第26話 卑賤の娘
『―――おい』
誰かが自分を呼んでいる。
そういえば私は幼いころ、自分の名前を知らなかった。
母は私のことを「おい」とか「お前」と呼んでいたし、家に出入りする多数の男たちはそもそも私に興味など無いようであったのだ。
家には毎日、沢山の男たちがやってきて、母に金を渡すと部屋の奥へと消えていく。
そして、少ししてから母の上げる嬌声が聞こえてくるのが、幼い頃の私には苦痛でならなかった。
あの男たちのどれかに、自分の父親がいるのかもしれないと思うと、私は今でも虫唾が走ってしまう。
『この街でお前の母ちゃんと寝てない男はいないぜ』
そんな言葉を掛けられるのは日常茶飯事で、私にはもう慣れたものになっていた。
母の仕事を歓迎していた訳ではないが、私は母が好きだった。
あの仕事だって、母が自分を育てるために懸命になっているのだと思っていた。
『―――おい! お前!』
母が私を呼んでいた。
そうだ、あれは確か………私がちょうど10歳になった誕生日の日だ。
その日、母は私を町の仕立て屋へと連れて行った。
そして、今まで見たことも無い綺麗な洋服を私へ買い与えると、今度は髪結い屋へ行き私の髪を整える。
私はそれまで母から誕生日の贈り物などもらったことがなく困惑してしまったが、それでも母からの贈り物が素直にうれしかった。
母も珍しく笑っており、私はこれから何か素敵なことが起こるのではないかと、能天気に思っていたものだ。
母は私の手を引いたまま、とある建物へと私を連れて行く。
その建物は、あの街の中でも更に奥まった、日の当たらない場所にあった。
建物の前には、私よりも少し年上である程度の少女たちが、肌も露な格好で客引きをしており、時たま男を建物の中へ連れ込んでいく。
当時の私は知らなかったことだが、この建物はある程度の非合法が認められるこの街においても、評判の悪い悪辣な売春小屋であったらしい。
母は受付にいたケバケバしい老女と何事かを話していたが、しばらくして満面の笑みを浮かべながら私の元へ戻ってくる。
『やったね。アンタ、なかなかいい値がついたよ』
私は母が何を言っているのかよく分からず、首を傾げていたが、そもそも私のことなど母はどうでもよかったのだろう。
特に何か説明するわけでもなく、言葉を続ける。
『アンタをここまで育てた甲斐があったというものさ。
この店、10歳より下は身請けしてくれないからねぇ』
あれから何年かたったが、私は母が大嫌いだ。
………本当に、死んで欲しいと思っている。
◇
「おい、シルバー! 気張れ! もうちょっとだ!」
前の方でシアンがそんな大声を上げている。
クロの足はすでに、鉛のように重くなっており、砂が引かれた地面はまるでドロ沼のように感じるほど疲弊している。
それでも、クロに歩みを止めるつもりは毛頭ない。
ふらふらになりながらも、必死で足を前に出し何とか前に進み続ける。
「あぁあああ―――!」
最後には掠れた雄たけびを上げながら、とうとうクロはゴール地点まで走りきった。
全身を極度の疲労に蝕まれつつ、クロの心は達成感に満たされていく。
アイボリー教室。基本となる体力訓練。
クロは今日はじめて、それを走りきったのである。
クロがアイボリー教室の一員になってから少しの時間が流れた。
まだシアンたちには遠く及ばないものの、クロは少しずつ確実に訓練こなせるようになってきている。
目に見れる成果は確かな自信となって、クロの心へ蓄えられ、その自信はクロから卑屈さを薄れさせていっていた。
「おう、やれば出来るじゃないか! よくやった!」
「はい!」
シアンがクロの肩に手を当て親指を立てると、クロもまた同じように親指を立て満面の笑顔を返すのだった。
◇
「で、こうなる訳か」
「ふうむ、最近は少し明るくなったと思っていたのだが………。
彼の打たれ弱さは生来の物のようだね。困ったものだ」
シアンとソラルが呆れた表情で部屋の片隅に目を向ける。
そこでは、クロが壁を見つめたまましゃがみ込み「どうせ僕なんて………」とか、そんなことをブツブツと呟いている。
とうとう目標であった体力訓練を最後までやり遂げたクロであったが、その後に行った魔力維持訓練、この時に魔力を暴走させて10分も火炎球をもたせることが出来なかったのだ。
「ふふふ、どうせ僕はダメな魔術師です。ちょっと調子に乗ったらすぐコレですよ………」
そして、それからずっとこの有様である。目障りなことこの上ない。
「あぁー、女々しい奴だな! おい、こいつをつまみ出せ!」
「まあまあ………」
激昂するシアンを、ソラルが鷹揚に宥める。
「シ、シルバーくん。今日はちょっと調子が悪かっただけですよ! また、レモン水を飲みますか!?」
「放っとけ、ローゼ。そんないじけた奴を甘やかすな。
まったく………」
シアンはため息をつくと、クロの首根っこを掴み上げる。
シアンはむしろ小柄とも言える体格であったが、鍛え上げられた筋力は相当なもので、その力たるや魔術師というより、戦士である。
「うわっ!?」
「おいシルバー。ウジウジしている暇があるなら、ちょっと買い物に付き合え」
「か、買い物ですか?」
「ああ、錬金魔術の訓練で使用する化学化合物が切れてしまっていてね。
お使いを頼まれてくれるかい?」
錬金魔術の訓練は鉄や銅などの金属を魔力によって酸化させることから始まる。
件の化学化合物はその応用として使用するのだろう。
「化学化合物………? そんなもの、どこに売っているんですか?」
「王都の外れに、妙なモンが大量に置いてある店屋があってな。
そこでいつも仕入れているんだよ。
ちょうどいい、お前にも場所を教えてやる」
「は、はい!」
クロとしても、買い物の行くというのはいくらか気が紛れるものだ。
それに、今後はこういった不足品の補充についても、末席である自分が行うことになるだろう。
そう考えるとクロは、シアンの後について久しぶりに学舎の外へと出て行ったのであった。
◇
夕暮れも終わり、辺りに影が目立ち始めた王都の広場を、クロはシアンの後について進んでいく。
シアンは無口な性質なのか、あまり口を開くことをしない。
クロ自身もあまり多弁な柄ではなく、2人は無言でひたすら王都の中を進んでいった。
しばらく歩いた頃、クロは行き先に微かな違和感を感じ、シアンへ問いかける。
「シアン先輩………この先はちょっと」
「あ? ………ああ、そうか」
シアンは少し納得するように頷くと、クロの方へ振り返った。
「目的の店屋な、この先にあるんだよ。
ソラルにしろ、ローゼにしろ、この先へ進むには些か上品すぎるもんでな。
いつも私が1人で行ってたんだ」
シアンは少し自嘲するように笑うと、行き先である粗末な家が立ち並ぶ下町―――『卑賤の民の町』へ通じる路地を指差してみせる。
「いや………ここに入るのは、少しまずいんじゃないですか?」
この街は以前、クロとヴィオレが暴漢に襲われ、死にかけた場所なのだ。
まして時刻はもう晩を過ぎ、辺りも暗くなりかけている。
正直、近づきたくないというのが本音であった。
「心配するな、入るといっても入り口だけだ。
まあ、あまり性質のいい場所じゃあないが、他の連中と目さえ合わせなければ、そうそう絡まれる訳でもない」
「は、はあ………」
及び腰となっているクロの手を引き、シアンは特に恐れる様子もなく貧民街へと進んでいく。その足取りは手馴れたもので、迷う素振りすら見せようとしない。
化学化合物は、あっさりと手に入った。
何の因果か、目的の店というのは、以前クロたちがユリシスの羽を購入した、あの薬屋?
であったのだ。
「なにキョロキョロしてんだ? そんな態度の方が目をつけられるぞ」
「いえ………」
店を出てからやたらと後方を気にするクロに対し、シアンが訝しげな表情を浮かべている。
それにしても、シアンはいったい何なのだろう?
卑賤の民の町………王都に居住する人間でも滅多に近寄らない地区である。
そんな街の中を、シアンは慣れた様子で歩いている。クロから見てもシアンは周囲の雰囲気に溶け込んでおり『余所者』といった気配を感じない。
若い男ならいざ知らず、15歳の少女に過ぎないシアンがどうして、こんな風に慣れているのだろうか?
「シアン先輩………この街にはよく来られるんですか?」
つい、そんな質問を口走ってしまい、クロはしまったと口を抑えるが、シアンは何ともない調子で答える。
「ああ。よく来るっていうか………ここは私の生まれ育った町だからな。
裏道やら何やらも、よく知っている」
「え………?」
確かにシアンは特別入学生………ソラルやローゼのように、入学金を払って学生となった訳ではなく、魔術師としての才能を認められて『聡明な賢者の学舎』に招かれた学生だ。
しかし、庶民の出だということは知っていたが、彼女がまさかこの街の出身だとは思っていなかった。
クロがそんな思索に耽っていたところ、突然背後から肩を叩かれる。
「お嬢ちゃん、いくらだい?」
「はい!?」
クロが驚いて振り向くと、酔っ払った中年の男がニタニタとクロへ笑みを浮かべている。
「そうだな、100………いや、120まで出そう。
顔に傷があるんだ、そんぐらいが相場だろう?」
「いや………その、僕は………」
「ほらほら、どっかの宿に入ろう。
おっちゃんはこれでも紳士だしうまいから、お嬢ちゃんでも痛くないと思うよ」
「い、いや、離してください………」
「おい、ちょっと待て」
男に誘われるまま、近くの安宿へ連れ込まれそうになっているクロを、シアンが引っ張り止める。
「お? アンタもか?
悪いが俺は、これくらいの女の子が好みなんだ」
「違ぇよ。私達は魔術師で、別に商売をしていた訳じゃない。
あまり、変な事を吹き込まないでほしい」
男は少しの間、クロとシアンを見比べていたが、彼女らが本物の魔術師であることを悟ると「紛らわしいことしてんじゃねぇよ」と毒づき、スタスタとどこかへ立ち去っていく。
男から解放されたクロは目を白黒とさせながら、シアンのローブの裾をギュッと掴んだ。
「ビ、ビックリしました。
っていうか、何で今の人は僕を女性だと思ったんでしょう?」
「あー、魔術師のローブを羽織っていたからな。
たしか、このローブにそそられるって男が結構いるらしくてな。娼婦の中には商売用に着込んでいる奴がいるらしい。
おおかた、それに間違われたんだろうさ」
シアンはそこまで話すと、プっと噴出してしまう。
「それにお前、結構女顔だしな。
確かに娼婦に間違われても仕方ないかもしれない」
「いやいや! そもそも僕はまだ13歳の子供ですよ!?
どうして、その………娼婦さんに間違われるっていうんですか?」
まして、クロは時折、10歳程度に間違われることさえあるチビである。
大人ならまだしも、自分のような子供に対し、そういった類の言葉が掛けられたことにクロは疑問を浮かべていた。
そんなクロを、シアンは少し冷めた目で見つめる。
「あのおっさんも言ってただろ? 子供の娼婦に間違われたんだよ。
この街じゃめずらしいモンでもない」
「?」
何やら不思議そうな表情のクロに、シアンはため息をついてしまう。
「シルバー。お前にはまだわからないかもしれないが、世の中にゃ色んな人間がいてな。
同性を好む奴もいれば、さっきみたいに子供を好む奴もいる。
この街には10歳から14歳までの、子供を専門に雇う娼婦小屋まであるんだぜ?」
「じ、10歳………?」
「―――っ」
クロの驚いたような呟きに、一瞬シアンは顔をしかめてしまうが、すぐに気を取り直したように笑顔を浮かべると、悪戯っぽくクロに声掛ける。
「ま、何にしても、また声を掛けられない内にこんな場所は出てしまうか。
さっきのことをソラルたちに話してやらないといけない」
「ち、ちょっと待って下さいよ! ソラル室長はともかくローゼさんには黙っていてください!」
「お、何でローゼには駄目なんだ? ほれ、言ってみろ」
「い、いや………とにかく! 駄目なものは駄目なんです!」
笑い声を上げながら、シアンとクロが貧民街から出ようとしていたところ―――
「なめんじゃねぇぞ!!」
そんな怒鳴り声と同時に、近くの居酒屋のドアが吹っ飛び、騎士風の格好をした男が投げ出された。
「なっ?」
突然の出来事にクロが居酒屋へ目を向けると、中は机や酒が散乱し、男たちの怒鳴り声とうめき声が飛び交っている。
何やら乱闘騒ぎが起こっている様相だ。
暴れているのは皆、騎士風の出で立ちをした3、4人の若い男たちで、ある者は顔を腫らし、ある者は血を流しながら、殴られたり、掴みあったりをしている。
良く見れば、それは乱闘騒ぎというよりリンチに近いものだった。
3人の騎士が1人の騎士を囲み、3人がかりで襲い掛かっている。
もっとも、その1人の騎士は多勢に無勢をモノともせず、3人の騎士たちを一方的に殴り飛ばしているようであったが………。
結局、騎士は相手となっていた3人をボコボコに殴りつけ、全員を店の外へと蹴りだしてしまった。
「てめぇ、こんなことをして唯で済むと思ってんのか!?
団長に言いつけてやるぞ―――ぐはっ!!?」
ボコボコにされた騎士がそう怒鳴るも、店の中から飛んできたグラスを顔面に受け沈黙してしまう。
「くそ、覚えとけよ………」
3人はそんな捨て台詞らしい捨て台詞と共に、店の前から姿を消していく。
3人が姿を消したあと、店の中から従業員を伴って、1人の騎士が出てきた。
「悪かったな。壊れたモンは弁償する」
騎士は多少の手傷こそ負っているものの、彼が相手どった者たちに比べ、遥かに軽傷のようであった。
従業員に何やら紙を渡しながら、騎士はクロたちに視線を移す。
それは、ただなにげなく視線を向けただけのものであったのだろうが、クロたちを視界に納めた途端、騎士は大きく目を見開いた。
「シアン………?」
騎士に対して、シアンもまた目を大きく見開き、驚いた様子で口を開く。
「………ブルー」
「シアン………お前、何だってこんなところに………?」
『卑賤の民の町』この下町において、騎士の名は知れ渡っていた。
騎士の名はブルー・アスール。
以前、ヴィオレ・ヴァイオレットを助けた功績によって騎士団に招かれた、元バンディッドの冒険者。
この町の英雄と謳われていた男である。




