情報屋
数日してフィウは、自らユサグスの元へ……偏屈な路地裏世界の真ん中に聳える喫茶店へと足を運んでいた。愛用しているブラックシルバーのコートに身を包んで、もう覚えた道を行く。
不意に、短距離走よろしく前傾姿勢を保ちながら勢い勇んで駆けてくる小さな影を知覚した。狭すぎる路地でその影をかわすのは難しい。さて走り迫る子供らしき人は、フィウには気がついていないようだった。今から声で止めても間に合うまい。それだけの思考を半秒もなくなし終えたフィウは、
「危ないよ」
そのまま受け止めるのは痛そうなので、勢いを殺さずにくるりと人影を持ち上げ、反対側に下ろした。
年の頃はアストの外見年齢と同程度に見える。褪せて赤みがかった緑の髪とは対照的な、鮮やかな赤い目をした少年だった。丸い目を見開いてフィウを見上げた彼は、やがて佇んだままに押し黙る。
「……なに?」
「お前、水崎卿だろ」
「たしかに。……それ、怪我?」
フィウは目ざとく見つけ出す。少年が纏う薄汚くダボダボとした茶色のセーターの左の袖口から、点々と黒い地面へ血痕が刻まれているのだ。訊くと、少年ははっとしたように袖口を体の後ろに回した。
「っこんなん、別に痛くねぇから。……お前なんかに集る気もねぇし」
「それはいいんだけど。せめて傷口押さえないといつまで経っても血が止まらないよ」
「んな暇ねぇんだよ。……っ!」
赤目の少年は再び、短距離走よろしく全力疾走の勢いで駆け出す。みるみるうちに小さな背中が離れてゆき、近くの角に入っていく。少年の駆けた奇跡に血痕が残る。
フィウはすっと視線を横に滑らせ振り返った。誰か来たのか? その予測は当たったにしても、フィウはその姿に目を見張った。
知る顔だった。
「ああ、逃がしちゃいましたか……。駄目ですよ、水崎さん。ああいうのは捕まえててくれないと」
落胆を滲ませながらも明るい声音が、軽く非難めいた文言を紡いだ。
「エライスさん。何があったんですか」
中性的で、一見では男女の区別がつかない風貌。短くどこか赤っぽい白髪に、青紫色をした目は今は細められている。彼はフィウの親友であるアルモ=ウィラークの従兄、エライス=ウィラークであった。彼がよく浮かべる営業活動的な端正な笑みとはまた違う、やれやれと言った様子の笑みで彼は宣う。
「はぁ……王城のふもとだっていうのに、不法な所業で食を得ている輩はいるものですね。大切な商品を盗まれてしまいました。転売するんでしょうね」
「盗まれたのですか。何を?」
「そういえば、言っていませんでしたか? 喫茶店はカムフラージュでして、じっさい、うちは情報屋です。それで今ゆーさんは一応、うちの従業員なんですよ」
それは、情報を盗まれた、ということなのか。
「どんな情報……いえ、それはいいです。怪我をしていたのは何故ですか?」
答えなど明白なのだが、経緯を知りたくフィウはそう問うた。エライスの手には、小さく威力も低い拳銃が握られている。
「お騒がせしましたか? でしたら申し訳ありません。あることを記した紙の一部を取り去られてしまいましたので、漏らしてはいけませんから。私が撃ったんです。残念ながら少し手にかすってしまいました。走るの速いです、あの子」
少々の驚嘆に、またフィウは目を見張る。自らを襲った犯罪者に向け銃を持ち出したことは特段驚くに値しないことだが、では何に驚いたかというのは、エライスの射撃の腕についてだ。まさか、あの全力疾走の中で手に持った紙だけを狙って撃てたというのか。
カチャリ、と音を立てて持っていた銃に弾を込めるとエライスは言う。
「私はまだ追ってきます。ゆーさんもし寝てたら起こしてあげてください。それでは」
中性的な声の余韻を残して、エライスは少年の逃げ込んだ方へと去った。