拳屋 vol.01 「拳屋」
肉を打つ衝撃。
それが腕を通して伝わるのと同時に、吹き飛ばされた男の体が建物の扉をぶち破った。
風通しの良くなった入り口から「彼」が足を踏み入れると、中にいた男達が一斉にそちらを向く。
「何だテメエはッ!」
入り口近くに立っていた男が、声を荒げながら「彼」へと歩み寄る。
次の瞬間、その顔面に拳がめり込んだ。
その衝撃に、男は後頭部から地面に叩きつけられて失神する。
「拳屋だよ」
振りぬいた拳をそのままに、「彼」は凶暴な笑みを浮かべてそう答えた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
事の起こりは二時間ほど前。
知り合いの情報屋から仕事のネタを仕入れた彼は、一人で公園をうろついていた。
昼下がりの公園に人の姿はなく、閑散としている。
「あの野郎、ガセじゃねえだろうな……」
彼がぼやきながら歩いていると、やがて二つの人影が目に入った。
老人と、スーツ姿の男だ。
老人はスーツ姿の男に抗議しているようだったが、男が立ち去ると、力なくベンチに座り込んだ。
遠目に見ても、何やら困っている様子がうかがえる。
もしやと思って近付いてみると、老人の顔には見覚えがあった。
知り合いというわけではなく、この辺りでは有名な資産家だ。
同時に、彼が探していた人物でもある。
「困り事かい?」
彼が尋ねると、老人が顔を上げた。
老いてなお精悍な顔をしているが、今は少し疲れて見える。
「君は?」
「便利屋だよ。事情を聞かせてもらえれば、力になれるかもしれないぜ?」
老人は視線を戻すと、力なくため息をもらした。
「君、両親は?」
「死んじまったよ……焔戦争で」
十年前、当時の国軍が起こしたクーデターを発端とした内戦。
軍事国家の設立を目論む、過激派を中心とした反乱軍と、
それに反対する勢力が結集した政府軍との戦いは、国中を戦火に包んだ。
終結から年月を経た今でも、人々の心に強い恐怖を残すその戦いは、
いつからか「焔戦争」と呼ばれるようになっていた。
「わたしは娘夫婦を失った……だが我々だけではない。
この街には家族を、そして行き場を失った人々が大勢いる」
遠くの街並みを眺めながら、老人がため息をもらす。
外見上は復興を遂げたこの街だが、見えない場所は行く当てのない孤児で溢れていた。
「少しでも彼等の力になりたいと手を尽くしてきたが、
奴らにはそれが目障りだったようだ」
その言葉で事情を察した彼は、思わず顔をしかめた。
資産家である老人は、家のない人々に仕事と住居を提供する慈善事業を行っている。
だが路地裏の孤児達は、人身売買を生業とする犯罪組織にとっては貴重な収入源。
当然、黙って見ているはずがない。
「奴らは交渉材料としてクレアを――孫娘を連れ去った。
今のわたしに残された、たった一人の肉親を……」
言いながら、老人は拳を震わせる。
その顔には孫娘を失いたくないという気持ちと、
犯罪組織に屈したくないという気持ち、その両方が見て取れた。
「なあ爺さん、俺の拳を買わないか?」
「……拳を?」
聞き慣れない言葉に、老人が疑問と共に彼を見上げる。
その目に映るのは、燃えるような赤い髪の青年。
「肉屋は肉を売っている。靴屋は靴を売っている。
だから俺は、拳を売っている」
そう言って彼――拳屋のキバは、漆黒のグローブに包まれた拳を握り締めた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お嬢さんを返してもらおうか」
啖呵を切りながら、キバは建物の中を見渡した。
焔戦争時に放棄され、今は使われていない廃工場。
犯罪組織のアジトとしてはメジャーな場所だ。
機材は放棄時に引き上げられたのか、中は閑散としている。
そんな中に、スーツを着た男達が全部で……六人。
(思ったより少ないな)
既に寝ている二人を入れても八人。
資産家の孫娘を誘拐し、取り引きしようと言うには少ない。
これで全構成員だとしたら、組織としてもかなり小規模だ。
「拳屋……最近幅を利かせているという便利屋か」
違和感を覚えるキバに対し、奥に陣取っていた男が口を開いた。
白いスーツの上にコートを羽織った、サングラスの男。
他の男達がキバの登場に浮き足立つ中、一人だけ余裕の表情を浮かべている。
一目見て頭目と分かる。そんな男だ。
「どんな問題も拳で解決するそうだな……こちらは取り引きを望んだはずだが?」
そう言う頭目の傍らには、両手を後ろで縛られ、猿ぐつわを噛まされた少女の姿がある。
整った顔立ちに、美しい金髪の少女だ。
長時間拘束され疲労しているようだが、乱暴された様子は見当たらない。
(交渉材料の扱いくらいは心得てるか……)
少し安心するが、すぐに気を取り直す。
資産家に対する切り札とはいえ、この救出が失敗すれば、
彼女が危険にさらされる可能性は高くなる。
「取り引きでも何でも好きにしろよ。俺を殺した後でな」
「面白い……いいだろう」
キバの内心を知ってか知らずか、頭目は静かに左手を挙げる。
すると手下の男達は次々と、その懐から拳銃を取り出した。
焔戦争前に開発され、反乱軍が採用していたオートマチック拳銃だ。
それが迷いのない動作で構えられ、全ての銃口が正確にキバを捉える。
少人数ではあるが、素人ではない。
その事実に、キバも緊張の色を強めた。
「んー、んーっ!」
一触即発の状況に、囚われていた少女がくぐもった声を上げる。
表情からは「逃げて」と言っているように見えるが、実際は分からない。
どちらにせよ、キバに逃げるつもりは毛ほどもなかった。
「撃て」
頭目の一言で、銃口が一斉に火を噴く。
放たれた弾丸がキバにぶつかり、その体が大きく仰け反った。
少女が顔を背けるが、男達はなおも引き金を引き続ける。
連続する衝撃にキバの体はコマのように回転するが、それでも止めない。
金属同士がぶつかるような、異様な着弾音が鳴り響くが、それでも気付かない。
やがて全ての弾が撃ち尽くされ、銃撃が止む。
それでも立っているキバの姿を見て、男達はようやく違和感を覚えた。
「……?」
男達が見ている目の前で一つ、また一つと、弾丸が地面に落ちていく。
漆黒のグローブに包まれたキバの手の中から。
「な――!?」
手下の一人が驚愕の声を上げようとするが、キバが動く方が早かった。
一番近くにいた男との間合いを瞬時に詰め、顔面に拳を叩き込む。
そのまま身を翻すと、横にいた男目掛けて後ろ回し蹴りを放つ。
ブーツのかかとが男の脇腹にめり込み、二人仲良く地面に倒れこんだ。
残った男達は慌てて弾丸を補充しようとするが、
慌てているため弾倉が上手く入らない。
早々に二人をノックアウトしたキバが向き直ると、
内一人は装填を諦め、弾倉を投げつけてきた。
キバが容易くそれをかわすと、今度は持っている銃で殴りかかる。
「うわぁああああああああああ!!」
半ば自棄にも聞こえる雄叫びと共に飛び掛ったが、
それを読んでいたキバのアッパーがあごに突き刺さった。
彼が宙を舞っている間に残る二人が装填を済ませ、再び銃を構える。
だが一人は距離が近過ぎた。
キバにするりと懐へと入られ、背中からの体当たりを食らって盛大に吹っ飛ばされる。
もう一人は十分距離が空いていたが、引き金を引けない。
四人の仲間を瞬時に倒したキバの動きに、完全に圧倒されていた。
そんな男に向かってキバが地面を蹴る。
男は慌てて引き金を引くが、ジグザグに向かって来るキバに対して狙いが定まらない。
無駄に撃ちまくっている内に、二人の距離は見る見る縮まっていく。
だが後一歩で手が届く――そんな距離でようやく、銃口が完全にキバを捉えた。
男は勝利を確信して引き金を引くが、その瞬間、笑みを浮かべたのはキバの方だ。
音よりも速く発射された弾丸は、
漆黒のグローブに包まれた掌に掴み取られ、
着弾の衝撃を利用してキバの体が高速で回転する。
(!?)
男には何が起こったのか分からない。
分からないまま高速の裏拳を叩き込まれ、
その衝撃で意識を失った。
「さて、残るはあんただけだぜ」
頭目以外全ての男を打ち倒し、キバはようやく動きを止めた。
その身には汗一つかいておらず、余裕の笑みすら浮かべている。
「……なるほど、大口を叩くだけのことはある」
一方頭目の男もまた、余裕の態度を崩さない。
手下全員をあっという間に倒されたというのに、だ。
(何か武器を隠してるのか……?)
なら丸腰の内に倒してしまった方がいい。
そう判断してキバは地面を蹴る。
だが結果として、それは早計だった。
頭目がキバの間合いに入った瞬間、頭目がわずかに腰を落とす。
それは、キバが頭目の間合いに入った瞬間でもあった。
頭目の鋭い突きが、拳を繰り出そうとしたキバの顔面に突き刺さる。
「――ッ!」
体重の乗った一撃ではなかったが、出鼻をくじかれて後退するキバ。
頭目はそれを見て満足そうに笑うと、あらためて構えをとった。
右手を腰に回し、左手を手刀にして掲げる、東洋武術の構えだ。
「驚いたか? 『サトリ』ならわたしも使えるよ。それも近接戦闘レベルでな」
頭目が得意げに笑う。
サトリ――東洋武術における先読みの技術だ。
理屈で説明できない部分が多く、習得するには勘の良さだけだなく、
長期間の訓練が必要とされている。
キバが音速を超える弾丸を掴めるように、
熟練者の読みは常識で測れないレベルに達するため、
焔戦争前から軍で研究対象になっていると言われていた。
「元軍人かよ」
「ついでに言えば、元便利屋だ。『壊し屋』と言えば分かるかな?」
「うげ……」
思わずうめき声を上げるキバ。
「壊し屋」ウォン・ロンと言えば、便利屋の間では有名だ。
荒事を専門とする武闘派で、依頼料次第では殺しも請け負う危険な男。
最近名前を聞かなくなっていたが――
「便利屋を引退して組織作ってたとはな」
「その方が儲かると思ったんだが……」
ロンは地面に倒れている手下達を示し、
「この様だ。上手くいかないものだな」
と笑う。
「後悔してんのか?
安心しろよ、再起できないくらい徹底的に潰してやるからさ」
そう言うと、キバは再び地面を蹴った。
フェイントを交えつつ二発、三発を拳を打ち込むが、
ロンの掲げた左手の手刀に全てさばかれる。
四発目を打ち込もうとしたところで反撃の突きをもらい、
舌打ちと共に再度間合いを広げた。
「読みはわたしの方が上のようだな」
サトリは防御だけでなく、攻撃においても重要な技術だ。
キバの攻撃は防がれ、ロンの攻撃は当たる。
それはロンの言うように、
サトリにおいてキバの方が劣っていることを意味していた。
事実を指摘され、キバの心に焦りと苛立ちが浮かぶ。
だが――
「これなら、わたしが倒した『餓狼隊』の方が手強かったぞ」
その言葉を聞いて、そんな些細な感情は吹き飛ばされた。
「っ……!?」
驚きのあまり、キバの全身が硬直する。
餓狼隊――焔戦争にて政府軍として戦った、義勇兵を中心とした部隊だ。
漆黒のグローブで敵の弾丸を受け止め、後続の部隊を守ることを役目としていた。
その存在は反乱軍にとって最大の脅威であり、
キバにとっては幼き日を共に過ごした家族でもあった。
「気付いていないと思ったか?
防弾性グローブで弾丸を掴むなど、他には考えられない。
餓狼隊の生き残り……いや、その親類というところか」
得意げに笑うロン。
だがキバには、そんなことより大事なことがあった。
拳を震わせながら、言葉をしぼり出す。
「……誰だ?」
「何?」
「誰の仇だ! てめえはっ!?」
キバが叫ぶと、ロンはゆっくりと構えを解いた。
先程までの余裕の笑みとは打って変わって、
苦々しい表情を浮かべてその右手を見つめる。
「白衣をまとって戦場に立つ、奇妙な男だったよ」
ロンが答えるのが早いか、キバが三度地面を蹴った。
白衣を着た餓狼隊の男など、一人しかいない。
「てめえがドクターのっ!!」
怒声と共に殴りかかるが、再び構えたロンの左拳が、
またもやキバの顔面に突き刺さる。
だが怒りに我を忘れたキバは、その程度では止まらない。
拳を受けたまま踏み込み、構えていた拳を振り抜く。
ロンはその強引な攻めを読み切れず、キバの拳が肩口に命中した。
「ぐ……っ!?」
バランスを崩すロン。たたみ掛けるキバ。
ロンは左拳で迎撃しようとするが、時にはかわしながら、
時にはもらいながらも強引に踏み込んでくるキバを、
思うように突き放すことができない。
ロンが殺したという男――ドクターは戦士であると同時に、超一流の医者だった。
彼さえ生きていれば、その後も多くの仲間が死なずに済んだはずだ。
子供だったキバを拾ってくれた、あの男も。
そう思うとなおさら、キバはロンを許せない。
やがて二度、三度とキバの攻撃が命中し、
今度はロンの方が後ろに下がって距離を取った。
だがキバは止まらない。
決して逃がさないという、強い意志で前進する。
(もらった!)
そう確信して拳を繰り出すキバ。
だが手応えに違和感を覚え、思わずその動きを止めた。
ロンは腰の後ろに回していた右腕で、キバの拳を受け止めている。
キバはガードの上からノックアウトするつもりだったが、
その拳から伝わった感触は、鉄の塊を打った時のそれだった。
「驚いたか? 前の腕は奴に壊されてな」
ダメージを隠し切れない表情で、ロンが笑う。
驚愕するキバの隙を突いて、ロンの左拳がキバの左肩にヒットする。
今度はキバの方がバランスを崩した。
次の瞬間、ロンの右腕――金属製の義手がガチャリと音を立てる。
「まずい」と思った時にはもう遅い。
火薬の爆発によって加速したロンの右拳が、キバの胸に突き刺さる。
心臓に強い衝撃を受け、キバの意識は途切れた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
十年前。焔戦争中の、政府軍拠点にて。
組み手で怪我をしたキバは、ドクターに薬を塗ってもらっていた。
「ぐあ、染みる……染みるって!」
「我慢してください。これでも優しくしてるんですよ?」
暴れるキバに対し、白衣の青年が呆れて言う。
「隊長も隊長ですよ。子供相手に組み手なんて……」
「固いこと言うなって」
近くでタバコをふかしていた男は、悪びれた様子もなく笑った。
「実戦に勝る練習なし、って言うだろ?」
「おやっさんに勝つまでやめないからな!」
「はあ……」
そんな二人を見て、ドクターが頭を抱える。
「あなた達、そんなことで戦いが終わってからどうするんですか?
平和な世の中じゃあ、力だけで生きてくことはできませんよ」
今度は二人が頭を抱える。
「うーん、俺は腕っ節しか取り得ねえしな……」
そう言ってしばらく考え込んだ後、男はポンと手を叩いた。
「よし、拳屋でもやるか」
「拳屋……?」
聞き慣れない単語に、ドクターが聞き返す。
「おう。靴を売ってるのは靴屋で、肉を売ってるのは肉屋だろ? だから俺は拳屋さ」
意気揚々と言うが、キバとドクターはますます首を傾げた。
すると男は咳払いし、頼まれてもいない説明を始める。
「この内戦が終わってもさ、暴力に苦しむ奴はいなくならないと思うんだ。
だから俺は、そういう連中のために拳を振るいたい」
それを聞いて、ドクターは笑った。
「他人のために暴力を振るう乱暴者ですか……あなたらしいですね」
子供のキバにとって、二人の言うことは正直ピンと来ない。
だが無邪気に夢を語るその目を見て、漠然と彼のようになりたいと感じた。
誰よりも強く、誰からも信頼された彼のように。
そんな日々がしばらく続いたある日、彼らは戦場へと出掛けて行った。
彼らの出動はいつものことで、だから全員いつも通り帰ってくる。キバはそう信じていた。
しかし戻って来た男達の中に、キバはいつもの白衣姿を見付けることはできなかった。
それからというもの、内戦が長引くにつれ、戻って来る兵士の数は減っていった。
餓狼隊の人間も、その多くが命を落とした。
拳屋になると夢を語った、あの男も。
そしてキバは誓った。
彼の遺志を継ぎ、力のない人達を暴力から守る、拳屋になると。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
意識が戻る。
気を失っていたのは、ほんの一瞬だったらしい。
ロンの攻撃を受けて吹き飛ばされたキバの体は、未だ空中にあった。
とっさに受身を取ろうとするが、思うように力が入らない。
結局なすすべなく、背中から地面に激突した。
「がはっ……!」
肺の中の空気をしぼり出されるキバ。
すぐに立ち上がろうとするが、体に力が入らない。
そんなキバの姿を見て、ロンは勝利を確信し笑みを浮かべた。
悠然とキバに近付いていくロン。
右腕の肘から先は衣服が吹き飛び、むき出しになった義手からは煙が上がっている。
そんなロンの歩みが、不意に止まった。
不思議に思ったキバが顔を上げると、囚われていた少女――クレアが、
キバとロンの間に割って入っていた。
倒れている男の一人が落とした拳銃を手に取り、ロンに向けて構えている。
その手首には、縄の痕がはっきりと残っていた。
「縛り方が甘かったか……」
舌打ちするロン。
「お嬢様、それはあなたに扱えるものではありませんよ」
表面的には紳士的に、だが凄まじい威圧感を放ちながら、ロンが銃を渡すよう促す。
クレアの腕では何発撃ってもロンに当てることはできないだろう。
彼女自身それを分かっているようで、銃を持つ手は細かく震えていた。
だが銃を手放すことはなく、今度は自分の顎に押し当てる。
「な……!?」
キバとロン、二人の驚く声が重なる。
一方クレアは、強い決意のこもった目でロンを見据えた。
「これ以上そちらの方を傷付けるのであれば、この引き金を引きます」
それは脅迫だった。
取引材料という、自分の価値を盾にした脅迫。
その言葉を耳にして、キバの心臓が大きく跳ねた。
(何やってんだ、俺は……)
怒りで頭に血が上り、ロンに打ちのめされた挙げ句、
守るべき少女に守られている。
不甲斐なさに、自分への怒りで身が震える。
一方ロンは、冷静に現在の状況を天秤にかけていた。
取引材料である少女は、万に一つも失うわけにはいかない。
障害となる拳屋は、自分の敵ではない。
「いいでしょう。あなたの覚悟に免じて、この件はなかったことにしますよ」
ロンの言葉に、クレアは安心して肩の力を抜いた。
だが――
「悪いがそうはいかねえな」
立ち上がったキバの言葉に、再び緊張が走る。
ダメージが完全に抜けたわけではなかったが、
それを感じさせない足取りでクレアに近付くと、
キバは優しく彼女を押し退ける。
と同時に、その手から拳銃を取り上げて弾を抜き、
そのまま遠くへと放り投げた。
「かばってくれてありがとうな。
けど俺は……拳屋はここで退くわけにいかねえんだ」
呆然とする彼女を見て、にやりと笑うキバ。
「この勝負、俺の命も一緒に懸けさせてくれ」
静かだが、先程のクレア同様、強い決意を秘めた言葉。
彼女も頷くと、キバの邪魔にならない場所まで下がり、
祈るように手を合わせた。
それを見て、ロンが暗い笑みにその顔を歪める。
「逃げていればよかったものを」
「負けたままで帰れるかよ」
言って、二人は再び構えをとる。
今回地面を蹴ったのは、二人同時だった。
ロンの左拳が鋭く空を裂いて襲い掛かる。
キバはそれを紙一重でかわすと、自身の拳をロンの顔面に叩き込んだ。
「何……っ!?」
驚愕に目を見開くロン。
続けて左拳を繰り出すがことごとく見切られ、
その度にキバの反撃が命中していく。
油断もなく、冷静さを取り戻したキバには、
ロンの次の動きがはっきりと読めていた。
クレアの介入を経て、二人の力関係は完全に逆転している。
だがロンには再度逆転する方法があった。
右腕による一撃だ。
鋼鉄の義手の中には、まだ火薬が残っていた。
ロンはその一撃を繰り出すための隙をうかがうが、
キバの攻撃は更に激しさを増していく。
気付けば、ロンはキバの攻撃を受けるだけで手一杯の状態になっていた。
「うぉおおおおおおおおおおっ!!」
雄叫びと共に、キバが腕を振り上げる。
(まずい……!)
この攻撃は左では受け切れない。
そう判断し義手の右腕で受け止めようとするが、それがまずかった。
斧のような勢いで振り下ろされた一撃により、義手が大きく折れ曲がる。
「しま――」
しまった。
とっさに声を上げそうになるが、続けざまのアッパーを食らって遮られる。
同時に体勢を崩し、無防備な姿をさらすこととなった。
当然、その隙を見逃すキバではない。
大きく息を吸い、強く地面を踏みしめる。
足の裏から伝わる反動を、鍛えられたキバの感覚が捉えた。
カムイ――サトリと双璧を成す、東洋武術の奥義。
体内の力の流れをコントロールする技術。
それによって導かれた力が、キバの足から拳の先へと流れていく。
その途中で、キバの全身の力をかき集めながら。
力が拳に届くのと、キバの拳がロンの体に触れるのは、ほぼ同時だった。
空気が震えるような音が響き、衝撃によってロンの着ているコートが翻る。
だがロンの体はその場から動かない。
それは、全ての力がロンの体内を駆け巡ったことを意味していた。
まるで時が止まったように、辺りに静寂が訪れる。
やがて、壊し屋ロンの体は音もなく地面に倒れこんだ。
「ふう……」
大きく息を吐くキバ。
固唾を呑んで見守っていた少女に向き直ると、
彼はにやりと笑って親指を立てて見せた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
クレアを伴って外に出ると、依頼人である老人が立っていた。
「クレア!」
「おじい様!!」
老人に向かって駆け出す少女の目から、涙がこぼれる。
悪漢達に捕らえられ、ずっと張っていた緊張の糸が、肉親を前にして緩んだのだろう。
それまで我慢した分を取り戻すように、大粒の涙が次々と溢れ出していた。
(強い子だな……)
そんな彼女に守られてしまったことに、キバの胸がちくりと痛む。
駆け寄った少女をしっかりと抱きとめる老人。
二人の姿を見て、不意に幼い頃のことを思い出した。
老人の胸に顔を埋める少女の笑顔。
戦場から戻って来た「彼ら」を迎える時、自分もあんな顔をしていたのだろうか。
そう考えると、思わず笑みがこぼれる。
「まいどあり」
小さくつぶやくと、キバはその場を立ち去った。
拳屋――暴力を糧にして生きる男。
そんな彼のことを、無頼と罵る者もいる。
だが彼はそれでいいと思っていた。間違ってはいない。
誰に何を言われようと、彼は自分の道を歩き続ける。
その拳と共に。