第63話 クロ・シルバー(上)
クロは堕ちていた。
ただひたすらに、訳もわからないままに、頭から堕ちて行く。
彼の視界に映るのは、白と赤に満たされた世界。
天も地も、上も下も無い。
あるのはただ、ひたすらに鬱屈とした己の影だけ。
紅白色に染められた世界で、黒い影になったクロは、とめどない落下感だけをその心に受けながら、どこまでも、どこまでも堕ちていくのだ。
「………それもいいか」
沈み続ける心の中で、クロは何となく独りごちる。
元より自分はドブネズミ。
自分の心は醜いほどに屈折している。
それならば、生まれ変わるのもありだろう。
フェイトの言葉ではないが………ちょっとはマシになるかもしれない。
『クロ………』
そんな自分へ、呼びかける声がある。
視線を横に移すと、悲しそうな瞳で自分を見つめる妖精の姿があった。
『クロ………お前は、それでいいのか?』
「いいのかって………?」
『そんな惨めなまま、格好の悪いまま。
あんな男の気まぐれで、全てを捨ててしまってもいいのか?』
「そうだな………」
クロは目を閉じる。
瞼を閉じたところで、紅白の世界は変わらない。
ただ、赤いまま、白いままに、屈折した影を落としている。
クロは目を開くと、黒色から赤色に変わってしまった瞳を、妖精の真紅に向けて、諦観したように呟く。
「僕は駄目だったよ」
『駄目?』
「ああ、どうしようもなく、救いようが無いほどに、僕は駄目な奴だった」
「ドブネズミ………僕の蔑称。
だけど、今はその呼び方ほど、僕にふさわしいモノは無いと思う」
「僕は、取り返しのつかないことをしてしまった。
後戻りの出来ないところへ来てしまった。
それは、あの人に心を奪われていたということもあるけれど………きっと彼女に隷属していたのは僕の意思だ。
僕は自分の意思で、楽な方へ、弱い方へと逃げていたんだよ」
「僕はどうやら心の底からネズミに過ぎない男だったらしいな。
弱くて、愚かで、 卑屈で、無様だ。
ドブネズミの分際で、身の程知らずの夢を見て、その為の努力も禄にせず。
ただ、才能とか、家柄とか、性別とか………そんな些細なものに拘って、ひたすら自分を慰めていた」
「『自分で歩くってのは案外難しくて、誰でも最初はつまずいたり、転んだりしてしまう』………いつだったかお前はそう言っていたな。
でも、何より大変なのはつまずいてから立ち上がることだったんだ。
僕は弱い奴で、それが出来なかった。
情けない癖に意地っ張りで、一度転んだら、もう駄目だった」
ふっとクロは自嘲するように笑う。
思い返せば思い返すほど、自分はなんと格好の悪い男だろう。
妖精は、そんなクロへ静かに問いかける。
『クロは………自分のことが嫌いなのか?』
妖精の問いかけに、クロは全ての思いを込めて吐き捨てる。
「当たり前だろ?
僕は、僕のことが大嫌いだ。
僕のようなドブネズミ………ドブの底で漂っているのがお似合いさ!」
自暴自棄の様相を醸しながらそう叫んだ瞬間。
クロは不意に地面へ叩きつけられる。
「うわっ!?」
衝突の衝撃をそのままに、クロは地面に投げ出され、訝しげな表情を浮かべる。
地面? ここにはそんなもの、無かった筈だ。
『そうか………クロは、クロのことが嫌いなんだな………』
困惑するクロの前へ、妖精がそっと降り立ってくる。
妖精は相変わらず純白の髪に真紅の瞳。今のクロと全く同じ髪と瞳。
だけど、妖精はその瞳に涙を貯めて、どこまでも悲しそうにクロを見つめていた。
『クロ………お前は気付いていない。
たとえ、クロがどんなにクロのことを嫌っていたって、クロのことが好きな人たちはいる』
妖精はクロの胸元へ降り立つと、彼の頬へ両手を触れ、その額へそっと口付けた。
『なあクロ。気付けよ。
クロはクロが嫌うほど、人から嫌われるような人間じゃない。
………うん。オレもそうだ。
クロは意地っ張りで、弱くて、自分を賢いと勘違いした馬鹿だけど………それでも、オレはクロのことが大好きなんだ』
「コウ………?」
「………」
妖精はそこで『彼』の気配に気付く。
例え、心を砕かれても。
人格を滅茶苦茶に破壊されても。
『彼』はやっぱり、クロの心の奥底で生きているらしい。
それなら、大丈夫だ。
彼がクロの心に在る限り、クロは決して負けたりなんかしない。
『後はオレなんかより、奴に任せた方がいいな。
クロ。ちゃんと還って来いよ?
オレは先に、待ってるから………』
妖精は薄っすらと淡く微笑み、その体を霧散させていく。
クロは手を伸ばして、妖精を掴もうと試みるが、彼はいつものようにゆらりとかわし、雪のように消えていく。
「コウ………!
待ってくれ! 僕は―――!」
「クロ。お前………こんな所で何やってんだ?」
空へ向かって手を伸ばしたクロへ、太い声が呼びかける。
目を向けると、そこには、金色の髪に青い瞳をした屈強な男が、呆れた様子でクロを見下ろしていた。
「………あぁ」
突然、現われた男の姿に、思わずクロは息を呑む。
男はそんなクロを気にした様子もなく、いつかのように笑ってみせた。
「お前………そんな、泣きっ面をしてどうしたんだ?
また、村の悪ガキ共にいじめられたのか?」
「違う………違うんだ」
「だったら、どうして泣いてる?」
男の不思議そうな問いかけに、クロは涙を零したまま目を反らし、小さく呟く。
「違うんだよ………父さん」
◇
それはクロがまだ8歳の、とても寒い冬のことだ。
クロは父と2人、森の中を進んでいた。
シルバー村の主産業は農業と牧畜である。
だから、冬になってしまえば村に仕事がなく、男たちは外へ出稼ぎに行くのが常であったのだ。
それはクロの父も例外ではなく、毎年、父は冬になると森の中にある銀山へ炭鉱夫として働きに出ていたのだった。
その日、銀山へ向かう父の傍らに、クロは居た。
その日は運悪く、母が病気に臥せってしまい、クロと妹のチェレンを家に置いておくことが出来なかったのだ。
まだ赤子であったチェレンは、近所の家に預けることが出来たものの、クロはどうにも行き場がなく、父は自分の出稼ぎ先にクロを連れて行くにしたのである。
『お前ももう8歳だ。ちゃんと父ちゃんの言うことを聞けるな?』
『うん!』
不測の事態であるとはいえ、父からの信頼によって連れて行ってもらえることが、幼いクロには誇らしかった。
しかし、そんな中。
銀山へ向かって森を進んでいたクロたちの前に、オーク族が姿を現したのだ。
オーク族。
その性質は凶暴で残忍。
その体質は屈強で強靭。
その欲求は殺戮と破壊、そして陵辱に向いている。
女を攫い、男は殺す。正に悪鬼のような獣。
『何かと思えば、人間族か………エルフ共を探していて、余計なモノを見つけちまった。
どうする? 片目』
『殺せ』
『だよなぁ!!』
頬に傷のあるオークが、剣を手に大きな咆哮を上げる。
クロの父も巨漢だが、種族的に巨大なオーク族を前にしては子供のようなものだ。
その迫力に、クロは完全に足が竦み、腰が抜けてしまっていた。
オーク族の放つ一撃。
それはクロを狙ったものであったが、父はクロを庇ってその刃を受ける。
そしてへたりこんでしまったクロを抱きかかえ、一目散に逃走した。
『父ちゃん………血、血が出てる!』
『大丈夫だクロ、心配すんな!
父ちゃんは滅茶苦茶強えんだぞ?
オークなんかに負けると思うか?』
『で、でも………!』
父はクロを安心させるように笑顔を浮かべるが、その顔色はやっぱり蒼白で。
オークに斬られた背中からはとめどなく血が溢れている。
『クロ………父ちゃんと最後に約束してくれるか?』
『………約束?』
『お前は、強い男になってくれ。
村の悪ガキ共よりも、父ちゃんよりも強い。
強くて、格好いい………みんなから尊敬される、伝説のクリュートスのような英雄になるんだ』
『………英雄?』
『そんな英雄になれたなら………父ちゃんの代わりに、きっと母ちゃんやチェレンを守ってやってくれな………』
父の頼みは、言ってしまえば荒唐無稽なものだった。
チビで痩せっぽち。そして何よりどうしようも無い臆病者。
そんな自分が、クリュートスのような英雄になれる訳が無い。
しかし、それでもクロは父の願いを受け入れることにした。
全身から血を流し、それでも自分を庇いつづける父が、気力を振り絞って紡いだ最後の言葉。
そんな父の願いを、無意味なものにしたくなかった。
『わかったよ………僕はきっと強くなる。
クリュートスのような英雄になって、きっと母ちゃんやチェレンを守ってみせるよ』
『そうか………それは良かった。
安心したよ………』
父はニコリと笑い、クロへ背を向ける。
その手には護身用の粗悪な剣がしっかと握られていた。
『行け………行くんだ! クロ!!』
『父ちゃん!!』
父はとうとう力尽きたように、その場へ倒れこんでしまう。
投げ出されたクロは、父の元へ戻ろうとするが、それは彼の叫びによって制させる。
『馬鹿野郎!! なにモタモタしてんだ!
さっさと行かないと、父ちゃん、拳骨喰らわすぞ!!?』
父の言葉にクロはグッと歯を噛み締める。
後方からは、オークたちの群れがドスドスと足音を響かせ、自分達を追ってきていた。
『父ちゃん………ごめんなさい!!』
クロは踵を返し、村の方向へと全力で逃げていく。
ヒョコヒョコと逃げる姿はまさにドブネズミ。
恐怖に打ち震えながら、クロは脇目もふらず、ネズミの様に逃げ出したのだ。
『そうだ………それでいい。
母ちゃんとチェレンのこと、頼むぞ………クロ』
逃げるクロの背中を目に納め、父は安心したよう笑うと、護身用に持っていた剣を引き抜く。
彼の蒼眼が映すのは、自分へ向かってくるオーク族の群れ。
しかし、彼に恐怖は無い。
彼の背後には、守るべき彼の息子がいるのだ。
『かかってこいよ! オーク共!!
農夫の意地を見せてやる!!』
◇
「結局………僕は、父さんとの約束を果たすことが出来なかったよ………」
クロは男の隣に座って、悔いるように言葉を漏らす。
いつの間にか、クロは森の中にいた。
王都の遥か南西に位置する、名も無き大きな森。
雪で薄っすらと白く染まった、その森は、クロが自分を嫌う切欠になった場所。
「父さんは、僕へ英雄になれって言ってたけれど………僕は弱いままなんだよ。
体だけじゃない、心も性根も弱くて、卑怯なままなんだ。
8歳の頃から、僕は何一つ変わっていない………」
そうだ。だから僕は、僕のことが嫌いなんだ。
僕がどう足掻いたところで、クリュートスのようになることなど出来やしない。
体格もそうだが………何よりも駄目なのが心の方。
誇り高く、強い心を持っていた父に比べ、自分はなんと弱く愚かな心を持っているのだろう。
男はそんなクロの隣に座ったまま、どこか遠い目で空を眺めていた。
「要するに、クロは弱い自分が嫌いなのか?」
「そう………だね。
父さんや、あのクリュートスよりも強くなる………なんて望みを抱いて。
人体魔術師を志したはいいけれど………僕は転んでばかりなんだ。
辛いことが嫌で、苦しいことが嫌いで。
弱くて、弱くて、浅ましい………それこそ正に、ドブネズミ。
そんな自分が、僕は大嫌いなんだ」
「クロ………」
男は空を眺めたまま、チラリとクロへ目を向ける。
クロは俯いたまま、自分の膝を抱えて微動だにしない。
我が息子ながら、繊細な男だ。
いったい、誰に似たのやら………いや、別に血が繋がっている訳ではないのだが………。
男はぼうっと空を仰ぎながら、何かを思いついたように呟いた。
「なあ、クロ。
クリュートスは、何で魔王を倒せたと思う?」
「え?」
男の言葉に対し、クロは虚をつかれてしまう。
出し抜けに、そんなことを言われるとは思っていなかった。
「それは………クリュートスが誰よりも強かったから?」
「違う」
「そ、それじゃあ………誰よりも勇気があったから?」
「それも………ちょっと違うな」
男はゆっくりと立ち上がる。
そして、青空のような笑顔でクロへその答えを伝えた。
「クリュートスが魔王を倒せた理由………それはクリュートスが勇者だったからだ」
「はぁ?」
言っている意味がわからない。
そもそも、魔王を倒したからこそ、クリュートスは勇者と呼ばれているのだろう?
そんな卵が先か、鶏が先か、というようなことを言われても困ってしまう。
「あの時代………クリュートスの他にも、強い奴は沢山居た。
勇気や度胸に溢れた英雄だって沢山居たさ。
だけど………勇者だったのは、クリュートスだけだった」
「クロ………勇者ってのはな。
強い人間を表すのでも、勇気のある人間を表す言葉でもない。
勇者ってのは、意地っ張りの人間。
身の程知らずの夢を抱えて、後悔に後悔を重ねて、辛くて、悲しくて、何度もつまずいて………だけど意地だけを支えに何度だって立ち上がる。
方向がこれで合っているのか? この進み方で間違いないのか? と迷いながらも、決して足を止めず進み続ける。
そんなイカした馬鹿のことを、人は勇者と呼ぶんだ」
「イカした………馬鹿?」
そんな話は聞いたことが無い。
ゴルトー叙事詩におけるクリュートスは、いつだって強くて、勇敢で、折り目正しい。
騎士の鑑のような英雄であった筈だ。
『馬鹿』などという単語、ふさわしくないにも程がある。
「お前に送った最後の言葉………あれにはちょっと語弊があったな。
だから、改めてもう一度言おう」
男は真っ直ぐに、クロへ目を向ける。
男の瞳はいつかのまま、青い瞳を持ってクロを見つめている。
「クロ。お前は勇者になれ。
『英雄』じゃなくて『勇者だ』」
「勇者………?」
「ああ。弱さを克服し、強い心を手に入れた奴が英雄。
弱さを抱えたまま強くあろうと足掻く奴が勇者と呼ばれる。
そしてクロ。お前は勇者を目指せ」
「卑屈でもいい、無様でも構わない。
道に迷って上等だ。
だけど、決して進むことだけはやめない」
「理不尽であっても、恐ろしかったとしても
無謀であっても、愚かであったとしても。
馬鹿みてぇに歯を喰いしばって、ひたすら前へと突き進む。
ドブネズミのように強くて逞しい………愚か者」
「クロ! お前は勇者になれ!
ドブネズミみてぇにイカした、格好いい馬鹿になるんだ!!」
ぐわりとクロの世界が歪む。
『格好いい馬鹿になれ』
それは、きっと父がクロへ託した本当の願い。
なるほど………考えてみれば、父は行動してから物事を考えるような、少し馬鹿な男であった。
『強い男になれ』等というモノより、父の遺言としてはずっと相応しい。
クロは呆れたような笑い声を上げる。
「まったく………よりにもよって『馬鹿になれ』………か。
父さんは、死んでも相変わらずだなぁ」
「だろう? 何せ、馬鹿なお前の親父だからな!」
「違いない………」
森の木々がグラグラと揺れる。
雪に覆われた地面が、それこそ粉雪のようにパラパラと解けていく。
それは、過去からの解放。
英雄のように強くあるという束縛からの解放と、勇者のような馬鹿になるという新たな目標への変革。
だけど………『馬鹿になる』のは容易いだろう。
だって、自分は父の息子なのだ。
元々、割と馬鹿である。
崩れていく世界の中で、父は最期にクロの肩へ手を当てる。
「いいか、クロ。最後に、これだけは絶対に忘れるな。
例え、お前がどんなに自分を蔑んで、嫌いになったとしても………」
父は肩に手を当てたまま、ガハハと豪快に笑ってみせた。
「お前は、父ちゃんと母ちゃんの、自慢の息子だ。
父ちゃんと母ちゃん、それにチェレンだって、お前のことが大好きだ。
お前が誇らしくて、仕方ないんだよ」
そんな風に笑ったまま、崩壊する世界と共に、父の姿が霧散していく。
シルバー村の誇り高き農夫。ネグロ・シルバー。
彼は最期まで笑ったまま………一陣の風になって、空の彼方へ消えていった。
崩れきった世界の先で、1人きりに戻ったクロは、そっと己の肩に手を当てる。
肩には、父から送られた温もりがじんわりと残っていた。
「知ってたよ………そんなこと」
一筋だけ涙を零しながら、クロはそんな言葉を呟くのだった。




