小人の塔の黒大公
それは国の中で一番古い塔だった。
伝承の話では、国を作る際に祝いにと(昔は居たという)小人が王と妃の為に建てた塔と言われている。数千年が経っても朽ち果てず倒れる気配も無いこの塔も、伝承と共に歴史の波に埋まってしまった今となっては、ただの隔離塔代わりでしかない。
この塔を管理している王家には、変わった子供が生まれる風潮があった。
いつ頃生まれる様になったのかは歴史書を紐解いても分かりはしないが、決まって生まれてくるのは肌も瞳も髪も全てが暗夜で染まったように黒い子供か、全てが白夜のように白い子供のどちらかだった。
そんな特殊な見た目の幼子は必ず不思議な力を持って生まれてくると伝えられていた。それを実際に見た者はいないが、塔に子供がいる間は平和そのものであり、いない間は必ずといっていいほど戦争が起こっている。そういった出来事が幾度も起こった。
いつしか国は子供を聖なるモノとして信仰の対象にし、国の中で一番安全な『小人の塔』に匿う事で国の幸福に繋がるとされていた。しかし子供にとっては不幸そのものだろう。変わった容姿を持って生まれただけで、一生をこの塔で過ごし終える事が運命づけられていたのだから。
行事以外では一切外に出ることはなく、外出時は容姿を全て隠されるため、本人の顔を知る者は子供を取り上げた医者と母親と子供の世話をする神官ぐらいだろう。
彼はそんな小人の塔で暮らす一人の子供だった。
窓が二つ、天蓋付きのベット、辞書よりも太い装本された本たち。石造りで冷たげな部屋の中でベットにだらしなく体を横たえる少年。まだ齢も二桁いかないぐらいだろうか。薄い布の様な服を身に纏い赤ん坊のように眠っていた彼は、外から聞こえる声に重い瞼を開いた。
彼は重い瞼を擦りながら体を起こすと、窓から射す光を眩しそうに見て、窓へ近づいて下を覗き見た。窓には鉄格子が嵌められている為顔を出して見ることは出来なかったが、塔の近くで幼い少年達が遊んでいるのが見える。無邪気に何かを植えて遊んでいる少年たちを止めようとする侍女と、笑い合う王と王妃。
彼は少し羨ましそうな顔をしてそれを暫し見つめると、窓から離れてベットへと体を倒した。
何度か口を開き、何かをしようと喉に触れながら何度も何度も唇を動かすが、自分の望んだ事が出来ないと確認すると彼は切なそうに眠りについた。
それから幾年月が経ち、彼は青年になった。
青年にしては体が細く、黒く艶めいた髪は身長よりも長くなっている。一目見ただけでは彼を男性だと思う者はいないだろう。いつものように気だるげに天蓋ベットから起き上がると、彼は長い髪を引きずって窓から外を眺める。家族の楽しそうな姿を見たその日から、窓から景色を見るのが彼の日課になっていた。
窓には数年前に少年たちが植えた木が成長し、塔の最上階である彼の自室の窓にまで枝が伸びてきている。彼は窓から手を伸ばし、その枝から一枚葉を取った。手に取った葉をクルクルと指で遊んでいると少し高揚感が湧いてくる。だがこの日、その高揚感が一瞬で吹き飛ぶ出来事が起きた。
「あなたはだれ?」
そう、その枝の上に人がいたのだ。
驚いた彼は部屋の中心まで逃げるように下がる。激しく鼓動を打つ心臓を落ち着かせながら恐る恐る窓に近づくと、幼い少年(10年前の自分と同じくらいの子)が座っているのが見えた。白い肌に木漏れ日でキラキラと光る金色の髪、葉と同じ瑞々しい色の瞳を持った少年が自分を見ながら首を傾げている。恐らく内緒で木の上に登ってきたのだろう。本来なら聞こえるはずの大人の声が聞こえない。
彼は唇を何度か動かすが少年は理解せず、代わりに少年に向けてぎこちなく微笑みながら手を振った。少年は目を大きく開いて嬉しそうに手を振り返し、あどけない声で話しかけてきた。
「あなたはだれ?」「どうしてここにいるの?」「なんでそんなにくろいの?」
少年が何を聞きたいのか理解は出来るのだが、答えを伝える術がない彼は、自分の喉を指差して首を横に振る。
「もしかしてこえ、だせないの?」
そう質問してきた少年に彼はすまなそうに頷いた。喋る必要がなかったから話し方を体が忘れてしまっているのだろうと神官長が言っていたが、彼自身何故こうなってしまったのか理解できないでいた。喋れなくて申し訳ないという意味を込めて瞼を伏せ、自分を指差した後『内緒』という意味を込めて口の前に人差し指を持ってくる。自身と同じポーズをして「ないしょね」と微笑む少年が、彼にはまるで太陽の化身のように見えた。
その後すぐ少年は侍女の呼び声に応じて木を降りていった。それを見送り、彼はベットに倒れこんで自分の口元を指でなぞる。心の底から無性に湧き出てくる謎の感情が喜びだと気づくのに、時間は掛からなかった。
そしてこれ以降彼は、度々木に登ってくる少年と話をする時間が大切な時間になった。少年はどうやら内緒の約束を守ってくれているらしく、登ってくるのはいつも人目が少ない時間帯だった。時々木に登っていることが侍女にバレて怒られたり兄弟も連れて登ってきたりと、少年は登るたびに彼の世界を広げてくれた。彼はそれがとても愛しくて、悲しかった。
自分と少年の立場ではいずれ別れが来ることも理解していたから、彼は少年達との思い出を余すことなく日記に留めておく事にした。
「きょうはどうした?」
「今日は師匠と稽古してたんだ!師匠が強くてさ~」
少年と話すようになった彼は、徐々に言葉が出るようになってきていた。
まだ拙い子供のような話し方ではあるが、自分の意思を言葉で伝えられることが彼にとってはとても嬉しいことだった。話すようになってから少年は身長が伸び、彼と変わらないぐらいの青年にまで成長している。
少年が話すことは彼にとってまるで物語の出来事のように感じた。彼は大人しく聞きながら時々返事を返し、時折アドバイスも渡した。それが彼にとって出来る唯一のことだったからだ。
しかし今日はいつも明るく話す少年にどこか陰りが見える。
「なにかあったか?」
「やっぱりバレちゃったか…」
そう言って少年は少し悲しげに笑った。
「…父上に、アンタと話してることがバレちまった…」
「もう金輪際話すな」とまで言われた。そう言って少年は悔しそうに笑う。
「俺達は兄弟なんだろ?…なんで話しちゃいけないんだよ…」
そう言ってくれた少年に彼は鉄格子から腕を出し、手招きをした。少し危なげにこちらに寄ってきた少年の頭を軽く撫で、彼は微笑む。
「こんなふうにうまれてきて、わるいあにで、ごめんな」
やせ細った(でも男らしい手)で幼い頃から見てきた弟の頭を撫で続けていると、少年は次第に震えながら声を押し殺して泣き出した。
泣かせるつもりはなかったのにと思いながらずっと撫でていると、この少年も後数年すれば成人の儀式を行うはずだということを思い出した。王族の成人を祝う儀式と葬儀の儀式は、唯一彼が家族と出会う事が出来る行事だった。
彼は少年の頭を軽く叩くと、こう言った。
「おとなになったら、おいわい、する。しんかんはこえのこと、しらない」
本来の成人の儀式は祝詞を詠い上げながら小さな冠を被せるのだが、声が出なかった彼は今まで2人の弟たちの額に祝福を送るだけで終わっていた。彼は自分を心から救ってくれた少年の為に、その時初めて周りに声が出ることを証明しようと考えたのだ。
「あにをしんじて、まっててくれるか?」
口の前に人差し指を置き「ないしょね」と付け加えると、泣いてばかりいた少年は何度も頷き同じポーズをとって「俺たちだけの内緒!」と笑った。
それ以降少年は彼の元を訪れることは無くなった。でも彼は寂しくなかった。わざわざ窓から覗かなくても、耳を澄ませれば弟達や両親の楽しそうな声が聞こえてきたからだ。
そして、約束の日。
彼は肌以上に黒い法衣を纏い、頭を全て隠すベールを被り、長い廊下を歩いていた。
後ろには彼の身長以上に伸びた髪を持って歩く神官が二人。そして前には国のトップである神官たちが複数彼を先導している。彼はベール越しに久しぶりに歩く城の中を眺め、そして反対側の道を同じようにあの少年が歩いていることに気づいて思わず笑みを浮かべた。
この短くて長い時間の間に何があったかは分からないが、顔に大きな傷を負っていた少年が、今は前を歩いている神官よりも厳つい顔と体格になっていた。
しかし、その目と緩んでいる口元だけはあの頃と変わらない。そのギャップが面白かった。
「今日はライル様の成人の儀式でございます……ウルドゥー様?」
神官に話しかけられていると気づいて手を上げてひらひら振ると、神官は説明を続けた。何度も聞かされた内容を聞き流しながら、彼はこれから行うサプライズが成功することだけを祈った。
儀式の場である謁見の間へたどり着くと、神官たちが一斉に上段に座る王家の人間に頭を下げて膝を落とす。彼もまた同じように頭を下げると、王の言葉で立ち上がり、同じ上段へと上がっていく。そして後ろを振り返り、見下ろすように扉を見つめると間もなくあの少年が入ってきた。
紺色の軍服を身に纏い、堂々と歩く少年はまだ幼さを残しながらも立派な大人になっていた。沢山の臣下の間を歩いてくると、少年は彼を見て微笑む。ほんの一瞬のことだったが、それは彼を勇気づけた。
自分の目の前で膝を落とした青年を見下ろし、横に居た神官が祝詞を詠いはじめると、彼は青年へと近づいてそっと頭を撫でる。その行動に周囲がざわつくことを気にせず彼はベールを口元まで上げ、小さくハッキリと聞こえるように言った。「待たせてごめんね」と。
驚いた青年が顔を上げると同時に彼は詠いだした。
高らかに空まで届くほど大きく澄んだ声で、祝詞を詠っていた神官の音を別の詞でかき消す。彼は青年の為に、家族の為に詠う。かつて国に残された一つの叙事詩を。
今まで声が出なかったのが嘘のように彼は詠う。それは周りの人間が息を呑むほどに美しく、優しい旋律をもたらし、新たな客人を招き入れた。
それは小さな光だった。建物の中だというのに、雪のような小さな光が降り出したのだ。
その光は徐々に一つの形になり、そして小さな人になった。それは正しく小人だった。
沢山の光から沢山の小人が現れ、彼の詠う声に合わせて更に光は増えていく。
王の元に降りてきた光も小人になり、驚く王に対して一礼している。
お伽話の中に出てくる小人の姿に誰しもが驚く中、数名の小人が詠う彼のベールを取った。現れた彼の姿に、その場にいた全員の視線が釘付けになる。
ベールを取った彼の瞳が、まるで今まで見てきた物全ての色を集めたように、虹色に輝いていたのだ。彼の世話をしていた神官は彼の瞳の変化に一番驚き、涙を流しながら彼を見つめていた。
光の入り方で色が変わる瞳を嬉しそうに見る小人に、彼は微笑む。他の小人たちは狼狽える青年の周りをクルクルと回り、何処からか小さな花を持ってきて青年が付ける予定だった冠を飾り付けている。
そして最後の一節に入ると、彼は更に声を響かせた。
声に呼応するように小人たちがその手から花を咲かせていく。
それは国全体を包み、街中にいる小人達の手から雨のように花が舞い散っていくのを、人々は奇跡だと歓喜の声を上げた。
最後の一音まで詠いきった彼は、神官たちがあらかじめ用意し、小人達によって豪華になった花の冠を青年の頭に乗せる。驚愕して硬直している青年を見て誇らしげに笑いながら、青年の額に自分の額を合わせ、言葉を紡ぐ。
「私の大切な末弟、ライル。私を救ってくれた優しき心を持つ人よ。貴方に祝福を」
『我ら小人を繋ぐ架け橋の王子に、末永い幸福と繁栄を』
小人たち全員が彼の言葉の後に口を揃えてそう言うと、彼は自分の家族である王や王妃、弟達に顔を向け、それはそれは幸せそうに微笑んだ。
「王家、そしてこの国全ての人へ祝福を」
『我らが同士に栄光の導きを!!』
小人たちの声が響き渡ると同時に、盛大な拍手が辺りを包んだ。
彼がサプライズが成功したことにホッとしたのも束の間、横からの衝撃に思わず床に倒れ込む。まるで大きな動物に轢かれる様な勢いに驚つつその衝撃の正体を見ると、サプライズを仕掛けた相手が男泣きしながら自分の体を締め付けてくるではないか。
押し返そうにも筋肉がほぼ無いに等しい彼に、鍛えられた剛腕な弟を離す事なんて出来なくて。
「ライル痛い、骨折れる」
「あにうぇぇぇえええええ!!おれめっちゃうれしい!!うれじぃいいいいい!!」
「痛い痛い痛い本当に折れ、父上母上!!」
ミシミシと絞められていくのを感じながら、必死に父と母の方へ腕を伸ばした彼を見て、王と王妃は手を取り合って感動に震えていた。
「父上…っ!」「母上…っ!!」
沢山の小人に服を引っ張られてもびくともしない弟に、心の中で悲鳴をあげながら、今度は別の弟の名を呼ぶ。
「ディケット!ロジ!お願いだ、助けてくれないか」
「「兄上が初めて名を呼んでくれた…っ!!」」
『似た者家族だねー』『だねー』
そして彼は感動で打ち震えていた神官たちが正気に戻るまで、弟の熱い抱擁から抜け出すことができなかった。
窓が二つ、天蓋付きのベット、辞書よりも太い装本された本たち。それしかない部屋のベットでスヤスヤと眠る男が一人。肌も髪も黒い彼は、ドタドタとうるさい足音で重い瞼を開いた。
瞼を開いて覗いた瞳は、かつて闇のように深い黒だったとは思えないほど虹色に光を照り返している。彼は欠伸をしながら上体を起こすと、これから来るであろう人を待つためにベットに腰掛け、窓から空を見上げた。窓にあった格子はなく代わりに開き戸の窓がつけられ、窓の外の木の枝では小人たちが楽しげに何かを編み上げている。よくよく見れば部屋中に沢山の小人たちが歩き回っていたり、思い思いの行動をしていた。
これが伝承の中にあったかつての光景であり、子供達が持って生まれてくる特殊な能力であった。
かつてこの国は小人が作り上げた国であった。
小人は普通の人間には見えない形のないものだったのだが、ある時一人の人間が小人を見つけ、二人は種族の違いなどものにせず結ばれた。
そして小人の血を持って生まれた子供は、人とは違う要素を持って生まれ、ある一定の年齢になると小人たちと同じような虹色の瞳になった。そして人と小人を繋ぎ、国を繁栄に導いた記念に建てられたのが『小人の塔』だった。
虹色の瞳は小人たちと同じものであり、子供が小人たちを「認識」すれば他の人間にも小人たちが見えるようになる力を宿している。しかしその瞳を宿した何代目かの子供が大人に成長した頃、小人たちを悪用する人間を目の当たりにし、小人たちを守る為に瞳の色を様々な色で隠した。いつかまた共に生活出来る時まで、彼らの姿を人々の前から隠したのだ。その弊害が肉体にも反映されるようになったのはかなり遠い昔の話。
月日が経つにつれ子供自身が神格化され、記念の塔が隔離塔として扱われるようになった頃には既に小人の瞳に変える儀式が成人の儀式へと形を変え、歴史の積み重ねが本来の形を消し去ってしまっていた。
では何故、ウルドゥーが本来の儀式で詠う詩を知っていたのか。それは彼の世話をしていた神官が関係していた。
彼の世話係である神官は、神官としては珍しく世俗的な考えを持つ稀有な人物だった。神を盲目的に信仰するわけでも貴族の後ろ立てを欲してでもなく、ただ「神学を学びたかったから」という理由だけで神官になった変わった男でもある。
世話係に付いた彼はウルドゥーの容姿の奇異さよりも、無機質な瞳で己の言葉に素直に従う子供の様子に愕然とした。しかし他の神官から「あの塔の子供達は無欲なのですよ」と教えられていた彼はその態度を何となく受け入れ、世話役に徹する事で現実から目を背け続けた。
転機はウルドゥーが5歳になった頃。彼が部屋の掃除をしている最中、ふとウルドゥーの姿を見た時だった。ウルドゥーはベットの上で子供向けの聖典を開いたまま、何度も何度も口を動かし、最後には必ず眉を下げて喉元を手で押さえていた。そして神官が掃除の手を止め自分を見ている事に気づくと、無機質だと思っていた瞳に涙を溜め込みながら唇を震わせ、小さく微笑んだのだ。
「あの時はまるで聖典の角で頭を殴られたようでした」
「うぅ…そんな事があったのですねぇ…っ!」
「王妃様、それ以上王のお召し物で涙を拭うのはお止めください。後ろの侍女が卒倒しそうです」
塔を出た翌日、事情聴取と銘打って思い出話を家族に淡々と語る神官の横で、ウルドゥーは紅茶を飲むことに集中しながら聞こえないふりをしていた。ウルドゥー本人はその出来事をあまり覚えていなかったのと、単純に恥ずかしかったからだ。
世話係の神官はそれから毎日、ウルドゥーが塔にいても寂しがらぬよう勉強を教えることにした。とはいっても元々教師志望だった為知識は豊富だったが、貴族や王族と同じように丁寧に教える時間が作れない事に頭を悩ませた。神殿の規則で塔の長時間滞在は禁止されていたからだ。
悩みに悩んだ末、まずは神殿から配布される聖典を運んできた時や食事の配膳の際に、他の神官にバレぬよう教科書や問題集を運び込んだ。勿論それを収める本棚も。
次に掃除の時間を授業の時間に変更した。「物があまり無い部屋に時間を掛ける必要は無い」とばかりに高速で掃除を終え、一刻半(45分)の短い時間で精一杯物事を教え込んだ。
儀式と塔が建つ庭園の他に外を知らなかった子供は彼の教えをどんどん取り込み、次第に勉強=趣味とまでに成長し、いつしか教えていた神官すら気付かなかった事を話す代わりに書くことで指摘し始めた。
「時には私すら超える回答を繰り出してきて…教師として言わせて頂ければ、これほど素晴らしい教え子が育てられた事、とても誇りに思っております」
「そうか……どの程度出来るのだ?」
「マナーに関しては教材不足で一般教養程度ですが、七ヶ国の主要言語の読み書きは出来ていらっしゃいます。筆記での通訳なら問題ないかと」
「もしかして兄さんは古語も出来ますか?」
「発音はお世辞にも上手いとは言えないけれど、少しなら」
後に弟達の追及で自供する事になるが、青年期には古語が読めるようになり、言葉が話せるようになった頃には行事に使われる古い聖典を全て解読し終えていた。練習し続けて綺麗に詠える様になったのは末弟の成人の儀式で詠った叙事詩一つだけだが、いずれ残りの祝詞も詠わされる羽目になるだろう。
そして彼は、国が本来の姿を取り戻す日を己を救ってくれた人の名誉となる日に決めた。日を改めて神官長から説教のような尋問のような会話を要求されたが、いつもは冷静な世話係の神官が怒り狂いながら逆に説教を開始し、常に偉そうな態度を見せていた神官長が終始口を閉ざしていた事を思い出すと、彼は自然と笑っていた。
彼は自身の事を幸せ者だと自覚している。親身になってくれる先生がいて、家族と布を隔てず話せ、本の中で見た家族団欒を体験した。しかし、かつて塔で暮らした同じ境遇の子供達の事を思うと彼は素直に喜びを享受することが出来なかった。だから今日もまた周りの反対を押し切って塔で過ごしている。
この塔で一生を終えた子供達を想像しながら、彼は空を見上げ、視界の端に写る青々と茂る葉の揺らめきに目を細める。すると暇を持て余した小人たちが彼の髪で遊び始めた。
「わたしの髪は遊び道具じゃないよ」
『あそんでないよ!おそと、いくんでしょ?』『綺麗にまとめてあげる!』
「わたしは外には出られないんだけどなぁ」
言っても止まらないだろうと小人たちの好きなようにさせていると、下から上がってきた足音が部屋の扉の前でピタリと止まった。そして何度か咳をするような声が聞こえ、扉がノックされる。
わざわざ畏まらなくてもいいと何度も言ったのに、と苦笑しながら小人たちに扉を開けてもらう。
今まで物々しい金属の音を響かせて開いていた扉が軽い音を立てて開き、世話係の神官しか訪れなかったこの部屋に、新たな客人が訪れる。
「おはようライル。ようこそ、わたしの部屋へ」
「もうお昼だぞあっ…ウルドゥー兄様」
照れるように自分の名を呼んだ厳つい形相の弟に、ウルドゥーは自分の横に座るようにと手でシーツを叩く。大人しく座った弟の頭に手を伸ばし幼い頃と同じように撫でると、赤くなっていた顔が更に赤くなっていくのを楽しげに見つめる。
「よしよし、ちゃんとわたしの名を呼んでくれたね」
「いい加減子供扱いはやめてもらえないだろうか。凄く気恥ずかしい」
「子供扱いはしていないよ?可愛い弟を愛でているだけさ」
「それが子供扱いだと何度言えばいいんだよ…っ!」
頭を抱え込んだ末弟に、ウルドゥーはからかいすぎたなと思いながらも笑いを堪えることが出来ない。彼にとって末弟はからかいがいのある弟でしかないのだから。(表で鬼将軍などと呼ばれていることなど知る由もない)
「笑ったからちょっと疲れた。今日はどうしたんだい?」
「こっちは精神が疲れた。話の前に、兄上に紹介したい人がいるんだ」
そう言うと、末弟は一度部屋の外に出て数分後に4人の人間をつれて戻ってきた。末弟より関わる回数は少なかったが、幼い頃よく菓子を持ってきてくれた次男のディケット。小さい頃からまとめ役で賢い三男のロジ。そして、そのロジの腕に抱かれている幼い赤ん坊。
立派に成長した弟たちと幼子に驚きながらウルドゥーは立ち上がり、末弟の方へ視線を向けると、末弟は三男から赤ん坊を受け取り微笑む。優しい父の顔で赤ん坊を抱くその様子に、赤ん坊が誰の子なのかはっきりと分かった。
「奥さんは産後でまだ外出が難しいから連れてこれなかったんだ」
「良かったら兄さんも抱いてあげて」
「ライルの子だよ」
恐る恐る赤子の顔を覗き込むと、幼い頃の末弟とそっくりな赤子がすよすよと眠っている。まだ生まれて日が経ってないのか、まだ肌がほんのりと赤い。末弟の体をよじ登っていた小人たちが赤子の頬をつつくと、赤子が目を覚ましゆっくりと瞼を開く。
その瞳が自分と同じ虹色に輝いているのを知ると、彼は周りの小人達を見渡し、どういうことだと末弟を見る。すると、末弟は笑顔のまま首を横に振った。
「理由は分からない。だが、この子は塔には住まない事になっている」
横で「神官たちも同意してくれたし、貴族たちも母上が納得させたからね」と三男が黒い笑顔を浮かべているが、ウルドゥーはそれでも不安しかなかった。将来、自分と同じ末路になるのではないのだろうかと。そう思っていると、赤子が自分の方へ手を伸ばしているのに気づき、彼は恐る恐る小さな手に指を重ねた。ぎゅっと力強く握られた指を軽く揺らしながら赤子を見ると、赤子は大きな目を緩めてニコニコと笑っている。無垢な笑顔にまるで指だけじゃなく、心臓も強く握られたような気がした。
ウルドゥーは震えそうになる声を抑えながら、赤子の額に自分の額を当て、瞼を閉じる。
「どうかわたしの分も幸せになっておくれ…君に祝福があらんことを」
祈るように祝福の言葉をかけ赤子から離れると、小人たちが彼を真似るように同じような仕草をとる。小人たちの行動に赤子が笑い声をあげるのを見つめていると、ふと周りの弟たちが自分を見ていることに気がついた。全員目が据わっている。
何故そんな目を向けてくるのか分からなかったウルドゥーの手を三男が握り、次男が後ろに回って肩に手を置いてくる。
「兄さんも幸せになるんですよ」
「今日から兄様も僕らと一緒に暮らすんです」
「……………………は?」
「まずは正式な場で国民に兄さんの存在を発表します」
「しばらくは神殿で祭事を執り行ってもらって、落ち着いてきたら王城に移ってもらいます」
「父上は今日一日の政務を朝に全部終わらせてしまいました」
「母上は兄様に着てもらう衣装を持ったまま、ずっとそわそわしたままです」
「まずは家族でご飯ですよ」
「そして夜会で兄さんの発表会です」
「「今日一日忙しくなりますよ」」
イキイキとそう語る弟達二人に引き摺られるように、塔の外へと繋がる扉へと移動させられそうな所で意識を覚醒させた彼は、全力で抵抗し始めた。
「いやいやいや、わたしが表に出たら国が危険な事に」
「その程度で揺らぐ程、我が国は弱くないですよ」
「それにわたしはこんな容姿だし」
「多少黒いだけじゃないですか。大丈夫ですって」
「ライル、君の兄上たちこんなに頑固だったかい!?」
「家族大好きをこじらせてるからな」
「神殿から許可は?!」
「それは俺の奥さんがもぎ取った」
「父上でも母上でもないだと!?」
「「行きますよー」」
「流石に担がれるのは恥ずかしいからっ」
抵抗も虚しく兄弟達の手によって運ばれていく彼を、小人達と彼の弟は楽しげに見送り、弟の腕に抱かれた赤子は幸せそうにまた眠りに落ちていた。
かつて記念の塔として建てられた塔は歴史の積み重ねにより子供の牢獄と化した。しかし、本来の伝承を知った子供が塔を解き放ち、塔は新たな形で受け継がれていくだろう。
「兄上ー入れてくれー」
「はいはいどうぞ」
『いらっしゃーい!』
それが若き将軍の憩いの場所としてか。
『あの子が壁登ってきてるー』『力凄いね~』
「お姫様、せめて階段から登ってきなさい」
「おじ様!遊びましょ!」
小人姫と呼ばれるお転婆姫の遊び場としてか。
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」
「兄様、覚悟を決めてください」
「兄さんと会うまで帰らないってさ」
『こっち来てるー』『ドレスの大群』
「全力で阻止してください!!!!」
大公となった彼のお見合い相手達からの避難場所としてなのかは、現世を生きる彼らは知る由もない遠い未来の話である。