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いくら魔法のある世界とはいえ、学生の理科の実験は前世のものとそう変わらない。
薬品と薬品を混ぜて、蒸発させて、分離させて、リトマス試験紙に付けてみて………そんな、化学の実験だ。
ただ、前世と違うことがあるとすれば、たまに。
「次にこの瓶の中身を“分解”すると、物質Aと物質Bに分けることができる。このクラスでは……あぁ、スコットが使えるな。彼女に行ってもらうように」
一部の生徒の魔法に頼る工程がある、ということ。
「スコットにもスコットの実験がある。声をかけるときは邪魔にならないよう状況をしっかり判断してから頼むように」
ユリシア・スコット。
レオ様曰く、彼女が今最もシャリオット軍部に期待されている人物だとか。
“分解”は、どんな混合物も単体同士に戻してしまう魔法だ。料理だろうと、薬品だろうと。気体ですら、分けた後保存する為の瓶さえあれば可能だというのだから、使い方によっては恐ろしいものとなり得るだろう。
たとえ毒ガスを使用されても、分解出来てしまうのだから相手国は不用意に化学攻撃が出来ない。下手すればただ技術や知識を奪われるだけとなってしまうのだから。
(とはいえ……あの方にそんな事が出来るかどうか)
視線の先には、皆に詰め寄られて自分の実験を全く進められていないユリシアの姿。他の班員も困ってしまっているようで、断れと視線で訴えている。
が、彼女はどうも気が弱い大人しい女生徒のようで、Noの一言はどうしても言えないようだった。こんな彼女が戦場で魔法の詠唱など出来るのだろうか。
けれど、このまま断ることが出来ない彼女なら、軍部の圧に容易く負けてしまうかもしれない。
「エステル様、私達も頼みに行きましょう!」
「…っ、待ってアイリーン様!今はダメです」
“分解”する手前まで実験が進んでしまったことでアイリーン様は待つことを手間に感じたらしい。
私とエステル様がいるのだから大丈夫よ!と軽やかに駆け出してしまった。
そもそも実験室で走らないで欲しいのに…
たとえ記憶持ちだとしても、安全面での気を付け事は前世も今世も変わらないだろうに。
元々止まっていられない活発な方なのだろう……マグロかな。
「スコット様、今良いですか?」
ようやく、人の波がはけてきたスコット様は自身の実験に取り掛かる。
薬品の入った試験管二本を手に持ち、今にも入れようと傾けてその時、アイリーン様が不用意にも背後から声を掛けた。
「ひっ?!ア、アイリーン様……」
案の定、突然+高位の者からの声掛けにダブルパンチを食らったユリシア様は驚いて試験管同士のバランスを崩し、彼女は傾けていた試験管から手を離してしまった。
「……危ないっ!!」
ようやく走っていったアイリーン様に追い付いた瞬間にその場面が発生した私は最適解を見つけられない。
だからただ、傾いて零れた薬品が掛かりそうだったアイリーン様を突き飛ばして、その中に滑り込む。
(お願い、掴ませて……!)
かかったとしても火傷で済むものだからと落ちた試験管を強引に掴むと、手の甲に痛みが走った。
元々垂直だった試験管はユリシア様の手を上から握ることでより固定した。
「……あ、あの…エステル様…?!」
ユリシア様の怯えた声が降り掛かる。
あぁ、そういえば勢いでいってしまったものの、私は留学している他国の王女。
____正直、王太子の婚約者より怪我させてはいけない存在だった。
「あの、お怪我は…?!」
「…大丈夫です。貴女こそ、お怪我はありませんか?ユリシア様。……アイリーン様も」
視線を目の前のユリシア様から横にずらすと、尻餅をついてぽかんと目を見開いたアイリーン様。
そんな顔でいつまでもいてはシャリオットの威光が危ぶまれるのだけれど。
「……申し訳ございません。あの場ではああするしかアイリーン様の御身をお守り出来なくて」
「い、いえ…私の方こそ、ごめんなさい」
手を差し伸べると、彼女はしゅんと俯きながら手を掴んでくる。
「………ねぇ、あなた何者?」
手を引っ張って彼女を立ち上がらせようとした、その時。
身を起こしたアイリーン様が顔を近付けてきて、耳元に語り掛けてきた。
「…私は、アウトゲルムの王女ですわ」
その声は、感じてきた敵意の視線がそのまま声に乗せられたように、黒くて重い。
息を飲んでしまったものの、微笑んで当たり障りの無い言葉を返す。
アイリーン様は返事をしなかった。
「……何か、あったのか?」
入口の生徒がざわめく。
中には歓喜の悲鳴も混ざっていたようだ。教師も何かを察したらしく、突然汗をかき始める。
訓練でもされていたかのように生徒の波が割れ、道が出来た。そしてその中心を無表情に歩いてきたのは。
「ジーク!」
王太子殿下。
「…いえ、何もございません。ただ私の不注意で、危うく事故が起きるところでした…アイリーン様まで巻き込んで」
「っ?!」
ここでもしアイリーン様がユリシア様に怪我をさせられそうになったという話にでもなれば、解釈によっては王族への傷害事件となってしまう。
けれどここで原因はユリシア様が背後から声を掛けられたからだ、とはこの場の人々にはとても言えない。
「申し訳ございませんでした、アイリーン様。ジークフリート様」
次期王太子妃の機嫌を損ねるような発言などそこらの貴族たちには不可能。それは、当然ユリシア様も例外ではない。
それならば、安全のためとはいえ突き飛ばしてしまっている、そう簡単に処罰は下せない私が頭を下げてしまった方が事が楽に収まる。
「…本当か、アイリーン?」
「あ、あの……」
口篭るアイリーン様。まだ少し衝撃から解放されておらず、上手く話せない状況らしい。
「…エステル王女、貴女は」
「ま、待って下さい王太子殿下!」
規則正しく並ぶ生徒の列から、女生徒が飛び出す。
拳を握り、けれどその拳も震えて止まらないくらいの緊張と恐怖に襲われているユリシア様は、それでもジークの前に膝をついた。
「…スコット伯爵令嬢、何か?」
いくらジークが心優しくとも、王族の言葉を遮ることは不敬とも取られる。流石に流すことは出来ないと彼が諭そうと続けた言葉を、彼女は再度遮った。
「私は貴女に発言する許可をまだ」
「御無礼は後で如何様にも。ただ、ここで真実をお伝えしなければ、私は処罰より重い後悔を抱えることになります」
「……真実?話してくれ」
その場の誰もが息を飲んだ。
暗黙の了解で誰もが口にしなかった否定の言葉を、よもや彼女が言い出すとは、と。
「エステル様はただ、薬品がかかりそうになったアイリーン様をお庇いになっただけです。本当は…、本当は、私が不注意で試験管を落とし、アイリーン様を危険な目に合わせました…!」
私も、予想外の救援に言葉が出なかった。
「エステル王女様」
ジークの前に頭を下げたまま、彼女が私の名を呼ぶ。
横に立っていた私をちらりと見つめたユリシア様は、今にも泣き出しそうな程に目を潤ませていた。
「私を庇って下さったこの御恩、忘れません」
やがてユリシア様は、教師や殿下の護衛に伴われて去っていった。
その時の彼女の凛とした背中から、私は目を離すことが出来なかった。




