第8話 精神簒奪
王都の修道医院から少し離れた場所にある寂れた自然公園。
日当たりが悪く、普段は人もあまり近寄らない場所へヴィオレはカナリーを連れて行く。
そして、木々が鬱蒼と茂り、小さな井戸が設置された場所まで進むと、ヴィオレはその足を止めた。
「ヴィオレさん………?」
不思議そうな表情で、カナリーがおずおずとヴィオレの方を盗み見る。
ヴィオレは無表情だった。
その青紫色の瞳は、作り物の赤紫色の瞳と同じように、ただ虚空を見据えているようだ。
「……………」
カナリーの額を、何故か冷や汗が伝う。
なんだか、今日のヴィオレはあまりにも普段と様子が違って見えるのだ。
不意にトン、とカナリーの胸をヴィオレが手で押す。
それは自然で、躊躇いなく、少しだけ押した程度のそんな衝撃。
それでも、不意をつかれたカナリーはバランスを崩し―――
そのまま、背後の井戸へと突き落とされた。
◇
「な………なに!?」
井戸に落とされたカナリーは驚愕を浮かべながら、必死に水面へ顔を出そうと試みる。
井戸は外から見ると小さな物であったが、その水深は意外に深く、カナリーの背丈をこえるものであった。
突然の事態ではあったが、何とかカナリーは水面に顔を出すことに成功する………が、その頭をヴィオレは無造作に踏みつける。
再び水中へと頭を落とされたカナリーは、自分を踏みつける足に必死でしがみ付き何とか顔を上げようと試みるが、足は執拗に彼女の頭を踏みつけ、上げることを許さない。
「はっ、はっ、はぁっ!」
井戸の縁に手を掛け、ようやくカナリーが再び顔を上げると、必死になって声を上げる。
「や、やめて下さい、ヴィオレさん! このままじゃ私………死んじゃいますよぅ!」
悲痛な哀願を漏らすカナリーに対し、ヴィオレは事何気な様子で答える。
「そうだよ。死になよ、カナリー」
「な、なにを言って………」
口からを水を吐き出しながら、カナリーは信じられない物を見るような目でヴィオレを見上げると、ヴィオレはいつもの気さくな様子で、にこやかに微笑みながらカナリーを見下ろしていた。
「クロ―――君が傷つけたドブネズミくんがさ、言ってたんだよ。
絶対にお前を許さないって。
どんなことをしてでも、お前を殺してやるって」
「え………」
ヴィオレは微笑みを浮かべたまま、井戸の縁に掛けたカナリーの手をギリギリと踏みつける。
「い、痛!?」
「私もさ………」
バキリッ、という音と共に、カナリーの手甲が踏み砕かれる。
支えを失った彼女は再び水中へと沈んでいった。
「私もカナリーは死ぬべきだと思うんだ。
だってカナリーはクロを殺そうとしたんでしょ? ほら、因果応報ってやつ。
クロは炎で燃やされたから、カナリーは水責めってカンジ?」
「私は、彼を殺そうとなんて………」
「そんなの嘘だよ」
「う、嘘じゃない!」
カナリーはまだ砕かれていない左手で井戸の縁を掴むと、懸命にヴィオレを睨みつける。
「い、いいかげんにしろ、ヴィオレ・ヴァイオレット!
こんなことしてどうなるか、わかっているのか!?」
「どうなるって?」
「お前を告発してやる! 私にこんなことをしたって吹聴してやるからな!
だから―――」
「あらら、そういうこと言っちゃう?」
目から涙を零しながら、それでもカナリーは必死になってヴィオレを睨み続ける。
気丈に振るまう彼女に、ヴィオレはせせら笑いながら、無表情な声音で言葉を告げた。
「黙れよ、卑賎貴族」
「………」
「下等貴族の君が、仮にも上級貴族の私を告発する?
冗談も休み休みに言った方がいいなあ」
ヴィオレはその場にしゃがみこむと、カナリーの檸檬色の瞳を真っ直ぐに見つめ言葉を発する。
「知ってる? カナリー。
命っていうものには値段があってね?
生憎、君の値段は決して高い物じゃない。
多分、私でも買えちゃうくらいの安物だよ。君の命は」
「わ、私はエッグシェル家の娘だぞ! 私を殺したら、私の両親だって………」
「エッグシェル男爵が? 彼がまさか、君如きのためにヴァイオレット家に逆らうと?
カナリーさ………それ本気で言ってるんなら、結構馬鹿だよ?」
「わ、私は………」
カナリーはそのまま俯き、黙り込んでしまう。
彼女の父が娘の為に上級貴族へ逆らうのか、と問われたならば答えは否だ。
そこまでカナリーは自分の父を信頼していなかったし、実際にその通りなのだろう。
黙りこんだしまったカナリーへ、ヴィオレはしゃがんだ姿勢のまま言葉を紡ぐ。
「カナリーさ、ここで死んだ方が君の為だと思うよ?
クロはね。君のことを決して許さない。
絶対に復讐する。
怒りに牙を昂ぶらせて、君を八つ裂きにしようとしているんだ」
「八つ裂き………?」
「そう」
ヴィオレの青紫色の瞳が、眩しいほどの明滅を始める。
それは前にクロが見たのものより眩しく、遥かに煌くもの。カナリーはその光に取り込まれたかのように、視線が外せなってしまった。
まるで脳の奥へ、剣を突きたてられたかのように、ヴィオレの言葉が心の奥底へと刻み込まれていく。
「クロ・シルバーが………私を」
「うん」
「八つ裂きにして、殺す?」
「そうだよ」
青紫色の光に捕われ、朦朧とした意識の中でカナリーは自分の言葉を反芻する。
自分はあの男に殺されるのか?
惨たらしく八つ裂きにされて………?
カナリーは朦朧としたまま、そんな事実を刻みこまれる。
「そんなの………嫌だ」
「だから、ここで死になよ」
「それも嫌だ、こんなところで死にたくない」
「我侭だなあ、カナリーは。
じゃあ、こんなのはどうだろう」
ヴィオレは瞳に煌煌とした光を灯したまま、ゆっくりと一言ずつ、カナリーへ焼き付けるように言葉を紡いでいった。
「クロはきっとカナリーを殺しにくるよ。
顔を炎で燃やしたまま、獣のように嘶きながら」
「………ごめんなさい」
「そうじゃなくて………だからさ」
カナリーはまるで夢を見ているように茫然としている。
自分の状況も、目の前にいる相手が誰なのかも、彼女の思考には残っていない。
ただ、一つだけ分かることがある。
いま、自分を見下ろしている人は、絶対的な人なのだ。
彼女の言霊は、全てが事実なのだ。
訳も無く、理由も無く、カナリーはそんな思いに捕われていた。
「だから、カナリーは殺される前に、殺すんだ。
クロがやってきたら、得意の発火魔術で、今度こそ確実に―――」
ヴィオレはにこりと、いつもの気さくな笑顔で、カナリーへ言葉を刻む。
「クロを燃やして、灰にしてやるんだよ。
大丈夫、君なら出来る」
「いやだよ………」
「殺さなきゃ、カナリーが殺されるよ?
仕方ないんだよ」
「仕方無い………?」
「うん。仕方無い。
だって、カナリーは殺されたく無いんでしょう?」
「うん………」
そこから先をカナリーは覚えていない。
ヴィオレから更に何か言葉を受けた気がするが、夢の中を彷徨うようなおぼろげな感覚に浸されていたカナリーは、それを思い出すことが出来なかったのだった。
◇
「………………?」
気がつけばカナリーは井戸の水の中、顔の半分を水面から出した状態で漂っていた。
井戸の外を見上げても、もうヴィオレの姿は無い。
いつの間にいなくなったのだろう?
カナリーはそんな疑問を抱くも、あの恐ろしいヴィオレがいなくなったことにホッと安堵すると、左手で井戸の縁に手を掛け、井戸の外へと出て行った。
空はもう夕暮れに染まっており、鬱蒼と茂る木々が燃えるような赤色に照らされている。
ここに来た時はまだ昼間だった筈なのに、いつの間に日が落ちたのだろう?
疑問は尽きることがないが、今はどうでもいいことだ。
カナリーは冷え切って震え続ける自分の体を抱きしめると、周囲に目を向ける。
井戸の側には―――恐らくカナリーが突き落とされた時のものだろうが、大きなバスケットが転がり、その周囲に果物が散乱していた。
カナリーはそれを一つ一つ、丁寧に拾っていったが、次第にその視界は霞んでいく。
「う、うぅ………」
檸檬色の瞳から、大粒の涙が次から次へと零れてくる。
それは、恐怖からくる涙であった。
ヴィオレから受けた暴行と言葉の数々。
カナリーには、それがどういう理由によるものかわからなかったが、一つだけ理解できたことがある。
(クロ・シルバーは………私を殺そうとしている)
あの少年は間違いなく、自分を殺そうとしているのだ。
私を八つ裂きにして、豚の餌にするつもりなのだ。
カナリーは、自分がなぜそう思っているのか、理由はわからないし、疑問に思うことも無い。
ただ、クロが自分を殺そうとしている―――そんな事実だけが心の底にまで、刻み込まれていたのだった。
◇
「いやだ、いやだ! 許して、許してぇ!!」
大きな黒いネズミが、その顔を炎で燃やしながら、カナリーの上に馬乗りになって憤怒の雄叫びを上げている。
『ア゛ア゛アアアァァァ!!!』
まるで怒りに狂ってしまったようなそのネズミは、両腕の先に長く歪な爪を蓄え、それを掲げている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃ!!」
カナリーはただもう必死になって、ネズミへ許しを乞い続けるが、怒りに忘我したネズミにその声は届かないようだ。
『ヨクモ、ヨクモ、ヨクモ!!』
ネズミが前足の爪をカナリーの喉に突きたてる。
カナリーは喉に燃えるような熱さと、鮮血が散っていく不快感が体を駆け巡るのを感じていた。
『ヨクモ、ボクをコロソウトシタナ!!!』
ネズミは狂ったように、カナリーの体を切り裂き、刻み、蹂躙していく。
「あ………ああ………」
ネズミによって引きちぎられた自分の腕が転がるのを、その目に捉えながら。
カナリーは絶望にその心を蝕まれていくのだった。
◇
「うぅ………!」
カナリーは目を覚ますと同時に、そのまま激しく嘔吐する。
ベッドの上で激しくえづきながら、カナリーは涙と鼻水と吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔を拭うこともせず、ガタガタと震え続ける。
あの日から、カナリーの見る悪夢は更に凄惨に、そして現実味を帯びるようになっていた。
もう彼女は恐ろしさに目を覚ますということは無い。だって、夢の恐怖は目を覚ましてからも続くのだから………。
もう、何が夢で、何が現実かわからない。
ただただ、恐い。恐ろしい。
恐くて、恐くて、どうしようもないのだ。
謝る? 許しを乞う?
何を馬鹿なことを考えていたのだ、自分は。
あのクロ・シルバーは自分を許すつもりなどない。
彼は、自分を殺そうとしているのだ。
「い、嫌だ………嫌だ………」
死ぬのは嫌だ。殺されるのはもっと嫌だ。
私は………どうすればいいのだろう?
『だから、カナリーは殺される前に、殺すんだ。
クロがやってきたら、得意の発火魔術で、今度こそ確実に―――』
カナリーの脳裏に、あの日のヴィオレの言葉が浮かぶ。
そうだ、やるしかない。
殺されるくらいなら、殺してやるしかないじゃないか。
あのクロ・シルバーを今度こそ、確実に―――
「焼いてやる………焼き殺してやる………」
毛布にくるまって、震えたまま
カナリーはそんな言葉をブツブツと呟いていた。