第23話 魔術研究会(下)
「ごめんなさい、遅くなってしまったわ」
聡明な賢者の学舎、第2校舎、研究棟。
その中に所在するアイボリー教室の部屋へベージュは慌てた様子で入っていった。
「これは、アイボリー指導者。お疲れ様です」
「ごめんなさいね。会議が長引いて、こんな時間になってしまったの」
「いえ」
申し訳なさそうなベージュに対し、ソラルが温和な笑顔で答える。
太陽はとうの昔に沈んでおり、夜といっていい時間になってしまっている。
今日はこれ以上、訓練を続けることは出来ないだろう。アイボリー教室の面々教室の中央に置かれたテーブルを囲み、各々に好きなことをしているようだ。
ベージュは少しため息をつくと、自分もテーブルの前に座り込む。
「アイボリー先生、お茶をどうぞ」
「あら、ありがとう」
ローゼが甲斐甲斐しい様子で、ベージュへお茶を入れてくる。
ベージュは一口それを啜ると、生徒のうち、一人の姿が見えないことに気付いた。
「シルバーくんはどうしたのかしら?」
「シルバーですか? あいつはあちらに………」
シアンは少し気まずい表情で、教室の隅を指差す。
そこには疲れ果てた様子で机に突っ伏し、真っ白に燃え尽きているクロの姿があった。
(死ぬ………こんなことを続けていたら、きっと死ぬ………)
魔術の長時間維持訓練。
結局、クロは途中で火炎球を霧散させ力尽きてしまった。
時間にして約30分。指定された時間の半分程度である。
その後、この教室へと戻って来たのであるが、体力も精神力も限界を迎えたクロは、指一本動かす気力さえ尽きていた。
「あらあら」
「先生の指示どおり、体力訓練と維持訓練をさせたのですが………まあ、見てのとおりです。
やはり、最初から飛ばし過ぎたのでは………?」
ソラルが心配するようにクロを見つめながらそう問いかけるが、ベージュはただニッコリと微笑み、クロの元へと近寄っていく。
「シルバーくん。初めての魔術研究会はどうだった?」
「………死にそうです」
「始めの内は皆、そんなモノよ。
大丈夫、住めば都と言うけれど、地獄だって長く滞在していれば天国のように感じるものよ?
………多分だけど」
「何を言って、いるのでしょうか?」
白目を向いたまま、問いかけるクロに対し、ベージュは更に深く微笑みかける。
「つまり、これから毎日、この地獄が続くということだから。
シルバー君、明日も頑張ろうね!」
クロは朦朧とした意識の中で、ベージュに目を向ける。
その優しげな胡桃色の瞳には、同時に爬虫類のような冷徹な光が宿っていた。
(母ちゃん、助けて!)
絶望に覆われたクロが、郷愁の念と共に真っ白から真っ青へと変わっていく。
同時に、鼻から何かが、プツリと流れ出す感覚が………。
「シアン先輩! またシルバー君の鼻から血が!!」
「なにぃ! ようやく止まったと思ったのにまたか!?」
「あらあら」
ローゼたちのそんな喧騒をどこか遠くで聞きながら、クロは自分が生命の危機に瀕していることを悟るのだった。
◇
「大丈夫? ちゃんと歩けますか?」
「な、何とか………」
ローゼの心配そうな問いかけに、クロが呆然と答える。
あれから教室で少し休んだあと、本日のアイボリー教室の活動は終了となった。
王都に自分の家があるソラル、学舎の傍で下宿しているらしいシアンと別れ、学舎に寄宿しているローゼとクロは2人で学生棟へ向かっているところであった。
幾何学模様に入り組んだ学舎の構造によって、研究棟から学生棟まで向かうだけでもそれなりの距離を歩かなければならず、心身ともに疲れ果てたクロにはつらいものであった。
「う………」
不意に気分が悪くなり、クロは自分の口元を抑える。
魔力を使いすぎた魔術師は体調を崩し、微熱や眩暈、吐き気などの症状に襲われる。
全ての魔力を使いきったクロも動揺で、まるで重度の二日酔いになったかのように体が不調を訴えていた。
クロは口を抑えたままその場に座り込む。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫………」
吐くまでは至らないものの、クロの顔は暗がりでもわかるほどに青ざめ、油汗が浮いている。
「ローゼさん………僕は少し休んでいくから、先に戻っていてもらっていいですか?」
クロは胡坐座りで俯いたまま、そう伝えるが、ローゼは少し眉根を寄せるとクロの隣へ座り込んだ。
「他でもない同期が苦しんでいるというのに、見捨てるなんて出来ません!
私も少し休んでいきます!」
「べ、別に、僕は大丈夫ですよ?」
「いえいえ、私も訓練に慣れないころは、よくゲーゲーと吐いていたものです。
さあ、シルバーくん! 私に遠慮せず、思いっきり吐いてください!」
「え、えー………」
「喉奥へ指を入れると気持ちよく吐けますよ!
ほら、ここ! ここです!」
「もが!? ………ま、待ってローゼさん! おかしい、それはおかしい!!」
自分の口の中へ、指を突き入れ始めたローゼに対し、クロは目を白黒させる。
どこか超然めいた所があるソラルやシアンに比べて、ローゼは一般的な感性を持っていると思っていたのだが、どうやらこの子もあの教室の一員であるようだ。
やはり、どこかがずれている。
「あ、あれ? わたし、何か変なことをしてしまいましたか………?」
「あ、あまり人にやらない方がいいと思いますよ………」
「はぅ………」
ローゼは頬を朱色に染めると、両手で自分の顔を覆ってしまう。
(とはいえ………ローゼさんは危なげなく、今日の訓練を終えたんだよな………。
ソラル室長は魔術の習熟に関して同程度と言っていたけれど、基礎能力が僕とは全く違う………)
そんな彼女を横目に、クロは今日一日のことについて考える。
最初の体力訓練では足をもつれさせて転倒、魔術の訓練では途中で力尽きてしまった。
自分は指定された訓練を満足にこなせず、先輩たちに迷惑ばかりをかけてしまっている。
(自分で自分が情けない………)
あまりの自分への不甲斐なさに、クロは顔を手で覆うと、深いため息をついた。
「シルバーくん。まだ、具合が悪いですか?」
「いえ、だいぶ楽になってきました。少し、眩暈はありますが………」
「そうだ! ちょっと待って下さいね!」
ローゼは何かを思いついたように、カバンを探ると、中から真鍮製の水筒を取り出しクロへと差し出してみせる。
「これをどうぞ! 蜂蜜をたっぷり入れたレモン水です。
魔力が消耗したときは、甘い物を取ると元気が出てきますよ!
その………少し飲みかけで申し訳ないのですけれど」
「え………?」
クロは水筒の飲み口に目を向け、少し困った表情で呟く。
思春期な上に、これまで異性との触れ合いというものが皆無であったクロにとって、このような事態には少し戸惑ってしまう。
「? 蜂蜜は苦手ですか?」
「いえ………」
(何を意識しているんだ、僕は! 別に気にすることでは無いだろう!)
クロは水筒を受け取ると、中の水を口に含む。
ローゼの特製レモン水は甘酸っぱく、蜂蜜によるドロリとした喉越しが脳髄をピリピリと痺れさせる。
「……………!」
そして、それはクロの体が求めていたものだったのだろう。
クロは貪るように、水筒の中身をゴクゴクと飲み干してしまった。
水筒の淵についた水滴を手でパタパタと落としながら、クロは自分の卑しい行動に気付き、はたと動きを止める。
「あ………すいません、ローゼさん。
つい、全部飲み干してしまいました」
少し顔を赤らめ、恥じるように嘯くクロへ、ローゼはにこりと微笑みを浮かべる。
「気に入ってもらえたなら良かったです。
今度はシルバーくんの分も、作ってきますね!」
「……………」
どこまでも能天気なローゼを、クロは少し訝しい目で見つめる。
ローゼは、南西の地方一帯を領土とする中級貴族の令嬢であるらしい。確かにローゼの服装は他の学生たちと同様に上質な物であるし、言葉遣いや仕草には教育を受けた者がもつ洗練さが宿っている。
そんなローゼが、何故、このアイボリー教室に入っているのだろう?
「シルバーくん。気分はどうです?
歩けそうですか?」
「………はい」
先ほどのレモン水のおかげか、眩暈も大分薄らいできている。
クロはゆっくりと身を起こすと、学生棟へ向けて進むのだった。
◇
クロは自室に戻ると、そのまま力尽きたようにベッドへ倒れこむ。
正直、もう一歩も歩ける気がしない。
「よう、大変だったな」
「大変だったよ………死ぬかと思った………」
朝から、ずっと姿を消していたコウが、そんなクロの耳元に座り込んだ。
「それで、匂いどうだった?」
「は、匂い?」
コウはにやりと気味の悪い笑みを浮かべると、わきわきと手を動かせる。
「シアンちゃんの匂いだよ! お前、ランニングの時、あの青い髪の子に背負ってもらってただろ!?
あの汗と体臭の混じった芳しい香りをその鼻腔は吸い込んでいた筈だ!」
「…………」
気味の悪い笑顔を更に気持ち悪く歪ませて、コウが顔を寄せてくる。
え? なにこの妖精。気持ち悪い。
これでは俗物妖精というより、変態妖精だ。
「魔力が欠片でも残ってたら、今すぐお前を焼き尽くしてやるのに………」
せめて枕の一つも投げつけてやりたい所だが、生憎、クロには指一本動かす気力も残っていなかった。
「そんなもの、気にしている余裕は無かったよ。
お前だって、僕の無様な様は見ていただろう?」
「あ?」
「恐らく、今日の訓練はアイボリー教室における基本のカリキュラム。
だけど、僕はそれについて行くことさえ出来なかったんだ。
体力も魔力も、僕はあの人たちに比べて遥かに劣っている。
決して自分が優秀だと思っていたわけではないけれど………ここまで差をまざまざと見せ付けられると、流石にへこむよ」
「ああ、確かにお前、ダメダメだったな」
「どうせ僕はダメな奴だよ………」
クロはいじけるようにそう言うと、枕へ顔をうずめてしまう。コウがそんなクロへやれやれとでも言うように頭を掻いた。
「まったく………ちょっとからかうと、すぐこれだ。
お前は体力や魔力の前に、精神力を鍛えた方がいいな」
「それにさ………不安なんだよ」
「不安? 何が?」
「僕は今日一日でとんでもない醜態を晒してしまった。
ソラル室長やシアン先輩は、ダメな奴が入ってきたと落胆しているだろう。
アイボリー先生には失望されてしまったに違いない。
明日からの訓練を考えると、どうしても不安になってしまう………」
「やれやれ………」
コウがクロの顎を掴み、グイっと上を向かせる。
「なあ、クロ」
「な、なんだよ?」
コウが真紅の瞳を向け、優しげに口を開く。
「最初っから何でもうまくやろうとするな。
出来なくたって、不甲斐なくたって、別にいいんだよ。それで。
お前はようやく自分の足で歩き出したんだ。
自分で歩くってのは案外難しくてな。誰でも最初はつまずいたり、転んだりしてしまう。
時には、それを怒ったり、笑ったりする奴もいるだろう。
だけどさ、それでいいんだ。あきらめずに前へ進んでいりゃあ、誰だってうまく歩けるようになる。
恥じたり、悔いたりする必要なんかないさ」
ヘラヘラと笑いながらも、優しい瞳でコウがそういい続ける。
いつも通りの軽薄な話し方ではあるが、それはどこかクロを諭しているようでもあり、同時に励ましているようでもあった。
「………うん」
クロはいつになく素直な様子で頷くと、再び顔を枕に埋める。
それから一拍おいて、微かな寝息を上げ始めた。
きっと疲れきっていたのだ。
過酷な訓練のせいもあるが、この不器用な少年にとって見知らぬ少女たちと共に過ごすということは、相当な精神的疲労があったのだろう。
「こいつも、寝てる時だけは年相応の顔をしてやがる」
コウは優しく微笑むと、そっとクロの髪を撫でてやる。
「クロ。慣れないことばかりで大変だろうけど………お前が前に進んでくれてオレはうれしいぜ?
明日からまた、頑張ろうな」




