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第57話 ヴィオレ・ヴァイオレット(4)

 クーン・ポイニー。

 それがヴィオレの料理を作っている、料理番の名前であった。

 彼女は2週間ほど前から、ヴァイオレット邸お抱えの料理人として雇われ、ヴィオレを始めとする屋敷の人間たちへの料理を担当しているようだ。

 その過去については、一切が不明。

 彼女がヴァイオレット家に雇われるまで、何をしていたのか料理長さえも把握していないらしい。


「アヤメ様が、クーンをどこかから連れて来たようですが………」


 侍女の最後の言葉を思い出しながら、ヴィオレは屋敷の中。

 従者たちが住み込んでいる区画へと歩を進めていく。


 ヴィオレの左目が変調をきたし始めたのは、クーンが料理人として雇われたのと同時期。状況から見て、どう考えてもクーンが黒である。


(やめさせなきゃ………こんな所で私は精神簒奪を失う訳にはいかない!)


 かっては忌み嫌っていた筈の異能。

 それが今や、ヴィオレとパールスを繋ぐ唯一つの絆となっていたのだ。


 夜のヴァイオレット邸。

 人気の無い屋敷の中を、ヴィオレは足早に進んでいく。

 夜間とは言えど、かっては守衛や出歩く従者たちが居たのであるが、ここ最近の連続怪死事件を受け、彼らは滅多なことがなければ自室から出なくなっている。


 ヴィオレが目指すのは屋敷の別棟、住み込みの使用人たちが居住する区画である。

 数多く並ぶ個室の中から、ヴィオレはクーンの部屋を探し出し、その中へと足を踏み入れた。



「いきなり私なんかの部屋へ来てどうしたんです?お嬢様」


 突然の訪問にも関わらず、クーンはおだやかな様子でヴィオレを部屋へと受け入れた。

 クーンは絵に描いたような「田舎のおばさん」といった風貌の中年女性で、ほつほつと毛糸を編みながら、呑気な笑顔を浮かべている。

 彼女の部屋は他の使用人たちと同様に質素な造りで、特にこれと言って不審な物品は見当たらない。


「ひょっとして、料理が口に合わなかったのかい?

 なるべく都会の人たちの口に合うようなモンを拵えているつもりなんだけど………オバちゃんの故郷の味付けが残っちゃってるのかもしれないね」


「………」


「まあ、この屋敷に来て間もないものだから、勘弁して下さいな。

 お嬢様の好みに合うよう、オバちゃん、頑張るからね!」


 クーンは編み物をしながら、がははと人の良さそうな笑い声を上げる。

 朴訥なその様子から、とても彼女が呪詛などを扱うとは思えない。


 しかし、ヴィオレはそんなクーンの態度に、違和感を感じていた。


「ねえ」


 部屋に入ってから、ずっと黙り込んでいたヴィオレがぽつりと口を開く。


「何で、私の方を見ないの?」


「…………」


 ヴィオレの感じた違和感。

 それはクーンがかたくなに編み物―――自分の手元だけを見つめ、決して視線を上げようとしないことだった。


「やれやれ、なかなか察しがいいね………」

 

 ヴィオレの言葉を受けて、クーンは小さくため息をついてしまう。


霧散する紫(ミスト・ベノム)


 そして手元を見つめたまま、返事をする代わりに魔術式を展開させた。

 クーンとヴィオレの間に紫色の霧が顕現し、彼女らの間を遮る。


「ぐっ………!?」


 突然目の前に湧き上がった霧を吸い込み、ヴィオレは胸に激痛を感じ膝待つく。

 肺を掻き回されているかのような激痛、同時に全身を襲う痺れ。

 それらに襲われ、ヴィオレの視界が真っ赤に明滅する。

 

「やれやれ、貴族の馬鹿娘かと思っていたが、思ったより聡いみたいだね。

 だけど、オバちゃんに直接接触するのは少しばかり軽率だったよ」

 

 クーン・ポイニー。無論、その名は偽名である。

 彼女は魔術師結盟によって使用を禁じられいる呪詛を身につけ、秘密裏に呪いを請け負う呪術師であった。

 

「精神簒奪、か。

 アンタみたいなのがいると、オバちゃんはますます生きずらくなってしまう。

 雇い主は目を潰せばいいと言っていたが………面倒臭い。

 このまま殺しちまおう」


 クーンが放ったのは、自由を奪う束縛の魔術。

 魔力の霧を放ち、それを欠片でも吸い込めば、対象は全身の麻痺と苦痛に襲われる。

 命に関わるモノではないが、相手を無力化するという点において他の追随を許さない。 

 だから、クーンはどこか余裕さえ持って、床に伏せるヴィオレへナイフを掲げてみせた。


「ここが大きな屋敷で良かったよ。

 明日の朝ごはんはアンタにしよう。そうすりゃ死体も残らない。

 知ってる? 殺人ってのは遺体さえ残らなきゃ、ほとんど発覚しないんだよ。

 肉は揚げ物にして、臓物は鍋、骨は犬の餌にしちまおう」

 

 クーンは呪術師として、些か不出来な女であった。

 しゃべり好きでお節介。呪術師であることを除けば、典型的な田舎のおばさん、そのものであったのだ。

 

 そして、それが彼女の命運を分けることになる。


「―――!?」


 とどめを刺さんと掲げたナイフ。それを持った右手が何かによって拘束されている。

 目を向けた先には、光を飲み込むような紫煙の綱が、彼女の右手首を捕縛していた。


「な………?」


 這いよるシャドウ・ビオラータ


 魔術によって顕現した綱で、対象を拘束する天変魔術の一つである。

 次の瞬間。クーンは全身を魔術によってがんじがらめに縛り上げられ、指先一つ動かすことが出来なくなってしまった。


 全身を覆う紫煙の魔力物質。かろうじて片目だけを外へ出しながら慄くクーンの視界に、ヴィオレがゆらりと立ち上がる姿が映る。


(馬鹿な、あいつは全身が麻痺している筈………魔術の試行はおろか、動く事だって出来ない筈だ!)


 ヴィオレはふらふらとクーンの前に相対しつつ、ブツブツと何事かを呟いている。


「私の体は動く………私は痛みを感じない………」


 狂人のように呟きつづけるヴィオレは右目が青紫色の光を放ち、手には小さな手鏡が握られている。

 それらから、クーンは彼女の行ったことを理解した。


(異能による自己暗示………?

 この娘、そんなことまで出来るのか!?)


 ヴィオレが行ったのは、自らに対する自己暗示。

 鏡ごしに己の右目と視線を交わし、自らの精神さえも簒奪する。


 麻痺といっても、実際に筋肉が固まっている訳ではない。

 麻痺とは、大脳から神経を伝って伝達される命令が、何かによって阻害されることで起こるのだ。

 そして、ヴィオレの異能による自己暗示はそれらの阻害を無視。痛覚の拒絶や各神経の不調に対する強制的解放さえも可能としていた。


 ヴィオレは頭を振ると、自我を取り戻したように冷静さを持ち、クーンへと問いかける。


「私の目を潰すように指示したのは、だれ?」


「それはちょっと言えないねぇ。

 オバちゃん、これでもプロだからさ」

 

「あっそ」


 どこか覚悟を宿したクーンの瞳に対し、ヴィオレは冷めた目を向ける。

 そして、さきほどクーンが掲げていたナイフを手に取ると、躊躇う様子もなく、クーンの瞼を切り裂いた。


「がああぁぁ!」


「静かに」


 苦痛の叫びを上げるクーンを前に、ヴィオレは人差し指を唇に当てて伝えると、紫煙で彼女の口元を塞いでいった。


「元から、貴女の言葉なんて信じるつもりは無いよ。

 人は嘘ばっかりつく。

 私が信じるのは、お兄様とこの目だけ」


 瞼を裂かれて曝け出されたクーンの眼球を、ヴィオレは指でしっかりと抑え、そしてその瞳孔を簒奪者の目で見つめる。


 視線を交わし、相手の心を読み取る。

 それはヴィオレにとって、もはや息を吸うように簡単な作業となっている。

 ヴィオレはクーンの心を読み取ると、呆れたようにため息をついてしまった。


「まあ、可能性はあると思っていたけど………雇い主はアヤメ義母かあさまか。

 これは困ってしまったね」


 ヴィオレの義母にしてパールスの実母。アヤメ・ヴァイオレット。

 バナフによって子供を身ごもった妾の女。

 彼女が自分を恐れ、異能の除去に望んだとしても不思議はない。


「はい、りょーかい。

 あなたはもういいよ」


 ヴィオレは紫煙によってクーンの全身をくまなく覆うと、もう興味を失ったように呟く。


「殺人ってのは遺体が残らなければ、ほとんど発覚しないんだっけ?

 肉は揚げ物、臓物は鍋、骨については犬の餌。

 なるほど、そんな殺し方もあるんだね」


 そんな呟きと同時に、ヴィオレが顕現させた紫煙は形を歪にゆがませた。

 紫煙が歪むと同時に、中でバキバキと何かの砕ける音がする。

 紫煙は繭のようにクーンの体を覆い、中がどうなっているわからない。

 しかし、ヴィオレは紫煙を折り曲げ、振動させ、まるでミキサーのように中のものをぐちゃぐちゃに切り砕いていった。

 繭の中身が固体から液体に変わっていくのを感じ取り、ヴィオレは薄く笑いを浮かべる。


「だけど、生憎私は料理が出来ないんだ。

 だから貴女は、全部まとめて下水行きだよ。クーン」


 その日、王都の地下を通る下水道には、汚物に混じって赤黒い液状の物が流れることになったが、そのことに気づくものは誰もいなかった。



 翌日、ヴィオレはいつもより晴れやかな気持ちで目を覚ました。

 今日でようやく、自分を苛んでいた瞳の腐敗化を終わらせることが出来るのだ。


 左目は失ってしまったが、片目さえあれば異能の施術は可能だ。別に惜しいとも思わない。

 異能さえあれば………精神簒奪さえ行えれば、兄は自分を必要としてくれる。

 今やヴィオレにとって、兄の寵愛を受けること以外に、関心は無くなっていた。


「さて、終わらせに行きますか」


 ヴィオレは晴れ晴れとしたように、自分の義母。アヤメの部屋へと向かっていくのだった。



 料理番のクーンがいなくなった。


 屋敷の中を進んでいたヴィオレの耳に、使用人たちがそんな話をしているのが聞こえる。

 いなくなったも何もクーンは今頃、汚物と一緒に海へ放流されている頃だと思うが、ヴィオレにとってはどうでもいいことだ。

 それに、この屋敷で使用人が逃げ出すことは、別段珍しいことではない。

 クーンの前任であった料理番も、屋敷の不穏な空気に嫌気が差して脱走していたのだ。

 彼女の蒸発も、同じように受け取られるだろう。


「それにしても、首謀者はアヤメ義母かあさまか………ちょっと意外だったね」


 喧騒を尻目に、ヴィオレは独りごちる。


 アヤメ・ヴァイオレット。

 ヴィオレにとって義母の立場にある女だが、ヴィオレはあまり彼女と接した記憶が無い。


 ヴィオレ自身が忌み子として毛嫌いされていたこともあるが、何よりアヤメはあまり表舞台に出たがらない女性であったのだ。

 ヴィオレ派とパールス派に別れた派閥闘争。ヴィオレの実母であるスミレはその中心人物として争いの渦中にあったのであるが、アヤメはそれらの闘争に全く関わろうとしなかった。


 ヴィオレの記憶にあるのは、いつも離れた場所で控えめにパールスを見つめているアヤメの姿だけ。

 

 そのアヤメが、呪術師まで雇って自分の目を潰しにきたのだから、世の中はわからないものだ。


「まあ、世界なんて嘘と欺瞞ばっかりだ。

 あの人も、おとなしそうなフリをして、腹の中でエゲツないことばかり考えてたんだろう。

 まったく………嫌になるね」


 どこか笑みさえ浮かべて、ヴィオレはそう呟く。

 

 ヴィオレはこれからアヤメを殺しにいくつもりであった。

 自分から異能を奪おうとする者は許さない。これはもはや自分が持つ、唯一の価値。

 自分が人から必要とされるのは、この異能だけなのだ。


 左目が腐り落ちてから数日。

 ヴィオレの頭はやや、破綻し始めていた。



「き、今日はどうしたの? ヴィオレさん。

 貴女が私のところへ来るなんて、めずらしいですね………」


 そう言って、アヤメはヴィオレへ紅茶を差し出す。


「私と会うのはお嫌ですか? アヤメお義母かあさま」


「そ、そんなつもりで言ったのではないわ。

 ごめんなさいね」


 言葉では否定するものの、アヤメの表情からは、はっきりとした動揺が見て取れる。

 必死で押し隠そうとしているようだが、視線がせわしなくさ迷い、カップを持つ手が微かに震えている。


「そういえば………料理番のクーンが屋敷からいなくなったそうですね。

 アヤメお義母さま、何かご存知ないですか?」


「わ、私は何も………!」


 ヴィオレの問いかけに、アヤメがビクリと震えながら応える。

 こんなに狼狽している姿を見せては、自らが呪詛の依頼者であったと白状しているようなものだ。


 好色なバナフによって手篭めにされ子を身篭ったことで、ヴァイオレット家の第二婦人となった卑賤の女。彼女の器は、ヴァイオレット姓を名乗るには小さすぎたようだ。

 

(そんなに慄くのなら、余計なことをしなければよかったのに………)


 ヴィオレはそんなことを考えながら、アヤメにそっと顔を近づける。


「ヴィオレさん………?」


「ご覧下さい、アヤメお義母さま」


 ヴィオレはアヤメの眼前で、左目を覆っていた眼帯を外してみせる。

 眼球が腐り落ちた眼窩は、眼球のあった部位がぐちゃぐちゃに歪み、その中から赤黒い肉と黄土色の腐敗物が覗いていた。


「ひっ………」


「どうです? なかなか醜怪でしょう。

 あの呪詛は私の眼球だけでなく眼筋まで腐らせてしまったらしい。

 臭いもなかなか酷いものでして………私も年頃ですから、やはり気になってしまうのですよ」


 アヤメは思わず眼を反らすが、ヴィオレはそんな彼女の視線を追いかけるように顔を動かす。


「た、確か、王都には腕のいい義眼師がいると………」


 アヤメがそんな震え声を上げると同時、ヴィオレは彼女の胸ぐらを掴んでいた。


「おい、ふざけるなよ? アヤメ・ヴァイオレット。

 私がお前のしたことを知らないとでも思っているのか?」


「うぅ………」


 ヴィオレは胸ぐらを掴んだまま、アヤメの首をギリギリと締め上げる。


「よくも、私の左目を奪ってくれたな。

 随分と陰湿な手段を使うじゃないか?

 お前の目的は何だ?」


「だ、だって………」


 残った右目に殺意を込め、剣呑な声を上げるヴィオレはアヤメが涙さえ零しながら訴える。


「だって、このままだったら………貴女はパールスを殺してしまうでしょう!?」


「あ?」


 アヤメは凡庸な女である。

 彼女は次期当主の争いにも、屋敷の派閥争いにも興味は無い。

 彼女が望むのは、息子であるパールスの幸福。

 ただ、それだけ。

 世間で一般的とされる母親と同じように、子が幸せになってくれることを願うような凡人であったのだ。


 屋敷の主だった人間たちが次々と怪死を遂げていく中、アヤメはヴィオレに危機感を抱いていた。

 口にこそしないものの、これらの死がヴィオレの異能に寄るものであることを誰の目にも明らか。


 そして、パールスはヴィオレと対をなす、次期当主の筆頭候補。

 

 ヴィオレが当主の座を狙っているのなら、パールスは最も殺すべき標的。

 このまま放っておけば、自分の息子もまた、ヴィオレの異能によって殺されてしまう………浅慮なアヤメはそう考え、ヴィオレの異能の除去を決意したのである。


 悲壮なアヤメの瞳から、彼女の思惑を読み取りヴィオレは困惑してしまう。


「ば、馬鹿か、アンタは。

 私が次期当主の座を望んでいると思っているのか?

 そもそも、私はお兄様の為に―――」


「母さん?」


 ヴィオレがアヤメに事のしだいを説明しようとしたところ、呆けたような声が2人に届けられる。

 慌てて顔を向けた先には、パールスが驚いた表情で立ち尽くしていた。


「母さんに………ヴィオレ?」


 パールスは相変わらず呆けた表情のまま、赤紫色の瞳にアヤメとヴィオレの姿を映す。

 そして、ヴィオレがプアルの首を締め上げているのを確認すると、ギリギリと表情を変化させ憤怒の形を作っていった。


「お兄様………」


「貴様ぁ! 母さんに何をしているんだ!!」


 ヴィオレの呼びかけたのと、パールスがヴィオレの顔面を殴り飛ばしたのは、ほぼ同時であった。

 手加減抜きの全力で殴り飛ばされ、ヴィオレは壁に叩きつけられる。

 突然の衝撃に朦朧としながらも、ヴィオレが何とか体を起こすと、彼女の瞳にはアヤメを抱き抱えるパールスの姿が映っていた。


「母さん、大丈夫!?

 アイツに何か、変なことはされてない!?」


 パールスはまるで、大切な宝物を守ろうとする子供のようにアヤメを抱きかかえ、ヴィオレに対しては眼もくれようとしない。



 何が何だかわからない。

 

 兄は自分の唯一人の味方の筈だ。


 私を愛してくれる人の筈なのだ。

 

 なのに、なんで? どうして?


 彼は自分ではなく、あの女を抱きしめているのだろう?



「パールス………」


 パールスの腕の中で、アヤメが憂虞するように彼の体を抱きしめる。

 パールスはそんな母に微笑むと、安心させるように優しく伝えてみせた。


「大丈夫だよ、安心して母さん。

 母さんは僕にとって、ただひとりの味方なんだ。

 母さんのことは、絶対に僕が守ってみせるから―――」


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