第7話 カナリー・エッグシェル
「ガアアアァァァァ!!」
カナリーは走っていた。
その檸檬色の瞳に涙さえ溢れさせ、激しい恐怖に襲われながら、走り続ける。
彼女の後方からは大きな黒いネズミが追いかけてくる。
ネズミはその顔面が赤く燃え盛っており、身の毛のよだつような叫び声を上げながら、ひたすら、どこまでも、カナリーの後を追ってくるのだ。
「ひ、ひぃ」
カナリーはあまりの恐怖に泣きながら必死になって走る続けるものの、焼けたネズミとの距離はどんどんと迫るばかりである。
とうとう、すぐ側まで距離を詰められたカナリーはネズミに突き飛ばされ、その場に倒れこんでしまう。
見上げると、天に向かって雄叫びを上げながら、ネズミが漆黒の瞳でカナリーを睨みつけていた。
「アツイ! アツイ! ヨクモ! ヨクモ!」
憤怒の雄叫びを上げるネズミに対し、カナリーは涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃに歪めながら、必死になって叫び声を上げる。
「ごめんなさい! ごめんなさい!
だって私、アンタがあんな大火傷するなんて思わなかった!
自分の魔術にあんな威力があるなんて思ってなかった!
許して、許してよぅ!!」
そんなカナリーの哀願も空しく、ネズミは鋭い爪を振り上げると、その爪を彼女の喉に―――
◇
「―――はっ」
カナリーはそこで目を覚ます。
窓の外はまだ暗く、まだ未明にも至っていないようだ。
「くぅ………」
カナリーは嗚咽を上げながら、毛布を自分の顔に押し当てる。
顔は夢で見たまま、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっており、心臓がバクバクと鼓動を鳴らしている。
そして何より、その心は激しい恐怖に浸されていた。
―――また、あの夢を見てしまった。
彼女がクロへ火傷を負わせてから、数日の間が経っていた。
あの男魔術師は、学舎から王都の修道医院へ移され、今も治療を受けているのだという。
カナリーがクロへ放った発火魔術。学舎において、それは事故だと判断された。
未熟な初等生が訓練中に誤って学友へその魔術をぶつける。
それは、決して珍しい話ではない。
カナリーは注意を受けたものの、何らかの処分を下された訳では無いし、彼女の立場が悪くなった訳でもなかったのである。
だけど―――
目を閉じれば、浮かぶのはあの時の情景。
顔から煙を上げ、焼け爛れた皮膚から血を流し、死んだようにその場に倒れる少年。
悲鳴のような叫び声を上げるアイボリー教師。
騒然とする校庭。
そして、そんな光景を目に映し、呆然と立ち竦む自分。
あれから、カナリーはまともに眠ることが出来ないでいた。
だって眠れば、必ずといっていいほどあの悪夢を見てしまう。
だから最近の彼女はいつもフラフラと、疲れ果てたように生活を送っていたのである。
「ごめん………ごめんなさい」
毛布に顔を押し付けたまま、カナリーは独り言のように呟く。
彼女がクロに対し悪意を持っていたのは事実である。
目障りだと感じていたのも事実である。
しかし、カナリーが自分の魔術にあれほどの威力があると思っていなかったのも、また事実であった。
もとより魔術というモノに興味の無かった彼女は、魔術を顕現させても、それを何かにぶつけるということはしたことが無かった。
高度に練り上げられた発火魔術に、どれほどの威力があるのかということを知らなかった。
自分がそれほど、魔術師としての才に溢れていたことを知らなかったのである。
◇
「見て、来たわよ。あの放火女」
「よくもまあ、ぬけぬけと、顔を出せたモノね」
「あれは完全に、人殺しの目ですわ」
講義室に入ったカナリーに目を向け、学友たちがひそひそとささやく。
彼女たちとてクロを目障りだと思っていたが、流石にあんな怪我を負わせたカナリーに対しては、引いてしまう気持ちが強い。
もともと、下級貴族の分際で生意気な娘だったのだ。
魔術の才はあるらしいが、だからと言ってそれが何だというのだ?
カナリーは1人、講義室の席に座る。
元より彼女もまた、孤立しがちな学生であった。
そんなカナリーを学友たちは、少し離れた場所から蔑むような目で見つめていた。
◇
「カナリー、お前が授業中に学友へ怪我を負わせたという話。私の耳にも入っているぞ」
王都に所在する小さな屋敷。
学舎から数キロメートル離れた場所にある、カナリーの自宅である。
授業が終わっての夕方、彼女は両親から呼び出しを受け、久しぶりに自宅へと戻ったのだ。
その居間でカナリーは椅子に座り、その前に彼女の父が立ちはだかっていた。
「何ということをしてくれたのだ! 我がエッグシェル家の名に泥を塗りおって!」
父は怒りの表情でカナリーを怒鳴りつけるが、そんな父をカナリーは冷めた目で見つめる。
(何がエッグシェル家の名だと言うの?
うちのような最下級貴族、傷つくような名もないじゃない………)
「何だ、その目は!!」
バシンと父はカナリーの頬を平手で打ち据える。
彼女は頬を赤く腫らしながらも、冷めた瞳に動きは無く、無表情に父親を見つめていた。
「まったく………高い入学金まで払って、お前を学舎へ入学させたのは何のためだと思う?
上級貴族へ取り入り、我がエッグシェル家の格式を上げるためでは無いか。
それをお前という奴は………」
父は頭を抱え、深いため息をつくと………疲れたように娘へ問いかける。
「それで………お前が傷つけたという学生は、どこの貴族の子女なのだ?
場合によっては金銭を持って、謝罪しなければならん」
「彼は………クロ・シルバーは田舎から来た平民の者です。
貴族の者ではありません」
カナリーがぼそりとそう呟くと、父はパッと顔を綻ばせる。
「なに? 卑賎の者か!?
それは不幸中の幸いというものだ!
全く、上級貴族の子女にでも傷をつけたら、どうなることかと思ったぞ。
お前も、そういうことは先に言わんか」
笑顔さえ浮かべてそう告げる父に、カナリーは少し目を伏せ言葉を続ける。
「彼は、王都のはるか南西、シルバー村という村の出身のようです。
父は亡くなっているようですが、母と妹は今も健在であるとか………。
彼の家族に、何らかの陳謝が必要かと………」
カナリーの言葉に、父はつまらなそうな表情で首を振る。
「ああ、構わん。捨て置け、捨て置け。
所詮、片田舎の卑賎の民だろう?
なぜエッグシェル家の当主たる、この私が謝罪などしなければならぬのだ?」
そして、心配事は無事なくなったかのような笑みを浮かべると、父はカナリーに向かって言葉を放つ。
「話はわかった。カナリー、お前も帰っていいぞ」
そう言うと、父はもうカナリーへ振り向くこともせず、スタスタと屋敷の奥へ戻っていく。
(ここは、私の家ではなかったのかな………)
そんな思いと共に、カナリーは自宅から寄宿舎へと帰っていくのであった。
◇
学舎が休日である日の昼中。
カナリーは王都の露店街へと1人、その足を運んでいた。
「お嬢ちゃん! 何が欲しいんだい!?」
「火傷に効く、果物はありますか?」
「や、火傷に効く果物かい!? おっちゃん、果物には詳しいけど流石にそんなモンは知らねぇなあ!」
立ち並ぶ露店の一つ、果物を扱っている店の前で、カナリーは果物を見繕っていた。
「それじゃあ………美味しいやつ、お願いします」
「ウチの商品はどれも美味しいよ!」
「じ、じゃあ、怪我人でも食べやすいやつ………」
「あいよ!」
あれから更に数日して、カナリーは一つの決意を固めていた。
あの特異魔術師―――クロに謝ろうと思ったのである。
無論、謝ったところで、自分が許されないことなど分かっている。
それでも―――心から謝れば、お詫びを言えば―――
例え彼から許されなかったとしも、あの悪夢を見なくて済むようになるかもしれない………。
それは誠意というには、あまりに身勝手な贖罪の意思であったが、彼女にはもう他に出来ることが無かったのだ。
学友たちも、両親も、決して彼女を癒してくれることはない。
夜になれば、あの悪夢によって悲鳴と共に目を覚ますことになる。
カナリーはもう、疲れ果てていたのである。
(土下座でも何でもして、謝るしかないよね。
せめて、一言だけでもごめんなさいって言いたい………)
カナリーは決して優しい少女ではないが、同時に冷徹な少女でも無かった。
唯の短絡的で不器用な、年相応の少女だったのである。
「ほら、これ。お嬢ちゃん、お見舞いにでも行くのかい?」
「うん」
露店の店主が差し出す果物をバスケットを受け取りながら、カナリーは緊張した面持ちで返事をする。
そんな少女へ、店主はがははと豪快に笑って見せた。
「だったら、ウチを選んだのは正解だ! ウチの果物は栄養満点だからな!
食ったらどんな病気も、怪我も、すぐに治っちまう」
「うん………ありがとう」
カナリーははにかむように、少しだけ微笑むと、クロの入院する病院へと足を進めるのだった。
◇
「もう包帯を外してもいいよ」
ベージュに言われた言葉に従い、クロはベリベリと自分の顔に巻かれた包帯を剥がしていく。
久しぶりに外気へ顔を晒すと、クロは自分の左頬に手を触れた。
激しい火傷を負ったその肌は固く、元の様な弾力は残っていない。
「……………」
ベージュは無言のまま、クロへと鏡を差し出す。それを受け取るとクロは自分の顔を鏡に映してみた。
左目の下から左頬にかけ、その皮膚は色素沈着により変色し、黒い痣となって残っている。
クロは火傷跡に手を触れながら、鏡越しに自分の顔をまじまじと見つめる。
「やっぱり傷跡………残っちゃったね………」
ベージュが目を伏せ、顔を悲痛に歪ませる。
クロが入院してからちょうど10日になるが、ベージュは毎日のように彼の下へと見舞いに来ていた。
それは、自分の不手際によってクロを傷つけたことに対する心苦しさからなのか、それとも、ヴィオレに対する警戒からくるものなのか彼女自身にもわからない。
どんな理由にしろ、ベージュはクロを放っておくことが出来なかったのだ。
悲痛な表情を浮かべるベージュに対して、クロは無表情に鏡を見つめている。
(私に心配させないように、傷ついた顔をしないようにしているのね。
13歳で、何て健気な子なのかしら………)
自分の火傷跡を鏡に映しながらも無表情を貫くクロに、ベージュはそんな思いを抱いていたが………実際のところは、少し勝手が違う。
普段はあまり表に出さないが―――クロは勇者に憧れる、割りと少年らしい感性を持った男の子であった。
そんな彼にとって『顔に傷を持つ男』というのは、少し憧れを抱くものであったのだ。
(確か、伝説のクリュートスも魔王と戦った時、顔に傷を受けて、左目に傷跡があったんだよな………)
様々な角度から自分の顔を移しつつ、クロは心の中で少しだけニヤリと笑う。
(刀傷じゃなくて火傷痕ってのが少し残念だけど………なかなかどうして悪くないじゃないか)
この10日間。学舎を離れ、心穏やかな日々を送った為であろうか―――。
クロの頭は少し、おめでたくなっていた。
「アイボリー先生」
「―――なぁに?」
クロの呼びかけにベージュが一拍おいて返事をする。
「学舎のみんなやカナリーさんにとって、僕の傷跡を見るのは、やっぱり心苦しいものがあると思うんです。
学舎に戻ったら、この傷は包帯で隠そうかと思うんですが………」
「シ、シルバーくん!?」
(純白の包帯を身に纏い、その下には黒い火傷痕………フフフ、これはちょっとカッコいいぞ!)
残念なことに、13歳でもうすぐ思春期にさしかかろうとしていたクロは、残念な病気が発症しかけていたのだ。誠に残念である。
しかし、ベージュはそんなクロの感性が理解できない。
(一番傷ついているのは自分でしょうに! 仲間たちのことを気遣うなんて、健気どころじゃないわ!
この子、もう聖人よ!!)
そんな残念な勘違いをしたベージュはその場でポロポロと涙を零してしまう。
「ご、ごめんね………ごめんね、シルバーくん。私がもっとしっかりしていれば………!」
「な!? アイボリー先生、どうしたんですか!?」
そんな風に、2人が残念なやり取りをしていた頃。
修道医院の外、その正門の前で、大きな果物のバスケットを抱えたカナリーが逡巡の表情を浮かべつつ、行ったり来たりを繰り返していたのであった。
◇
「うー、何て言って、部屋に入ればいいんだろう?」
カナリーは大きなバスケットを抱えたまま、途方にくれてしまう。
「怪我をさせてごめんなさい? それとも、このたびは誠に申し訳ありませんでした?
何て言ったらいいか、わかんないよ………」
カナリーは独り言をブツブツと呟きながら、正門の前をグルグルと回り続ける。
彼女が居るのは王都に所在する修道医院の正門の前。
この医院には、彼女が怪我をさせた特異魔術師の少年が入院しているのだ。
彼に謝罪するため、カナリーはこの場所まで足を運んだのであるが、どう言葉を掛けていいかわからず、彼女はもう何十分もこの場をウロウロと行ったり来たりしているのであった。
「くそ、もう当たって砕けろだ! なるようになってやる!」
最終的にカナリーは思考を放棄することにした。
どんな罵倒を受けることになろうと、このままここを彷徨うよりはマシだろう。
カナリーは覚悟を決めると、バスケットを抱える手にキュッと力を込め、医院の入口へ進んでいったのである。
「あら、カナリー。こんな所でどうしたのかな?」
そんな彼女の前に一つ、立ちはだかる1人の少女がいた。
「ヴィオレさん………?」
その少女はカナリーもよく知っていた。
『聡明な賢者の学舎』に通う、上級貴族ヴァイオレット家の娘。ヴィオレ・ヴァイオレットである。
ヴィオレは青紫色の右目を猛禽類のように細めながら、口元に笑みを浮かべ、カナリーの側へと近寄る。
「ねえ? こんなところでどうしたの? 何をしようとしているの?」
「わ、私は………」
獰猛な肉食動物のような気配を漂わせ、ヴィオレがカナリーへその顔を近づける。
カナリーはヴィオレをよく知っていたが、彼女からこれほど剣呑な雰囲気を感じるのは初めてのことであった。
「私は………学友に怪我をさせてしまって………だからごめんなさいって伝えたくて………」
「ふうん」
カナリーは自らのローブをギュッと握り締める。
何故だか彼女は、このヴィオレという少女を恐ろしく感じてしまったのだ。
「学友ねぇ………確か、ドブネズミくん、だっけ?
ネズミの一匹や二匹、怪我をさせたから何だって言うの?」
「………わ、私は!」
ヴィオレの言葉に、カナリーは何か言い返そうとするが、言葉が浮かばない。
そうだ。彼のことをドブネズミ等と散々に罵り、罵倒したのは自分ではないか。
今更「学友」等という言葉で誤魔化しても、自分の言った言葉は覆せない。
「………わたし、は………」
檸檬色の瞳に涙を滲ませ、俯いてしまったカナリーをねめつけるように見つめ、ヴィオレはそっと彼女の肩に手を当てる。
「カナリー、ちょっと話そうか?」
そう言って、ヴィオレは病院の前からカナリーを引き離し、人気のない場所へと彼女を連れ出したのであった。