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第4話  ドブネズミ

「およ? クロじゃん。こんなところでどうしたの?」


「先輩………?」


 太陽の陽射しがさんさんと降り注ぐ『聡明な賢者の学舎』の中庭。

 その中庭の木が生い茂り、周囲から姿を隠せる場所でクロがいつものようにぼうっとしていた所、背後から最近見知った声が掛けられる。

 目を向けるとヴィオレが笑顔を浮かべながら、クロへ手を振っていた。


「なんか資料室以外でクロを見ると、新鮮な気持ちになるね。

 昼休みだっていうのに、こんなところで何してるの?」


「見たとおりですよ。ただの時間潰しです」


 学舎はちょうど昼休みの時間帯。

 学生たちは講義の合間に昼食を取るか、学友たちとの談笑に励んでいる。

 そんな中、食事も取らずに人気ひとけの無い場所で時間を潰すクロの姿はどう見ても『ぼっち』のそれだ。

 もっともクロにとって1人でいられる時間はかけがいの無いもので、割と寛いではいるのだが。


「いやいや、友達がいないと学生生活も大変だねぇ。

 昼ごはんまだなの? 私が一緒に食べてあげようか?」


「結構です、食事はここにありますので………」


 何故かうれしそうな表情でヴィオレがそう提案するが、クロは丁重に―――というか適当に断ると懐から一切れのパンを取り出し、口に運ぶ。

 もさもさとつまらなそうに食事を取るクロへ、ヴィオレは呆れたような表情を浮かべた。


「いつも、こんなところで1人でご飯食べてるの?

 今日はこんないい天気だってのに、クロは暗いなあ」


「放っといて下さいよ………先輩こそ、こんなところでどうしたんです?」


「私は友達と待ち合わせ。私はクロと違って人気者だからね。

 食事も静かにとれないのだよ」


 肩を竦めて、大仰にやれやれといった仕草を取るヴィオレに対し、クロはギクリとした表情で問いかける。


「待ち合わせって………ここでですか?」


 クロはしまった、というように腰を浮かせるが、同時に「ヴィオレさん!」という、彼女を呼ぶ複数の声が自分たちの側へ近寄ってくる。

 

「先輩、僕はもう行きますね!」


「何で? 一緒に昼ごはん食べないの?」


 不思議そうなヴィオレに対し、クロは慌てた様子で中庭から走り出そうとするが、時はすでに遅かったらしい。

 数人の学生たちが小走りで、ヴィオレを囲むようにして集まってきた。


「ヴィオレさん、お待たせしてごめんなさい!」


 息を切らせ、慌てたように頭を下げる学生たちに対し、ヴィオレは鷹揚な笑顔を浮かべる。


「気にしないで、私が早く来すぎただけだから。

 それより、昼ごはん。どこで食べようか?」


「学舎の向かいに新しいレストランが出来たんですよ!

 小さなお店ですけど、なかなかいい素材を使ってるって評判なんです!

 そこにしませんか?」


「そうだねえ………」


 学生たちはみな一様にヴィオレを気遣うような態度で、わいわいと声を上げている。

 彼女らは魔術師のローブを羽織っているものの、その下に着ている衣服は上等な物で、どうやら1種類目。

 『裕福な家庭の子女』に分類される学生たちのようだ。


(そういえば先輩は、上級貴族の出身だと言っていたな。

 彼女たちはおおかた、それに群がる低級、中級貴族、もしくは商家の子女と言ったところか………)

 

 離れどころを失してしまったクロは、そんなことを独りごちながらも、同時に


(何とか僕に気付かないで、この場を去ってくれ)


などと願いながら、木陰に身を潜める。


「それで―――」


 そんな願いも空しく、当のヴィオレがクロの方へ目を向けると、つられるように他の学生たちもクロへと視線を移した。


「クロはどうする? どっか行きたいお店とかある?」


「え………あ、あの………」


「クロ………シルバー?」


 クロを視界に納め、学生たちの空気がガラリと変わるのを、クロは消えて無くなりたいような気持ちで見つめていた。


◇  


「ぼ、僕はもう昼食を取りましたし………」


 クロは何とか、ヴィオレからの誘いを断ろうと試みるが、ヴィオレは笑顔を浮かべて更に言葉を続ける。


「昼食を取ったって行っても、食べたのはパン一切れでしょ?

 クロだって男の子なんだから、一杯食べないと大きくなれないよ?」


「いえ、もうお腹一杯なんです」


 なお、言いすがるヴィオレに対し、クロは「頼むからどこかへ行ってくれ」とでも懇願するような視線を送るが、彼女には伝わっていないようだ。

 不思議そうな表情で小首を傾げている。

 そんなヴィオレとクロの間に、学生の1人が立ちはだかると、クロへ蔑むような視線を送りながら口を開いた。


「シルバー初等生。いったい、どういうつもりかしら?

 まさか、あなた………ヴィオレさんと食事を取るつもりだとでも言うの?」


 その声音は敵意に満ちており、まるで「自分たちの獲物を横取りするつもりじゃないだろうな」と、警告しているかのようだ。

 クロは媚びへつらうような笑みを浮かべると、大きく手を振ってその言葉を否定する。


「め、滅相も無い。僕は偶然ここに居ただけです。

 いまお話したように昼食も食べ終えましたし、どこかへ行きますよ」


「ふん」


 雑魚を散らすような目で自分を見つめる学生を尻目に、クロはセコセコとした動作で、その場を立ち去ろうとするが、そんな彼をヴィオレが呼び止める。


「ち、ちょっと待ってよ、クロ。

 まだ、話の途中じゃない」


「す、すいません、ヴァイオレット高等生。

 自分はもう、行きますので―――」


「クロ・シルバー。ちょっと待ちなさいよ」


 そんなクロとヴィオレの会話を遮り、檸檬色の瞳を持った学生がクロを呼び止める。

 彼女のことはクロも知っていた。

 同じ初等生で、ベージュを担任とする―――同じクラスのカナリーという少女だ。


「ヴィオレさん。奴は例のアレですよ。

 昨年入学した、男の癖に魔力があるとかいう特異魔術師。

 ご存知無いのですか?」


 カナリーはまるで我が意を得たりとでもいわんばかりに、高揚した様子で早口に捲くし立てる。

 他の学生たちと違い、自分がクロについての知識があることが得意なのだろう。


「礼節も気品も無い、このとおり賤しい男です。

 私たちの間では「ドブネズミ」なんて呼ばれているんですよ。

 ほら、ご覧下さい」


 カナリーは得意げに、クロを指差してみせる。


「このみずぼらしい黒髪に黒目。加えて貧相な風体をしているでしょう?

 正にドブネズミ。

 こいつがヒョコヒョコ歩き回る姿が、また傑作で………」


 彼女の言葉に応えるように、学生たちの間からクスクスといく嘲笑が流れる。


「へ、へへへ………」


 クロはただ、ヘラヘラと卑屈な笑みを浮かべたまま、嘲笑を受けるがままにしていた。

 クロからすればこのような侮蔑を受けることは最早、日常茶飯事と言えるようなことであったため、もう悔しいとか悲しいという感情は無い。

 ただ何事もなく彼女たちの注目が自分から離れるのを願うのみである。


 ―――ただ、先輩の前でこの卑屈な笑みは浮かべたくなかったな、と心のどこかで感じていた。


 ヴィオレはただ無表情にクロの方を見つめている。

 その青紫色の瞳は、作り物の赤紫色の瞳と同じように、何も映していないかのようだ。


「それでですね! こいつ休みの日はいつも王都の入口で物乞いをしているって噂なんです!

 私の友達にも、こいつが無心をしている所を見たっていう人が―――」


「もういいよ、わかったよ。」

 

 なおも捲くし立てるように話すカナリーの言葉をヴィオレは冷めた声で遮ると「もう行こうか」と、クロと反対の方向へ歩き出す。


「ま、待ってください!?」


 学生たちも慌てたように、ヴィオレの後を追っていった。


 中庭に1人取り残されたクロは、相変わらずヘラヘラと卑屈な笑みを浮かべたまま、ヴィオレの消えていった方向をいつまでも見つめるのだった。 



「やれやれ、せっかくの昼休みが台無しになってしまった………」


 学生たちが立ち去ったのを確認すると、クロはホッとしように一つため息をつく。

 彼女らから送られた嘲笑の渦。妙な話であるが、クロは自分がそんな扱いを受けることにどこか納得している所があった。


 田舎の平民である自分と、王都の貴族や商人の出身である彼女たち。

 本来であれば、口を聞くことも恐れ多いほど身分の差があるのである。

 クロは特異魔術師として学舎への入学が許され、彼女たちと同じ身分であるということになってはいるが、特段クロは特異な力を持っている訳では無いし魔術師として非凡な才能があるわけでもない。

 ただ「男なのに魔力がある」というだけの凡人なのだ。

 そんな自分がこの学舎で同じ学生という身分である、ということが彼女たちは我慢ならないのだろうとクロは考えていた。


 とは言え、あまりいい気分がしないのもまた事実である。


 確かに僕は貧民だ。己の卑賎さは自分が一番わかっている。

 だから僕のことは放っておいてくれ―――それがクロの正直な感想であったのだ。

 

「シルバーくん」


 そんなことをクロが考えていたところ、また新たに彼を呼ぶ声がする。

 やれやれと振り向いた先には、薄茶色の長い髪をした妙齢の女性が立っていた。


「アイボリー先生」


 ベージュ・アイボリー。『聡明な賢者の学舎』において、講師を務める上級魔術師である。 

 学舎にはクロを一人前の魔術師に育て上げ、権威を得ようとする上級魔術師が数多く存在するが、彼女はその中で最も親身で、そして何よりも粘り強かった。

 ベージュはクロが学舎に入学して間もない頃から頻繁に声を掛け、何度も自分が顧問する魔術研究会『アイボリー教室』への入室を誘っていたのだ。


「また入室のお誘いですか? でしたら―――」


 今度はどう言って誤魔化そうか? などとクロは思考を巡らせるが、そんなクロの言葉を遮ってベージュが口を開く。


「シルバーくん………あなた、ヴィオレさんと交流があるのかしら?」


 ベージュの口から漏れた意外な言葉に、クロはキョトンとした目を向ける。


「別にそういう訳ではないですが………ヴァイオレット高等生に何か?」


 不思議そうなクロに対し、ベージュは少し言葉を選ぶように逡巡する様子を見せるが、キッと顔を引き締めると口を開いた。


「本来、学生のあなたにこんなことは言うべきではないのだろうけど………。

 シルバーくん。ヴィオレさんには関わらない方がいいわ」


「はあ?」


 クロは思わず困惑の声を上げる。

 ベージュがヴィオレの話をするのも意外だが、関わるな等と言い出すのは更に意外であった。


「私は、あくまで貴方にもっと友達を作って欲しいと思う。

 他の学生たちと、もっと交流を持って欲しいとも思っているわ。

 だけど、ヴィオレさんだけは話が別よ。彼女はきっと………あなたに良くない影響を与えてしまう」


「………あなたに、そんなことを指示される言われは無い」


 クロは他の魔術関係者と関わる時は、常にへらへらと卑屈な笑みを浮かべるのが常であったが、今回ばかりは勝手が違う。

 自分とは天と地ほどの隔たりがある筈の上級魔術師に対し、憮然とした表情できっぱりと拒否の言葉を言い放った。


「……………!」


 ベージュも、そんなクロの態度に驚いたのだろう。胡桃色の目を見開き、クロの目を見つめる。

 その漆黒の瞳は真っ直ぐにベージュへと向けられ、微かな怒りさえも混じっているように感じられる。

 ベージュは少しため息をつくと、首を振って小さく頭を下げた。


「そうね………あなたの言うとおりだわ。

 あなたが誰と付き合ったって自由だし、私がそれを詮索するべきじゃない」


 ベージュにとって、このクロという少年は主体性のない、自分の意見を持たない学生という印象だった。

 どんな言葉を伝えても、いつもヘラヘラと笑みを浮かべ、決してその心の内を見せようとしない。

 そんなクロが自分の言葉を反故にし、尚且つ憤りまで浮かべているのだ。


(それほど、彼にとってあのヴィオレという学生は大きな存在になっていると言うの?)


 高等生と初等生。

 まして上級貴族と平民の2人である。

 彼と彼女がどのように交流を得たのか、ベージュには見当もつかない。

 しかし、クロの様子を見るに、二人には確かな親交があるのだろう。

 そして、それはベージュにとって、何とも憂事を抱かせてしまうのだ。


「だけどね、シルバー君。忘れないで。

 あなたは1人きりじゃないし、ヴィオレさんと2人きりでもない。

 あなたの周りには沢山の学友、仲間たちがいるの。

 それだけは忘れないで………」


「はあ………」


 そう言葉を紡ぐベージュは悲痛な表情を浮かべており、クロは少し罪悪感を抱いてしまった。

 クロ自身、ベージュが他の上級魔術師と同じように、クロを出世の材料として見ているとは思っていない。

 彼女が真に自分のことを考え、親身になってくれていることを、この1年間でクロは理解しているのだ。

 しかし、それでもなお、ベージュの言葉にクロは憤りを覚えてしまう。


(あの女どもが学友、仲間だと? 冗談じゃないぞアイボリー先生。

 僕は下等貧民で奴らは貴族様たちだ。

 僕とあいつらには、どうしようもない隔たりがあるんだよ)


 相変わらず憮然とした表情のまま、無言を守るクロに対し、突然ベージュは何かを思いついたようにニコリと笑うと、口を開く。


「そうだ。仲間と言えば魔術研究会のことなんだけど―――」


「もうこんな時間か。授業が始まってしまう、急がないと」


「こ、こら、シルバーくん!?」


 わざとらしい態度で、クロは慌てたように中庭から走り去っていく。

 これはいつものことだ。ベージュが魔術研究会の話題を出すと、いつもクロはどこかへ行ってしまう。


 はあ、とため息をつきながら、ベージュは立ち去っていくクロの方へ視線を送る。


「シルバーくん………私だって貴方が煩瑣はんさな立場にあることは理解しているわ。

 だけどね、それでもあなたは1人じゃないのよ。

 閉じた世界に篭ってしまったりはしないでね」


 その薄茶色の瞳は、心配そうに、いつまでもクロの小さな背中を見つめていた。 



「ち、ちょっと待って下さいよ、ヴィオレさん!」


「……………」


 早足で進むヴィオレの背中を、学生たちは慌てたように追いかける。

 ようやく追いつくも、ヴィオレは見るかに不機嫌で、言葉を発しようとしない。


「ヴ、ヴィオレさん………?」


 学生たちの間に困惑した空気が流れる。

 確かにヴィオレは気分屋なところがあり、コロコロとその感情を変えるところがあるが、こんなに不機嫌な様子を見せるのは珍しいことだ。

 ご機嫌取りに必死な学生たちにとって、浮き沈みの激しいヴィオレは厄介な「取り入り先」であった。 


 彼女たちはクロが予想したとおり、低級、中級貴族、もしくは商人の子女たちである。

 そんな彼女たちにとって『聡明な賢者の学舎』は卒業することで権威を得るだけの場所ではなく、身分の高い者たちと親交を得るための場所でもあるのだ。


 ヴァイオレット家は王都でも有数の名門貴族の家系であり、その影響力は図り知れないものがある。

 一口に同じ貴族と言っても、ヴィオレと彼女たちの間には大きな隔たりがあるのだ。

 そんなヴィオレから一目置いてもらうことが出来れば、学舎を卒業し社交界へ出た際に大きな有利を得ることが出来るだろう。


 彼女たちにとって、ヴィオレに気に入られるということは、将来に関わる大事であり、学生生活の目標として最重要事項でもあった。

 ―――だから、彼女たちはヴィオレからいかに理不尽な扱いを受けても、決して逆らうようなことはしない。


「ねえ」


 無言で歩き続けていたヴィオレが不意にぼそりと口を開く。


「―――! な、何でしょうヴィオレさん?」


 ようやく機嫌が直ったのだろうかと、学生たちがヴィオレを気遣うように周りへ集まる。

 しかし、ヴィオレはそんな彼女たちを一瞥すると、その中から先ほどのカナリーを見つけ出し、その胸を手でつきとばした。


「つっ!?」


 5歳年上のヴィオレにつきとばされ、カナリーはその場にしりもちをついてしまう。

 突然のヴィオレの暴挙に、カナリーは困惑の声を上げる。


「ヴ、ヴィオレさん?」


 自分は何か、ヴィオレにとって気に食わないことをしてしまったのだろうか?

 そんな思いと共に、カナリーがおずおずとヴィオレを見上げると、彼女はただ無表情にカナリーを見下ろし、ぼそりと口を開く。


「あなたは来なくていいよ」


「え………?」


 短く放たれたその言葉に、カナリーは呆然とした様子で俯く。

 ヴィオレはそんな彼女を一瞥すると、無関心に視線を反らし周りの学友たちへ笑顔を浮かべてみせた。


「さ、みんな行こうか。

 お昼ごはん、どこにしようかな?」


「は、はい」


 ヴィオレの機嫌が良くなったことで、学生たちはホッとしたように胸を撫で下ろし、ヴィオレの後に従って歩いていく。

 そんな彼女たちの中に、呆然としたまま座り込んでいるカナリーへ、目を向ける者はいなかった。



「やあ、クロ。今日は早かったね」


「先輩………」


 授業が終わった放課後、クロがいつものように資料室へ向かうと、いつものように入口でヴィオレが座ったまま、彼へ向けて手を振っていた。

 そんな彼女に対し、クロは少し気まずそうに目を反らしてしまう。


 昼間のことが気になるのだ。

 自分は彼女の前で無様な様を晒してしまった。

 あの卑屈な笑みは、決してヴィオレに見られたくはなかったものだ。


 そんな思いと共にクロは俯き、自分の靴の先へ目を向ける。

 ヴィオレに何と言っていいか、言葉が浮かばない。


「なあに、クロ? どうかしたの?」


 そんなクロを覗き込むように、ヴィオレが腰を折って下からクロの顔を見上げる。

 クロは更に目を反らすと、言い辛そうにしながらも、口を開く。


「先輩………その、昼間は………」


(昼間は何だって言うんだ? 僕は先輩に何を伝えたいんだ?)


 見苦しいモノを見せて済まないと謝るべきか?

 それとも、こういうことがあるから、資料室以外では自分に話しかけるなと言うべきか?


 クロは必死になって考えるが、それを言葉として音に変えることが出来ず、ただ歯がゆそうに表情を歪めることしか出来ない。

 

 そんなクロの体をふわりと、優しくて温かいものが包み込む。

 

「!?」


 クロは驚いて反らしていた目を前に向けるが、視界に映るのはヴィオレの紫色の髪だけだ。どうやら自分は彼女に抱きしめられているらしい。


「いいよ。クロが言いたくないなら、私も聞かない」


 耳元でヴィオレの囁く声がする。

 それは慈愛に満ち、心が安らぐような、そんな声だった。


「先輩………?」


 クロがおずおずといった様子でそんなヴィオレに目を向けるが、彼を抱きしめるヴィオレの表情を伺うことは出来なかった。


「だけど大丈夫。君のことは私が守ってあげる。

 クロは何も心配することは無いんだよ。

 だって―――」


 ヴィオレはクロの肩に手を当て、身を離すと、彼の黒い瞳に自分の青紫色の瞳を向ける。


「だって………私はクロの「たった1人」の味方なんだから」


 そう言って微笑むヴィオレの顔は美しく、とても温かいもので、クロは自分の顔が燃えるように熱くなっていくのを感じていた。


「よっしゃ! それじゃあ、さっさと私たちのセカンドルームへ入ろうか!

 ほらクロ、さっさと鍵開けて!」


「痛ぇ!」


 ヴィオレは気分を変えるように、クロの背中をバシンと叩くと、普段の調子でそう嘯く。


「まったく、先輩は乱暴なんだから………」


 ぶつくさと文句を言うようにクロは資料室の錠へ鍵を入れるが、反らしたその顔は真っ赤だ。

 母を除いて、異性から抱きしめられるなど初めての体験である。

 平静を装っているが、心臓がバクバクと鼓動し、血管がドクドクと高鳴っている。


「にひひ」


 そんなクロの背中をヴィオレは悪戯っぽい笑顔で眺めていた。

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