勤勉で真面目な僕と、愚図で不真面目な亀の話 4つ目
僕らが出会った初日、亀は早速、契約の話を切りだした。
「まず、身体を交換する前に、取り決めておきたい事がひとつある」
「だから、安易に身体を戻せって言わない約束の事だろ?」
「それは口約束だ。強制力はない。ただし今から出す条件は、後で取り返しの効かない、重要なものになる」
「あー、やっぱりなぁ。都合の良い話なんてのは転がってないんだよな」
僕はせせら笑った。
「詐欺の常套手段だよ」
ペットショップで購入し、家に持ち帰った亀と飼育ケースが一式。
諭吉が一日で何枚も消えた。その元凶を、ガラス窓を隔てた外側から睨みつける。
「どうせ後付け条件で、次から次へと、無理難題を吹っかけてくるんだろう」
「疑い深いな。判断は話を聞いてからでもいいだろうに。だいたい、私がきちんと説明しようとすると、人目を気にした君が逃げるようにその場を――」
「わかったわかった。で、なんの話」
「我々の寿命についての話だよ」
寿命。これまであらゆる生命が生きてきた、流れる時間の話だった。
「なんだ、今度は保険の営業でもする気かな、亀のくせに」
「それに近いかもしれんよ。まず、私が君に提示できるプランが二つある」
「本当に営業っぽいな……」
保険の契約なんかは、ためらわず断ってきた。
自分の金を犠牲にしてまで守りたいものなんてないからだ。
「一つ目は、私と君の中身を入れ替えるという手段だが。この選択を取った場合に問題となるのは〝私の寿命〟だ」
「僕の寿命じゃなくてか?」
「そうだ。正確には〝この肉体を維持できる〟期間の話となる。その時間は長く見積もっても、十年前後」
「亀って一万年は生きるんじゃなかったのか?」
「冗談にしては面白くないな。――ともかく、通常の契約を交わした場合、最長でもこの身体は十年が限界だということは知っておいてほしい。その時間が過ぎれば、この肉体は必然的に老いて死ぬ事となる」
亀はのんびりと、首を持ち上げて言った。
「その際に、この身体に宿していた〝ヒトの中身〟は、当然ながら死滅するわけだが」
「わかったよ。おまえと入れ変わったら、僕は十年後には死んでると」
「そういうことだ」
「問題ないよ」
「うん?」
亀が伸ばした首を少し傾いだ。気がした。
「明日死んだところで、ゴミが一匹いなくなるようなもんだよ。それで構わない」
僕は投げやりに言った。
「その契約でいこう。僕は十年経てば寿命で死ぬ。おまえは僕の体を借りて、たぶんもう少し長生きする。それでいいよ」
「……もう一つの選択肢を聞かないのかね?」
「ま。一応、話として聞いといてやろう」
「最初から聞いておきたいと、素直に言いたまえよ」
「うるさいな。いちいち回りくどい指摘を入れてくるなよ。で、二番目のプランの詳細は?」
「折半だ。寿命のな」
亀は目を細め、巌よりも厳重そうな言葉を発した。
「私の本来の寿命と、君の本来の寿命を、足して、割るのだ」
「足して割る?」
頭の中でトロい計算をする。(10+x)÷2=?
xに、百を代入してみる。五十五。
同じように八十を代入した。四十五。
「意外と短いな……」
「さっきは、明日死んでも、とか言ってなかったか?」
「うるさいぞ。とっさに短いって思ったんだから、仕方ないだろ!」
チッと、舌打ちをする。亀はなんだか、やれやれとばかりに目をつむった。ムカツクな。
「で、そっちを選択したらなんだ。二人とも死ぬのか」
「その通りだ。寿命を共有した場合、その時が来れば、我々は同時に消滅する」
「消滅する? 回りくどい言い方すんなよ。死ぬんだろ」
「いいや、我々は最初から〝無かったこと〟になる」
「ははっ、僕のような人間なんざ、生きてようか、死んでいようか、在って無いようなもんだ」
「では、折半する方の選択肢にするかね」
「なんでだよ」
チッ、と二度目の舌打ち。イライラした。
「僕はなぁ、今すぐにだって死にたいんだよっ!」
止まらなくなった。
「どうせ何の役にも、誰の助けにもなれないんだよっ! 欲しい物なんてない! 生きる理由なんてない! クソッたれのゴミカスなんだ! おまえだって、人間になりゃすぐに分かるさ! どれだけ自分がどうしようもない、底辺の負け組なのかってなッ!」
「――では、証明しよう」
せまくて汚い部屋の中。言い募る僕に対し、亀はどこまでも、生真面目な口調で言った。
「君に証明しよう。自身とこの世を否定し悲観し、広大な世界を前に、先行きなど微塵もないとのたうつ君に、この私が全身全霊を持って証明しよう。この素晴らしき世界を語るにおいて、十年では到底たりない事をな」
※
家の二階には、部屋が四つある。
娘っ子の私室、夫婦の寝室、親族が寝泊まりに来た時に使う客間、それと小さな書斎だ。
書斎には横長の机が、壁の一面に添うように置かれている。僕がまったりと暮らす、四方をガラス窓に囲われた空間はそこにある。
「ずいぶん、長く生きてきた気がするよ」
夏が過ぎ、秋口に差し掛かり始めたころ、書斎の椅子に座った亀が言った。シブい顔付きになって、はらりはらりとめくるのは、料理のレシピ本だった。
「おまえさぁ、そういう、なんていうかこう……」
「ん?」
「シリアスな事を言う時は、もうちょっと、様になる本を読んでていいんじゃないか」
「君は相変わらず、外見や外聞を気にしすぎだな」
ニヤリと口元だけ笑って、気になるページに黄色い付せんを貼っていく。
「小難しい情報分野を示した専門の書籍よりも、料理の本というのは、日々の生活に直結していて実に効果的だぞ」
「さいで」
「うむ、それにだ。当初、私が料理に没頭するようになったのは、無論、自らの栄養値と健康面を考慮してのことだったがね。人の好みや傾向を知る手段としても、料理というのは最も有効的な技術だと知ったからでもある」
亀はよどみなく喋りながら、右手のペンでさらさらとメモを取る。
「特に〝子供の味覚〟というのは、不思議なものだ。一概には言えないが、食材の苦味や食感、独自の風味を苦手とする傾向にある」
「あー、好き嫌いって多いよな。大人になると、大体なんでも食えるようになるんだけどさ」
「感覚が鈍化することで、逆に好みが増える。ヒト特有の興味深い現象ともいえる」
「そうかぁ? むしろ感覚が麻痺することで、多様性が減って、収束してる様にも感じるよ」
「確かにそうだな。しかし故に、大人同士の会話では、計算による駆け引きが成り立つわけだ。そんな保守的な大人は嫌いかね?」
「どうでもいいよ」
水槽の中、お気に入りの平たい石の上で、欠伸をあげる。
机の上に置いていた携帯が鳴った。亀は手にとって、手早くメールを確認した。
「仕事のメールか?」
「うむ。ただの確認事項だ。資料は既に揃っている。問題ない」
十秒ほどで返信し、充電器の中に差し込んだ。相変わらず意識の切り替えが早い。
「しかし、子供特有の好み。というのに気が付いたのは、君のおかげだよ」
「娘っ子のこと?」
「そうだ。妻は抹茶味のアイスクリームや、コーヒーゼリー、杏仁豆腐辺りを好むからな。つい、彼女に合わせたデザートを、あの子にも出していたが、失敗だった……」
「あー、子供が苦手そうなラインナップ、そのままだよな」
僕も子供の時はそうだった。バニラよりも、チョコレートやストロベリーといった、わかり易い味を好んだ。逆に、抹茶やミントといった、独特の風味のある物は受付なかった。
「そうだ。しかも私は気づけなかった。表面では美味しいと言って合わせる娘の表情に、子供らしい素直な感想のみを浮かべているのだと錯覚し、料理は大人に向けた薄味の、デザートもまた、独特の食感や風味のあるものを優先して与え続けていた……」
我が生涯、最大の失敗であった。という苦渋に満ちた表情に変わる。
「それまで私は、大衆に向けたスナック菓子の類を、どこか下流のものであるように見つめていたのだ。しかし娘がそちら側をより好んでいたと知り、改めて食、および料理という人間的文化に対する浅はかな過ちを犯していることに気づいたのだよ」
「……クソマジメな奴だな」
僕は変わらず、ぼへーっと石の上に抱きついて、人間であればハナクソでもほじる様な気持ちで言った。
「……で、今日も休みの日は変わらず、料理の探求について性を出してるわけか」
「そのとおりだ。うーむ、しかし研究が進めば進むほど、やはり専用の設備が欲しいと思ってしまうな」
「設備っつーと、なんだ?」
「パン焼き用の窯だ。生地さえこねれば、自家製のピザや菓子パンが作れる。それならば、妻も娘も共に好む物ができるだろう。小さくとも良いので、せめて庭の一角に……」
「奥さんから、許可でると思うか?」
「……でるわけないから、こうして、欲しい欲しいと口にしているのだよ……」
いつものシニカルに笑った口元が「あ、身近なおっさんがいる」と、珍しく既視感を覚えた。
こいつも、僕も歳を取ったんだなと思った時に、また携帯が震えた。
「非通知からか」
今度は着信の様だった。手早く携帯を手にした亀の口調は、相手がなにかの業者だったら、すぐに会話を打ち切るような口調で応じた。が、
「は。確かにそれは義父の名前ですが、彼がなにか……?」
どうやら、この家に住む人たちに関する、なにかしらの伝達事項の様だった。
「はい、は……えっ、それは、いつ頃の話ですか?」
亀の口調が代わる。表情も険しげなものになり、只事でなさそうな気配を感じた。
「えぇ。私たちが最後に会ったのは先月の末でして……いいえ、とんでもない。わざわざご連絡を頂きありがとうございました。それでは、はい、失礼いたします」
携帯を切る。とっさに「誰から?」と問うと、
「お義父さんが亡くなったそうだ」
「…………は?」
ずきん。忘れていた、なにかの痛みが鋭く奔った。
「君の父親ではない。彼女の方だ」
「え、あ、あぁ……えっ、いやでも、先月の月命日に、ウチに来てたじゃないか」
「うむ。私の手打ちうどんを食べ、すぐに帰ってしまわれたがな。いまだ息災に思えたが……いや、とりあえず、妻の方にも連絡を――」
言った側から携帯に着信が来た。今までの動作よりも、いっそう機敏な速度で電話に出る。
「あぁ、そっちにも連絡があったかね。ついさっき、私も聞いたばかりで――君、大丈夫か。落ち着いて……わかった、すぐにそちらに向かう。では一旦切るよ」
慌ただしく亀が動く。携帯を掴んだまま、開いていた本を棚に戻し、
「行ってくる」
短く告げ、すぐに階段を降りていった。
亀の妻、彼女の父親は、急な心筋梗塞で亡くなった。自宅で胸元をおさえ、苦悶の表情で亡くなっているのが見つかったそうだ。
その話を亀から聞いた時、とっさに浮かんだのは「あぁ、真面目に働いていたんだな」という感想だった。
むかし、僕が亀と入れ替わる前に住んでいたような、六畳一間の安アパート。そこで一人長いこと暮らしていた父親は、勤め先を一日、無断欠席した。つまり、その日の深夜か朝方には自宅で倒れ、そのまま息を引き取っていたわけだ。
昼前には職場から父親の自宅に連絡が入り、携帯に出なかったので、心配した同僚が仕事帰りに立ち寄ったそうだ。大家の許可を得て玄関を開けてみたらというのが大体の経緯だった。
なにが言いたいかというと、日頃から不真面目な奴は、そこまで心配されないってことだ。
人の縁は儚いようで強く、ひどく脆い。
通夜も、葬儀も、しめやかに進行して過ぎていく。僕の両親もやってきた。
僕は特になにもしなかった。あぁ、みんな喪服とか着てるなぁ。地味に忙しそうだなぁ。奥さんが本当の幽霊みたいな表情になってて、亀が必死に慰めてるなぁ。なんだかんだで理想的なおしどり夫婦だよなこの二人。とか思いながら、毎日変わらず、二階の書斎にあるガラスケースの中で、ぼーっと過ごしていた。
ぼーっと、どうでもいい、昔のことを思いだしていた。
確か小学生にも上がる前のことである。その日のことは、何故かずっと覚えている。
「人間は、おじいちゃん、おばあちゃんになった後は、どうなるの?」
ガキんちょの僕は、ある夜の食卓で、母親に尋ねた。
この世には、赤子、子供、大人、老人、という四種類の人間がいて、どうやらそれは、赤子から子供へ、子供から大人に、さらには老人へと移ろっていくのだと、小さな脳みそで理解した矢先のことだった。母親はごく自然に応えた。
「死ぬのよ」
死ぬ。それまで、僕の中での〝死〟は、ひどい怪我や、病気に掛かった生命だけが陥るのだと思っていた。運がよければ永遠に生き延びる、生命は基本、不死の存在なのだと漠然と勘違いしていたのだ。
「死ぬのよ」
ぜったいに、死ぬ。
その生命がどれほど強運であり、一切の怪我や病気にかからずとも、いずれは老いて死ぬ。
ありえないことだった。信じがたい、とてつもなく恐ろしい真実だった。
「う……っ」
瞬間、僕は泣き叫んだ。夕食中であったため、口の中に含んでいた好物のハンバーグを、中途半端に咀嚼された肉塊として、皿の上に吐き出して、わんわん泣いた。
「なんで死ぬの。なんで死んじゃうの。どうして、ねぇどうして」
細胞が老いて、復元速度が落ち、体内組織として機能しなくなるからだ。そんな医学的理由を告げず、対応に困った母親はごくシンプルに言った。
「神様が決めてるからよ」
そうか。神様なら仕方がないな。子供は泣き止んだ。
よくわからんが、この世には神様と呼ばれるすごい奴がいる事を、僕も当時から知っていた。
身体が大人になるにつれ、さして重要でもない知識を積み重ねる内に、その存在はより曖昧になっていった。曖昧さは半信半疑へと代わり、神頼みや願掛けといったものは、結局はヒトの期待の裏返しなのだとひねくれ、いつしか「そんなもん、実際はいねぇよ」と納得した。
そんな具合に、義父の死は、僕の少ない記憶の引き出しを開いていった。
改めて少し、生き死についての考えにも耽ってしまった。この家の夫妻や一人娘は、その何倍も考えたことだろうけど。
義父の命日。一周忌を迎えた今日。
日曜の昼間から、一階からは坊さんがお経をあげている声が聞こえていた。それに混じり、とん、とんと、階段をゆったり上る足音が近づいた。この家の人たちのものではない。普段からやる事のない僕は、些細な音の聞き分けに敏感だった。
書斎の扉が開く。一見して普通の、スーツを着た中年男性が入ってきた。なにも言わず、勝手に棚から本を一冊取りだした。
「……あんた、誰だ?」
「神」
返事がきた。
「我は万物の神である」
そうか。神か。口調がえらそうだ。
「本日は暇であるが故に、近くまで寄ってみた」
親戚のおっさんみたいな事を言っていた。あとそういう人間は大体歓迎されないけどな。
ともあれ初めて、神を目の辺りにしてしまったらしい。神は現在進行形で椅子を引き、普段の亀がそうするように、料理のレシピ本を広げて、静かにページをめくった。
「あのさ。前から思ってたことを、聞いてもいいかな」
「良い」
「神ってさ、ちゃんと仕事してるのか? 実はなにもしてない、ニートなんじゃないか?」
「我は働いている」
そうか。アンタ働いてるのか。
「この世に存在する、あらゆる願いを叶えるのが、我の仕事だ」
「ぜんぜん働いてねぇじゃん」
僕は即答した。神はたぶん、むっとしたらしい。
「何故、そう思うのか」
「だって、あらゆる願いを叶えてたら、どいつもこいつも、人生楽しそうに生きてるはずだろ」
「我は忙しい。我が叶える願いごとは、必然的に優先度の高いものが選ばれる」
「なるほど。金だな? 神は金持ちの味方なんだな?」
「否。我が優先する願いは、その強さに比例する」
神は言った。料理のレシピ本についた付箋を見て「我は杏仁豆腐が好みだ」と前置きをして。
「――たとえば、とあるデキの悪い子供の財布に、七十四円しか入っていなかったとする」
「なんの話だよ……」
「子供は腹が空いていた。喉もカラカラだった。しかし午後六時を過ぎていて、近くの銀行のATMはすべて閉まっている。せめて、あと五十円……五十円あれば……自販機で缶ジュースが買えるのに……そう思い、何気なく、自販機の釣り銭口に手を伸ばす……」
なんだよ、その、妙にリアリティのある、あきらかな駄目人間の香りがする光景は。
「手を入れた時、指先が小銭に触れる。ま、マジか。マジで五十円キター。おぉ神よ。と、男は我に感謝するであろう。そんな強い願いを、我は叶えるのだ……」
「おい、もっと他に叶える願いがあるだろ、神」
「ない。どんなにくだらなかろうが、無意味だろうが、願いの種類そのものに優劣はつかぬ。我はただ、願いを授けて欲しいモノの匂いに惹かれ、自動的に、それを行使する」
「なんでもか」
「万能だ」
「じゃあ、彼女の父親を蘇らせてくれよ」
「足らぬ」
ならぬ。ではなく、足らぬ。と神は言った。
しんしんとした空気が流れる中、木魚を叩く僅かな音と、指先がページをめくる音だけが、同じ程度に耳に届いた。
「ヒトを蘇らせたいという願いは、あり余るほどにあふれている。毎秒ごとに、同じような願いが継続して続いている」
「願い自体に、優劣はないんだろう?」
「ない。が、強いて言うなれば……」
神は唐突に本を閉ざして、こう言った。
「〝おもしろくない〟」
「……は?」
「ヒトを蘇らせるのは、単純で面白くない。飽きた」
ぼんやりとした神の輪郭が、初めて浮き上がった。笑っていた。
「昔は稀に蘇らせてやることもあった。人が驚き、我を湛え、感謝の声をしきりにあげるのは、最高に気持ちの良いものだったぞ。現代風に言うなら〝俺ツエー〟である」
目立ちたがりの、ありふれた人間の思考だった。
「――が、それも百年ほど繰り返すと飽きてきた。その後、我は目立たず、誰にも気づかれずに暗躍する、知る者ぞ知る救世主を演じたりもしたが、これも飽きた。その後は千八百年ほど、気ままに転々と願いを叶えてやったり、やらなかったりした」
なんだろう。その考えというか、計画性が微塵もない生き方に、しかしひどく共感めいたものを覚えるというか、
「わかる気がする。環境に変化がないと飽きるんだろう」
「その通りである。さらに言うと、人の好意も嫌悪も、最終的には煩わしくてたまらぬ」
同族だった。神は大勢の人間と同様の、駄目人間というやつだった。
「……亀に、人間になる資格を与えたのは、アンタだよな」
先のことなど考えず、きまぐれに善意をまき散らす存在。ただの乱数の偏りのようなもの。
あるいは善意を押し付ける、はた迷惑な隣の住人。
「然り。犬猫がヒトになるのは、多くの普遍的なヒトが望むことだが、生真面目な亀というのは、中々に我の興味を惹いた」
ニンゲンが頭の中で作った神々しい偶像よりも、まだそっちの方が、存在に信憑性があるようにも思えていた。
「つまり〝おもしろそうだった〟と」
「然り」
神はくつくつと笑った。
「本日は、願いの終焉日なり。汝にこれといった願い、望みがなければ、我は交わした契約を執行する」
「……僕は今日、死ぬのか?」
「然り」
僕は早く死にたかった。生きるのがつらくて、苦しくて。助けが欲しかった。
僕は早く死にたかった。暗い洞穴の中で、身動きとれず、ひたすらに自分を呪っていた。
死にたい。寿命が待てない。けれど痛いのは嫌だ。怖い。世界が憎い。殺してどうぞ。
子供のころ、死ぬのは嫌だと泣き叫んだのに、大人になってしまうと、毎日、毎日、死にたい死にたいと叫んだ。一人ぼっちで、毎日が不幸で不安で不吉で、たまらなくしんどかった。
「我が、亀に与えた力を教えてしんぜよう」
腹は痛いし、心臓は悲鳴をあげるし、毎日同じものを食べては眠り、眠りは浅く途切れ、昔の夢ばかりを見て起きあがる。手のつけようのない今に絶望する。
「ひとつは、特定の人間と入れ替わる、契約執行の力」
人生に失敗はつきものというけれど、成功がない。
自信は折れて砕ける。粉々になる。堕落する。
なんで生きてるんだ。
「そして」
理由なんて、もうなにも浮かばない。でも、その挙句の果てに、気づくのだ。
僕が「死にたい」と口にする本当の理由は、結局のところ、
「〝どうしようもなく愚図で、不真面目で、しかし明日を生きたいと、心底渇望している人間と会話できる力〟だ」
僕は彷徨っていた。あの時も、今も。神とかいう奴が、この世に存在するなんて一度も信じたことはないけれど。
「アレは死にたがっていた。今を生きるこの世界の何者よりも、強く強く渇望していた。己の死と、人間への転生のみを望み、地獄の日々を耐えていた」
それはまぎれもなく、僕とは正逆の存在だった。
「死にたくない。まだ僕は死にたくないんだ。もう少しでいい。僕を生かしてくれ」
祈った。首を必死に伸ばして、よくわからないものに、必死に縋りつこうとした。すると、
「よかろう」
僕は見た。天蓋の重しが開き、隙間から、一枚の五十円硬貨が降ってくるのを見た。
「実に情けないな。おまえたちは」
五十円玉は、僕の頭の先に落ち、水をほんの少し跳ね飛ばした。
「望むならば拾い、泥水を啜って生き永らえよ。それでお前たちの手持ちは、計百二十四となるだろう。しかし同時に、お前は今後、明確に己が死ぬ時を知ることとなる。二度目の好機はない。毎日が恐怖と苦痛の連続である。それでもみっともなく、無様に生きようとする汝の姿を、我は、あぁ愉快愉快と柏手を送り、日々の安らぎの糧とする」
「その程度の事で。もう少しだけ、生き永らえることができるのか」
安いものだった。
「ありがとう神様。死ねクソ野郎」
「我は永遠なり。汝の有限性が再び無に還す時、我はまた現れよう。忘れていなければな」
また予感がした。こいつは予定を覚えられないというか、面倒で覚えようとしないタイプだ。相手の顔をしばらく見て、やっと「あー、そういえばさぁ」とか言う奴だ。
つまり――僕はたぶん、長生きする。