第9話 ドブネズミの制裁
「はぁ………」
学舎の廊下を、クロはため息交じりに進んでいく。
結局、彼は14日間。2週間もの間を修道医院で過ごすことになったのであるが、医院での入院生活は決して悪いものでは無かった。
あそこは静かだし、思う存分、本を読むことが出来たのである。
そんな快適な時間をたっぷりと過ごしたクロにとって、再びこの学舎に戻るということは憂鬱なものであったのだ。
「まあ、2週間。先輩とも会っていないしな。
久しぶりに先輩に会いたい………」
そこでクロは、ハッと顔を赤らめる。
「って、何言ってんだ僕は! 先輩なんて関係ないだろう!?」
何気なく呟いた自分の言葉に、クロは自分で慌ててしまう。
クロにとって、ヴィオレという上等生は、棲家を簒奪した迷惑な存在でしか無かった筈だ。
そんなヴィオレに会いたいと、クロは自然に思ってしまっている。
自分で考えている以上に、クロにとってヴィオレという少女は大きな存在になっているのかもしれなかった。
クロはすでに学友たちが集まった、講義室へ向かう途中であった。
2週間ぶりの復学、学友たちへ一度挨拶をするようにと指示を受けていたのだ。
「気が重い………」
クロとしては、出来るだけこっそりと講義に紛れこみたい気持ちである。
唯でさえ、クロは「学友」たちと親交が薄かったし、何より彼女―――カナリーと顔を合わせるのは気まずいものがあるのだ。
(まあ、カナリーさんからすれば、僕のようなドブネズミのことなんて、気にもとめていないだろうけど………)
クロは、あの日カナリーが浮かべていた憎悪の表情を決して忘れた訳では無かったが、あれから月日をおいたことで、少し冷静な思考を得ようとしていた。
(そもそも、カナリーさんが僕を殺してどうするんだ? 何の得にもならないじゃないか)
仮にも貴族であるカナリーが、自分のような平民を殺したところで得るものなんて何も無い。
魔術の初歩の初歩である発火魔術。誰でも使え、生活にも活用されていることから、高度に練り上げた発火魔術に人を殺すだけの威力があることを知っている者は少ない。
カナリーは普段から魔術を学ぶことに積極的な学生では無かったし、発火魔術の威力という物を理解していなかった可能性が高い。
ただ、嫌がらせのつもりで自分に魔術を放ったら、思ったより威力があったという話ではないだろうか?
あれから2週間の時を経て、クロはカナリーから受けた一連の行動をそんな風に受け止めるようになっていた。
それでも、彼女の放つ魔術は強力なものであり、このようなことは2度としないで欲しい。
更に言えば、もう自分には関わらないで欲しい。
「やれやれ」
クロは再びため息をつくと、憂鬱な気持ちで講義室の扉を開くのだった。
◇
(来る! とうとう、来てしまう!!)
学友たちが着席する講義室の一席で、カナリーは体中から冷や汗を流し、自分の机に目を向けている。
先ほど、ベージュが受け持ちの生徒たちへクロの復学を伝えたのであるが、カナリーは絶望を持って、それを聞いていた。
とうとう
とうとう戻ってくるのだ、あの男が。
自分に対する怒りに爪を研ぎ、憤怒の渦で殺意を昂ぶらせながら―――
あのクロ・シルバーが帰ってくる………自分を殺すために。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ………」
席に着いたまま、一人ブツブツと何事かを呟くカナリーに、側の学生が不審な目を向ける。そんな視線に気付かぬほど、カナリーは極限状態に追い込まれていた。
あれからほとんど寝ていない。
砕かれたまま放置している右拳は赤く腫れあがり、その奥が黒ずみ始めている。
殺されるくらいなら………殺される前に、殺してやる。
ふうふうと息を荒げ、机に目を向け続けるカナリーの姿は、どう見ても正気の物では無く、近くに座っている生徒たちがみな一様に訝しげな目を彼女へ向けていた。
そんな中―――ガチャリと講義室の扉が開かれる。
カナリーはビクリと体を震わせながら、侵入者へと目を向ける。
「ひっ………!」
そこには、大きな黒い、ネズミの化け物がいた。
ネズミは顔面を燃え盛る炎に焼かれながら、カナリーを睨みつける。
その漆黒の瞳には彼女へ対する憤怒と憎悪、そして殺意が溢れていた。
「う、うう………うううぅぅ!!」
カナリーは席から立ち上がり、激しい恐怖にガタガタと震えながらも、必死になって魔術の術式を編み込んでいく。
発火魔術。魔術の基礎ともいえる簡易な術式。
しかし、カナリーが編んでいく火炎の玉は、2週間前の物に比べ遥かに巨大で燃え盛る火炎の渦となっている。
そして檸檬色の瞳を恐怖と狂気に歪ませながら、狂ったような叫び声を上げた。
「殺す………ぶっ殺してやる!! ネズミ野朗!!」
◇
「え………?」
クロは驚愕の表情を浮かべて、講義室の中央辺り、カナリーの方へ目を向ける。
クロが渋々と講義室の扉を開き、席に座る学友たちを一望したところ、件のカナリーが突然激昂したように立ち上がり、突然、魔術の術式を編み始めたのだ。
「××××××××!!」
そして、意味不明な叫び声と共に、カナリーは発火魔術を顕現させる。
それは2メートルにも及ぶかという、巨大な火炎球。もはや炎渦と言って差し支えない、炎の魔術であった。
突然の事態に、悲鳴が飛び交い騒然とする講義室の中。
クロはただ呆然と、火炎球を掲げるカナリーへ目を向けていた。
そこまで………。
そこまで、僕が憎いのか?
本気で僕を殺したいと………そう思っているのか?
顔面を炎に焼かれてなお、クロはカナリーに殺意があるとは思っていなかった。
だって、そうだろう?
険悪であるとはいえ、自分と彼女は学友なのだ。
いくらなんでも、本気で殺そうとする筈が無い。
半ば、そうであって欲しいという期待を持って、クロはそう考えていたのだ。
しかし、そんなクロの願いはいとも簡単に崩されてしまったらしい。
目の前の少女が掲げるその炎は、冗談でも人に向けられるような代物ではなく、明確な殺意が無ければ顕現させないモノだ。
それに、彼女が自分へ向ける常軌を逸した殺意の視線。
何で、どうして、カナリーはそこまで自分を憎むというのだろう?
「ああああぁぁぁぁ!!!」
狂ったような叫びと共に、カナリーがクロへ向かって、火炎の渦を叩きつける。
それはクロの体をスッポリと包み込んでしまいそうなほど巨大なモノで、あれを受ければ火傷では済まないだろう。
(し、死ぬ!!)
目の前に危機を感じながら、クロの足は凍ったように動かない。
あまりの事態に、彼の足は完全に竦んでしまったのだ。
クロの目の前が、燃えるような黄色に支配された、その時―――。
「ほい、クロ! 下がって、下がって!
そんなとこにいたら、死んじゃうよ~」
場にあまりにも相応しくない軽薄な声がクロへと掛けられる。
クロとカナリーの間には、1人の少女が立ちはだかっていた。
少女はあらかじめ用意していたかのような俊敏さで、即座に魔術式を編み上げると、目の前へ魔力の壁を浮かび上がらせる。
魔法障壁
魔力を固体化し、魔術を遮断する防護壁を生成する、練成魔術の一つである。
彼女が顕現させた魔力の壁は、カナリーの火炎球を受け止め、さらにそれを分解していく。
激しい衝撃と爆音。
それらに包まれながらも、クロはその少女の紫色の髪を目に捉えた。
「せ、先輩………?」
「やっほー、クロ。病み上がりに大変だねぇ」
衝撃に髪を激しく乱されながらも、ヴィオレがいつもの気さくな笑顔で振り向いて軽い様子で声掛ける。
「先輩………逃げて………!」
思わず口走ったクロの言葉に対し、ヴィオレは少し目を細め、剣呑な笑顔を浮かべて見せる。
「なーに言ってるの? これでも私は高等生だからね。
初等生のお嬢ちゃんに、遅れを取るつもりは無いよ!」
ヴィオレの放った魔力の壁は、火炎球を黄色い光の破片へと霧散させていった。
しかし、カナリーはクロを殺す事をまだあきらめていないらしい。
再び、発火魔術の術式を編んでいく。
「ネズミぃぃぃ!!」
そんな雄叫びと共に、カナリーの周囲へ燃え盛る炎の壁が顕現する。
それは地面を這うように、ヴィオレの防護壁をかわし、クロへ向かって驀進する。
カナリーが使っているのは発火魔術。魔力を格とし、その周囲を燃やすだけの簡易な魔術だ。
こんな大量の炎を創造、まして制御することなど出来ない筈のものである。
しかし、彼女の類まれな才能と執念が、そんな冗談のような現象を可能にさせていた。
「へえ………思ったよりやるねぇ、カナリー。
もしかしたら君はかなりの逸材だったのかもね………。
まあ、君はここで終わりなんだけど」
ヴィオレは防護壁を顕現させたまま、更に別の術式を展開していく。
(異なる魔術の同時展開? こんなの、学生に出来るものじゃないぞ!?)
二つの術式を編み込んでいくヴィオレを、クロは信じられない気持ちで見つめる。
魔術の二重使用。これを行える魔術師は王都においても、決して多くない。
学生に過ぎないヴィオレが本来使用できるものでは無い筈だ。
「ほい! ギリギリセーフ!」
ヴィオレの短い掛け声と共に、クロの周囲を鋼色の幾何学的な紋様が包み込む。
次の瞬間。クロの体は数メートル離れた場所へと転移していた。
空間魔術「位相する空間」
魔法障壁に比べ、遥かに上位の高度な魔術である。
ヴィオレはそんなものを、同時に操ったというのだろうか?
「!?」
クロが居た場所をカナリーの炎が通り過ぎていく。
素通りした炎の渦は講義室の壁へ衝突し、燃え盛りながらも魔力の塵となって霧散していった。
(かわされた!?)
己の全魔力を投じて放った炎を空振り、カナリーは激しく狼狽する。もう彼女には次の術式を放つだけの魔力が残っていない。
懸命に術式を展開しようとするが、それが形に成ることは無く、歪な魔術式を作っては霧散させてしまっている。
「い、いやだ………! 死に、死にたくない!!」
「あっそ」
己の持つ術を全て使い果たしたカナリーは、絶望に浸され腰を落とし、ジリジリと後ろへはいずりながら取り乱したように哀願する。
「や、やだ! 助けて! 誰か、誰か助けて! お父さん………お母さん!!」
錯乱した様子で、そんな叫びを上げるカナリーをヴィオレは青紫色の隻眼で見下ろす。
それはまるで、塵に向けるような冷めた瞳であった。
「さようなら、卑賎貴族のお嬢ちゃん」
ヴィオレは一瞬で術式を編み上げると、涙を流すカナリーの左目を指差した。
「刺咬する蒼」
一条の氷の矢が、カナリーへ向かって螺旋状に飛んでいく。
そして、それはカナリーの左目、檸檬色の瞳へと突き刺さり、その眼球を抉り抜いていった。
「あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁ!!」
左目を襲った激痛に、カナリーは狂ったようにその場をのたうち回る。
顔を抑えた手からは血が噴出し、氷の矢によって抉り抜かれた眼球がズタズタに裂かれ転がっていた。
「うわ………」
廊下へ避難していた学生たちが、のたうつカナリーに思わず目を反らす。
そんな学生たちへ、ヴィオレがいつもの気さくな様子で声掛ける。
「みんな、その子を取り押さえて。彼女、もう狂ってるわ。
あと誰か、先生たちに報告を」
「は、はい!」
ヴィオレの言葉に、騒然としていた学生たちがカナリーの体を取り押さえる。
学生たちに肢体を掴まれながらも
「嫌だ! 嫌だ! ごめんなさい! 許して!」
カナリーは泣きながら、誰へ送っているのかもわからぬ叫び声を上げ続けていた。