びをして、俺も椅子にもたれかかった。
みーすけほど寝つきが良くない俺は、人は死んだらどこに行くのだろうなんてことを考えていたが、自分が死んだ瞬間を想像した瞬間に無性に気持ち悪くなり、もっと明るい話題に切り替えようと頭を振った結果――青春ってなんだろう、というテーマに行きついた。
青春っていつのことを指すんだろう。スマホで調べたら、「高校時代」という意見が圧倒的多数だった。好きな子との甘酸っぱい学校生活のことを「青春」と、よく呼ぶらしい。あるいはリア充と言うらしい。なるほど、と思いながら、俺はスマホの電源を切った。
その理屈で言えば、俺たちは青春を謳歌できていない。
俺たちは今、停学中だ。