危険地帯
店内は相変わらず小綺麗で、音楽は流れていないものの和やかな雰囲気に包まれている。手前右側にカウンター、手前左側からカウンターを囲むようにしてテーブルがあり、フィウは迷わず入り口からは見えないカウンター奥の席へと歩み進んだ。
紙を捲る音。
「やっぱり、アストより書類がお似合いですよ。ユサグスさん」
ユサグスは眠ってはいなかった。カフェテーブルに何枚かの紙を散らし、なにやら作業をしているようだった。
「……フィウ。どうした」
ユサグスが紙を揃え畳む。外部秘というやつか。
「朗報です」
言いながらにコートを脱ぎ、ユサグスの反対側の椅子にかける。そこに居ずまいを正して、フィウは率直に切り出した。
「思い出しました。だから、ユサグスさんの仰っていたチェーデのいる地域もわかります」
「思い出した……? 本当か! なぜ?」
ユサグスが思わずといった風に身を乗り出してくる。フィウは頷く。
「アストが見せてくれました」
「見せるって?」
「そのままです。両義親に引き取られる前の私の記憶を、見せてくれました」
こんな風に。
そう笑ってみせると、フィウは静かに両手をダークブラウンのテーブルの上に置き、そして口ずさむ。
“この世の地の理を映し出せ”
机上がテレビ画面となったように、精巧な地図が輝きながら浮かび上がる。その様子を見て、ユサグスは数秒もの間息を詰まらせた。驚きに声も出なかったのである。
地図はユーツァ領を薄い緑で記しており、ユーツァはやはり大陸部分の大半を占めている。しかしその他の国がないわけではない。その他の小国たちは、緑ではない色彩によって表され、海部分は白となっている。
「魔法か?」
「同じようなものです。……それで、ここ。ここにチェーデが集められています」
朱色に塗られたとある小国と、その隣にあるユーツァ領の間をフィウは指差した。山岳地帯であることを示す記号が踊っている。
「ヴィグノリア王国東部。世界一険しい山脈、ヴィグノリア山脈。私達は以前ここにいました」
「ああなるほど、ヴィグノリアか。……が、山脈の大抵は、王国所有地で立ち入り禁止じゃないのか?」
ヴィグノリア王国は、どことも貿易や会談をしたがらないことで名高い世界的には若干孤立した国家である。しかし、空気の澄んだ美しい山国であることから観光地としても知られ、あまり交易をしないのに観光業だけは盛んという少々不安定な立場の国家でもある。
「ええ。あそこは“天変地異が日常茶飯事”だから。民間人を入れてしまったら大惨事になりますよ。だから、たとえ所有者である王族でも来る人はいません。ここで生き残るのは私達でも至難の業でした……」
ふっと机上から地図が消え去り、フィウはユサグスを対等に見据える。
「全てお話します。ですが最初に。……エインさんもサエッタさんも、本当にそこに行ったなら生きているとは思えません。ユサグスさんも、行ったら命は保証できません。探しているんですよね? ……それでも行かれますか」
嫌だったのだ。自らが命と共に尽くした人が、自らが最もよく知る危険地帯に赴くのは。
だが、ユサグスはしっかりと頷いた。
「俺はそのために王権を捨てたんだ」
そうでしたね。
寂しげな呟きが店内に流れる。ならばと、フィウは祈るようにまた歌う。神の言葉とは、なんとも便利なものだった。
“この者の命に我が加護を”
きっとこれを空の上で聞かれていたら、これは傑作だと行って爆笑されていることだろう。苦笑を浮かべたフィウは、何と言ったのかと尋ねられて首を振った。内緒ですよ、と。
経緯を話し終えたフィウは、信じられないでしょうと言って締めくくった。ユサグスは頷き、肩をすくめて見せる。
「お前が俺と同い年だったとは」
「え、そこですか。他は信じるんですね」
相変わらず妙なところがあるユサグスである。
「伊達に親二人が馬鹿みたいにオタクだったわけじゃないさ。……あー、次調べるべきはアストについてかな」
「調べるんですか?」
「だって妙だろ。フィウの親殺しといて王様やってるなんて」
「そうですね……」
頷くもしかし、フィウは“アスト=ユーツァ”に忠誠を誓っているのみである。アストにも以前天上で過ごしていた頃の名はあろう。もしアストがそちらを名乗るときがあれば、その時は、フィウも“フィーラウ”として彼に接するのやもしれない。だがやはり彼がアストである限り、つまり彼が王としての勤めを彼なりに全うしている限り、フィウは騎士でいられよう。そんなふうに、フィウは割りきっていた。
……気になるものは、気になるのだけど。
「じゃあヴィグノリアに行くのはそれが終わったらだな。どうせあいつら、のたれ死ぬならもうとっくにだろうし、そうでないならしぶといだろ」
「え、それでいいん、ですか?」
よく通るが落ち着いた声音で紡がれた呆気ない言葉にフィウがすっとんきょうな声を上げると同時、店の入り口が開いた。エライスが帰宅したのである。
「俺もここの店員なんでね」